ヴィーナス
舞台は18世紀も終わり頃のフイレンツェ.
夜.誰もいない美術館に若い男が侵入してくる.
何を持ち出そうかと館内を物色して歩く.
冷たい大理石の回廊に足音が響く.
手さげランプのあかりが,居並ぶ美術品を次から次へと照らし出す.
行けども行けども見えない天井から不気味な気配が落ちてくる.
やはりおれひとりでは持ち出せるものだって高が知れてるなと
男は独り言をつぶやき,進路を右に折れた.
ふいに,世にも美しい女を彫りだした石像が闇の中から浮かび上がった.
彼はうっとりして思わず幻の女に話しかける.
君がもし生きている女なら,君だけをさらって
夫婦になり,人生を一からやり直すよ.
彫像は男の声に応えるかのようにやわらかく伸びをした.
たちまちこの像の内部から生気が輝きだした.
あたりの空気も華やいだ色に染まりはじめた.
まとめてあった金髪がほどけ,光を編みこんできらめく.
鳶色の大きな目が開き,赤く濡れた唇からは
遠いこだまのような女の声が語りはじめる.
「わたしをけっしてお捨てにならないと約束してくださいますか」
男は仰天して声が出ない.魂が金縛りになってしまった.
生き返った女はしとやかな身のこなしで台座から降り,
白い腕を男の首にまわして彼にくちづけた.
甘い香りが男のからだのすみずみまで染みとおり,
彼は一個の石のかたまりとなってその場に凍りつく.
「ああ,これでやっと自由になれたわ.もう二度と失敗はしない」
女は館内の部屋のひとつから適当な衣装を見つけて身にまとい
そろそろ明るくなりはじめた街の中へ出ていった.
目次=ホーム