「……さてと。汐、ハンカチ持ったか?」
「うん」
「ティッシュは?」
「えっと……はいってる」
明くる週の朝、俺は汐の支度を手伝っていた。
いよいよ今日から、汐は幼稚園に通うことができる。久しぶりに友達に会えるのが嬉しいようで、起きてからずっと汐は笑顔だった。
「……風子の支度も終わりました」
カーテンが開かれて、外出着に着替えた風子が姿を現す。
「よし、全員準備OKだな。それじゃあ出発するか」
「おーっ」
俺の呼びかけに、二人が声を合わせた。
部屋を出てから鍵をかけ、俺達は仲良く手を繋いで幼稚園に向かった。吐息が寒さによって白い湯気となる中、行き違うご近所の人達に挨拶しながら歩いていく。
「汐ちゃん、寒くないですか?」
「だいじょうぶ」
風子が気遣うと、汐が元気よく答えた。
「そうですか。でも、ちゃんとあったかい格好をしていなくては駄目ですから。せっかく良くなったのに、風邪を引いてはもったいないです」
「うん、わかった」
風子はよく汐の面倒を見てくれている。汐もすっかり懐いていて、端から見ると仲の良い親子に見えなくもない――実年齢はともかく、外見上は少々無理があるものの。
そこで、風子が俺の方に視線を移して尋ねてきた。
「岡崎さんは、これからお仕事なんですよね?」
「ああ。また芳野さんと一緒に働けるのが嬉しいよ。少しブランクがあるから足手まといにならないように気をつけなきゃな」
「ユウスケさんも喜ぶと思います。岡崎さんのこと、ずっと心配してましたから」
そう言って笑う風子。普通にしていると、こいつはかなり可愛い部類に入ると思う。
「お前って芳野さんの義理の妹になるんだよな」
「そうですけど、それがどうかしましたか?」
きょとんと、風子が首を傾げる。
「いや、ちょっとうらやましいと思ってさ。俺って一人っ子だから、兄弟に憧れてて。春原にも、あんないい妹がいるしさ」
「風子、良く分かりません」
姉のいる風子には今ひとつピンと来ないのだろう。
「ちょっと試しに、俺のこと『おにいちゃん』って呼んでみてくれないか?」
「いいですけど……。えっと、おにいちゃん?」
「……」
俺は鼻を押さえて空を仰ぎ見、首筋の後ろをトントンと叩いた。
「パパ、どうしたの?」
下から汐の声が聞こえる。
「う……ちょっと鼻血が……」
「岡崎さん、鼻血なんて出てないです」
風子に突っ込まれた。
「いや、今のはそのぐらいヤバかったってことだ」
「風子、ちっともヤバくなんかありませんっ。どちらかと言うと普通ですっ」
何やら俺の答えがお気に召さないらしい風子の鼻先に、指を突きつける。
「そんなことないぞ。お前、今のはちょっと反則気味に可愛かったからな。鼻血のひとつやふたつ吹き出しても不思議じゃない」
「……!」
風子の頬が、ボッと火を噴くように真っ赤になった。
「し、信じられませんっ。岡崎さんは凄くヘンな人ですっ。プチ最悪です!」
一気にまくしたてられた。
しかし、自分にそんな嗜好があるとは全く知らなかった。日々新しい発見があるものだなあと俺は感心する――と言うほど立派なものじゃないけど。
「大体、風子は岡崎さんと同い年ですっ。血も繋がってないですから、風子が妹というのはおかしいと思いますっ」
「いや、そりゃそうだけどさ」
「だから、今度は風子が『おねぇちゃん』と呼んでもらう番です」
風子が変な理屈を振りかざしてきた。
「……ちょっと待て」
「待ちません。風子に言わせておいて、自分は言わないというのは卑怯だと思いますっ」
「うっ……」
正論だった。
ただ、外見上はどう考えても俺の方が年上なわけで、とてつもなく変なんじゃないだろうか。
そう思えども、風子の期待に満ちた視線に逆らうことはできず、俺は仕方なしに折れた。
「分かった。えーっと、こほん……おねぇちゃん?」
風子は口元を押さえて俯いた。笑っているのだろうか。
「な、なんだよ……」
が、俺の想像は外れていた。口元を手で覆ったまま、風子はちょっと潤んだ目で俺を見上げて言った。
「風子、鼻血が出そうです」
「お前も属性持ちかよっ」
馬鹿二人。
「……パパとふーこさん、すごくなかよし」
