ずいぶんと暖かくなってきた午後、私達は楽しくおしゃべりをしながら、家へと向かう道を歩いていた。
穏やかな風が私の頬を撫で、去っていく。そこにはもう、切れるような冷たさはない。
ほんの少し前まで寒々しく素肌をさらしていた木々の枝も、今は新たな緑の衣を身にまとい始めていた。
その代わり、今年は例年よりも早く桜の満開時期が終わってしまっている。ほとんど花が残っていないのは残念だけれど、その分卒業生の方々を桜吹雪の下で送ってあげることができたのだから、よしとしよう。
「つきましたよ」
家の前に到着する。
私は足を止め、傍らの祐一さんに向かって言った。
「ここか?」
祐一さんも立ち止まり、私に問いかける。
「どうです、見るからに普通の家でしょう?」
言葉どおり、私の家は住宅街の中にある、ごく普通の家だ。
塀で区切られた敷地の中には、二階建の家屋と小さな庭、そして車庫がある。車庫には、お父さんの乗るダークグリーンのセダンが置かれていた。
「ここで、栞は暮らしているんだな……」
祐一さんは、感心したように美坂家の門を見ていた。
学校からここまでは、やや距離がある。
見上げると、太陽はだいぶ西へと傾きつつあった。それでも、夕食を頂くにはやや早い時間ではあったけれど……。
「……」
見上げていた視線を戻すと、祐一さんはまだ家の概観を眺めていた。
この風景を、心のどこかに刻み込むように……。
「――あの、さ。邪魔して悪いんだけど」
ふと、私の後ろから声がかかる。
「何してるわけ?」
お姉ちゃんだった。
「おっ、香里。いたのか」
「最初っからいたわよ!」
祐一さんの言葉に、憮然とした表情でお姉ちゃんが返す。
そう、お姉ちゃんと祐一さんは、二度目の入学式を終えた私を迎えに、学校まで来てくれたのだ。これから家族でパーティーを行うために、三人で家まで歩いてきたところだった。
「大体、なんだか感慨深げにしてたけど、相沢君は以前にも家に来たことあるじゃないの。
今日だって、栞を迎えに行く前に家へ寄ったでしょ?」
お姉ちゃんはすっかり呆れ顔だ。
「そう言えばそうだったな」
「でしたね」
私達のおとぼけに、お姉ちゃんはため息を一つついた。
「で、何がしたかったの?」
「えーとね、『初めて訪れた、愛する人が暮らす家の風景を、大切な思い出として心の奥のアルバムへしまい込む』ごっこ、かな?」
「おっ。いいな、そのセンテンス。ドラマっぽかったぞ」
「そうですか? お誉めにあずかり光栄です」
祐一さんの賞賛の言葉に、私はスカートの裾を持ち上げるふりをする。
あくまで、ふりだけ。うちの学校のスカートは短いから、本当に持ち上げると困ったことになってしまう。
お姉ちゃんは少し肩をすくめた。
「まったく。打ち合わせもなしに、よくそう話を合わせられるわね」
「それは私達の……」「俺達の……」
言いかけた私と祐一さんの台詞を、耳を押さえたお姉ちゃんが遮る。
「ああ、もう分かったからその先は言わないで!
……あたしの失言だったわ」
祐一さんはお姉ちゃんの様子がおかしかったのか、ちょっと笑いながら言った。
「そうは言っても、別に惚気だけってわけじゃないぞ。
実際、俺と栞って結構似た者同士だと思うんだが」
「まあ、どっちも変わり者ではあるわね……。
二人とも、突拍子もないことをしたりするし」
「そうかな? 私よりも祐一さんの方が、頭の回転はずっと早いと思うよ」
私の言葉に、お姉ちゃんが苦笑する。
「無駄に意味のないことには、そうかもね。
栞と違って、相沢君の場合はもう少し学校の授業にも役立てられればいいんだけど」
祐一さんが訝しげにお姉ちゃんに訊ねた。
「……もしかして、栞って学校の成績はかなりいいのか?」
「知らなかった?
