雪割草――託された願い
1999-12-05 by Manuke

 夜。
 すでに夜半を過ぎ、草木も眠る頃合いだろうか。
 静まり返った家の中、わたしは階段を上がり、祐一さんの部屋の前に立った。ここのところかなり体調を崩しているようなので、少し様子を見にきたのだけれど……。
 部屋の中から物音は聞こえて来ない。どうやら眠っているらしい。
 年ごろの少年の部屋に無断で入るのは気が引けたが、わたしは音を立てないようにそっと扉をあけた。
 暗く、冷え切った部屋の中、カーテンの隙間から差し込む月明かりがベッドで眠る祐一さんの顔を照らしていた。
 少しうなされているようだった。ときおり苦しげなうめき声を上げ、胎児のように縮こまっている。
 わたしはベッドのそばに歩み寄ると、あらわになっていた肩へ布団をかけ直した。
「……あゆ」
 祐一さんがそう小さく呟くのが聞こえた。あゆちゃんの夢を見ているのだろうか。
 その苦しむ姿を見るのは痛ましかった。けれども、今わたしがしてあげられることは何もないのだ。わたしは静かに部屋を出た。
 ドアを閉じたとき、ふと隣の部屋から明かりが漏れているのに気づいた。名雪の部屋だ。
 また明かりを消し忘れたまま寝入ってしまったのかもしれない。
 そう思いつつ、わたしは部屋の中へ声をかけた。
「名雪、起きているの?」
 意外なことに、返事があった。
「あ、お母さん? うん、起きてるよ」
 さすがに眠そうな声だったけれど、名雪がまだ寝ていないのは驚きだった。我が娘ながら呆れてしまうほど寝つきがいい名雪が、こんな時間になっても起きているのを見たのは、もしかしたら受験のとき以来かもしれない。
「どうしたの? 朝、起きられなくなるわよ」
 『なゆきの部屋』と書かれたドアのノブを引くと、名雪が目をこすりながらテーブルの前に座っていた。テーブルには、フェルトの切れ端や裁縫道具などが散らかっている。
 そう言えば、とわたしは思い出した。夕食後、名雪がそのフェルトの端切れをもらいに来たことを。人形を修理するという話だったけれど……。
 わたしは名雪の向かい側に座って言った。
「それが、直すって言っていたお人形ね」
名雪の手の上に、小さな人形が載っていた。白い服に黄色の髪、頭には丸い輪。どうやら天使の人形らしい。
「うん。あと、羽根を付ければ完成だよ」
 名雪は白い糸で人形の背中に小さな羽根を縫い付けている。テーブルの上には端切れのほかに、薄汚れた人形のパーツが転がっていた。それは修復前の人形のものなのだろう。
「ずいぶん汚れていたのね」
 名雪は手を休めることなく答えた。
「地面に埋まっていたから……」
「地面に?」
「うん。瓶に入れられて、遊歩道の木の根元に。瓶は割れちゃってたけど……」
「そう……」
 地面に埋められた人形、そこにはどんな願いが込められていたのだろう。
 名雪は糸を鋏で切ると、満足げに言った。
「ふぅ、できたよ〜」
 天使の人形は、名雪の手の中でにっこりと微笑んでいた。
「こんな時間までよく頑張ったわね。ご苦労様」
 わたしがそう言うと、名雪は顔を曇らせ、首を左右に振った。
「ううん。わたしが祐一にしてあげられることは、これくらいしかないから……」
「祐一さんに?」
 名雪はうん、と頷いた。
「香里や北川君と一緒に探したの。祐一に、遊歩道のどこかに埋まっているお人形を探してほしいって頼まれたから。
