(3/3)

 太陽が西へ傾き、やがて山の向こうへ沈んでいく。夕暮れの赤から宵闇の濃紺へと空は装いを変える――それは魔の時間の始まりだった。
 結局、わたしの血をサクヤさん達に飲んでもらうことはできなかった。わたしの体調が万全じゃないから、そんなことをしてはいけないとたしなめられたからだ。
 人里離れたお屋敷の中には何もなかったけれど、幸い葛ちゃんが栄養調整食品をたくさん持っていたので、空腹はそれで癒すことができた。サクヤさんは、こんなものは食事なんかじゃないと文句を言っていたけれど。
 電気の通じていないお屋敷内でも、これもやはり葛ちゃんが持っていたランプのおかげでほのかに部屋の中は明るい。静かに燃える炎が揺らぎ、壁に映し出されたわたし達の影が揺れる。
 烏月さんは左に維斗を置き、目を閉じて正座していた。日が落ちてからは、サクヤさんも厳しい表情で周囲の気配を探っている。ノゾミちゃんは青珠の中に入ったままだ。
 わたしと葛ちゃんは二人とも戦力外だけど、葛ちゃんは緊張することもなく落ち着いた様子だ。けれどもわたしは不安で一杯だった。何しろ、場合によってはわたしにも役目が回ってくるのだから。
 焦燥感と畏れのないまぜになった時はゆっくりと過ぎていく。
 そして不意に、烏月さんが傍らの刀を掴んだ。サクヤさんも組んでいた腕を解いて立ち上がる。
「来たわ」
 ノゾミちゃんがそう言って、現身を現した。
 それと同時に、部屋の四隅に張られていた呪符がチリチリと音を立て、黒く変色し始めた。
「結界が……破られます!」
 葛ちゃんが叫ぶ。その言葉を聞いてサクヤさんが烏月さんに声をかけた。
「烏月、こっちから打って出るよ!」
「承知」
 二人は庭に面した障子に手をかけ、左右に開け放った。吹き込んだのは風か、はたまた妖気か。ランプの炎がかき消される。ちりん、と鈴の音が聞こえた。
 縁側の向こう、東の空には真円を描く大きな月が浮かんでいた。その白い光が周囲を照らし、闇の中に陰影を生み出している。
 そして、庭に幾人かの人影があった。
 そのうちの一人はミカゲちゃんだった。着物の袖で顔を半分隠し、無表情にこちらを見つめている。その瞳だけが赤く爛々と輝き、貪欲な色を覗かせていた。
 ミカゲちゃんの後ろには十人前後の男の人が立っている。いずれも生気のない顔色で、おそらく分霊のミカゲちゃんに操られる傀儡なんだろう。
 そして、ミカゲちゃんの隣にはもう一人――
「ケイ……くん?」
 それは確かにケイくんのはずだった。けれども、この禍々しい笑みはどうしたことだろう。わたしが知っている爽やかなケイくんとは全く違う印象だった。
「ちっ……。乗っ取られちまったか」
 サクヤさんが舌打ちする。その言葉でわたしは理解した。ケイくんはこの世ならざるものに取り憑かれているのだと。でも、誰に?
 次の瞬間、わたしは電撃に打たれたような衝撃と共に悟った。ケイくんの体を乗っ取っているのが何かを。そしてケイくんが本当は誰なのかを。
「白花ちゃん……」
 わたしの頬を涙が一筋伝う。
 わたしの零した呟きを聞きつけ、それが口を開いた。
「この体の持ち主は、確かに白花という名前だったな。しかし、今は分霊である私のものだ」
 そう、ケイくんはわたしの双子の兄、白花ちゃんだった。これまでは十年前の事件で白花ちゃんも殺されてしまったのだと思っていたけれど、そうじゃなかった。白花ちゃんはあのとき、憑依されて鬼となってしまったのだ。昼間サクヤさん達が教えてくれた、槐の御神木に封じられたという蛇神の分霊に。
「全ては贄の血の娘、あなたの招いたこと。父の死も、兄の受難も、あなたが元凶なのです」
 ミカゲちゃんがわたしへ告げる。
「全て……わたしの……」
 涙を流すわたしに、サクヤさんが叫んだ。
「桂、耳を貸すんじゃないよ! 何も知らない子供の悪戯で事故が起きたからって、その責任を子供に押しつける奴こそ下衆なんだ。蔵の鍵をちゃんと管理していなかった大人の方が悪いんだよ」
「でも……でもっ!」
 それでもわたしだけが安穏と生きてきて、白花ちゃんがずっと苦しんできたことへの言い訳にはならない。首を振ってサクヤさんの慰めを拒絶するわたしに、烏月さんが静かに言った。
