うだるような熱気が居間の中に充満していた。
頼みの綱の扇風機は止まったまま。昨日俺が指を突っ込んで遊んでいたら、不思議なことに急に異音を発して動かなくなったのだ。
晴子には思いっきり白い目で見られたが、断じて俺のせいじゃない――と思う。
「あぢぃ……」
窓から入ってくるのは涼しい風ではなく、ひたすらやかましいセミどもの鳴き声ばかりだった。
観鈴が軒にぶら下げた水色の風鈴も、さっきから鳴る気配すらない。職務怠慢だ。
「……うぅ」
まだ午前中だというのに、この暑さはどうだ。こうして体を動かさずに寝転がっていても、額にじんわりと汗が浮かんでくる。
窓の外には小憎らしいほどに眩しい陽光が降り注いでいた。もう太陽光線なんてレベルじゃない。むしろビーム。その暑苦しさから、『メンズビーム』と名付けてやろう。
などとうだり切った頭で考えていると、廊下の方からパタパタと軽快な足音が聞こえてきた。
「往人さんっ」
聞こえたのは観鈴の声だった。今この家にいるのは俺と観鈴の二人だけだから当然だったが。
「ねえ、往人さんっ。起きてる?」
繰り返しながら観鈴が近づいてくる。返事をするのも億劫だったが、放っておくのは可哀想なので、俺はうつぶせの体勢のまま答えた。
「ああ……半分ぐらい」
と、俺の肩がつんつんとつつかれた。
「じゃあ、もう半分も起きて。一緒に出かけよう」
「……どこにだ?」
じっとしたまま聞き返す。
「この近くの科学館」
「はぁ?」
俺はそこでようやく身を起こした。
観鈴は俺の傍らでにこにこしながら座っていた。Tシャツにジーンズという軽装のため、短くなった髪と相まって快活そうな印象を与える。
「昨日の夜にね、お母さんがチケットくれたの。恐竜の展示をやってるから、二人で行きなさいって。お洗濯終わったから、一緒に行こ?」
そう言って、観鈴は俺に恐竜の絵が描かれたチケットを見せた。
「何も、こんな暑い日じゃなくてもいいだろう。別の日にしろ」
俺が文句を付けると、観鈴は首を横に振ってチケットの日付部分を指差す。
「恐竜展、今日までだから」
俺はそこから目を逸らし、窓の外へ視線を向けた。
「しかし、なぁ……。こう暑くっちゃ出歩く気にならん。何ならお前、一人で行ってこいよ」
汗で湿った髪を手で掻き上げながら、俺はなおも抵抗する。
「せっかく二枚あるのに、もったいないよ。それにわたし、往人さんと行きたいし……。
お小遣い多めに貰ったから、お昼は外で美味しいもの食べられるよ。だから、ね?」
「……マジか?」
その言葉に俺の魂が反応した。
「うん。あと、科学館は冷房が効いてるから家にいるよりは涼しいと思う」
確かに、昼前でこの暑さだと午後はもっと酷いことになりそうだ。ここは観鈴の言う通りにした方が得策か。
「よし分かった、行ってやろう。お前一人じゃ心配だしな」
俺がそう頷くと、観鈴の表情が明るくなった。
「やった。往人さんとデート」
「デートじゃない。ただ一緒に出かけるだけだ」
「うん。一緒にお出かけ」
言い直させても、あんまり変わってないような気はするが。
「じゃあわたし、ちょっと着替えてくるね」
観鈴が立ち上がり、居間を出て行こうとする。
「別にそのままで構わないだろ?」
観鈴が俺の言葉を聞いて振り向いた。その弾みでサラサラの髪がふわりと宙になびく。
「だって、せっかく往人さんとデートするんだもん」
と言って、儚げに微笑む観鈴。不覚にもその笑顔に少しだけ――あくまで、ほんの少しだけ――ドキッとした俺は、ついツッコミを入れ損なった。
観鈴は身を翻して、パタパタと部屋の方へと走っていってしまった。
(――まあ、いいか)
俺は大きく伸びをしてから、とりあえず顔でも洗ってさっぱりしようと洗面所へ向かった。