 なかなか見つからなかったけど、祐一が真剣だったから諦めずに探し続けて……。
 ようやく見つかったお人形の状態が良くなかったから、わたしが修理を引き受けたの」
「そう……」
 祐一さんが探していた天使の人形。
 それは今起きている奇跡と無関係ではないのだろう。
 ――羽根付きのリュックを背負った、無垢なる天使と。
「ともかく、もう寝なさい。学校に遅刻するといけないから」
 立ち上がったわたしに、名雪はためらいがちに言った。
「ごめんなさい。もう少しだけ……。
 お母さんに聞いてほしいことがあるの」
 わたしは微笑んで答えた。
「いいわよ。どんな相談かしら?」
 名雪も立ち上がると、窓に手を当てた。
「ベランダ、出てもいい?」
「ええ」
 カラカラという音とともに、開けられた窓の外から冷気が屋内に入ってくる。わたしと名雪は部屋の外へ出た。
 闇色に染まった空から、小降りの雪が延々と舞い降りてくる。それを見上げていると、まるで自分が空へ吸い込まれていくような錯覚まで覚えて、わたしはベランダの手すりをすがるように掴んだ。
 傍らでは名雪が同じように手すりに寄りかかり、話し始めた。
「わたしね、昨日――あ、もう一昨日になるのかな。病院へ行ったの。
 ……町外れの病院」
 わたしは黙って娘の紡ぐ言葉を聞いていた。
「お母さんも先週お見舞いに行ったんだね。看護婦さんに聞いたよ。すんなり病室に通してもらえたのはそのせいかもしれない。
 だって、わたしは本当は会ったこともない、全くの他人だもん……」
 名雪は声を詰まらせた。
「……覚えていたのね」
 わたしの言葉に、名雪はこくんと頷いた。
 夜の静寂の中、ただ雪だけが部屋からの明かりに照らされて輝き、きらめきながら闇の中へ消えてゆく。
「わたしのライバルだから。永遠の、ライバルだから……」
 名雪はぽつりと呟いた。
「……最初は、ただの記憶違いなのかなって思った。それとも、同姓同名の違う子なんじゃないかって。
 でも、そんな偶然あるわけないよ。7年前に祐一がこの街で出会った、『月宮あゆ』ちゃんが二人いたなんて偶然は……。
 だから、確かめずにいられなかった」
 名雪はそう言ってわたしに背を向けた。そのまま話を続ける。
「病室で眠っていたのは、間違いなくあゆちゃんだった。少し痩せていたけれど。
 ずっとずっと、7年の間眠ったままだったんだね……。看護婦さんははっきり教えてくれなかったけど、あんまり容体が良くないらしいのは分かった。
 それを知ったとき、わたしは思ったの。あゆちゃんはどうして祐一の前に姿を見せたのかって。
 ――もしかしたら、祐一を連れて行くつもりなんじゃないかって」
「名雪……」
 背を向けたまま、名雪は左右に首を振った。
「分かってる。考えるまでもなく、あゆちゃんはそんなことをする子じゃないよね。
 それはわたしのヤキモチの心が思わせた勝手な考えだよ。でも、まだそのほうが救いがあるって思えるのは変なのかな。
 だって、そうじゃないとしたら……」
 こちらを振り向いた名雪の頬には、涙の雫が光っていた。
「あゆちゃんは、お別れを言いに来たんだね。
 だけど祐一も、そしてあゆちゃん自身もそれに気づいていない。
 そんな……、そんなの悲しすぎるよ!」
 わたしは嗚咽を上げる名雪を抱きしめた。名雪も小さな子供のようにわたしにしがみついてくる。
「……悲しいお別れしか待ってないの?
 二人は幸せになることができないの?