「桂さん、泣くのは後でいい。今のあなたにはやるべきことがあるはずだ」
 わたしはその言葉に、はっと我に返った。ともすれば冷たくすら聞こえるその言葉は、烏月さん自身を体現するものだったからだ。辛いこと、悲しいことを全て胸の内に飲み込んで、烏月さんは自らに課された使命を果たしてきたのだろう。そんな烏月さんを前にして、自己憐憫で役目を放棄する訳にはいかなかった。
 わたしは涙を腕で拭い、烏月さんに頷き返した。
「……烏月さんの言う通りだね。白花ちゃんに謝るのは、白花ちゃんを取り戻してからじゃなきゃ」
「強いな、桂さんは」
「そんなことないよ。烏月さんのおかげだもん」
 わたしは無理矢理に笑顔を作って、烏月さんに向ける。
 主の分霊はそんなわたし達を見て、侮蔑の台詞を吐いた。
「滑稽劇はそれで終わりか? ならば、そろそろこちらの相手をしてもらおうか」
 白花ちゃんの姿で、白花ちゃんが決して浮かべない邪悪な表情を浮かべる主の分霊。神と称される存在には、人の苦しみなど分からないのかもしれない。
「桂、例の奴は任せたよ」
 サクヤさんは分霊を見据えたまま、小声でわたしに聞こえるよう呟いた。向こうの手勢が思っていたよりも多いため、その役目はわたしが果たさないといけない。
「主、あんたの相手はこのあたしだっ!」
 叫び、サクヤさんは主の分霊へと飛びかかった。
 そして烏月さんもタイミングを同じくして維斗を鞘から抜き払い、ミカゲちゃんへ向かって突進した。けれども傀儡達が、ミカゲちゃんを守るようにその行く手を阻んだ。
「桂おねーさん、今のうちに……」
 葛ちゃんが水筒を取り出してわたしを促した。
「う、うん」
 頷き、わたしも後ろに隠していた水晶の盆を手に持つ。盆と言ってもお茶碗を載せて運んだりするものじゃなく、平たい小さめの水鉢のようなものだった。サクヤさんがお蔵の中を探して、見つけてくれたものだ。
 水晶の盆を月光が当たる場所まで移動させると、葛ちゃんが水筒からそこに水を注ぐ。
 だけど、わたしには一つ懸念があった。
「ノゾミちゃん、良月が見あたらないよ? もしかして、持ってきてないのかな」
 そう、肝心の良月がなければ予定が駄目になってしまう。
「そんなはずはないわ。傀儡を操るために必要なのだもの、近くにあるはずよ」
 ノゾミちゃんが断言する。けれども、辺りに見あたらなければ実行することができない。もしかして、警戒されてしまったのだろうか。
「……なにを企んでおいでなのです?」
 すっと闇が濃くなり、小柄な少女の姿が縁側に現れた。分霊のミカゲちゃんだ。もはや部屋を守っていた呪符は焼け落ち、結界の役を果たしていない。烏月さんは傀儡相手に手こずっていて、こちらに来ることはできないようだった。
「さあ、どうかしら。仮に何かを企んでいたとしても、分霊、あなたにそれを話すはずはないでしょう?」
 ノゾミちゃんがわたしと葛ちゃんを守るようにその間へ割って入る。そして葛ちゃんの背後から尾花ちゃんが飛び出し、その隣に着地した。
「その狐は……役小角が従えていた鬼神?」
 尾花ちゃんを見て、ミカゲちゃんは一歩退く。その言葉に驚いてわたしが葛ちゃんを見ると、葛ちゃんもびっくりした表情で手をぱたぱたと顔の前で振った。葛ちゃんも知らなかったらしい。
 しかし、ミカゲちゃんはすぐに気を取り直したようだった。
「どうやら、封じは解かれていないようですね。ならば、恐るるに足りません」
 ミカゲちゃんが左手を伸ばすと、その手のひらの上に赤い光が宿った。光はミカゲちゃんの手から浮かび上がると、ゆっくりと尾を引きながら宙を漂う。そして、その軌跡が急速に実体化したかと思うと――。
「……っ!」
 声にならない悲鳴を上げて、わたしと葛ちゃんは座ったまま後ずさりした。
 それは血のように赤い鱗を持つ大蛇だった。その金色の目は、人間とは異質の感情を込めてわたし達を見下ろしている。ちろちろと、長い舌が見え隠れした。
 射竦められ、動けないでいるわたしと葛ちゃん。そのとき、尾花ちゃんが畳を蹴って蛇に襲いかかった。とぐろを巻く大蛇の胴を踏み台に飛び上がり、その鎌首に噛みつこうとする。