「……さてと、そろそろ家へ帰るか」
「わ、まだ門から一歩出ただけなのに」
すかさずUターンした俺を、観鈴が慌てて引き留めようとする。
「こう暑いと、科学館に辿り着く前に熱にやられるぞ、絶対」
文句を言って家の中へ引き返そうとする俺を、観鈴が押し返した。
「そんなことない。往人さん、頑丈だから」
確かに、長いこと一人旅を続けていると、少しくらい暑かろうが寒かろうがいちいち気にしてはいられない。しかし、それとこれとは話が別だ。
「我慢できるのと、好きなのは違う」
「それに、わたしが出かけると往人さん一人になっちゃう。お昼ご飯、用意する人がいないし」
「……」
俺の最大の弱点である空腹をネタに脅してくるとは。これでは折れるほかなかった。
「……仕方ない。その代わり、昼飯は容赦なく食うからな。後悔するなよ?」
「うんっ」
踵を返して道を歩き始めた俺の隣に、観鈴が楽しそうな様子で並んだ。
都会で見上げる空はくすんでいるが、この田舎町では抜けるように青く、どこまでも高い――どれだけ飛ぼうとも、決して辿り着けそうにないほどに。
雲は海の方角の低い位置にある程度。堤防を上れば、水平線の上に連なっているのが見えるのだろう。
そして、遮るもののない大気を貫いて太陽からの光がアスファルトを焼け焦がす。ただでさえ気温が高いのに、直射日光まで浴びるとその暑さはひとしおだった。せめて日が翳ってくれれば助かるんだが。
「観鈴、お前は暑くないのか?」
尋ねると、額に汗を滲ませながらも観鈴が答えた。
「ちょっと暑いけど大丈夫。帽子、被ってるし」
観鈴は水色のブラウスに白いミニスカート、そして頭に麦わら帽子といった出で立ちだった。ノースリーブのブラウスは肩の部分に青いリボンがあしらわれていて、見た目にも涼しげだ。
「俺も帽子を被ってこれば、少しはマシだったかな……」
「往人さんが暑いのは、その黒いシャツのせいもあると思う」
呟いた俺に、観鈴が突っ込む。
「いいんだよ、これは。俺のトレードマークみたいなもんだからな」
「そっか。往人さんはオタマジャクシだったもんね」
「どうとでも言ってくれ……」
熱気のせいで反論する気にもなれない。
蝉時雨の降り注ぐ道を俺達二人が歩いていると、向こうから人影が現れた。観鈴と同世代らしい少女は、こちらを認めると目を丸くしたようだった。
「神尾……さん?」
少女が発した声に、俺は聞き覚えがあった。観鈴が頷いて返事をする。
「うん。こんにちは、川口さん」
その少女はどうやら、俺がかつて電話をかけた川口茂美のようだった。
「こんにちは――髪、切っちゃったんだ」
「お母さんにね、切ってもらったの」
「きれいな髪だったからちょっともったいない気もするけど……でも、今の髪型も似合ってるよ」
「にははっ、ありがとう」
そこで、少女は俺の方へ視線を移す。
「えっと、こちらの方は?」
「この人は国崎往人さん。往人さんは旅人さんで、今はわたしの家に泊まってくれてるんだ」
「……旅人さん?」
観鈴の紹介に首を傾げる少女へ、俺は声をかけた。
「川口茂美、だよな? この間は悪かった、突然変な電話をかけて」
茂美は俺の言葉でそのことを思い出したようだった。
「ああ、あのときの……。いえ、全然構わないです」
小さく首を振って、それから俺に尋ねてくる。
「あの電話では神尾さんの具合が悪いと仰っていたので心配していたんですけど、もう大丈夫なんでしょうか?」
「ああ、とりあえず」
「そうですか……。よかった」
茂美はほっとした様子で微笑んだ。観鈴が言った通り、この少女はいい奴のようだった。
「で、お二人はどちらにお出かけですか?」
その問いに、観鈴が嬉しそうに答えた。
「科学館でやってる恐竜展に行くところなの。展示が今日までだから」
