Flutter Dance Stage
2005-01-08 by Manuke

『――それでねそれでね、そのジュースすっごく変だったから、一通り《ぜんせいは》してみたんだよっ』
「そう……」
 学校から帰ってきてすぐのこと。私が制服から私服に着替えて部屋を出たところで、ちょうど電話のベルが鳴った。受話器を取ると、それは妹のみちるからだった。
『面白かったけど、そのせいでおこづかいがちょっとピンチかも』
「……それは大変」
 みちるが楽しそうに近況を聞かせてくれるので、私も嬉しくなってしまう。
『あ、だけど、ちゃんと美凪の分のプレゼントは用意してあるから安心してねっ』
「……プレゼント?」
『うん。二十三日に遊びに来てくれるって言ったよね? 一日遅れになっちゃうけど』
 明日は終業式で、いよいよ明後日から冬休みに入る。その日にみちるのところへ遊びに行くと、前々から約束してあったのだった。
「……クリスマスプレゼントなら、遅れるのではなくて一日早いのでは?」
『んにゅ、違うよっ。クリスマスプレゼントじゃなくて、誕生日プレゼント!』
「……?」
 一瞬思案して、ようやく思いつく。
「……それなら、当日です」
『だから〜っ。へーかの誕生日を祝うつもりなんてないの! 美凪の誕生日だよっ』
「……あ」
 完全に失念していた。
 何しろ、私にとって自分の誕生日というものは祝うものではなかったのだから。お母さんも、クラスメイトも、私の誕生日など気にかけてはくれなかった――ただ一人、このみちると良く似たあの子を除いては。
『もおっ、美凪ってばうっかりさんだよ』
「……うっかり八兵衛です」
『にゃははっ。はちべえだね〜』
 みちるが明るい声で笑う。
『美凪、あさっては楽しみにしててほしいな』
「……はい。期待しちゃいます」
『うん。今日はそろそろ切るね。それじゃあ美凪、ばいばい』
「……ばいばい、みちる」
 通話が切れるのを確認してから、受話器を置く。
 みちるの住んでいる場所はここから少し離れていて、そう頻繁に会うことはできない。だからこそ余計になのか、私が遊びに行くことを楽しみにしてくれる。
 みちるは、かつて私の心を救ってくれたあのみちるとは違う存在だけれど、明るくて元気なところは少し似ているかもしれない。
 ――もちろん、二人を重ねて見るつもりはなかった。それは、どちらのみちるにとっても失礼なことだから。空に還っていったみちると、遠くの町で私を慕ってくれるみちる。双方とも大切な私の妹だった。
 と、そこで廊下に面するドアが開き、お母さんが姿を見せた。
「美凪、ちょうどよかった。夕飯のお買い物を頼めるかしら?」
「……うん」
 こくり、と私は頷く。
「寒い中ごめんなさいね。お母さん、今ちょっと手が放せないの」
 申し分けなさそうに私に向かって言うお母さん。
「……大丈夫。へっちゃらです」
「そう? それじゃ、お願いね。買ってきて欲しい物はこの紙に書いてあるから」
「……了解」
 私は紙片を受け取ると、部屋に戻ってクローゼットからコートを取り出した。冬が始まる前にお母さんが買ってくれた、ライトブラウンの素敵なコートだ。
 お母さんと私の関係は、まだ少しぎくしゃくした部分が残っている。でも、それは決して悪い意味じゃない。きっと少しずつ、時間をかけて取り戻していけばいいんだと思う。
 コートに袖を通した後、私は手さげ袋を持って家を出た。頬をよぎる木枯らしの冷たさで、あの夏からもうずいぶんと時間が経ったんだと感じさせられ、少しだけ胸が切なくなる。
 私は頭を振って感傷を振り払うと、商店街に向かって歩き始めた。

 買い物を終えた帰り道、私は考え事をしながら歩いていた。
 買った材料から、今晩のメニューが何かを想像していたのだった。ニンジン・ゴボウ・コンニャクが入っているからキンピラゴボウかな――そんな風に上の空で歩いていたのがいけなかったのだろう。私は曲がり角で、横手から現れた人とぶつかってしまった。
「あっ! ご、ごめんなさいっ」
 相手の人がすぐに謝ってくる。幸いお互いの相対速度が大きくなかったために、どちらも転んだりすることはなかった。
「……いえ、こちらこそごめんなさい」
 ワンテンポ遅れて私も謝った。顔を上げると、相手は見知った人だった。
「……神尾さんでしたか。お怪我はありませんか?」
