遠野広海は、縁側で空を眺めながら物思いにふけっていた。
ずっと、何か大事なものを忘れてしまっているような焦燥感に囚われて、何も手につかない状態だった。
(私は、何を忘れているというのだろう?)
自問しても、答えは見つからない。
しかし、いつからそうなったのか、ということは分かっていた。
それは、過去の夢を見た日。そして、ずっと受け入れることができなかった娘の死を受け入れた日。
その日を境に、広海は夢現の中にあった日々のことをはっきりと思い出すことができなくなっていた。
(私は、何を……)
忘れてしまった10年以上もの長い日々。そこには確かに、大切なものがあったはずなのだ。
それとも、それは手放してしまった娘との――みちるとの思い出なのだろうか?
広海は自らの心に問いかけたが、答えは否だった。
そう、確かにみちるとともに幸せな日々を暮らすという幻想を手放したことによる、胸にぽっかりと穴が空いたような喪失感はある。
けれども、それ自体が広海の望んだことだった。幻想よりも大切な『何か』のために、彼女は自ら目覚めることを選んだ――それが辛い現実だとしても。
それなのに、その肝心な『何か』を広海は思い出すことができなかった。
(何か……大切なもの)
広海の記憶がはっきりとしているのは、あの朝からだった。
胸に残る痛みとともに目覚め、家にいた見知らぬ少女に連れられて医者へ向かった日。そして担当医に、長らく心の病を患っていたことを聞かされた日。
そして、この焦燥感が始まった日。
(そう言えば、あの子は誰だったのだろう?)
広海は、自分の世話をしてくれていたらしい少女のことを気に止めていなかったが、今は何故か無性に気になった。
『……私の役目は終わりました』
そう言って家を出て行くとき、広海は少女に名前を訊ねた。
だが、少女は答えてはくれなかった。
『……名乗るほどの者ではありませんので』
そう言った少女の瞳には、今思い返せば悲しみが宿っていたような気がする。
そして何より、少女のことを思い返した広海は、さらに強く焦燥感を感じていた。
(あの子に何か関係することなのかもしれない)
わずかな手がかりだとしても、動かなければ何も始まらない。
広海は立ち上がり、家の中へと入っていった。
――ミーン、ミーン……。
蝉の鳴く声が遠くに聞こえた。
夏の屋外に慣れた目には、蛍光灯の明かりも薄暗く見える。
広海は少女が使っていたらしい部屋の前に立つと、何となく気後れを感じ、部屋のドアを軽くノックした。
もちろん答えはない。この家には広海しかいないのだから。
それでも数秒待ってから、おずおずとドアノブを引く。
部屋の中は、奇妙に空虚さを漂わせていた。
物がないわけではない。机や箪笥、クローゼットなど、家具類は確かに置かれていたし、机の上には本が並べられている。
が、まるで測ったように整列され、乱雑さのかけらもないところが、生活感のなさをわざと強調しているかのようだった。
その中で、ひとつだけ広海は場にそぐわないものを見つけた。
クローゼットの隣の床に寝かされた、太い木の三脚と細長い箱。
(……これは、望遠鏡かしら?)
箱に書かれた文字を見て、広海は箱の中身を推測した。
だとしたら、これはあの少女の私物なのだろう。
けれども、広海は少女の連絡先を聞いていない。名前すら知らないのだ。
困惑しつつも、広海はその望遠鏡に少し見覚えがあるのを思い出した。
それは、かつて夢現の中であったこと。
滅多に物をねだろうとしないみちるが、唯一遠慮がちにせがんだ誕生日のプレゼント。
広海は首を左右に振って、その思い出を心の隅に追いやった。あるはずのない思い出に浸るのは、もう止めなければいけない。
広海は机の前に近づくと、その上に丁寧に整頓された本の背表紙を見た。
それはどうやら学校の教科書のようだった。その内の一冊、『日本史』と書かれた本を手に取り、パラパラとめくる。
丁寧に扱われ、書き込みのようなものは見当たらない。それでも、良く使い込まれているようで、ところどころ開き癖のついたページもある。
教科書を元の位置へ戻そうとした彼女は、裏表紙にサインペンで書かれた文字を見て愕然とした。
『2−A 遠野』
広海は立てかけられていた教科書を引っ張り出して裏表紙を確認する。そこには、いずれも同じ文字が同じ筆跡で並んでいた。
親戚には、少女と同じ年代の娘はいない。だから、少女は赤の他人のはずだった。偶然、名字が一致したとでも言うのだろうか。
いや、それ以前に……。
(あの子は、この家から学校へ通っていたと言うの?)