「俺は暑いから嫌だって言ったんだけどな。行かないなら飯抜きって脅迫されたんで仕方なく」
横から口を挟むと、観鈴がそれに抗議してきた。
「そんなことないよ。外で美味しいもの食べようって言ったとき、往人さんの目、きゅぴーんって光ってたし」
「人間の目が光るわけないだろ。お前の目の錯覚だ」
「――ふふっ。仲がいいんですね」
言い合う俺達を、茂美は楽しげに眺めている。
「川口さんも、どこかへお出かけするところ?」
観鈴が尋ねると、茂美は少し照れたようなはにかんだ。
「ちょっと、お昼ご飯の買い出しついでにアイスでも買おうかと思って」
「今日は暑いもんね」
相づちを打つ観鈴に俺は言った。
「なぁ、俺もアイス食いたいぞ」
「うーん、じゃあ、武田商店に寄ってこうか?」
「そうだな。それがいい」
そして観鈴は茂美の方へ振り返る。
「それじゃ川口さん、わたし達そろそろ行くね」
「うん。今日は日差しが強いから、お二人とも気をつけて」
「分かった。川口さんも」
手を振って二手に分かれかけたところで、茂美がこちらを振り向いて叫んだ。
「そう言えば、この間の旅行に行ったときのお土産、買ってあるんだ。今度、学校に持って行くから」
「ありがとう。また今度、学校で!」
また今度、学校で――
その何気ない観鈴の台詞が、何故か痛みを伴って胸の内に響く。
観鈴は茂美に向かって手をぶんぶんと振り返すと、前に向き直った。
「川口さんとお話しちゃった」
「そらよかったな」
「川口さん、やっぱりいい人だった」
「ああ」
「じゃあ、武田商店に行こうか」
「先に言っとくが、『どろり濃厚』は飲まないからな」
「うーん、美味しいのに……」
そして、俺達はまた炎天下の道を歩き始める。微かに潮の香りがする、熱気を伴った夏のそよ風を頬に受けながら。
昼食を摂った後、俺と観鈴の二人は科学館へ向かった。
ちなみに昼飯はラーメン屋だった。流れ者だった俺には、そもそも気取った料理は舌に合わない。その代わりラーメンセットに唐揚げ、餃子という豪華ラインナップで行かせてもらうことにした。食べっぷりを気に入ったラーメン屋の親父が唐揚げを追加してくれたこともあって、俺はそれで十分満足だったが。
「ここか、恐竜展をやってるのは?」
「うん、そう」
派手な色に塗りたくられた建物の前に、俺達は辿り着いた。大都市にあるような博物館とは比べるべくもないが、田舎町にしてはまあまあと言えるだろう。
入り口を潜り、もぎり嬢にチケットを渡す。ついでに展示内容を解説した冊子を買うことにした。
外の暑さのせいか、最終日だというのに館内に人気は少ない。客としてはゆっくり見られるのはありがたいが、科学館側はちゃんと商売になっているのかと、ついいらん心配をしてしまう。
「えーと、展示の目玉はトリケラトプスの全身骨格に、プテラノドンの復元模型か……。今ひとつシケてるな。ティラノとかいないのかよ」
人の入りが少ない理由だろうかと冊子を読みながら難癖を付けていると、観鈴に睨まれた。
「うー、どうしてそんなこと言うかな。それだって十分凄いんだから」
「まあ、こんな田舎ならそんなもんか……。
おっ、『翼竜は恐竜とは異なるグループの生き物』って書いてあるな。知らなかったぞ」
俺が呟くと、観鈴もびっくりした表情になった。
「えっ、嘘?」
「嘘じゃない。ちゃんとここに載ってる」
「どこ、どこ?」
身を乗り出して覗き込んでくる観鈴。薄着のせいで無防備な胸元から目を逸らし、俺は冊子を観鈴に押しつけた。
「左のページの真ん中辺だ」
「あ、ほんとだ。『恐竜と翼竜は近縁で、主竜類に属します』だって」
「お前、恐竜好きなのに知らなかったのか?」
「にはは……」
観鈴が笑ってごまかす。