栞は去年の入学式で新入生代表だったのよ。入学試験トップの成績だから。
ま、何といってもあたしの妹だしね」
当然とばかりに、お姉ちゃんが頷く。
――そんな何気ない台詞が、私には嬉しい。
「そうだったのか……。じゃあ今度、俺にも勉強を教えてくれ」
祐一さんが私に向かって言った。
「ええ、いいですよ」
頷く私を、お姉ちゃんが慌てた様子で止めた。
「ちょ、ちょっと。何安請け合いしてるの!
相沢君は今年三年生なのよ? いくらなんでも無理でしょう」
「えっと…。去年はずっと暇だったんで、三年分の勉強は済ませちゃったから。
多分、大丈夫だと思うよ?」
唖然とするお姉ちゃん。
昔から病気がちだった私は、授業を受けられずに自宅や病室で一人勉強することが多かった。自主学習の要領は割と得ているほうだと自分でも思う。
「うむ、学生としての立派な心構えの持ち主だな、栞は。
ウチの学校も留年と飛び級を相殺させて、栞を二年に進級させてくれればいいのに」
「それもいいかもしれませんね。
でも、せっかく元気になって学校にも通えるんですから、一年少なくなってしまうのはちょっともったいないです」
私の言葉に、祐一さんはふっと優しい笑みを浮かべた。
「そっか……。そうだな。
栞はずっと楽しみにしていたんだもんな」
そして祐一さんは、私の頭をそっと撫でてくれた。決して子供扱いではない、優しくて温かい感触……。
と、横からコホンと咳払いが聞こえた。
「……あのね。唐突に二人の世界へ入らないでくれるかしら?」
「なんだ、香里も撫でて欲しいのか?」
「遠慮しておきます。
とにかく、こんなところで突っ立ってないで、中へ入るわよ」
お姉ちゃんは不機嫌そうに言って、ドアのノブを掴んで引いた。
私と祐一さんは苦笑して、その後に続く。
「ただいまー」
「ただいまー」
「……お邪魔します」
三人の声が廊下に響くと、奥からお母さんが出てきた。
「はい、お帰りなさい。
それから、いらっしゃい祐一君」
そして、もう一人……
「ああ、君が祐一君か。
いらっしゃい。狭い家だが、ゆっくりしていってくれ」
……私達のお父さんは、にこやかに笑って祐一さんを出迎えた。
「あ、どうも。初めまして、相沢祐一です。
今日はご家族のパーティーに招いていただいて、ありがとうございます」
祐一さんはかなり緊張気味だった。
「ははっ、まあそう固くならないでくれ。
さあ、遠慮せずに奥へ上がって」
「は、はい」
お父さんに促されて、私達はリビングへ入った。
入り口を潜ったところで、祐一さんが奇妙な呻き声を上げる。
「うおっ……」
祐一さんが驚くのも無理はなかった。リビングの天井近くには、端から端へ横断幕が渡され、でかでかと文字が殴り書きしてあったのだから。
曰く――
『栞入学祝い2nd〜もしくはダブリ記念大パーティー(そんなこと言う人嫌いです!)』
「これ、もしかして……」
指差す祐一さんに、私は頷く。
「はい、お姉ちゃんです。括弧書きの中も」
当人は、すました顔で言った。
「あら、だって事実じゃない」
「それは、そうなんだけど……。ふーんだ、お姉ちゃんのいじわる!」
お母さんが笑いながら仲裁に入った。
「ほらほら、その辺にしておきなさいな。祐一君が困ってしまうわよ」
「はぁーい」
私とお姉ちゃんは声を揃えて返事した。
でも、祐一さんは困っているという風ではなかった。むしろ嬉しそうに、優しい笑みを浮かべていた。
――祐一さんは、私が求めてやまなかったものを知っていたから。
ソファーに座ると、お父さんが私達に声をかけた。
「春とはいえ、まだ外は寒かっただろう。
お母さん、すまないが温かい飲み物を淹れてくれないかな?」