本当ならば、教科書を見た時点で気づかなければいけないところだ。しかし、それは想像もしていなかったことだった。
学校へ通う年代の少女に、心の病を抱えた者の介護など務まるはずがない。
一瞬、これは幻想に囚われた自分が揃えた教科書なのかと広海は疑った。
教科書の横に立てかけられたノートを取り、中ほどを開く。
そこには、名前と同じ筆跡で丁寧に授業内容が書き連ねられていた。
その物理学らしい内容は彼女には理解できないものだった――少なくとも、広海自身が書いたものではないことは間違いないだろう。
そもそも筆跡自体が広海のものとは異なり、丁寧だが線の細い感じは少女のイメージに合っている。
プライバシーを侵す後ろめたさを感じつつも、広海はクローゼットを開いた。そこには近くの学校の特徴的な制服が掛けられていた。
ポケットには、予想通り生徒手帳があった。表紙をめくると、少女のやや茫洋とした感じの写真――氏名の欄には遠野。
そして、名字の右側は黒く塗りつぶされていた。
少女が「遠野」という名前でこの家から学校へ通っていたのはもう間違いないようだった。
胸に沸き上がる焦燥感が、自分が核心に近づきつつあることを教えてくれる。
しかし、どういうことなのか。そして、いつからなのか。
広海はふと思い立ち、少女の部屋を後にした。
定期的に掃除をしているから、ひどく埃っぽいというほどではない。
だが、篭った熱と相まって息苦しさを感じさせる空気を入れ換えようと、広海は物置の窓を開いた。
夏の午後ではあったが、北側に面した窓から入ってくる空気は少しひんやりとして心地いい。
広海は息を呑みこみ、物置の奥に置かれた箪笥の前に立った。
夢現の中の記憶に僅かでも真実があるのならば、ここにはみちるの古い衣類がしまわれているはずだった。
意を決して引き出しを引く。
そこから現れたのは、確かにみちるの着ていた――正確に言うならば、広海がそう思っていたものだった。
けれど、みちるは生まれることなく亡くなってしまった。それは悲しいが現実だ。
(それじゃ、この服はいったい誰の……?)
引き出しの中に体操服を見つける。中学のときのものだった。
ゼッケンには、少女と同じ筆跡で『遠野』。
箪笥をさらに探すと、時を遡るように昔の衣類が現れてくる。
体操服に書かれた文字はどれも名字だけで、その筆跡とゼッケンのかがり方がしだいに拙くなっていく。
(どうして……どうして……?)
学校の制服、普段着、そしてよそ行きの服……。
衣類はしだいに小さく、古くなっていった。それは少女が、ずっとこの家で暮らしていたことを意味していた。
そして突然、体操服に書かれたゼッケンの表記が変わった。
拙い字で『2−4 遠野』、その後に黒く塗りつぶされた四角があり、続いて違う筆跡で『みちる』と書かれていた。
名字は今まで見てきた文字と同じ書き手だった。時間を逆に追ってきた広海は、それがあの少女の筆跡に間違いないと分かっていた。
そして、名前の筆跡にも見覚えがあった――それは、広海自身の筆跡だったのだから。
それ以前のゼッケンは広海の筆跡で、『とおの みちる』と書かれたものだけだった。
ようやく、広海は理解した。ずっと少女の名前が現れなかったことを。そして、生徒手帳の名前の部分が塗りつぶされていたことを。
少女はみちるとして生きることを強制されたのだ――広海によって。
みちるとともに過ごした日々。それは全てが幻想ではなかった。未だ名も分からぬ少女に、みちるの幻影を重ねていたのだった。
胸が締めつけられるように苦しかった。
塗りつぶされた黒い四角の中に、少女自身の本当の名前があるのだろう。しかし、幾度も洗われ色あせたその部分からは、文字を読みとることはできなかった。
けれども……。
共に生きてきた少女。それが家族でなくてなんだと言うのだろう。
(そう、あの子は……私の、もう一人の娘……)
それこそが、ずっと感じていた胸のつかえの正体だった。
自分の娘に、生まれ出ることなく亡くなった子の姿を重ねて呪縛し続けたこど。そこから抜け出すために、幻影を捨てたはずなのに……。
広海は彼女にこう言ったのだ。『あなた誰?』と。