汐がそうコメントして、ニコニコ笑っている。よく考えてみると、馬鹿と言うよりバカップルに近かったような気がしないでもない。
ふと気付くと、擦れ違う人々まで笑顔だった。今さらながらに天下の往来で交わしていたアホ談義が無性に恥ずかしくなってきたけれど、既に手遅れだ。
そうこうしているうちに、俺達は幼稚園の前まで辿り着いた。その正門に立つ人影を認めて、汐が駆け出す。
「きょうせんせいっ」
エプロン姿の杏の前まで行くと、汐はそこで立ち止まっておじぎした。
「せんせい、おはようございます」
杏は膝に手を突いて視線を下げ、汐に挨拶する。
「おはよう、汐ちゃん。もう元気になったのかな?」
「なった」
「そうなんだ。良かったわね」
「うんっ」
そして杏の後ろ、園内から一匹の黒い大きな獣が現れた。
「ゴフーゴフー」
その姿を見て、風子が驚く。
「わっ……何ですか、あれ?」
「あいつはこの幼稚園で飼われているイノシシで、名前はボタンだ。人に慣れてるから心配要らないぞ」
汐はボタンに駆け寄ると、その体に抱きついた。
「ひさしぶり、なべ」
「ゴフ〜♪」
汐が俺達の方を向いて手を振ってきたので、俺と風子も振り返してやる。そして、汐はボタンと一緒に幼稚園の中へと入っていった。
「あ、うしおちゃんだ!」
「えっ、ほんと?」
「おはよう、みんな」
「うしおちゃん、おびょうきなおったの?」
「うん」
三々五々、汐の周りに園児達が集まってきて、汐の姿はすぐに見えなくなった。しばらく休んでいたせいで汐が幼稚園の中で孤立してしまわないか心配だったが、杞憂のようだった。
それを見届けると、俺は門の前に立つ杏のそばまで歩いて行った。
「よお」
「久しぶりね、朋也。それから、こっちが噂の……」
杏が視線を向けると、風子がぺこりと頭を下げる。
「柊さんのお姉さん、ですか?」
「そう。確か、初めましてでいいのよね? あたしは藤林杏。椋の双子の姉で、この幼稚園で先生をやってるわ」
「初めまして、岡崎朋也です」
「朋也には言ってないわよっ」
「岡崎さん、邪魔ですっ」
俺のボケは一瞬のうちに二人から同時に突っ込まれた。
「……へぇ。あんた、いいモノを持ってるわね」
感心する杏に、風子は澄ました口調で答えた。
「はい。風子、昔からツッコミ属性値の高さには定評があります」
「嘘つけっ。お前、絶対ボケキャラだろうがっ」
俺もすかさず突っ込み返しておく。
「そんなことありませんっ。風子より岡崎さんの方がボケキャラですっ」
「俺はちゃんと両方こなせるんだよ。風子はそもそも天然じゃないか」
「風子、天然じゃないですっ。エガちゃん並みのツッコミの達人だと言われたこともありますっ」
「……それ、誰に言われたんだ?」
「おねぇちゃんです」
「うっ……。いや、お前がそれで納得してるんなら別にいいんだけどな」
どんな意味で公子さんがそう言ったのかは激しく気になるが。
杏はそんな俺達を見て苦笑していた。
「まあ、息はぴったり合ってるわよね」
風子は杏の方にに向き直ると、挨拶を返した。
「初めまして。風子の名前は伊吹風子です」
「うん、よろしく。……へぇ……ふうん」
杏は無遠慮なまでに風子をジロジロと眺めると、俺の方を見てニマッと笑った。
「朋也。あんたやっぱり、ロ……」
「杏っ。お前、椋から聞かなかったのか? こいつは俺達と同い年だっ」
「もちろん聞いてるわよ。でも、そういうのって実年齢より外見じゃない? 渚もわりと子供っぽい感じだったし」
「知らねえよ、そんなこと」
「……?」
一人、話が見えずにきょとんとしている風子。
そこで、杏は真面目な表情に戻って俺に尋ねた。
「で、汐ちゃんの体の具合はもういいの?」
「ああ。とりあえず病院で精密検査を受けたときには、異状は全くなしって言われたよ。もっとも、渚のときと同じでそもそも発熱の原因すら分かってないんだけどな」
汐の回復に風子が関っているらしいということは話さないでおく。そんなことをいきなり言われても戸惑うだろうから。
杏はひとつため息をついた。
「本当、なんで朋也達ばっかりそんな辛い目に逢うのかしらね。運命とか神様なんて信じないけど、正直恨み言のひとつも言ってやりたくなるわ」