「あ、うん。遠野さんの方は大丈夫かな?」
「……私は、平気です。軽やかに避けましたから」
「え、あれ?」
「……なんちゃって。嘘でした」
 ぶつかっていて、避けたもなにもなかった。
「にはは……」
 神尾さんは困った表情で笑っている。
 その神尾さんの着ている服は、ちょっといつものイメージと違っていた。下はピンクのチェック柄のスカートと白いニーソックス――こちらは普段とそう変わらないだろう。問題は上に羽織ったブルゾンだった。黒い革製で、さっきちらっと見たところでは、背中に髑髏のマークが描かれている。
「……神尾さん、その上着は?」
「これ?」
 神尾さんは袖口を掴んで突っ張ると、両手を広げた。
「ちょっとお母さんのを借りてきちゃったんだけど、やっぱり似合わないかな」
 はにかんで微笑する神尾さんに、私はぷるぷると首を振った。
「……そんなことはないです」
 そして、神尾さんが私と同じように手さげ袋を持っているのに気付く。レジ袋に頼らず買い物をするのは、地球に優しい女の子を目指すためには必須と言えるだろう。
「……お買い物ですか」
「うん。冷蔵庫を覗いたら、ちょっと材料が足りなくて」
「……神尾さんが、お夕飯を?」
「お母さん、夜遅いから。わたしはいつも自分の分を作ってるの」
「……」
 この人は家でも一人なのだと、私は気付いた。
 神尾さんがその癇癪のためクラスの中で孤立しているのを私は知っていた。私も神尾さんのクラスメイトだから。そして――私も孤立しているから。
「往人さんがいたときは二人分だったから、作り甲斐があったんだけどね」
 神尾さんはそう言って両手を後ろで組み、空を見上げた。
「どうしてるかな、往人さん。お腹空かせてないかな?」
 寒風に吹かれた冬の雲は長く伸びて、夕暮れの空を赤と藍色の縞模様に染めている。この空の続いていく下、どこかに国崎さんはいるのだろう。あの不思議な人は、元気でいるだろうか。
「……きっと、大丈夫だと思います。国崎さんは旅人さんですから」
「そっか……。往人さん、ずっと一人で旅をしてきたんだもんね」
 神尾さんはそう言って、少し寂しそうに笑った。
 ――学校でも家でもずっと一人で、誰も彼女のことを気にかけてくれなかったのだとしたら、神尾さんは私と同じだ。どこにも居場所がなかった私と。
「……神尾さん。実は明日、私の誕生日なんです」
「そうなんだ。おめでとう遠野さん」
「……ありがとうございます。お礼の印に、これを進呈」
 懐から封筒を取り出し、神尾さんに向けて差し出す。
「わ。えーと、その。ありがとう」
 神尾さんは戸惑いながらもお米券を受け取ってくれた。
「……それで、ご予定がなければ明日……終業式の後に私の家へいらしてくださいませんか?」
「えっ……?」
 神尾さんの表情が凍りつく。
「……それが招待状代わりです。フロントで提示していただければ、中へご案内します」
 フロントってどこだろう、と内心思いながらもそう続ける。
 そして、神尾さんの表情が悲しげに歪んだ。
「でも、わたしが行ったら、きっと迷惑になっちゃうから……」
「……そんなことはありません。神尾さんは、共に『地球に優しい女の子』を目指す同志ですから」
「が、がお……。ちきゅう?」
 神尾さんは困惑した様子で首を傾げる。私は頷いた。
「……私は、クラスの中に親しい人がいません。……神尾さんに来ていただけると、嬉しいです」
「あ……」
 神尾さんの瞳が、心を映すかのように動揺した。けれど、神尾さんはぶんぶんと首を左右に振る。
「駄目だよ……せっかくの誕生日を、台無しにできないもの」
 神尾さんの目は、人を傷つけることを厭う者の目だった。他者が傷つくよりは、自分が傷つく方を選ぶ――それが私には分かった。分かって、しまった。
「……神尾さんにも、ご都合がおありですよね。もし気が向いたら……お越しください」
 それ以上神尾さんを困らせることもできず、私は言った。
「せっかく誘ってくれたのに、ごめんね……。わたし、もう行くから」
 神尾さんはそう言い残し、私の前から逃げるように走り去っていく。
 彼女は決して、孤立を望んでいる訳ではないのだろう。それなのに、神尾さんの持つ事情が人と関ることを許さない。それはとても悲しいことだった。
(……私は、どうすればいいのかな、みちる?)