 けれども、蛇の鱗にはまるで歯が立たなかったようだ。目的を果たせず、尾花ちゃんはまた畳の上に着地した。
 蛇の鱗には傷一つ付いてはいない。それでも、尾花ちゃんの攻撃は赤い蛇を怒らせたようだった。シャーッという威嚇音を発して、大蛇は尾花ちゃんに向かって巨大な口を開いた。
「桂、若杉の娘、下がりなさい!」
 ノゾミちゃんが尾花ちゃんを助けるためにこちらへ来ようとする。だけど、それをミカゲちゃんは許さなかった。
「姉さまの相手は私です。お忘れなきよう」
 ミカゲちゃんの右手から、ノゾミちゃんに向けて赤い光が一直線に伸びる。ノゾミちゃんはそれを受けようと手のひらを前にかざしたけれど、赤い光はその手首に絡みつき、ノゾミちゃんを捕らえてしまった。
「くっ……」
「この期に及んで、その程度の力。姉さまは贄の血を飲まれなかったわけですか。やはり、贄の血の娘に絆されたのですね」
 ミカゲちゃんはノゾミちゃんの状態を見抜いたようだった。ノゾミちゃんが得たのは、青珠にわずかに残っていた《力》だけだ。
「……今更あなたと『赤い糸』で結ばれるとは、ぞっとしないわね」
 絡め取られながらも、ノゾミちゃんはミカゲちゃんに軽口で応酬する。
「いかに余裕を見せようとも、姉さまに勝ち目などありません」
 ミカゲちゃんは相手にしない。
 戦況はかなりわたし達に不利だった。尾花ちゃんは、さっきミカゲちゃんが言った通り力を封じられているのか、大蛇に対して有効打がない。主の分霊と戦うサクヤさんはすでに少なくない数の傷を負っている。
 唯一、烏月さんは傀儡と互角以上の戦いをしているけれど、十対一という数の差に手こずらされているようだった。
 そして事態を好転させるかもしれない切り札は、未だその対象を見つけられないまま、わたしの手の中にある。
 わたしが固唾を呑んでいると、小さな狐など一呑みにしそうなぐらい大きく顎を開き、大蛇が尾花ちゃんに襲いかかった。尾花ちゃんはその牙をぎりぎりのところで躱し、逆に動きの止まった蛇の頭に向かって前足を振る。その瞼のない目を、尾花ちゃんの爪が切り裂いた。
 たまらず、赤い大蛇が仰け反る。その右目は明らかに光を失っていた。いかに霊的な存在であろうとも、尾花ちゃんの攻撃は随分とこたえたようだった。
「やった……」
 尾花ちゃんの動作は止まらず、更に追い打ちをかけようと左目を狙う。しかし、その動作こそが尾花ちゃんの命取りになった。
 思ってもみなかった方向から、赤い蛇の尾が横殴りに尾花ちゃんの体を打ちのめした。尾花ちゃんが弾き飛ばされ、部屋の壁に叩きつけられる。
「尾花ちゃん!」
「尾花っ!」
 わたしと葛ちゃんが名前を呼んでも、尾花ちゃんは反応しない。気絶してしまったのか、それとも……。
 そして緋色の大蛇は、わたし達の方へ鎌首をもたげた。右目はおそらく働きを失っているようだったけれど、そもそも蛇はあまり目が良くないと聞いたことがある。蛇が頼りにしているのは嗅覚なのだそうだ。あの出し入れしている舌も使って、周りの匂いを嗅ぎ分けているらしい。この近さでは誤魔化すこともできないだろう。
 わたしは震えて縮こまろうとする体を無理に動かし、右手を横に伸ばして葛ちゃんを庇った。この子だけはなんとしても守らなくては。
「桂おねーさん……」
 蛇はゆっくりとわたしの方へ近づいてくると、口をあんぐりと開いた。その口内に大きな牙が、濡れて光を反射している。男の人の腕ほどもある太さの蛇が、まるで鞭のようにしなってわたしに飛びかかってきた。わたしは思わず目を瞑ってしまった。
「桂ちゃん!」
 柔らかい中にも芯の強さを感じさせる声が聞こえた。わたしが再び目を開くと、目の前には青い着物を纏った女性の後ろ姿があった。その体はほのかに燐光を放っている。
「柚明お姉ちゃんっ。無事だったの?」
「ええ、大丈夫よ。桂ちゃんこそ怪我はない?」
「うん。今のところは」
「そう。よかった」
 それから柚明お姉ちゃんは大蛇の方へ意識を向けると、
「……桂ちゃんを傷付けようとした罪、償ってもらうわ」
 蛇に向かって言い放った。
 まっすぐ前に向けられた腕の先に次々と白く光る蝶が生まれ、ひらひらと舞い飛んで大蛇へと向かう。蝶は蛇の体に触れると、光を放って消滅し、そのたびに大蛇は苦しそうに身をくねらせた。