「俺達ばかりってこともないさ。生きていれば誰だって、辛いことや悲しいことを経験するもんだ。だけど、それだけじゃなくて楽しいこと、嬉しいことだっていっぱいある」
俺がそう答えると、杏は眩しそうに目を細めた。
少しは俺も成長できたのだろうか。もしそうなら、それらの経験も俺にとって意味のあることなのかもしれない。
「ですけど、風子、やっぱり岡崎さんと汐ちゃんには幸せになって欲しいと思います。悲しいことの方が嬉しいことより多いなんて、そんなの公平じゃありません。風子はもっともっと、汐ちゃんの笑顔が見たいです」
風子が真剣な表情でそう言った。こいつはとても風変わりな奴だが、その気持ちはいつだってストレートだ。
「ああ、ありがとな」
風子は気付いているだろうか。そんな自分の言葉が、俺達を幸せにしてくれるのだということに。
杏はそんな風子を後ろから抱きしめ、頭を撫でた。
「あんたって、いい子よね……。ね、風子って呼んでいい?」
「はい、風子は構いませんけど」
くすぐったそうな表情で答える風子。
「なあ。椋から聞いてると思うが、こいつは本当は俺達と同じ学校に通うはずだったんだ。良かったら今からでも友達になってやってくれないかな?」
「もちろん。朋也に言われなくたって、そのつもりよ」
杏は当然のようにそう答えた。こいつも風子とは違う意味でまっすぐな奴だ。
「大体、こんな可愛い子を独り占めしようったってそうは行かないわよ」
「そんなことしねぇって」
「どうだか……。
でも、高校時代に一緒に通えなかったのは本当に残念ね。この子と一緒だったら、きっと楽しいことがいっぱいあったんだろうなって思うから。まあ、その辺はこれからでもやり直せるかな?」
そう言って、杏は風子をぎゅっと抱きすくめた。
不意に、風子の瞳から涙がこぼれる。
「どっ、どうしたのよ、風子?」
「もしかして今の、苦しかったんじゃないか?」
「そ、そんなに強くはしてないと思うけど……。それとも、あたし何か変なこと言った?」
慌てる俺と杏に、風子は涙を浮かべたままにっこり笑った。
「いえ。風子、嬉しかったです。
風子は人付き合いが苦手で、中学のときはお友達がいませんでした。だから高校に入るときに、おねぇちゃんと約束したんです。今度はちゃんとお友達を作るって。
でも結局、事故のせいで風子は学校に通えませんでした」
こいつにとって、あの学校に通うことはそんな意味があったのかと、今さらながらに俺は知った。
ただでさえ高校三年間を入院で棒に振るのは辛いことだろう。その上、風子の場合ははっきりとした目的があったのだからなおさらだ――俺なんかと違って。正直、無為な学校生活を送っていた自分が恥ずかしい。
「杏さんにそんな風に言ってもらえて、風子はとても幸せです。もう風子、思い残すことありません」
そんな風子の前髪を、俺はくしゃくしゃとかき乱した。
「馬鹿。縁起でもない言い方するなって」
「岡崎さん、ひどいですっ。せっかく梳かした髪が乱れますっ」
「お前が変なこと言うからだ」
うー、と唸って前髪に手櫛を入れる風子に、俺は自分のハンカチを差し出す。
「ほら、これで涙を拭いとけ」
「……はい」
風子は素直に頷いて、ハンカチを目元に当てた。
「なんだか、すっごく仲いいのね、あんたたち」
そんな俺達に、杏が笑みを浮かべてコメントする。
「そうか?」
「そうよ。最初に椋から聞いたときは本当は色々思うところもあったんだけど、まあ、これはこれでいいかな」
「なんだよ、その『思うところ』って」
俺の追求に、杏は悪戯っぽい表情で「内緒」と答えた。
「それよりも、ここで油売ってていいの?」
杏に言われて、俺は時計を見た。
「そうだな、そろそろ行かないと。汐のこと頼んだぞ」
「お願いします、杏さん」
俺と風子が頼むと、杏はウィンクを返してくる。
「うん、まかせといて」
俺達は来た道を戻りかけ、ふと思い出して杏の方を振り向いた。
「そう言えば杏、あんまり春原のこと苛めるなよ。あいつ、この間来たときちょっと落ち込んでたぞ」
「あー、あのことね。陽平はお馬鹿なんだから、はっきり言わないと分かんないのよ」