悪気があったわけではない。だが、その言葉が刃となって少女――娘の心を傷つけたことの言い訳になるはずもなかった。
(私は、親として許されないことを……)
広海は、自らの犯した罪に恐れおののいた。
そして矢も楯もたまらず、衝動に突き動かされて玄関から外へ飛び出した。自分の下から去っていった娘に再び会うために……。
ぎらつく太陽の下、広海は汗まみれになりながら走っていた。
――ただ、やみくもに。
何処へ行けばいいのか、分からなかった。
それどころか、会って何を話したらいいのかすら、分かっていなかった。
強い日差しに焼かれたアスファルトが、不快指数を嫌が応にも高めている。
日射病にかかりたくなければ、日傘でも持って出るべきなのだろう。だが、広海にはそんなことを意識する余裕すらなかった。
人影は見当たらない――無論、少女の姿も。
それでも、広海は走り続けた。
抜けるように青い空と、ふわふわした綿菓子のような入道雲が、逃げ水となって地面の上に写っている。
追いかけても、決して追いつけない……。
今の自分を暗喩しているように思えて、広海はそこから視線を逸らした。
そのとき、彼女はようやく自分以外の人影を見かけた。
白衣を着た女性が、左手にバケツ、右手にひしゃくを持って診療所の前に立っている。
霧島聖――この町唯一の開業医だった。
投げやりな様子でひしゃくに汲んだ水を撒いている。だが、文字どおり『焼け石に水』で、撒いたそばから蒸発してしまっていた。
熱せられた歩道のタイルは、撒いた水程度の気化熱でどうにかなるレベルではなかった。そもそも、全く人通りがない以上、ほとんど無意味な行為でしかない。
しかし、どのみち聖は暇を持て余していただけなので、そんなことはお構いなしだった。
広海が聖の方へ向かっていくと、その姿を認めた聖は水を打っていた手を休めた。
「おや、遠野さん。どうかなさいましたか?」
広海は聖の前で立ち止まると、ひざに手を突いて肩で息をした。
「霧島……先生……」
「遠野さん、どうか落ち着いて。呼吸を整えてください」
聖は傍らにバケツとひしゃくを置いた。
広海が聖の白衣の袖を、すがるように掴む。
「霧島先生……、娘を見ませんでしたか……?
私の、娘を……」
聖の瞳が鋭く細められた。
「お嬢さん、ですか。……お名前は?」
広海は、聖の言葉に含められた言外の意味を汲み取った。
(どちらのお嬢さんをお探しなのですか?)
聖は事情を知っている。
だから、探しているのは『みちる』ではないことを、広海は聖に示さなければならなかった。
けれども、広海は娘の名前を知らない――いや、思い出せない。
「あ、うっ……」
息が苦しいのは、走ったからばかりではなかった。
我が子の名前を思い出せない。そのもどかしさが、物理的な圧迫感を伴って広海の胸を締めつける。
それでも、自分で思い出さなければいけないことは分かっていた。
(あの子は、私の愛しい娘なのだから……)
そう胸の奥で呟いたとき、広海の心に一人の少女の面影が浮かんだ。
まだ幼い、目をきらきらと輝かせてこちらを見上げる少女。
そして……。
『あなたたちの未来が、いつまでも美しい凪にみちていますように……』
それは広海の祈りだった。
――叶えられなかった祈りだった。
「み……なぎ……。
娘の名前は……美凪です……」
かすれた声で広海がそう言った。その瞳から涙が一筋こぼれ落ちる。
聖はため息をついた。
「思い出されたんですね。
しかし残念だが、美凪さんはこの町にはもういません。
ある青年と一緒に、どこか遠くへと旅立ってしまった」
「そ……んな」
広海は膝の力が抜け、その場にしゃがみこんだ。
「遠野さん、あなたに話しておかなければならないことがある。
あなたにとって、これは辛い話かもしれない。
それでも、聞いていただけますか?」
聖の穏やかな言葉に、広海は弱々しく頷く。
聖は手を引いて広海を立たせると、診察所の中へ誘った。
後には、水の半分ほど残されたバケツが、ひしゃくとともに置き去りにされたまま、夏の日差しにじりじりと焼かれていた。
診察室の空気は微かに消毒薬の匂いを帯びながら、ほどよく冷却されていた。
暑い屋外にいた広海にとっては、やや肌寒い。