「まあ、近い親戚ではあるようだけどな。とりあえず、先に進もう」
「うん」
元々、さして大きくもない科学館の展示スペースを使っているということもあって、規模は小さめのようだった。
壁沿いに置かれているガラスケースには、ぐるぐる渦巻き模様や小さな小判状の石などが並べられている。凄いものなのかもしれないが、見てくれは変な形の石ころが置かれているだけだ。
観鈴はそれを眺めては「へえーっ」と感心したり、「うーん」と首を傾げて唸ったりしているものの、俺はすぐに飽きてしまった。
とは言え、観鈴の言葉通り館内には冷房が効いていて、家でゴロゴロしているよりはよほど快適なのは確かだ。腹も満腹だし、文句を言う筋合いはない。
少しばかり暇を持て余しつつも、俺は観鈴が満足するのを待つ。しばらくすると、観鈴が俺の方へとてとてと駆け寄ってきた。
「往人さん。次、行こう」
「ああ」
正直、期待はしていなかった。どうせ大層なものは置かれていないんだろうと。
が、俺の予想は良い意味で裏切られた。
「――でけぇ」
「うん、大きいね……」
広い展示室の中央に鎮座した、四本足の恐竜の骨格。その迫力に俺は圧倒された。
体全体もでかいが、中でも頭が一際でかい。頭の骨の後ろが広がって、首元を覆っている。そして額の辺りから二本の長い角が前に伸びていた。鼻の上に付いた短いのと合わせて三本角――展示の目玉のひとつ、トリケラトプスだ。
「角が凶悪な感じだな」
俺の感想に、観鈴が首を横に振る。
「そんなことないよ。この子は草食だから普段は大人しいの」
「牛みたいな感じか?」
「うん。でも、ティラノとかに襲われそうになったら突進して立ち向かっちゃう」
「牛って言うより、サイっぽいな」
「そうかも」
確かに、改めて見てみるとサイに似ているような気がしてきた。俺はパネルに描かれた復元予想図を元に、想像の翼を広げてみた。
だだっ広い草原の中、ゴツゴツした皮膚の大柄なトリケラトプスがのし歩いている。もしかしたら、群れを作っていたかもしれない。隣でもしゃもしゃと草を食んでいるのは、こいつの連れ合いだろうか。
そこに突如現れる大きな肉食恐竜。トリケラトプスは仲間を守るため、勇猛果敢にティラノサウルスへと突進する。
果たしてトリケラトプスは首尾良く相手を追い払えるのか。あるいは倒され、ティラノが食事にありつくことになるのか――
そんなありきたりの想像も、現物を前にしていると説得力がある。
そして、俺は改めて気付かされた。恐竜というものは別世界の怪獣なんかではなく、かつて存在していた、れっきとした動物なんだということに。
今はもう滅んでしまった恐竜達。遙かな太古に栄えた彼等の楽園はすでになく、こうして骨を残すのみだ。
そう、化石は地球の記憶と言えるのかもしれない。この星の上で綴られてきた様々な命の営みは、化石となって人に読み解かれるのを待っているのだろうか。
「……なんか、見てみたかったな。こいつが生きているところを」
「だよね。どんなふうに歩いてたのかな? どんな鳴き声だったのかな?」
俺の言葉に、観鈴は頷いた。
滅亡してしまった者達に、俺達はしばし思いを馳せる。観鈴が以前言っていたロマンというものが、今なら少し分かる気がした。
それから、今度は一緒に他の展示物を見て回ることにした。冊子を片手に二人でああだこうだと意見を交わす。すると、褐色の楔形をした石は大口を開けたタルボサウルスの顎に並ぶ牙に、奇妙な形の丸い岩はユーオプロケファルスの尻尾に付いた巨大なハンマーに変わった。
「すげぇな……。こんなの振り回されたら危なくて近寄れないぞ」
「うん。それに背中が硬いから襲われにくいし」
「まさに鎧だな」