 そしてついに、柚明お姉ちゃんの攻撃に耐えきれなくなった蛇はその輪郭を失って元の赤光へと還り、消滅していった。
「尾花!」
 ようやく蛇の脅威から解放された葛ちゃんは、壁の下に力なく横たわっている尾花ちゃんへと駆け寄った。怪我が酷くなければいいんだけれど。
「ハシラの継ぎ手、性懲りもなくまた邪魔をしに現れたのですか。しかし、蛇を倒したぐらいでいい気になられても困ります」
 ミカゲちゃんが冷ややかな声を柚明お姉ちゃんに向けた。そしてまた、右手から光を生み出す。
「くっ……」
 再び赤い鱗をした大蛇が現身を得た。いくら柚明お姉ちゃんでも、こう立て続けでは《力》の消耗が大きすぎる。
 ミカゲちゃんに絡め取られたノゾミちゃんは、攻撃を受けたのか姿が薄らいでいるようだった。それとは対照的に、ミカゲちゃんは一向に疲れを見せる気配もない。それでもミカゲちゃんが大きな攻撃を仕掛けないのは、ノゾミちゃんをいたぶっているからなのだろう。外見はノゾミちゃんにそっくりでも、この子は確かに蛇神の魂を受け継いだ存在だと感じさせられる。
 外に出ている烏月さんとサクヤさんも膠着状態のようだった。特にサクヤさんは肩で息をし、限界が近づいていることを伺わせた。白花ちゃんの体を乗っ取った主の分霊は、未だに余裕のある邪悪な笑みを浮かべたままだ。
 どうすればいいのだろう。目を落としたわたしは、そこで不意に奇妙なことに気付いた。
 わたしの手にした水晶の盆は、丁度水の中央にまん丸の月を浮かべている。けれどもその縁に、月光とは明らかに違う方向からの光が反射していたのだった。庭の右手からのようだけれど、もちろんその方向に光源となるものは存在しない。
 不審に思ったわたしは、その直後にひらめいた。それこそ、わたしが探していたものに違いないのだと。わたしは立ち上がると、そちらに向かって走り出した。
 縁側から飛び降りたところで、背後から「どこへ行くつもりなのです、贄の血の娘」という声がかけられた。だけど、そこには確かに焦りのようなものが感じられる。だとしたら、きっと間違いない。
 烏月さんが傀儡達と戦っている隣をすり抜け、わたしは光の放たれる方角に向けて走り――
 パリンと、何かが砕けたような音がして、突如テレポーテーションしてきたかのように、わたしの前に一人の人影が姿を現した。
「……!?」
 烏月さんの驚きの吐息が聞こえた。
 そこにいたのは、手に良月を携えたもう一人の傀儡だった。そう、ミカゲちゃんはノゾミちゃんと同じく鏡に宿った鬼。幻影を操ることを得意としている。そこにいるはずの人間の姿を見えなくしてしまうことだって、彼女には造作もないことだろう。けれどもその力は、良月の反射した月光が水晶に映るところまでは及ばなかったようだった。
「よくもっ!」
 ミカゲちゃんがわたしに追いすがろうと近づいてくるのが感じられる。でも、もう遅い。
 わたしはポケットから筆を取り出しながら、葛ちゃんが昼間教えてくれたことを思い起こしていた。
『桂おねーさんはご存じですか? 雲外鏡にまつわる伝説のことを』
 鬼切り頭の後継者と目されているせいなのか、葛ちゃんはとても物知りだった。
『八月の十五夜の晩、月明かりの中で水晶の盆に水を汲み、その水で雲外鏡の表面に怪物の姿を描く。すると、その怪物が鏡の中に棲み付くと言われているのですよ』
 わたしは筆を盆の水に浸す。お祖母ちゃんが愛用していたという筆だ。
『残念ながら八月というのは旧暦でのことですが、それ以外の条件は全て揃えられます。おそらく上手くいくでしょう。なにしろ、当の雲外鏡がこちらの味方なのですから』
 そして傀儡の前に立ち、筆を良月の鏡面に走らせる。傀儡は動かず、じっとしたままだ。もしかしたら、良月が反射する月光がわたしに向けられていたのも、こうして傀儡が動かないのも、良月のミカゲちゃんがそこに干渉していたからなのかもしれない。
 わたしが描き終えて筆を離すのと、ミカゲちゃんがわたしの腕を引いたのはほぼ同時だった。
「贄の血の娘、何を……ひっ!」
 言いかけたミカゲちゃんの表情が途中で変化し、恐怖に彩られる。わたしを突き飛ばし、ミカゲちゃんは後ろに飛び退こうとした。