「そうですね。コーヒーでいいかしら?」
お母さんの言葉に、祐一さんは頷く。
「はい。すみません、お手数をおかけして」
「気にしないで。香里と栞もいいわね?」
「うん、お願い」
「私はちょっとぬるめで」
お姉ちゃんと私が答える。
「はいはい、分かってます」
お母さんは微笑んで、キッチンへ向かった。
「ええと。おじさんは今日、お仕事のほうは……?」
祐一さんがお父さんに切り出した。
「ああ、今日は早退させてもらったんだよ。せっかくの娘の入学祝い……というか、留年祝いだからね」
「もう、お父さんまで……。そんなこと言う人たち、嫌い」
私が頬を膨らませると、お父さんは笑った。
「ははっ、悪い悪い。
ところで祐一君。『おじさん』なんて他人行儀じゃなく、君も『おとうさん』って呼んでくれても構わないんだが」
どんな漢字を割り当てるのか、微妙な言葉だった。
「えっ。いや、あの……」
祐一さんは額に汗をかきながら、しどろもどろだ。こんな様子で困っている祐一さんを見るのは珍しい。
「じゃあ、あたしは『おねえさん』かな。なんなら、栞みたいに『おねえちゃん』でもいいわよ」
お姉ちゃんが畳み掛ける。
「あ、うう……」
「二人とも、祐一さんをからかっちゃ駄目!」
私は祐一さんを庇うように、間に割り込む。
「ところで栞。先に着替えてきた方がいいんじゃない?」
お姉ちゃんは私の格好を見て言った。
そう、私は入学式の帰りなのだった。
去年からの学校の冬服に、真新しい青のリボン。そして胸には新入生の証たる花飾りが付いたまま――もっとも、私の場合は偽新入生だけど。
祐一さんもお姉ちゃんも私服だったから、制服姿なのは私だけだ。
「忘れてた。祐一さん、私ちょっと着替えてきますね」
「そ、そうか……」
祐一さんは心細そうな表情だった。
「二人とも、祐一さんを苛めたら駄目なんだからね」
「分かってますって」
「心配いらないから、早く着替えてきなさい」
安請け合いするお姉ちゃんとお父さんに一抹の不安を感じながらも、私はとりあえずリビングを出て自室へ向かった。
着替えを終えて階段を降り、リビングへ入ると、祐一さんは家族のみんなと談笑していた。どうやら心配は杞憂だったようだ。
「……なるほど、それで祐一君は日本へ残ったわけだ」
「さすがにスワヒリ語圏でやっていく自信はありませんから」
祐一さんが私に気付く。
「栞、着替え終わったんだな」
「はい。どうですか?」
私はくるりとその場で一回転した。
今着ているのは、大きめの襟が付いたピンクのワンピースだ。赤いリボンタイがアクセントになっている。
「ああ、似合ってるぞ」
家族の手前だからか、ちょっと照れ臭そうに言う祐一さん。
「ありがとうございます」
私は祐一さんの隣に腰かけた。
お母さんが、お盆から私のカップを手渡してくれる。
「はい、栞の分。お砂糖は三つでよかったわよね?」
「うん。ありがとう」
私はコーヒーを啜った。ほどよい温かさ――私は猫舌だから――になっているミルクコーヒーの香りが口の中に広がる。
「……今は、何のお話をしていたの?」
私の問いに、お父さんが答えた。
「ああ、ちょっと祐一君のご両親のことをね。
しかし、離れて暮らすのは心細くなったりしないかい、祐一君?」
「心細い……ってことはないですね。今は叔母の家に厄介になっていますから。
まあ、遠く離れた異国ですから、しっかり生活できているのか心配は心配なんですけど」
「普通、そういう心配は逆じゃないの?」
お姉ちゃんがおかしそうに言う。
「まあ、そうなんだろうけどな。
何というか、ウチの母親はかなり型破りな性格の人間だから……」
「型破りって……。祐一さんから見ても、ですか?」