聖は急須から湯呑みに茶を注ぎ終え、盆の上に載せて広海の前へ持ってくる。
「どうぞ、遠野さん。熱いから気をつけて」
「……ありがとうございます」
広海は湯呑みを受け取ったが、手に持ったまま口をつけようとしなかった。
広海の向かいに座った聖は、茶を一口すすってから、湯呑みをデスクの上に置いた。
「まず、先ほど話したとおり、美凪さんは旅に出ました――国崎君という、旅芸人の青年と一緒に」
「旅芸人、ですか……?」
「ええ」
そう言って、聖は少しだけ苦笑する。
「怪しげに聞こえますが、悪い人間ではありませんよ。
かどわかされたりしたわけではなく、あくまで美凪さん自身が国崎君についていくことを選んだそうです。
……そう言えば、遠野さんは国崎君に会っているはずだ。確か先日、米屋の辺りで」
そう言われて、広海はいつか米屋で助けてくれた青年のことを思い出した。
「ああ、あの方ですか。
背が高くて、優しそうな……」
聖が怪訝な顔をする。
「優しそう? ま、まあ、印象は人それぞれですから……。
手を触れずに人形を操ってみせるという、ちょっと変わった芸を持った青年でした。
ただ、この町では全く稼ぎがなかったようで、そこが心配といえば心配かもしれない。もっとも、芸人自体が珍しい田舎と違って、都会に出ればそれなりの実入りもあるんでしょうが……」
「……」
聖は軽く咳払いした。
「その国崎君が言うには、美凪さんもまた、遠野さんと同じく心を患っていたそうなんです」
「……美凪が?」
広海の湯呑みを握る手に力がこもった。
「ええ。夢を見ていたらしい。
自分のことを『美凪』と呼んでくれる、妹のような存在――『みちる』という少女のいる夢を」
「えっ……?」
聖の言葉を聞いて、広海は蒼白になった。
「美凪さんは、自分が自分であるための居場所を必要としていた。
それがどうやら、多重人格のような形で『みちる』という少女を美凪さんの心の中に生み出したようです。
……いや、むしろイマジナリー・コンパニオンと言った方がいいかもしれない。つまり、『空想上の友達』です。
専門外なので詳しくは分かりませんが、感受性の豊かな子供は、そうした『空想上の友達』を実在のものと受け止めてしまうことがあるようです。
ただ、驚いたことにそのみちるちゃんは、第三者である国崎君にも見たり、触れたりできる存在だったらしい」
「それは……どういうことなんでしょう?」
「正直なところ、私にもよく分かりません。
私は医者ですから、そういった超自然の現象を受け入れるのにはいささか抵抗がある。
もっとも私自身、他者には信じてもらえないような事象を目にしたことがありますからね」
聖はやや自嘲的に微笑んで言った。
「しかし、問題はそこではないんです。
遠野さん、あなたが亡くなったお嬢さんの夢から醒めたとき、美凪さんもまたみちるちゃんのいる夢から醒めようとしていた。
けれど、美凪さんはみちるちゃんが消えてしまうという事実を受け入れることができなかった。みちるちゃん自身は消えていく自分を受け入れていたのに、美凪さんはそれを見送ってあげることができなかった。
そのために、一生消えない傷を心の中に負ってしまったらしい。
国崎君は、それを自分のせいだと言っていました。
遠野さんへ会いに行くよう美凪さんの背中を押してやれず、みちるちゃんの消滅を受け入れるよう勇気を与えることのできなかった自分のせいだと……。
ですが」
聖の眼差しが険しくなった。
「遠野さん、あなたは何をしていたんです?
美凪さんが、国崎君が苦しんでいる間、あなたは何をしていたんです?
ただ子供の側からのみ一方的に尽くさねばならないとしたら、それが『家族』と言えるんですか?」
広海の肩がびくっと震えた。
「妹さんが亡くなったこと。
ご両親が離婚されたこと。
そして母親であるあなたが、自分の名前を呼んでくれなくなったこと。
それら全てを、美凪さんは自分の責任だと思っていたようだ。
その上さらに、母親が自分を忘れてしまったこと、そしてずっと自分を支えてくれた少女が消滅することを受け入れ、目を逸らさずに対峙することが必要だというのなら、美凪さん自身の幸せはどこにあるんですか?