 そしてわたしは見た。ミカゲちゃんが、飛び退いた方とその場に残った方の二人に分裂したところを。
 突き飛ばされた勢いで倒れ込むわたしを、誰かが後ろから支えてくれた。それは傀儡を蹴散らしてわたしのところへ来てくれた烏月さんだった。烏月さんはわたしを左腕で抱えたまま、右手に持った維斗を飛び退いた方のミカゲちゃん――分霊へと向ける。
「はッ!」
 美しい刃文を浮かべた破邪の刀が、良月から逃げ出そうとする分霊のミカゲちゃんを捉え、連撃がその霊体を幾度も切り裂いた。ミカゲちゃんは一瞬目を見開き、そしてその体が霧散する。
 千年もの長きに渡ってノゾミちゃんを操ってきた妖が今、闇へと還ったのだ。
 良月を抱えたままの一人を除いて、烏月さんと対峙してきた傀儡が、文字通り糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。同時に、柚明お姉ちゃんと戦っていた赤い大蛇もまた、夜の空気の中へ溶けていった。
 そして残ったのは、良月自身の現身であるミカゲちゃんだった。
「ミカゲッ!」
 呪縛の解けたノゾミちゃんが部屋から飛び出してくる。
「姉さま!」
 名前を呼ばれたミカゲちゃんも走り出し、近寄ってきたノゾミちゃんに抱きついた。
「姉さま、姉さまっ」
 肩に顔を埋めて自分を呼ぶミカゲちゃんに、ノゾミちゃんは一瞬戸惑いを浮かべ、それから穏やかな表情でささやいた。
「本当にあなたは……私がいないと駄目なのだから」
 ノゾミちゃんは優しく、自分に縋って泣くミカゲちゃんの頭をそっと撫でた。実際は姉妹ではないかもしれないけれど、そんなことは関係ない。そこにあったのは、仲の良い双子の姉妹の姿だった。
 だけど、事態はまだ終わりを告げてはいなかった。
「ぐっ――!」
 主の分霊と戦っていたサクヤさんが、その一撃を胴に食らい、跳ね飛ばされた。サクヤさんの体はほとんど放物線を描かず、立ち木の幹に叩きつけられる。ズン、という音と共に枝が揺れ、無数の木の葉が散った。
「かはっ……」
 サクヤさんが口から血を吐き、がくりとうなだれた。
「サクヤさん!」
 慌てて駆け寄ろうとするわたしを、柚明お姉ちゃんの声が制止する。
「桂ちゃん、サクヤさんのことはわたしに任せて」
 柚明お姉ちゃんはサクヤさんの方へ近づき、手をその上にかざした。
「桂さん、ここは危険だ。あなたは屋敷の中へ」
 わたしの肩をそっと押して、烏月さんがそう促した。
「でも……」
「サクヤさんは強い人だ。そう簡単に倒れはしない。そして私には、奴が昨日授けてくれた技がある」
 烏月さんの言う『奴』というのは、白花ちゃんのことだろうか。
「……うん」
 わたしは不承不承ながらも頷き、部屋の中へと戻る。尾花ちゃんをその腕に抱えた葛ちゃんがわたしのそばにやってきた。
「大丈夫ですよ、桂おねーさん。あのユメイさんという方は癒しの力を持っているようですから。尾花もほら、この通り」
 尾花ちゃんは意識を取り戻し、大人しく葛ちゃんの腕に抱かれている。サクヤさんのことは心配だけど、今は柚明お姉ちゃんにお任せするしかない。
 庭の方へ向き直ると、丁度烏月さんが主の分霊の前に立ったところだった。分霊は腕を組み、余裕の表情で烏月さんを見ている。さすがに神を名乗る者の魂を分け与えられただけあって、その姿は堂々と揺るぎない。
「鬼切部千羽党が鬼切り役、千羽烏月が千羽妙見流にてお相手いたす」
 烏月さんは凛とした声で名乗りを上げた。
「ほう……」
 分霊は腕を解き、両手をだらりと左右に広げた。その目は妖しく赤い光を放ち、烏月さんを睥睨している。
 烏月さんは右手に提げていた維斗を正眼に構え、そして言った。
「参る!」
 地を蹴り、烏月さんが分霊に迫る。維斗の切っ先が分霊に向かって振り下ろされた。分霊は恐れる様子もなくそれを右腕で受ける。
 金属音のような音が響き、烏月さんは一旦後ろへ飛び退った。そして間髪を置かず再び分霊へと迫り、今度は右からの斬撃を見舞う。
 この攻撃も分霊はなんなく防ぎ、そして更に踏み込む。振り上げられたその拳が、烏月さんのお腹へと突き込まれた。
(烏月さん……!)