それは相当な部類に入るんじゃないだろうか。
「……なんか多少含みを感じるが、まあ、そうだ。
思い返すだけで頭痛がしてくる、『参観日の大惨劇』や『ベーゴマ王伝説』などの数々の恐ろしい逸話は、今でもご町内で語り継がれているらしい」
「『今でも』って、まだ相沢君がこっちに来てから三ヶ月しか経ってないじゃないの」
すかさずお姉ちゃんが突っ込む。
「いや、住んでた当時から半ば伝説と化してたからな。
なんにしろ、息子の俺としてはかなりの迷惑を被ってきたわけだ。あの調子で向こうでも無茶をしてないといいんだが……」
祐一さんは溜め息をつく。なんだかんだと言っても、やっぱりご両親を案じているのが祐一さんらしい。
とは言え、祐一さんのお母さんはそんなに凄い人なんだろうか。お会いしてみたいような、ちょっと恐いような、複雑な気持ちだ。
……ふとコーヒーのカップから視線を上げると、私の家族――お父さん、お母さん、お姉ちゃんが、何やら意味ありげな笑みを浮かべていた。
「大丈夫よ。栞ならきっと気に入ってもらえるわ」
お母さんの言葉に、私は真っ赤になった。
「え、あ、その、あの……」
「栞はそそっかしいところがあるから心配だな。祐一君、フォローを頼むよ」
「は、はあ……」
どうやら、からかいの矛先は私の方にも向いたらしい。祐一さんも顔を赤らめて照れている。
「さてと……。ちょっと早いけど、そろそろ準備を始めよっか?」
お姉ちゃんがカップを置いて立ち上がった。
「そうね。もう下ごしらえは済ませてあるから、三十分もあれば用意できるわね」
「あ、わ、私も手伝うね!」
私は慌ててそう言ってから、カップに残ったコーヒーを飲み干した。
パーティーは和やかに盛り上がった。
お母さん、お姉ちゃん、そして私が作った料理を、祐一さんは美味しそうに食べてくれた。歓談目的のため一品一品のボリュームは少なめだったけれど、その分種類をたくさん用意してあったから、祐一さんには満足してもらえたと思う。
中でも、親戚から頂いたソーセージの盛り合わせが、祐一さんはいたく気に入ったようだった。お父さんは「ソーセージにはこれが一番合うから」と言って祐一さんにビールを勧めようとしたけど、これは私とお姉ちゃんとで止めさせた――祐一さんはちょっと飲みたそうではあったのだけれど。
私はと言えば、香辛料入りの辛いソーセージは駄目だったので、食べられる種類が少なくなってしまったのは残念と言えば残念だった。
そしてパーティーの終盤で、みんなが私にプレゼントを贈ってくれた。
お父さんからは懐中時計。私の肌が弱いため腕時計を付けられないことを思いやって選んでくれたものだ。ちょっと古風で、素敵なデザインの時計だった。
お母さんからは、デニム地のジャケットとミニスカートのセット。私が今まで着たことのない、活発なイメージの服だ。
お姉ちゃんからは緑のベレー帽。とっても可愛い感じだった。
……そう、家族からのプレゼントは、本当はあの日受け取るはずだったもの。
あの日――私が倒れ、家族のみんなを悲しませることになった、一年前の入学式に。
最後に祐一さんからは、野外用のイーゼルを頂いた。「栞は元気になったんだから、これからは好きなだけ絵を描けるんだぞ」と、祐一さんは私に微笑んだ。
嬉しくて、暖かい贈り物。私はちょっぴり目に涙を浮かべながら、みんなにお礼を言った。
ただ、祐一さんのプレゼントは家族には不評だった。お母さんが、「祐一君が責任を取ってね」と言い含めると、祐一さんも観念したようにこうべを垂れる。別に、そこまで嫌がらなくてもいいのに、と思うのだけれど。
何といっても、これから上達してく時間はたっぷりあるんだから。