 そう空に向かって問いかけてみるけれど、答えは返ってこない。もう、私の言葉はみちるには届かないから。
 ――いや、その答えはきっと自分で見つけなければいけないのだろう。誰かに頼ることなく、自分自身の意思で。
 私は一人頷くと、家に向かって歩き出した。

 玄関のドアをくぐり、家の中へと入る。屋外との温度差で、頬が紅潮するのが分かった。
「おかえりなさい、美凪。ご苦労様」
 お母さんが姿を現し、労をねぎらってくれた。
「……ただいま」
「そうそう。美凪宛てに来ていた手紙を渡すのを忘れていたわ」
 お母さんはそう言って踵を返し、居間へ入っていく。私はコートのボタンを外しながら、その後に続いた。
「はい、あなた宛ての手紙。今日配達されたのよ。間に合ってよかったわ」
「……?」
 封筒を買い物袋と交換で受け取る。
 白い封筒の表には料金分の切手、そしてこの町の名前と『遠野美凪』とが書かれているのみ。郵便屋さんに感謝しなければいけない。
 裏面には、差し出し人の名前はなかった。そこには――
『二十二日に日付が変わったときに開封すること』
 ――とだけ。
 でも、分かった。その手紙を誰が私に寄越してくれたのか。素っ気ない文は、きっとあの人流の照れ隠しだ。
「お友達から?」
 お母さんが尋ねてくる。
「……うん。大切な人から」
「もしかして、あの背の高い男の人かしら?」
「……ぽ」
「あらあら」
 さらに赤くなった私を見て、お母さんは優しく微笑んだ。
 そらから私達は二人で夕食を作った。予想は外れて、今夜のメニューはけんちん汁だった。
 一緒に料理をするのはとても楽しい。調理の腕は上達した方だと思うけれど、まだまだお母さんには敵わなかった。調味料の量や投入するタイミングを教わりながら、食材を料理へと変化させていく。
 出来上がった夕食を二人で美味しく頂いた後、私は部屋に戻って今日の復習をした。それからお風呂を済ませ、パジャマに着替えて髪をドライヤーで乾かす。
 そして、約束の時間がやってくるのをじっと待ち続けた。
「……そわそわ」
 時刻は十一時五十八分――あと二分。
 私は落ち着かない気持ちで時計を見つめていた。国崎さんが私に送ってくれた封筒の中には、何が入っているのだろう。今、あの人がどこにいるのか書かれているだろうか。
「……そわそわそわ」
 時計の秒針が一周する――あと一分。
 あの夏に別れた後、国崎さんからずっと便りはなかった。だから、こうして手紙を送ってくれただけでも嬉しい。
 けれど、やっぱり少しだけ寂しかった。国崎さんの笑顔が見たい。声が聞きたい。そして、その手に触れたい。そんな風に思ってしまうのはわがままだろうか。
 時計の三つの針がひとつに重なる――指示された時間だ。
 私は手にしたペーパーナイフで封を切り、中身を取り出した。そこから出てきたのは、一片の紙で作られたヒトガタだった。
「……??」
 人の形に切られた白い紙は、丸い頭部が少しいびつに歪んでいる。両手両足をまっすぐ伸ばした格好で私の手のひらに乗っていた。それ以外には文章も何もなし。
 どういう意味があるのだろうと首を傾げたとき、手の中のヒトガタがぴょこんと跳ね起きた。
「……あっ」
 ヒトガタは私の手から飛び出すと机の上に降り立ち、踊り始めた。
 ぺらぺらの小さな踊り子さんが、私の机を舞台にステップを踏む。片足立ちでくるくるとスピンを決める。平たいつま先で器用にタップを打ち鳴らす。
 私はすっかりその演技に魅せられてしまった。机の上のステージから、存在しないはずの調べが聞こえてくるほどに。
 そう、どこか遠い場所から今この瞬間、国崎さんが私のために紙のヒトガタを操ってくれているのだ。だからこそ時間指定があったのだろう。