ちょっとした想像力で、ただの石ころにしか見えなかったものが古代の失われた生き物達へと変化する。展示室が過去を覗き見るタイムマシンになる。それは新鮮な体験だった。
観鈴は俺が興味を持ったことが嬉しいのか、笑顔で展示室の出口を指差した。
「往人さん、次の部屋にプテラノドンの模型があるみたい」
「ああ、そろそろ移動するか」
頷いて、それから尋ねる。
「翼竜ってのは、鳥とも違う生き物なんだよな?」
恐竜とは違うというのはさっき知ったばかりだが、鳥との関係は知らない。観鈴は冊子を開いて覗き込んだ。
「えっとね、翼竜の方が先に空を飛んで、鳥はその後から別に進化したみたい。
……わ、鳥は恐竜の仲間だって書いてある」
「なに? 嘘だろ?」
疑念の声を上げると、観鈴が冊子のページを俺の前に差し出した。
「嘘じゃないよ。ほら、ここ」
「む……。本当だ」
確かにそう書かれている。最近では、鳥はティラノサウルスに近いと考えられているらしい。
「言われてみると鳥の脚って恐竜っぽいイメージだが……」
「じゃあ、わたしがひよこは恐竜の子供だって思ったのも、間違ってない?」
「どうだろうな。まあ、『がお』とは鳴かないのは確かだ」
「にはは、そうだね」
観鈴が残念そうに笑う。
「不思議なもんだな。鳥はあのでっかい奴らの血を受け継いでるってわけか。そうすると恐竜ってのは、全部滅んじまったってわけでもないのか?」
「うん……。でも、トリケラトプスやティラノサウルスがもういないのは、やっぱり寂しいよね」
「ああ。かもな」
二人並んで、次の展示室へと入る。
この部屋は、中生代にいた恐竜以外の生き物を展示しているらしい。その中でも一際目を引くのが、天井から吊り下げられた翼竜の復元模型だった。
「――あっ」
「へぇ……」
翼の端から端まで、八メートル近くあるだろうか。模型全体がふわふわとした感じの茶色い毛で覆われていた。
「やっぱり大きいな。こんな奴が空を飛んでたなんて驚きだ」
「……」
「喉の辺りはペリカンっぽいぞ。魚を食ってたみたいだな」
「……」
「観鈴?」
反応がないのを訝しんで視線を移すと、観鈴は模型を見上げたまま泣いていた。少し見開いた目から透明な涙の雫が溢れ出し、その頬を濡らしている。
「どうか……したのか?」
そっと肩に手を置くと、観鈴は我に返った。
「うん。ちょっと、思い出しちゃった」
「思い出したって、何を?」
俺が恐る恐る尋ねると、観鈴は手の甲で涙を拭い、寂しそうに微笑んだ。
「少し前に見た夢のこと。羽の生えたわたしが、気持ちよさそうに飛ぶ翼竜さん達を上から見下ろしてるの。
空は蒼くて、翼に受ける風は澄んでいて、下の方では緑の中を流れる川がきらきら光ってた。凄くきれいな景色だった。でもね……」
観鈴は言葉を切って、また翼竜の模型を見上げた。
「わたしはひとりぼっちなの。翼竜さんには仲間がたくさんいるのに、わたしだけがひとりだった。そんな、世界でいちばんかなしい夢」
「……そうだな」
俺はずっと、一人で旅を続けていた。どちらかと言えば、他人との関わりを持たないようにしてきたように思う。
けれど、それは本当の孤独とは違う。世界に自分一人しかいなかったとしたら、果たしてその寂しさに耐えられるだろうか――多分、俺には無理だ。
人間は一人では生きられない。例え世捨て人として山奥に籠もるにしても、そいつは里に降りさえすれば人に会えることを知っている。それでは本当の意味での一人っきりとは言えないだろう。
真の孤独を知っているのは、世界で最初の存在と――世界で最後の存在だけなのかもしれない。
観鈴が前に足を踏み出す。俺の手を置き去りにして。
そして翼竜の真下まで歩いていってから、観鈴は俺の方を振り返った。