言い方はキツいけれど、こいつなりに俺と春原のことを心配してくれていたのは表情から分かる。
「で、どうたったの? 久しぶりに会って」
「ああ。学生時代に戻ったみたいで楽しかった」
「それなら、やっぱり問題ないじゃない」
屈託のない表情でそう言う杏。こいつは本当に相変わらずだった。
「かもな。じゃあ、また後で」
杏は俺に手を振り返した後、やってきた園児とその母親に向かって挨拶した。俺も踵を返し、行き違う親子連れに会釈する。
「あら、岡崎さん。汐ちゃんの具合はもういいのかしら」
「はい。おかげさまで通えるようになりました。汐をまたお子さんと仲良くさせてくださいね」
「ええ、もちろん。ウチの子も喜びます」
そんな風に声をかけてくれる母親もいた。朝の寒さも気にならないくらいに心が暖かくなる。
そして、交差点に差しかかったところで俺は風子に向き直った。
「さてと。俺は会社に直行するけど、風子はどうする?」
「んー。風子、お掃除とかお洗濯をしようかと思います」
「そっか、助かる。じゃあ、これ渡しとくな」
俺はポケットからアパートの鍵を取り出すと、風子に手渡した。
「……いいんですか?」
上目づかいで問いかけるように風子が尋ねてくる。
「不便だけど仕方ない。合い鍵をどこにしまったのか覚えてないから、今はウチの鍵はこれだけだし。
とりあえず、汐を迎えに行くために三時ごろには一旦アパートに戻るから、その時間はちゃんと家にいてくれよ。でないと俺と汐が締め出されちまうから」
「分かりました」
風子が真剣な表情で頷く。
「じゃあ、行ってくるな」
俺は鞄を肩に掛け直すと、風子に向かってそう言った。
「はい。いってらっしゃい」
そう言ってもらえるのも久しぶりだった。少しくすぐったいような、嬉しいような、そんな気分を味わいながら俺は事務所に向かって足を踏み出した。
会社の引き戸を開け、俺は挨拶した。
「おはようございますっ」
事務所の中には親方と芳野さん、そして他の同僚が数人。
「ああ、岡崎くん。久しぶりだね」
親方が穏やかな口調で言った。
「はい。ご無沙汰してました」
みんなに向かって頭を下げる。
「芳野から大体の事情はきいてるよ。娘さん、良くなったんだってね?」
「ええ。今朝、幼稚園まで送って来たところです」
ジョニーさん達が近づいてきて、笑顔で俺の肩を叩いた。
「トモヤは良く頑張ったね」
「ああ。立派なもんだ」
ぶっきらぼうだけど飾らない優しさが嬉しかった。
「すんません、色々ご迷惑をかけて」
「何言ってんだよ。全然迷惑なんかじゃねえさ」
親方も頷く。
「岡崎くんは優秀な人材だからね。戻ってきてくれて助かるよ。またしばらく芳野と組んでもらうことになるから」
「分かりました」
俺はそう答えてから、芳野さんに近づいて頭を下げた。
「お久しぶりっす、芳野さん。これからまた、よろしくお願いします」
「ああ」
芳野さんは素っ気ない素振りで言った。でも俺は、芳野さんがどんな人なのか良く知っている。何と言っても長い付き合いなのだから。
それから、俺はロッカーの前で作業着に着替えた。少し煤で汚れた、けれど俺にとってのユニフォームへ久しぶりに袖を通す。ベルトを装着してから鞄を開け、持ち帰っていた私物の工具類をベルトに差し込んだ。
ふと、初めて作業着を着たときのことを思い出した。あの頃は何も分からなくて、ただ右往左往しながら芳野さんの指示に従うことしかできなかった。
しかし今は違う。ブランクはあるが、俺は七年に渡ってこの仕事を勤めてきた。右肩にハンデは持っているものの、腕にも少々自信がある。ここは俺自身が築き上げた居場所なのだ。
俺を育てるために全てを捨てなければならなかった父さんと比べて、俺はとても恵まれているのだろう。あの人への恩に報いるためにも、今はただ頑張って働くだけだ。
俺は工具類がしっかりと固定されているのを確認してから、ロッカーを後にした。
簡単な朝礼を終えて、俺達はそれぞれの仕事場へ向かう。会社の軽トラへ乗り込もうとする芳野さんを俺は呼び止めた。
「芳野さん」
「ん、なんだ?」
振り返る芳野さんに向かって、俺はそれを差し出した。