 叫びたいのをこらえ、わたしは両手を胸の前で握り締めて祈った。烏月さんは必ず分霊に勝てる。わたしが信じた人だから。
 烏月さんは後ろに突き飛ばされたものの、そのまま両足で着地する。多分、自分から後ろへ飛んで威力を相殺したのだろう。それでもノーダメージとはいかなかったのか、その表情はやや苦しげだ。
 けれども烏月さんは攻撃の手を緩めず、脇構えの姿勢でまた分霊へと迫った。繰り出される刃の動きを予測して、分霊は腕を上に振り上げる。
 しかし、その軌道が宙で向きを変えた。
「何っ!」
 上段から中段の攻撃へと、まるで北斗七星の形を模すかのように変化したその刃を追うことができず、分霊の腕は空振りする。そして、その胴に維斗が叩き込まれた。
「あれが……文曲……」
 葛ちゃんがわたしの隣で呟くのが聞こえた。
 分霊の着ていたシャツが切り裂かれる。けれども、その体には傷を負わせることはできなかったようだ。
 それでも一瞬、分霊の動きが止まった。烏月さんは間合いを取り、叫んだ。
「オン・マカ・シリエイ・ジリベイ・ソワカ!」
 維斗を右肩に担ぎ上げ、独特の構えを取る。
「千羽妙見流――」
 そして烏月さんは必殺の斬撃を繰り出した。
「――『鬼切り』!」
 切っ先は分霊の体には届いていない。それでも、その一撃は分霊を仰け反らせた。驚きに目を見張った分霊は、一瞬だけ満足そうな笑みを浮かべ、後ろに倒れていった。
 もしかしたら、主は寂しかったんだろうか。自分と対等な存在を欲していたんだろうか。真相は分からない。分からないまま終わってしまったことが、少し残念に思えた。甘いかもしれないけれど。
 構えを解かずに倒れた分霊を睨んでいた烏月さんは、分霊に再び起きあがる気配のないことを知ると、刀を降ろした。大きく息を吐き、そして膝を突く。
「烏月さんっ!」
 わたしと葛ちゃんは部屋から飛び出し、烏月さんのところへ走った。
「ああ、桂さん。問題ない、少し疲れただけだ。あなたの兄もおそらく、そのうちに目を覚ますだろう」
 烏月さんはそう言うと、また立ち上がった。
「主の分霊を倒しちまうとは、やるねえ烏月。見直したよ」
 柚明お姉ちゃんとその肩に支えられたサクヤさん、ノゾミちゃん、そして鏡を抱えたミカゲちゃんもこちらに集まってきた。
「サクヤさん、大丈夫?」
「ああ。ちょいと内臓とアバラをやられちまったが、柚明のおかげで助かったよ」
 わたしの問いかけに頷いて、サクヤさんはそう答えた。
「それはそうと、葛の考えた作戦は上手いこと図に乗ったねえ。どれ……」
 ミカゲちゃんの抱える鏡を覗き込んだサクヤさんは、途端に吹き出した。
「サクヤさん。まだ怪我が完全に癒えたわけではないんですから、そんなに笑ったら体に障ります」
 柚明お姉ちゃんがたしなめるものの、サクヤさんは痛がりながらも笑いの発作を止められないらしい。
「だ、だってさ……。あははははっ」
「そんなにおかしいかな?」
 少しばかり傷付いたわたしは烏月さんに尋ねる。
「いや。桂さんらしい、可愛らしい姿だと思う」
 と、烏月さん。でも、『可愛い』んじゃ駄目なのではないだろうか。まあ、少なくとも役目は果たせたんだから問題ないけど。
 良月の鏡面の奥には、わたしの描いたなめくじのお化けが息づいていた。確かにこうして見ると、怖いというより愛嬌があるかもしれない。とっさのことだったし、わたしにはそんなに絵心もないから仕方がないと思う。
 相克――それが分霊を良月から追い出すために葛ちゃんが思いついたものだった。蛇は蛙に勝ち、蛙はなめくじに勝ち、そしてなめくじは蛇に勝つ。じゃんけんのようなその関係を利用し、『蛇』の属性を持つ分霊のミカゲちゃんがなめくじを嫌悪するだろうと見越したのだ。そして目論見通り、その作戦は成功した。
 サクヤさんはようやく笑いを収めると、お腹をさすりながらミカゲちゃんに聞いた。
「そのなめくじのお化け、ずっとそのままなのかい?」
「いえ。いつでも消すことができます。もうご用はお済みでしょうか?」
 答えるミカゲちゃん。分霊とは違って、良月のミカゲちゃんはとても素直な子のようだ。
「ああ。消しといておくれ」
 サクヤさんの言葉に従い、ミカゲちゃんは良月の表面に手を当てた。わたしの絵から生み出されたお化けが、すっとその姿を消す。
「さてと。これで分霊の件は二つとも片付いた訳だけど……」
 サクヤさんがそう言うと、ノゾミちゃんは烏月さんの前に進み出た。
「鬼切り役。約束通り私の魂を差し出すわ」
「姉さまっ!」
 駆け寄ろうとするミカゲちゃんを、ノゾミちゃんは叱責する。
「来ては駄目よ、ミカゲ。これは事を始めるに当たって、私がこの鬼切り役と交わした約束なのだから」
「ですが……」
「その『ですが』はおやめなさい。まったく」
 分霊のミカゲちゃんにその言葉で反抗されたのを思い出したのか、ノゾミちゃんは小さくため息をついた。
 けれども、ミカゲちゃんは姉の言葉に従わず、ノゾミちゃんの隣に立った。