 そんなの辛すぎるよ……」
 わたしは胸の中で泣く名雪の頭を、そっと撫でながら言った。
「名雪……。優しい子ね」
「……優しくなんかないよ。本当に苦しいのは二人なのに、何もしてあげられない。
 祐一もあゆちゃんも、好きなのに何もしてあげられない。
 ただ、見ていることしかできない……」
「……そうね。わたしたちは二人に何かをしてあげることはできないわ。
 でも、ずっとそばにいてあげましょうね。
 何もできなくても、ずっと見守って、少しでも心の支えになってあげましょうね。
 ……たぶん、それは人が人にしてあげられる、最善のことだとわたしは思うから」
 名雪は顔を上げ、涙を袖で拭いながら言った。
「ずっと、そばに……?」
「ええ。見ているだけなのが辛くても、もどかしくても。
 ずっとそばに。
 二人が幸せになれることを信じて。奇跡が起こることを信じて」
「ずっと……」
 名雪が繰り返す。その手の中にあった人形に、そっと手を触れた。
「祐一さんは閉ざした過去の記憶を、自分の手で開こうとしているわ。
 あゆちゃんも記憶を取り戻しつつあるのだと思う。
 たぶん、このお人形がその最後のきっかけ……」
 天使の人形。
 キーホルダーの先に付けられたその人形は決して高価なものではないけれど、きっと二人の思い出が込められているのだ。
「……どんな願いを込めて、二人はこのお人形を埋めたのかな?」
 名雪はまだ涙声のまま、問いを発した。
「それは分からないけれど、きっと優しい願いだと思うわ。
 だから、わたしたちもこのお人形に願いを託しましょう。
 大好きな二人が、幸せになれますようにって」
 名雪は人形を両手で包みこみ、目を閉じた。その頬をまた大粒の涙が伝う。
 わたしも名雪の手の上に自分の手を重ね、願った。
 ――二人が、幸せになれますように。

 朝になっても、祐一さんは起きて来なかった。
 ひどくうなされ、憔悴した様子の祐一さんを無理に起こすこともできず、わたしは名雪を一人で学校に行かせた。そして、祐一さんが体調不良で休む旨を学校に連絡しておく。
 心配だったが仕事を休むわけにもいかず、わたしは軽い食事を作ってテーブルの上に書き置きとともに残し、家を出た。
 帰宅したとき、祐一さんはすでにいなかった。
 午後になって、部活を終えて帰ってきた名雪が起こすと、祐一さんは修理された人形を受け取って出かけたのだという。
 そして……。
 祐一さんはその日、帰らなかった。

「祐一、まだ帰って来ない……」
 名雪は居間の中をうろうろしながら呟いた。
 祐一さんが外出してから、もう丸一日が経とうとしている。焦燥感に、いてもたってもいられないようだった。
「やっぱり何かあったんじゃないかな……?」
 準備のできた夕食は、祐一さんを待つあいだに冷めてきてしまっている。寒い中を帰ってきた祐一さんが暖まるよう、クリームシチューにしたのだけれど……。
「まだそんなに遅い時間じゃないわよ」
 時計を見ると8時を10分ほど回ったところだった。男の子であれば、心配するほどの時間とは言えない――まして日曜ともなれば。
 もっとも、就寝時間の早い名雪にとってはすでに遅い時間なのかもしれない。
「でも、心配だよ。昨日の夜も帰って来なかったし……」
 名雪の不安ももっともだった。けれども、わたしは言った。
「祐一さんは外泊するって言っていたんでしょう?」
「うん……」
「だったら、大丈夫よ」
 もちろん、根拠があるわけではない。
 それでも、本人の意志を重んじたい。その気持ちを大切にしてあげたい。決して責任を放棄するつもりではなく、わたしはそう思う。
 時計が時を刻む音が、静かな部屋の中でやけに大きく聞こえる。名雪は落ち付かなげに視線を宙に泳がせている。
 そのとき、玄関のほうからがちゃりと音が聞こえた。
 名雪がぴくりと反応する。
「ただいまー」
 続いて祐一さんの声が聞こえた。
「祐一!」
 慌てて居間を飛び出して行く名雪に続いて、わたしも玄関へ向かった。
 玄関では、祐一さんが寒そうな様子で靴を脱いでいた。寒さのためか、頬が紅潮している。
「すいません、遅くなりました」
 祐一さんはこちらを見ると、微笑んでそう言った。
「ほんとだよ。祐一を待ってたら、せっかくのあったかいシチューが冷めちゃったよ」
 名雪は心配の反動か、不機嫌そうに文句を言う。