「お借りしてたドライバーっす。ようやくお返しできます」
グリップに『よしの』と彫られたドライバー。ここを辞めるときに、芳野さんが貸してくれたものだった。
「……そうだったな」
芳野さんはドライバーを受け取ると、ベルトに差していたドライバーを抜き取って交換する。そして、今まで差していた方のグリップを俺に向けた。
「こっちはお前のドライバーだ。岡崎に代わって俺の仕事を助けてくれた。今度はそいつを使って、お前自身が頑張る番だ」
「はいっ」
受け取って、俺はまた頭を下げる。
芳野さんは軽トラのドアを開け、それに乗り込んだ。
「いつまでもボサッとしてるな。置いてくぞ」
「分かりましたっ」
俺はドライバーをベルトに差して固定すると、慌てて助手席に乗り込んだ。
街灯の点検、ビルの配電、民家へのアンテナ敷設。あちこちの仕事場で、俺はスパナ片手に作業に励んだ。心配していたブランクの影響もなく、すぐに勘を取り戻せたようだ。
決して注目を浴びる職業じゃないけれど、それでも俺はこの仕事を気に入っている。戻ってこられたことが嬉しかった。
そうして順調に仕事をこなしていき、昼になったので近くにあった定食屋へ入った。おしぼりで手を拭ってから、俺はカツ丼、芳野さんは天丼を注文する。
しばし待つと、おばちゃんが注文の品を運んできた。早速割り箸を割って、卵でとじられたカツを飯と一緒に掻き込んだ。
味はまあまあ。少し前に風子が作ってくれたトンカツの方が、肉がジューシィでずっと美味い。もっとも、安くて早い定食屋では十分及第点と言えるだろう。
そこで、俺は先日のことを思い出した。
「ほういえばよひのはん、あのしぃりぃまらのこってまふ?」
芳野さんは飯を飲み込むと、咎めるように俺を睨んだ。
「岡崎、飯食いながら喋るな」
俺は湯呑みを手に取って、お茶とともに飲み下した。
「すんません。……で、あのCDまだ残ってます?」
「あのCD? もしかして、『Love & Spanner』のことか?」
「そうっす。いや、この間友達が遊びに来たんですけど、芳野さんの歌を聴かせたら気に入ってくれたんで、CDあげちゃったんです」
俺の言葉に、芳野さんは眉をひそめる。
「お前の友達って、例のギターの奴か。妹がかつての俺のファンだったとかいう」
芳野さんには以前打ち明けていたんだった。特に隠す必要もないので、俺は詳しく説明した。
「正確に言うと、その妹の方ですね。兄妹でこっちに遊びに来てたんで。二人とも、俺と渚の友達っすから。
その妹は芽衣ちゃんって言うんですけど、凄くいい子なんですよ。風子の友達にもなってくれましたし。俺が芳野さんに会っていけばって言っても、昔のファンが押しかけたら迷惑かもしれないって遠慮して。で、俺の持ってたCDをあげちゃったんです」
「……そうだな。その芽衣って子が昔の俺に会いたいと思っているなら、その期待には応えられない」
呟いて、芳野さんは衣ばかり大きいエビ天を齧ってから飯を口にする。やはり芳野さんにとってはまだ辛いことなのだろうか。そう思ったとき、芳野さんは続けた。
「でも、その子がかつての俺じゃなく今の俺の歌を気に入ってくれたんなら、それは大切なファンだ。それに、義妹の友達なら遊びに来ても迷惑なんかじゃない。そう伝えてくれないか」
芳野さんの表情は穏やかだった。この人は少し変わったのかもしれない。
「分かりました。芽衣ちゃんも喜ぶと思います」
やっぱり芳野さんは歌が好きなんだと改めて思う。俺はなんとなく嬉しくなって、カツ丼を口に頬張った。
「……ところで、お前の方はもういいのか?」
今度は芳野さんが尋ねてきた。俺は頷いてから答える。
「ちょっと前までは、渚を思い出すのが辛くて聴くことはできなかったっすけどね。でも、やっぱり違うんです。渚と一緒だった頃の俺は、いつだって幸せだった。それを否定したくない。汐にそのことを教えてやりたいんです。
それに何より、俺だって芳野さんのファンっすから」
「そういうことなら、改めて俺からプレゼントしよう。幸いCDは余っているしな」
俺は丼を置いて手を振った。
「いや、いいっすよ。ちゃんと金払いますって」