「翼を持った人達はね、星の記憶を紡ぐために生まれてきたの。だけど、今はもうみんないなくなっちゃった。空にいるもう一人のわたしが、最後の一人だったから」
「それじゃあ……星の記憶はどうなる?」
俺の問いに観鈴は笑った。両手を広げ、室内を示す。
「大丈夫、新しい継ぎ手がいるから。これまでとは違うやり方で記憶を受け継いでくれるもの。そしていつか、別の星の記憶と触れ合うことができるかもしれないね。
だから、もう翼の人達は必要ないの」
その言葉が、その表情が悲しくて、俺は首を横に振った。
「そんなこと……関係ないだろう。必要とか、必要じゃないとか」
近づこうとした俺を、観鈴が制止する。
「来ちゃ駄目」
静かだがきっぱりとした口調に、俺は思わず足を止めてしまう。
「消えていくわたし達を悼んでくれる人がいっぱいいたから、安心して全てを託していけるんだよ。だからもういいの。往人さんにはもう……わたしのこと、忘れてほしい」
「……気付いてたのか」
ため息とともに吐き出した台詞に、観鈴は頷いた。
ロクに力も持たない俺には、こいつに夢を見続けさせてやることすらできないのか。
「本当は起こらなかったことだから。凄く楽しかったけど、これはやっぱり夢だもの。もう終わりにしよう」
観鈴の言葉とともに周囲の光景が色彩を失い、ぼやけていく。展示室も、科学館も、田舎町も、全てが融けて灰色の虚無へと変化する。
そして、俺と観鈴だけが残された。観鈴の背中から、汚れを知らない純白の翼が広がった。俺の背には、まるで対になるかのように闇色の翼が生まれる。
「今ならまだ間に合うから、往人さんは地上に帰って」
「そんなこと……」
靄がかかったように、観鈴の姿もぼやけ始めた。掠れる視界の中、観鈴の目からこぼれる雫だけがやけにはっきりと見えた。
「わたしのことは忘れて、幸せになってほしい。往人さん――そら」
全てが消えていってしまう。観鈴も、俺自身さえも。
「俺の幸せは、お前がそばで笑ってくれることなんだっ。観鈴、俺は……!」
…………。
………。
……。
記憶がこぼれ落ちていく。
もう、たくさんのことが分からなくなってしまった。
僕はここで何をしているんだろう――瞬考えて、それから思い出す。
そう、僕は彼女を連れ戻すためにここまで来たんだ。一人きりで空の彼方にいる彼女を探し、地上へ連れ帰るために。
空の上の空気は澄んでいて、とても冷たい。僕等が暮らしていたあの町は、遙か下にあった。波が繰り返し、沖から海岸へ打ち寄せているのがここからは見える。
僕は首を戻し、また上を向いた。
僕の見つめる先は、届かない場所なのかもしれない。それでも構わなかった。
力を振り絞り、羽ばたき続ける。いつの日か、彼女を取り戻すことを信じて。
……風を切ってゆく。
……幾層もの雲を抜けてゆく。
どこまでも、どこまでも高みへ。
胸の動悸が速い。
体はもう、崩れ落ちそうで……でも全身の力を振り絞って……
その場所を目指していた……
警告音のブザーが鳴り、圧縮空気の音とともにドアが閉まる。
そして路線バスは低いエンジン音を立て、走り去っていった。
強い日差しの下、バス停に残されたのは一人の青年だった。黒いシャツを着た長身の青年は、閉じていた目を見開くと、だるそうな声で呟く。
「ど田舎だ……」
それからバス停のベンチに腰を下ろした。
「ふぅ……」
バス停の近くではひまわりが、大輪の花いっぱいに陽光を浴びていた。あちこちの木々ではセミ達が懸命に身を震わせ、合唱となって絶え間なく響き渡る。
堤防の向こうからは潮風が、寄せては返す波の音を運んできていた。
それは夏の始まりの日。偶然立ち寄った田舎町でどんな出会いが待っているのか、青年はまだ知らない。
そして、千年目の夏が幕を開ける――
Fin.