「腹が減ったんなら、先に食べていればよかったのに」
「……そういう意味じゃないもん」
「名雪がそんなに楽しみにしてるってことは、さてはイチゴのシチューなのか?」
 祐一さんが悪戯っぽい調子で言った。
「わ、いくらわたしがイチゴ好きでも……」
「さすがにイチゴシチューは食べられないか」
「う〜ん、ちょっと食べてみたいかな」
 名雪が頬に指を当てて答えると、祐一さんは壁にもたれかかってうめいた。
「ぐぁ……、俺が悪かった。俺の分のシチューは名雪にやるから勘弁してくれ」
「シチューは普通のクリームシチューだよ……」
 いつもの軽口の応酬。最近の落ち込んでいた様子とはうって変わって、祐一さんは以前の陽気さを取り戻したように見えた。
 しかし、わたしは祐一さんの様子が少しおかしいのに気づいた。壁に手を突いたまま、肩で息をしている。
「いや、どうせ俺……今は食えそうにないし……」
 祐一さんはそう言って、壁に寄りかかったままずるずると崩折れた。
「祐一!」
「祐一さん!」
 わたしたちが駆け寄ると、祐一さんは手を振った。
「あ……、大丈夫。ちょっと立ち眩みしただけですから……」
 わたしは祐一さんの額に手を当てた。
「――熱がありますね。38度ぐらい、かしら?」
 頬が赤かったのはこのせいだったようだ。祐一さんは笑って答えた。
「風邪をひいたみたいです。ちょっと無茶したから……」
 わたしはそれ以上尋ねないことにした。
「とりあえず、横になったほうがいいわね。立てますか?」
「はい、……なんとか」
 名雪とわたしは両側から祐一さんを支え、二階へ連れていった。
 祐一さんをベッドに横たえさせ、風邪薬を飲ませてから部屋を出たとき、名雪が不安そうに言った。
「お母さん……」
「大丈夫よ。きっと軽い風邪だから」
 名雪は何か言いたそうな表情だったが、言葉を飲みこむと笑顔で言った。
「そうだね。じゃ、夕ご飯食べようよ。もう、おなかぺこぺこ……」
「言っておくけど、イチゴジャムを入れちゃ駄目よ」
「え〜っ」
 名雪は本気で残念そうだった。
 わたしたちは祐一さんの部屋の前を離れ、階段を降りた。

 次の日は、大事を取って学校をもう一日休ませることにした。
 祐一さんの熱は引いていたけれど、まだ体がふらつくらしい。なにしろ丸二日、何も食べていなかったと言うのだ。
 朝食にお粥を作ると、祐一さんは残さず食べてくれた。とりあえず一安心である。
 残り物で申し訳なかったが昼食用に昨夜のシチューを準備し、祐一さんに安静にしているように声をかけてから、わたしも仕事に出かけた。
 午後、大降りの雪の中をわたしは帰宅した。玄関先で傘をたたみ、肩の雪を手で払ってから玄関を開ける。
 台所へ入ると、流しにシチューの鍋が置かれていた。空になった鍋には水が張ってある。どうやら食欲も完全に回復したようだった。
 わたしは二階に上がると、祐一さんの部屋のドアをノックした。
 ――返事はない。寝ているのだろうか。
「祐一さん、入りますよ?」
 わたしはそう声をかけ、ドアを開けた。
 祐一さんは起きていた。
 窓辺に立ち、ガラス越しに降りしきる雪を眺めているのだろうか。
 外を見つめる瞳には悲しみが宿っていたが、その口元は微かに笑みを浮かべていた。
「……祐一さん」
「あ、秋子さん。お帰りなさい」
 祐一さんはようやくこちらに気がついた。
「ただいま。雪を見ていたんですか?」
「ええ。俺がこの街へ来てから一番の大雪ですね。名雪のやつ、『大丈夫だよ〜』とか言って傘を持っていかなかったけど、何が大丈夫なんだか……」
 そう言って、また視線を窓の外へ戻す。
 ちょっと意地悪で、素直じゃなくて、いつも悪戯っぽい目をしている少年。その裏側に隠された優しさと繊細さを知っていた――わたしも、名雪も。
 けれど、それは7年の間に、いつしか変わっていたのだ。
 深い優しさはそのままに。
 悲しみ故に記憶を閉ざしてしまう繊細さは、最後まで微笑んでいられる強さへと。
「うー、ただいま……」
 後ろからふいに声が聞こえた。振り向くと、雪まみれになった名雪が立っていた。
「あら、おかえりなさい」
「お、名雪か! しばらく見ないうちにずいぶん変わったな。見違えたぞ」
「朝、会ったばかりだよ……」
 わたしは名雪の頭に積もった雪を払い、ハンカチで顔を拭った。
「早く着替えたほうがいいわね。あなたまで風邪をひいてしまうわよ」