「勘違いするな、岡崎。俺はお前の娘さんに贈るんだ。あのCDはお前達の力添えがなければ実現しなかったんだから、二人の愛の結晶へそれをプレゼントすることに何の不思議がある?」
「は、はぁ……」
だんだん芳野さんのテンションが上がってきた。
「行き場を失ったお前の愛は、お前自身を傷付ける刃と化した。そのえぐられた心の傷を癒し、刃を包み込んで昇華させたのは、ほかでもないお前の娘だ。
その幼くも優しい少女に対して、俺は何ができる? 何もない――ただ歌を贈ることを除いては。それだけが、不器用な俺の示せる唯一の愛なのだから」
スーツ姿のサラリーマンや俺達のような肉体労働者でごった返し、女っ気と言えば店員のおばちゃんぐらいしか見当たらない。そんな定食屋の中で、天丼片手に『愛』を口にする電気工。本当に恥ずかしい人だった。
「わ、分かりましたから、その辺で……」
正直、そう言ってもらえるのはとても嬉しい。しかし、この状況では素直に喜べなかった。
芳野さんは俺の慌てようなど気にも留めず、さらに言い募ってくる。
「岡崎よ。お前は自分を慕う新たな小さき愛に気付いているか?」
今までにも何人かに言われたことだから、芳野さんの言葉が誰を示しているかはすぐに分かった。
「いや、どうなんすかね。あいつがどう思っているのか、今ひとつ分かんないんですよ」
今まで同様曖昧に笑って答えると、芳野さんは頷いた。
「そうしたものなのかもしれないな。身近な人間であっても、いやむしろ近しい者だからこそ、相手の気持ちが見えなくなることもあるだろう。
だが岡崎、お前には必ず理解しておかなければいけないものがある――それは、お前自身の心だ」
「……」
俺自身の、心?
「誰かに歌を捧げるときには、決して己を偽るな。でなければ、その先に光はない。真剣に考えて答えを出すなら、結果がどうあろうとも後悔など要らないはずだ」
芳野さんに言われてようやく気付いた。俺があいつを――風子をどう思っているのか、それを考えないようにしていたことに。しかし、一度気付いてしまえば、もう誤魔化すことなどできなかった。
だが、本当にそれは許されることなのだろうか。
「まあ、すぐに決める必要もないだろう。時間はある。ゆっくり考えることだ」
沈黙した俺に、芳野さんはそう語りかけた。
「……そうっすね」
俺は小皿に載った漬け物を箸でつまみ、口に運んだ。人参の浅漬けは、なんだかとてもゴリゴリとした食感だった。
三時近くになって、俺は一旦仕事を中断して汐を迎えに行くことにした。
作業中はそちらに集中していたために余計なことを考えずにすんだが、こうして一人道を歩いていると、昼に芳野さんから言われたことを思い出してしまう。
空は鈍色の雲に覆われていて、太陽は見えない。今にも雪が降ってきそうな天気だった。煮えきらない俺の心中に似ているかもしれない。
思考が堂々巡りになったところで、俺は古河パンの前に通りがかった。向かいにある公園で、この寒い中オッサンがバットを素振りしているのが見える。またサボっているのだろう。
オッサンは俺に気付くと、バットを降ろして声をかけてきた。
「これから汐を迎えに行くのか?」
「……ああ」
「なんだ、景気の悪い面しやがって」
俺はオッサンの元に近づいた。みっともないかもしれないけれど、俺はこの人に尋ねたかった。いつもはハチャメチャでも、真剣な問いには真面目に答えてくれる。それに、オッサンは当事者でもあったからだ。
「あのさ……ちょっと聞きたいんだけど……」
言葉を途切れさせる俺を、オッサンが急かす。
「さっさと言え。俺は忙しいんだから」
「嘘つけ。サボってたくせに」
「サボるのに忙しいんだ――それで?」
促されて、俺は続けた。
「……俺が、誰かを好きになったとする。渚じゃない、別の誰かだ。そして、もし相手も俺のことを好きになってくれて、一緒に暮らし始めたとしたら……。
俺はきっと、少しずつ渚のことを忘れてしまう。新しい日常の陰で、渚と過ごした大切な思い出が薄らいでしまう」
オッサンは黙ったまま俺を見ている。俺は自分の思いをぶつけた。
「それは――裏切りじゃないのか?