 私という観客の前で繰り広げられる、小さな小さなブロードウェイ・ステージ。この舞台を私だけが独り占めしている。なんて贅沢で、素敵なプレゼントだろうか。
 そして、最後にひらりと宙返りを決めて、演技が終わった。小さなヒトガタは右腕を前にうやうやしくおじぎする。
 拍手をしかけて、私は気付いた――きっと国崎さんには聞こえない。私は小さなダンサーに手を伸ばし、その腕をつまむ。そして感謝の思いを込めて、そっと上下に振る。
 ヒトガタが動き、両腕で私の指を包んだ。そう、届いたのだ。
 言葉は伝えられない。国崎さんがどこで何をしているのか、私には分からない。けれど今、間違いなく私達は繋がっていた。
(……ありがとうございました、国崎さん。どうかお元気で)
 心の中でそう呟く。
 そしてヒトガタは力を失い、元の紙切れへと戻った。
 刹那の触れ合いだった。時間にしてわずか数分のことでしかない。それでも私にとって、それは素晴らしい贈り物だった。
 ほっ、と小さく溜め息をつき、私はヒトガタを封筒に戻した。それはもうただの紙でしかないけれど、国崎さんが私に贈ってくれた大切なものだから。
 そのとき、コンコンと部屋のドアがノックされた。
「美凪、起きてるかしら?」
 お母さんの声が聞こえる。
「……うん。どうぞ」
 答えると、お母さんがドアを開けて部屋へ入ってきた。
「ごめんなさいね、こんな夜遅くに。お母さん、早く渡したかったの」
 そう言って、お母さんは手にしていたものを私に差し出す。
「お誕生日おめでとう、美凪」
「……ありがとう」
 私はお礼を言って受け取った。
 お母さんがくれたのは手編みのセーターだ。クリーム色の毛糸をメインに、赤い模様がアクセントになっている。コートに良く合いそうだ。
「それは他の誰でもない、美凪のために編んだものだから……」
「……お母さん」
 目を伏せ、お母さんは済まなそうな表情で続ける。
「ずっと、辛い思いをさせてごめんなさい、美凪。ほんと、酷い母親よね」
 お母さんが気に病んでいるのは知っていた。今でもまだ、そのことに関して自分を責め続けていることも。だけど、それはお母さんが悪いのじゃない。心を患ってしまったのは、悲しい出来事があったからだ。
 私はお母さんに名前を呼んでもらえるだけで幸せだった。そのことを少しも恨んでなどいないから、これ以上苦しまないで欲しかった。でも、私は口下手だからそれを上手く伝えられない。
 だから、私はお母さんをそっと抱きしめて言った。
「……お母さん、大好き」
「み……なぎ……」
 お母さんも私の体を抱き返してくれた。
 私はなんて幸せ者なのだろう。愛する人達が自分を祝ってくれる、それこそが誕生日に贈られる最も幸せなプレゼントなのだから。
 ――そして私は、自分が成すべきことを知った。
「……お母さん。今日、招待したい人が一人いるんです」
 お母さんはすすり上げると、少しだけ涙声で答えてくれた。
「ええ、もちろんいいわよ。お友達?」
「……クラスメイトの女の子だけど……まだそんなに親しくないの」
「これをきっかけに、ってことね?」
 お母さんはすぐに察してくれる。私は頷いた。
「……はい」
「そういうことなら、お母さん張り切ってお料理作るから。楽しみにしてて」
「……期待しちゃいます」
 口で伝えられないのなら、行動で示せばいい。
 掴んだその手を放さなければいい。
 それが正しい選択なのかどうかは分からないけれど、結果に脅えて何もしなければ物事を変えることなどできないだろう。私はそれを、あの夏の日に教えてもらったのだ。
 だから私は神尾さんと親しくなることを選ぶ。どんな結果に繋がるのだとしても、私はきっと後悔しない。
 お母さんの温もりを感じながら、私はそっと目を閉じて願った――寂しい瞳をした神尾さんが、いつか満面の笑顔を浮かべられることを。

Fin.

1