全てを受け入れ、目を逸らさない『勇気』は、果たして『諦観』とどれほどの違いがあるんでしょうか?」
耳を塞ぎ、逃げ出してしまいたい衝動――けれども広海は、その糾弾を甘んじて受けなければいけないと感じた。
「み……なぎ……」
辛く、悲しい事象をただ受け入れなければならなかった美凪が哀れだった。
聖は表情を戻すと、目を伏せた。
「……申し訳ない。
本当は、私に遠野さんを責める資格などありません。
遠野さんが心を患っていたのは遠野さんの責任ではない。
むしろ、事情を知っていた私が、美凪さんの心を支えてあげるべきだった。美凪さんの抱える問題に気づいてあげられなかったのは、医師としての私の落ち度だ。
それに私自身もまた、人に諭せるほど強い存在ではない。
謝罪します」
頭を下げる聖を、広海は涙声で押し止めた。
「霧島……先生。
……どうか頭を上げてください。
全ては私の弱さから……始まったことです」
「……その弱さが罪だと言うのなら、私もまた罪人だ。
日常の、いつ壊れるとも知れない危うさから目を背け、知らない振りをしながら、その終わりを恐れている。
どれほど望んでも、変わらない平穏などあり得ないと知っていても――。
多かれ少なかれ、人とはそういう存在なのでしょう。
だから遠野さん、私を含めて誰もあなたを責めることなどできない」
「かもしれません。……ですが」
広海は目尻を指で拭い、毅然として言った。
「私はあの子の――美凪の母です。
母親として、私は自分の娘に行った過ちの咎から逃れることはできません。
……例え、その資格がないのだとしても」
聖は広海の瞳の中に、未だ自分が知り得ない『母親』としての力を見た。
(私は代役を務めてきたつもりだったが……。
結局、覚悟の度合いがまるで違っていたのかもしれんな)
聖はため息をついた。
「……遠野さん。
あなたに、国崎君から伝言があります」
「国崎さん、から?」
「ええ。全く、不思議な青年ですよ、彼は。
伝言内容はこうです。
『俺は母親になるのに資格が必要だとは思わない。
ただ母親であろうとする人間が、母親なんだろう』
と……。
いつ、この伝言を伝えればいいのかを訊ねたら、私がそうしたいと思ったときに伝えればいい、と言われました。
きっと、今がそのときなんでしょう」
「母親であろうとする……人間が」
広海は目を閉じ、そっと湯呑みを両手で握り締めた。
湯呑みの中の茶はやや冷めてきていた。けれども、その温もりは陶器を通して手のひらに伝わってくる。
広海は一口茶を飲み、聖を見て言った。
「ありがとうございます、霧島先生。
私は本当に大切なものを、ようやく取り戻すことができました」
「いや、私は何もしていません。
それは遠野さんご自身の勇気だ。
……行かれるのですか?」
「はい。
決して許してはもらえないでしょうが、私は伝えたいんです。
私があの子を愛していることを」
「そうですか」
聖は眩しげに目を細め、そして微笑んだ。
「風の向くまま、と本人は言ってましたが、とりあえずどちらの方向に向かって旅を続けるのかは聞いてあります」
聖は未記入のカルテを一枚取ると、その裏に近隣の町の名前をいくつか走り書きした。それを広海に手渡す。
「お役に立つかどうかは分かりませんが……」
「本当にありがとうございました」
広海は立ち上がり、聖に向かって頭を下げた。
「それでは、これで失礼します」
「ああ、お大事に……ではないな。
道中お気をつけて」
くすっと笑って、広海は診察室を辞していった。
一人残された聖が呟く。
「……そうだな。
私も、いつまでも逃げてばかりはいられない」
まぶたの裏に、広海の力強い瞳が焼きついていた。
(勇気を――)
夏は終わりを告げ、路上に座る往人の上に降り注ぐ日光も、先月までの苛烈さはもうない。
往人は人形を拾って立ち上がり、尻のポケットにねじ込んだ。そこに、客の前を一回りした美凪が戻ってくる。裏返した麦わら帽子の中には、結構な額の紙幣やら硬貨やらが収まっていた。
黙々と人形を操るところを見世物にするのではなく、美凪の吹く笛の音に合わせて人形を踊らせる――美凪の提案した芸は、予想以上に好評だった。
最初の頃こそ音と人形繰りがうまく同期できないこともあったが、今では美凪も往人もずいぶん慣れてきていた。客のリクエストで演奏する曲が変わっても、テンポや曲調に合わせて人形の動きを変化させることなどお手のものだ。
ただ金をもうけるための手段でしかなかったかつての芸とは違い、楽しい気持ちを客に与えることができる。それは、いつの間にか往人が見失っていた、母から教えられた人形使いの本質だった。
「これだけあれば、今日はラーメンセットを一人で二つという、人類が二百万年来抱き続けてきた夢を実現することも不可能ではないな」
美凪がふるふると首を横に振った。
「どうして駄目なんだ?」
「……昨日もラーメンセットでしたから。栄養が偏ります」
「何を言う!