渚だけを愛するって誓った言葉を違えて、別の人間を好きになる。そして、あいつを忘れてしまう。それは、渚に対する裏切りじゃないのか? そんなことが許されるんだろうか?」
俺の言葉を聞いたオッサンは、フッとため息にも似た笑みを浮かべ、バットの上に両手を置いて目を閉じた。
そして、その目が開かれたとき、そこにいたのは古河秋生ではなかった。ぶっきらぼうで無愛想、それでいてどこか繊細な印象を持つ不思議な青年が、俺を穏やかな視線で見つめていた。
青年は俺に向かって言葉を紡いだ。
「ひとは、変わってゆくことが悲しいんじゃない。変わらなければ生きていけないことが、寂しいだけなんだ」
その言葉が俺の心の中へ響く。
そして俺は理解した。変わらずにいることなど、できはしないのだと。ずっと渚のことだけを想って生きていくことなど、不可能なのだと。
次の瞬間、ニッと笑ったオッサンはいつも通りの雰囲気に戻っていた。
「誰の台詞だっけかな。忘れちまった」
オッサンがかつて演劇をやっていたのだということを思い出した。この人は役者としても優秀だったのかもしれない。けれども、渚のためにオッサンはその道を諦めた。自分から変わろうとしたのだ。
「オッサン、俺は……」
言いかけた俺に、オッサンは頷いた。
「いいんだよ、忘れちまっても。それでいいんだ。昨日のことを何もかも明日へ持って行くことなんてできやしねえ。人間てのは、そんな風にできちゃいないからな。
だがな、忘れることは無くなるってことじゃない。分かるだろ?」
「……ああ」
少し斜に構えて、他人と距離を置いて生きていた高校時代の俺。それを変えたのは渚だった。俺がここにいるのは、間違いなく渚のおかげなのだ。
あいつが生きていた証しは汐だけじゃなかった。直接、間接を問わず渚と関った人々全てが、あいつの生きた証しだった。
それが人と人の繋がりなんだと、俺はようやく悟った。
「だからな、てめえは幸せになれ。それが何よりの供養になる」
この家族はいつだってそうだ。オッサンも早苗さんも――そして渚も。この優しい人達が、俺は大好きだった。
「分かった。でも、オッサンだって幸せになってくれ」
俺がそう答えると、オッサンは鼻で笑った。
「言われるまでもねえ。俺はいつだって幸せなんだよ」
強い人だった。
汐が成長したとき、俺はこの人のように大きな背中を娘に見せることができるだろうか。分からないけれど、そうでありたいと思う。
「世話んなったな。俺はそろそろ行くよ」
「そうか。じゃあな」
そう言葉を交わして、俺はオッサンに背を向けた。少し歩いたところで、後ろからオッサンが俺に向かって叫んだ。
「さっさとコクっちまえよ、小僧! ぼやぼやしてると、他人にかっさらわれるぞっ。男なら一気にやっちまえ!」
思わず赤面する。今尊敬したばかりだと言うのに、このオッサンは……。
まあでも、そんなところもオッサンらしかった。俺はなんとなく楽しい気分になって、家路を辿った。
アパートに着くと、俺はチャイムを鳴らして声をかけた。
「ただいま」
足音がして、すぐにドアが開かれる。
「おかえりなさい、岡崎さん」
笑顔の風子に、心臓がときめいた。少し意識し過ぎかもしれない。
「……あ、ああ。じゃ、汐を迎えに行くか?」
「ちょっと待ってください。風子、後片付けします」
そう言って、風子が部屋の中に戻った。俺もそれに続く。
「後片付け?」
「はい。すぐ終わりますから」
蛍光灯の明かりの下、ちゃぶ台の天板には新聞紙が敷かれていた。その上に、彫刻刀と木の切り屑、そして――
(……!)
