月の女神
翼ある人々の末裔であったWは天上の王国をめざして
空高く,月よりも高く昇っていった。そのとき
地球の神々がWを射落とさんといっせいに矢を放ち
ひとつの矢が見事にWの魂を貫いた。
魂は砕け,破片の一部は肉体を離脱して宇宙の闇に飛び散った。
それら光り輝く魂のかけらは地球に向かって落下し
電離層をいくつか突っ切って,冬のカスピ海に降りそそいだ。
----- 夕陽が空と湖面におびただしく流血しながら沈んでいった。
Wの肉体は月の女神 Luna に救われ
月の裏側にかくまわれて幾歳月を過ごした。
魂は砕かれたが,肉体は幸いにもほぼ十全に保たれていた。
傷口を癒すために翼の成分を使い果たし
いまや風貌は普通の人間と変わりがない。
魂に深い傷を受けたために,彼の命は不滅になった。
この世に不完全なものはいろいろあるが
終わりのない命よりも不完全なものがあろうか。
月の上では Luna とふたりだけの生活が続いた。
インゲニ海に水を張り,船を浮かべて遊ぶ日もあった。
Wはいつしか心のバランスを回復し始めたが
回復するにしたがって悪夢にうなされることも多くなった。
ある日,彼は叫びとともに眠りから覚めた。Wはそのとき
失われたかけらたちを地球に戻って回収しようと決意した。
傷を完治させるには,もとの魂に含まれていたいくつかの
成分が不可欠だと分かったからだ。
こうして彼は Luna に助力をあおいで全身を整形し
すっかり別人の姿となって,地球への帰還を果たした。
女神は彼を月光に乗せて地球へと送り届けてくれたのだ。
月を出発するとき,彼女にはこう告げた。
「すっかりよくなったら,必ずあなたのもとに帰ってきますよ」
Luna は黙ったまま優しい銀色の微笑みを返した。
Wはアフリカの赤道付近に舞い下りた。
彼は父祖の棲んでいた地下の国へと降りていった。
そこに生き残っていたのは少数の老人たちだけだった。
彼らはWを見て喜び,彼の命に終わりのないことを知って
気の毒がった。
Wは自分の愚かな野心のせいで神々に魂を砕かれたことを語った。
そして,普通の人間として地上に暮らすための衣服や金を
分けてもらった。
Wは次の日にはロンドンに来ていた。
図書館では詳細な地図をモニターの画面上に広げながら
魂の完全な治癒のための「回収計画」を立てた。
半年間はここに通いつめて計画を練った。
髭はぼうぼうで目はいつも充血していた。
かつてここで猛勉強したというユダヤ人の面影が彼にはあった。
「さしずめ俺はさまよえる有翼人・・・」
彼の目つきは日々に険しくなり
咳込むと思わず炎が吹き出すほど疲れていることもあった。
ある日もそのように激しく咳込んでいるところを
通りすがりの女に見咎められて,あわてて走って逃げたこともある。
Wは,神々に魂を射抜かれたときの座標から
地上のどこに破片が落下したかを計算した。
カスピ海に沈んだと分かったときには,喜びのあまり顔が青ざめた。
------ 湖に落ちたからには破片の回収はかなり楽になる。
深傷を負ってから5年目にして,Wはカスピ海の岸辺に立った。
この日のために設計した回収装置 SOUL-SONAR を潜水艦に積み込んで
意気揚々ともぐりはじめた。
一週間もすると,魂を完治させるために必要な破片は
すべて回収することができた。
彼は破片たちを持ち帰り,自らの胸を切り裂いて
魂を補完する手術にとりかかった。
鏡の前に座って体の中を覗き込むのは
自分のあさはかな正体を突きつけられているようで
嫌な気分だった。
注意深くメスを使おうと努力はしたが痛みのために
ときどきめまいがした。
最後には気絶して床に倒れ込んでしまった。
しかし手術は成功した。
翌朝,彼の顔は昔の輝きを取り戻していた。
世界はまっさらになった。
祝福の声が木々の梢から放たれた。
彼はその場で眉間に銃弾を撃ち込み
約束どおり Luna のもとに帰っていった。
目次=ホーム