ラーメンセットは言わば完全食。それだけ食べていても全てのアミノ酸、ビタミン類が過不足なく摂取できると、かの王大人も言っていたはずだぞ」
「……言ってません」
「むぅ……。
ならばラーメンを五目に、ライスを中華飯に替えるのはどうだ?」
「……抜本的に、炭水化物の摂りすぎです」
往人は肩を落とす。その目の前に、白い封筒がすっと差し出された。
受け取った往人が視線で問うと、美凪は何故か胸を誇らしげに張って言った。
「……敢闘賞」
よく分からなかった。
が、中は見ずとも、お米券であることは間違いない。
(これも炭水化物なんだが……)
往人は胸の内で呟いた。
長らく一緒に旅をしているのに、一向にお米券のなくなる気配がないのも不思議だが、往人は深く考えないようにしていた。
先ほどまで二人の周りを取り囲んでいた客たちも、人形劇の終了とともに散り散りに去っていく。そのいずれもが、楽しげな表情を浮かべていることに往人は密かな満足を覚えていた。
二人で旅を続けること。それが一方が他方へ依存するだけの関係ではなく、互いを助け合い、支えあって生きていくことが何より嬉しかった。
美凪が往人を必要とし、そして往人もまた美凪に助けられている。
往人はまばらになった人ごみの合間にその人影を見つけたとき、そんな心地よい日々が終わろうとしていることを悟った。
「……?」
美凪が往人の変化に気づき、その視線の先に目を向ける。
そして少女の肩が強ばった。
優しげな面立ちの女性。少しやつれている感はあるものの、その上品な雰囲気はいささかも損なわれていない。
美凪の母親は離れた場所に立ち、悲しげに微笑んでいた。
「……国崎……さん」
美凪が囁くように言った。表情は見えない。
それは、彼女との別れを意味するのかもしれなかった。
また、孤独な一人旅に戻るのかもしれなかった。
――それでも。
往人はそっと美凪の背中を押した。
今度こそ、信じられたから。
その背を押すことが、美凪の幸せに繋がると、今度こそ信じることができたから。
……目を逸らさずに美凪を見つめる、彼女の母親の瞳を。
美凪は押された力で数歩足を踏み出し、そこでいったん勢いが弱まった。しかし、その足が止まることはなかった。
与えられたほんの少しの勇気をきっかけにして、美凪は走り出す。ずっと届かなかったその場所を目指して。
(――後悔はある。
もっといい結末もありえたかもしれない。
でも、これは俺達が選んだ道だから。
そうだろう? みちる……)
答えは、ない。
みちるはもうどこにも存在しないのだから。
けれども、例え欺瞞だとしても、往人は信じたかった。
柔らかな風がそよぎ、抱きしめあう母と娘を優しく包む。母親が、美凪の背中をそっと撫でていた。そこに言葉はいらなかった。
往人がふと見上げると、果てしなく蒼い秋の空を、一羽のカラスが飛んでいくのが見えた。
そのカラスに、往人は心の中で訴えかけた。
(翼を持たない俺の代わりに、この光景を届けてくれないか?
遠野の幸せを誰よりも願った少女の元へ)
往人の願いを聞き入れたのか……。
カラスは懸命に羽ばたき、空の彼方へと消えていった。
Fin.