「そうする……」
 祐一さんがからかい口調で言った。
「だから傘を持っていけばよかったのに。人の野生の勘を信じないからだ」
「祐一、野生の勘なんてあったの?」
「ああ。今朝、テレビの天気予報を見ているときに突然目覚めたんだ」
「それ、ちっとも野生じゃないよ……」
 普段通りのやりとり。
 祐一さんはすっかり元に戻ったように見える。
 けれど、かつてのように悲しみを忘却の海に沈めたのではなかった。それと向き合い、目を逸らさず、それでもこの少年は笑っていられるだけの強さを得たのだ。
 しかし、だからこそ余計にその笑みが痛ましかった。

 時はその歩みを決して止めることなく、静かに流れゆく。
 何も変わらないように見える日々の光景の中で、けれども着実に、それは凍っていた街を彩り始める。
 木々に緑を。風に馨しき香りを。
 そして人々の心に温もりを。
 ――春の到来だった。
 開け放った窓からは、朝日とともに爽やかな空気が流れ込んできた。
 わたしはテーブルの上を雑巾がけしながら、今日の昼食の献立を考える、
 休日は昼過ぎまで二人とも起きて来ないから、時間の余裕はあった。だったらカレーがいいかもしれない。幸い、香辛料も野菜も揃っているから……。
 そんなことを考えながら掃除をしていると、ふと付けっぱなしにしていたテレビの画面が目に入った。ローカルのニュース番組だった。
 そして、馴染みのニュースキャスターの後ろに映しだされたテロップに、わたしは目を奪われた。
「――それでは、次のニュースです。
 7年前、登った木から落下して以来ずっと昏睡状態の続いていた少女が、本日早朝に意識を回復しました。
 この少女は……」
 意識を……回復?
 ニュースは簡潔に説明を終えると、すぐに次の話題へ移ってしまった。
 わたしは電話の元へ駆け寄ると、震える指先で病院の電話番号を押した。
 病院はちょっとした騒ぎになっているようだった。
 無理もない。時に願い、あるいは絶望から否定する。だからこそ、そこにある奇跡に人は惹かれるのだから。
 それでも、彼女が完全に意識を取り戻したこと、不思議なことに寝たきり状態の後遺症が見られないことを教えてもらえた。わたしは礼を言い、午後の面会時間に訪問することを告げてから電話を切った。
 そのまま、床にへたり込んでしまう。
 二階へ行って二人を起こそうかとも考えたが、やめておくことにした。午前中は検査をするとのことだから、病院へ行っても会うことはできない。それに……。
 祐一さんの顔を思い浮かべて、わたしは微笑んだ。
 少しぐらいの悪戯は許されるはずだ。あんなに心配をかけたんだから。
 お昼になって、昼食を食べに降りてきた二人に、わたしはこう切り出そう……。
『祐一さん、今朝のニュースで言っていたんですけど、知ってますか?』
 もちろん、祐一さんは知らない。起きてきたばかりなのだから。
 祐一さんが聞き返してきたら、わたしはこう言う。
『昔、この街に立っていた大きな木のこと』
 祐一さんは突然の話題に目を丸くするはずだ。
『昔、その木に登って遊んでいた子供が落ちて……、同じような事故が起きるといけないからって切られたんですけど……』
 わたしは続ける。まるで何も知らなかったかのように。
『7年間戻らなかった意識が、今朝戻ったって……』
 きっと名雪は泣き出してしまう。
 祐一さんも涙ぐむだろうけど、簡単には泣かない。素直じゃないから。
『その女の子の名前が、確か……』
 そして、わたしの目からも雫がこぼれるのだろう――今、頬を濡らしているのと同じ温かい涙の雫が。
 わたしはあゆちゃんのことを思った。
 明るくて、恐がりで、くるくると表情が変わって……。
 本当は自分自身の方が重症のはずなのに、風邪で倒れたわたしを看病してくれて……。
 祐一さんにからかわれてちょっと拗ねながら、やっぱり楽しげで……。
 羽根の付いたリュックを背負った、自分のことをボクと呼ぶ少女。その姿を思い返すだけで、自然と口元に笑みが浮かぶ。
 冬から春へ――新しい季節の中で、今度こそ幸せになってほしいと願う。
 あゆちゃんは、凍てつく冬の街角よりも、暖かい春の陽射しが似合う女の子なのだから。

Fin.

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