また、心臓が大きく鼓動を打った。しかし、それは風子を見たときの高鳴りとは違う。俺はちゃぶ台に載せられた物に見覚えがあったのだ。
「お前……それ……」
切り屑をゴミ箱に払い落とした風子は、得意げな表情でそれを俺の方に掲げた。
「はい。自分で言うのもなんですが、可愛くできましたっ」
木でできた星型の彫刻。間違いない。俺は一度それをもらったことがある。風子にプレゼントされた後、俺はその彫刻を親父にあげたんだった。
「木彫りのヒトデ、か?」
かつては星なのかと勘違いしていたが、今は分かる。こいつは自分が大好きなヒトデを象った彫刻をみんなに配っていたのだと。
「そうです。岡崎さんと汐ちゃんにプレゼントするために、風子、頑張りました」
風子は嬉しそうに笑ってそう言った。
失くしていた記憶が蘇る。風子は自分の姉が結婚するのを多くの人に祝ってもらいたくて、指を傷だらけにしてまで彫刻作りに励んでいた。俺は風子に会うたびにからかったり、無理をしないよう注意したりしたのだった。
そして、いつの間にか風子を見かけなくなり、俺はこいつと出会っていたこと自体を忘れてしまった。
けれど、そんなことがあるだろうか。
当時の風子は入院中で、学校に通えたはずはないのだから。姉である公子さんが結婚したのもつい最近で、高校時代とはずいぶん時間が離れている。それに、これだけ強く印象に残っている思い出を、風子に再会した後も思い出せないというのは明らかにおかしい。
だが、俺の疑問は風子の言葉によって中断させられた。
「お別れの記念です。このヒトデを見て、時々は風子のことも思い出してくれたら嬉しいです」
「……今、なんて言った?」
聞き返す俺に、風子は穏やかな表情で告げた。
「風子の役目は終わりました。汐ちゃんはもう大丈夫です。だから今日、夜になったら風子はおねぇちゃんの所へ帰ろうと思います」
俺はその言葉が意味するところにショックを受けた。
最初に風子がこの家に泊まると言い出したときは反対していたはずが、いつの間にか俺は、風子ががここにいることを当然のように受け入れていたのだ。ほんの一週間程度しか経っていないというのに。
その短い間に、俺がこいつに対して抱く想いは大きく変化していた。だから、俺は風子に向かって言った。
「行くな、風子」
目を丸くする風子に、俺はさらに言葉を重ねる。
「この家で一緒に暮らそう。俺と、お前と、汐の三人で――家族として」
風子は俯き、掠れた声で俺に尋ねてきた。
「それは、汐ちゃんのためですか?」
「確かに、それもないとは言えないな。汐はお前を慕ってるし、お前だって汐を可愛がってくれている。この先、男親では相談に乗ってやれないことも出てくるだろうし。
でも、それは一番の理由じゃない」
手のひらに汗が滲むのを感じる。けれどもその先は、口にしなければ伝えられないことだった。だから、意を決して俺は風子に向かって言った。
「一番の理由は、俺がお前を好きだからだ」
風子の頬が、さっと赤く染まるのが見えた。
しかし、風子は顔を伏せたままだった。そして、その肩が小刻みに震え始める。
「……風子、浅はかでした」
小声でそう呟く風子。
俺の勘違いだったのだろうか。みんなに囃し立てられて、いい気になっていたのだろうか。だとしても、俺に後悔はなかった。それが俺の偽らざる本心だからだ。
「お前にその気がないなら、そう言ってくれないか? そんなことで恨んだりはしない。だから風子、俺のことが好きじゃないならはっきりと振って欲しい」
胸は痛むが、俺はそう風子を促した。
風子が急に顔を上げ、激情に駆られたように口を開いた。だが、その口からは言葉は出ず、代わりに涙の雫が頬を伝う。
「風子……?」
戸惑う俺に、風子は涙声で叫んだ。
「そんなこと、言えるわけないですっ。ふ、風子だって、岡崎さんのこと好きですっ。でも……」
「それなら、何も問題ないだろ?」
「でも、風子では岡崎さんを幸せにすることができませんっ」
ぽろぽろと涙をこぼす風子に、俺は反論した。
「デモもストもねえっ。そんなこと、なってみなくちゃ分からん」
「分かりますっ。風子はきっと岡崎さんを傷付けますっ。だから、岡崎さんはもっと――むぐッ?」
分からず屋の風子を抱き寄せ、俺はその唇を塞いだ。風子が目を見開いて硬直する。が、抵抗することなく、俺にその体を預けてきた。
耳の奥で血管が脈動しているのが分かる。ほんの一瞬にも、永遠にも思える時間が過ぎて、俺は風子を放した。
俺の腕にすがりついて、風子は涙を流していた。小さく華奢な体は震え、濡れた瞳が俺を見つめている。
「……風子、少しの間だけでも岡崎さんと汐ちゃんのそばにいたかったんです。でも、こんなことになるとは思ってませんでした。風子、やっぱり浅はかでした。
ごめんなさい、岡崎さん。ごめんなさい……」
謝罪を繰り返す風子の体が、突然弛緩した。
「お、おい。風子?」
抱き留めて、俺は風子の名を呼ぶ。だが、風子からの応えはなかった。
「風子っ。どうしたんだ、風子っ」
風子は眠るように目を閉じ、意識を失っていた。その頬を涙で濡らしたまま。
続く