「姉さまをお切りになるというのなら、私も同様になさってください。私もまた、人ではない妖なのですから。もとより、姉さまのいない世界になど未練はありません」
 気弱そうなミカゲちゃんが、烏月さんに向かってはっきりと意志を示した。
「ミカゲ……」
 ノゾミちゃんが、そんなミカゲちゃんの行動に驚いていた。
 烏月さんはそれには応えず、維斗の刃を体の正面に掲げる。ノゾミちゃんの肩がぴくりと揺れたけれど、ノゾミちゃんはあくまで胸を張り、目を烏月さんに見据えていた。
 烏月さんは懐から白い紙を取り出すと、刀身をそれで拭った。そして踵を返し、縁側に放置されていた鞘を拾って、そこに刃を収めた。
「鬼切り役?」
 ノゾミちゃんが烏月さんの行動を図りかねて問うと、烏月さんは答える代わりに話し始めた。
「私は幼少の頃より、鬼は全て討つべしと教えられて育った。いかなる理由があろうとも、人に仇なす妖を許してはならないと。それが千羽の道だった。
 だから桂さん、あなたのお母様である千羽真弓、そして私の兄である明良は、鬼に手を貸す痴れ者として一族の者から侮蔑の対象となっていた。鬼を切るはずの鬼切り役が、二代続けて不祥事を起こしたことを危惧し、そのような愚かなことをせぬよう彼らは私に強く言い含めた」
 烏月さんは顔を上げた。そこには清々しい、吹っ切れたような穏やかな表情が浮かんでいる。
「しかし、今の私には分かる。鬼を切るより、鬼を鬼でなくすことの方がずっと難しく、そして大切なのだと。二人は本当に強かったからこそ、それを選んだのだと分かる。
 私は未熟者だが、桂さん達に助けられてそれを知ることができた」
「烏月さん……それじゃあ」
 烏月さんは首肯し、ノゾミちゃんとミカゲちゃんに視線を向けた。
「お前達が以後決して人を殺めないと誓うのなら、私もお前達を切らずにおこう。無論、そのままという訳にはいかない。ある程度の封印は施させてもらうことになるだろうが」
 ノゾミちゃんはその提案に同意する。
「ええ。私自身の魂にかけて、人を殺めないと誓うわ。私は元の体を捨てて魂を鏡に移し替えた身。だからこそ言霊は人間よりも強く私を縛るのよ。私が約束を違えることはないわ」
 烏月さんはノゾミちゃんの言葉に頷いた。
「私も誓います――決して人を殺めないと。姉さまのおそばにいられるのなら、私にはそれ以上のものは要りません」
 続いてミカゲちゃんもそう宣言した。
「やれやれ。これにて一件落着、だね。一時はどうなることかと思ったけど」
 サクヤさんがホッとしたようにそう結んだ。
「うん。良かった……」
 わたしもサクヤさんの言葉に頷く。
 夜空を見上げると、丸い月が柔らかい月光をあまねく世界に降り注いでいた。まるで全ての存在を慈しむかのように。

 そして、一時間ほど後――
 わたし達は全員で、槐の御神木の下にやって来ていた。
「本当にいいのかい、白花?」
 サクヤさんが念を押すように白花ちゃんに尋ねる。けれども白花ちゃんの意志はあくまで固かった。
「サクヤさん、僕はもう決めたんですよ。真相はどうあれ、僕が人を手にかけたという事実は決して消えない。それならいっそ、主に一矢報いたいですからね。当初の目的でもあった、ゆーねぇを救うことにも繋がりますし」
「白花ちゃん……ありがとう」
 柚明お姉ちゃんが白花ちゃんの手を取り、感謝の念を伝える。
「いいんですよ。僕らにとって、ゆーねぇは姉以上の存在なんだから」
 爽やかな表情でそう言う白花ちゃんの頭をサクヤさんが抱え、髪をもしゃもしゃと掻き乱した。
「かーっ。まったく、いい男に育ったもんだねぇ。あんたの両親も草葉の陰できっと喜んでいるだろうよ」
「ちょっ……やめてくださいよ。僕はもう子供じゃないんです」
 そう言いながらも、白花ちゃんはどこか嬉しそうだった。そんな身内同士のふれあいを失って、もう十年にもなるんだから。
「白花ちゃん……」
 わたしが白花ちゃんの前に来ると、サクヤさんがその頭を解放した。白花ちゃんは乱れた髪を手で撫で付け、わたしに笑顔を見せた。
「桂、あんまり思い詰めないで。僕にとって、これは辛い役目なんかじゃないんだ。主に仕返しする、唯一で最高の方法だからね」
 そう、白花ちゃんは柚明お姉ちゃんの代わりとして、オハシラサマの役目を受け継ぐことに決めたのだ。サクヤさんも柚明お姉ちゃんも始めは反対したけど、白花ちゃんの意志は変わらなかった。
「でも――」
 言い募ろうとするわたしに、白花ちゃんはかぶりを振った。そして続ける。
「小さい頃、僕らはどこへ行くにも一緒だったよね。いつも二人セットで、離ればなれになることなんて考えられなかった」
「……うん」
「これから僕らは異なる時間を生きることになる。多分、二度と会うことはないと思う。それでも、僕ら二人はいつも一緒だ。だって僕と桂はお互いに、世界でたった一人だけの魂を分け合った存在なんだから。
 辛いかもしれないけど、笑顔で見送ってくれると嬉しいな」
「……うん、うんっ」
 涙声になりながらも、わたしは白花ちゃんの言葉に頷いた。
 白花ちゃんは優しく微笑むと、槐のそばに近づいた。その太い幹を抱き、念を込める。
 白花ちゃんの体が、白く柔らかい光に包まれた。槐の中に封じられた主の魂を還すために、白花ちゃんは人としての形を捨てて、そこに同化を始める。
「大好きな白花ちゃんのこと、いつまでも忘れないからっ」
 わたしは消えていく白花ちゃんに向かって叫んだ。
 ――僕もだよ、桂。
 こうして代替わりは終わった。白花ちゃんの代わりに、柚明お姉ちゃんを再び人の世に連れ戻して。

 ピンポーン。
 ドアのチャイムが鳴る。
「あ、わたしが行くね」
「ええ。桂ちゃん、お願い」
 柚明お姉ちゃんは天ぷらを揚げている最中だったから、手が離せない。わたしは布巾で濡れた手を拭うと、玄関に向かった。
 ドアを開けると、そこには予想通りの顔があった。
「いらっしゃい、烏月さん」
「やあ、桂さん。久しぶりだね」
「うん。久しぶり。さあ、上がって上がって」
 黒いジャケットを着た烏月さんは、靴を脱いで部屋へと上がった。
「丁度今、柚明お姉ちゃんが天ぷらを揚げてるところだから、せひ食べてって」
「それは嬉しいね。柚明さんの料理の腕は素晴らしいから。是非ご相伴にあずからせてもらうよ」
 そんな風に言葉を交わしながら烏月さんを居間へお通しすると、そこにはノゾミちゃん達二人がテレビを見ていた。ミカゲちゃんはきちんと正座をしながら、そしてノゾミちゃんはうつぶせで足をパタパタさせ、ポテトチップスを摘みながら。
「もうっ、ノゾミちゃん。またそんな格好で、お行儀悪いよ。ノゾミちゃんの着物はただでさえ裾が短いんだし」
「あら。見たいの、桂?」
 面白がって裾を少し上に引っ張るノゾミちゃん。
「そうじゃなくって! お客さんが来てるんだから、あんまりだらしない格好は駄目」
 ノゾミちゃんは身を起こして烏月さんを見ると、ニヤッと笑った。
「また来たのね、烏月。よくもまあ、頻繁に人様の家を訪ねること」
「私にはお前達を監視するという役目がある」
「役目と言うより、口実ではないのかしら?」
 この二人は寄ると触ると喧嘩ばかりだった。もっとも、本当に切った張ったの大事になることはないけど。
「それよりも、そのように姿を現したままというのは感心しない。もしも客が私でなかったらどうする?」
「私を見くびらないことね。玄関を入った時点で、客が誰なのかぐらいは分かるもの。あなたが施した封印のせいで私はこの家を出られないのだから、多少は大目に見てもらわなくては。日がな一日部屋に閉じこめられるのはとても退屈なのよ」
 良月は今、ケースに収められてタンスの上に鎮座している。それは烏月さんの呪符で封印されているために、二人はこのアパートの一室から出ることはできず、術を行使することも封じられているのだった。
「姉さまは、私と共にいるのが退屈なのですか……?」
 と、ノゾミちゃんの言葉に反応して、ミカゲちゃんが目を潤ませる。
「べ、別にそんなことは言ってないでしょう。テレビも見られるし、不満なわけではないわ」
 ノゾミちゃんはうろたえ気味にそう答えた。
「そうですか」
 ミカゲちゃんの表情が、にぱっと明るくなる。
「うっ……」
 それを見て、ノゾミちゃんは少し顔を赤らめた。
 相変わらずノゾミちゃんはミカゲちゃんに主導権を握られている。けれども、そこには以前のような悪意はない。だから心配の必要はなかった。
「烏月さん、いらっしゃい」
 柚明お姉ちゃんが、揚げたての天ぷらをお盆に載せて運んできた。
「柚明さん、お邪魔しております」
「ええ。ゆっくりしていってくださいね」
 わたしは立ち上がって言った。
「わたしもお料理運ぶの手伝うね」
「ありがとう、桂ちゃん。落とさないように気を付けてね」
「うん、大丈夫」
 わたしは居間を出て台所に向かった。
 それはとても楽しく幸せな日常だった。幸せすぎて、少し切なくなってしまうほどに。
 贄の血を持つわたしだけど、わたし自身にはなんの力もない。だから、わたしにできるのはこうして幸せな日々を育むことだけだ。
「白花ちゃん。わたし、幸せだよ」
 呟いて、それから涙の浮かんだ目尻を拭う。わたしが泣いていたら、みんながわたしを気遣ってしまうだろうから。わたしは笑顔を取り戻すと、お皿を持って居間へと戻った。
「お刺身、持ってきたよ……って、わっ」
「危ない、桂さん!」
「あ、ありがとう」
「桂ちゃん、怪我はない?」
「うん。烏月さんのおかげでお刺身も無事」
「まったく、どこが大丈夫なんだか」
「姉さま、私達も手伝いましょう」
「そうね。桂に任せていると料理は全て畳が平らげることになりそうだし」
「ううっ。面目ない……」
 そんな感じで羽藤家の夜は賑やかに更けていく。笑顔の絶えないまま。

Fin.

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