パーティーの締めのデザートは、もちろんバニラのアイスクリームだった。普段食べている百円のラクトアイスも決して悪くはないけれど、やっぱりミルクのたくさん入った本物のアイスクリームは美味しかった。
そして、楽しかったパーティーも終わり……
「お姉ちゃん、こっちは終わったよ」
私は布巾でお皿の水気を拭き終えて、お姉ちゃんに声をかけた。
私達女性陣は、キッチンでパーティーの後片付けをしていた。さすがに普段よりも洗い物が多くて大変だったけれど。
ちなみに、男性陣は役たたずなのでリビングに残ったままだ。
「そう。
なら、ここはもういいから、あんたは先に相沢君の所へ行ってなさい」
お姉ちゃんは揚げ物に使った油を油こし器に注ぎながら言った。
「えっ、でも……」
「あとは香里とお母さんの二人ですぐ終わるから。
それに、祐一君がお父さんにお酒を飲まされないよう、誰かが見張っていた方がいいかもしれないわよ」
と、お母さんも悪戯っぽく微笑みながら言い添える。
「うん、分かった。
じゃあ、私はリビングに行ってるね」
私はエプロンを外して、キッチンを出た。
廊下から見える外の景色は、もう真っ暗だった。楽しい時間は早く過ぎてしまうように感じられると言うけれど、まったくその通りだ。
私がリビングの入り口に来たとき、中からお父さんの声が聞こえた。お父さんは真剣な表情で祐一さんを見つめていた。
「……だが、私はずっと君に詫びなければいけないと思っていたんだ」
私の足が止まった。
「それは、どういう意味ですか?」
祐一さんが問う。
「私も妻も、自分の娘達の仲がうまくいっていないのに気付いていた。互いの気持ちが擦れ違っていたのには。
それでも、どうすればいいのか分からなかったんだ。私達自身が、その残酷な告知を受け止めることができていなかったからね。
互いのことを確かに案じているはずなのに、私達家族はバラバラだった」
お父さんは溜め息をついた。
「それが、ある日を境に変わったんだ。
栞は泣き言を言ったりしない子だが、その笑顔は自分の運命を受け入れ、諦めてしまった者の表情だった。それがある朝から、わずかではあったがはっきりと変わったんだ。最後まで前を向いて、笑っていられる強さへと。
そこからゆっくりと、私達はまた家族へと戻ってくことができた。そして、最後には香里も栞と仲直りを果たせた。
……二人に聞いたよ。全て、君のおかげだったんだと。
祐一君がいてくれたからこそ、私達はまた、こうして笑い合える家族に戻ることができた。栞だけじゃない、私達四人の心を君は救ってくれたんだ。
どんなに感謝しても、し足りない。本当にありがとう……」
お父さんはそう言って祐一さんに頭を下げた。
「……おじさん、俺はそんなふうにお礼を言っていただけるような立派な人間じゃありません。お願いですから顔を上げてください」
祐一さんがお父さんを押し止める。
と、祐一さんはそこで私に気付いた。
「栞、そこにいたのか……」
「あ、あの……ごめんなさい。立ち聞きするつもりはなかったんだけど……」
「いや、構わんさ。入りづらかったんだろう?
そんなところに立ってないで、こっちへ来て座りなさい」
お父さんに促されて、私はまた祐一さんの隣へ腰かけた。
そして、祐一さんが切り出す。
「俺が何がしかのお役に立てたのだとしても、それはたくさんの偶然が重なった結果なんだと思います。
ずっと家族だったおじさん達の悲しみは、俺なんかよりも深かったでしょう。今にして思えば、果たして俺自身本当に覚悟ができていたのか……。
俺がしたのは、栞という女の子を好きになったということ、ただそれだけです。おじさんにお礼を言われるほどのことは、何もしていません」
お父さんは祐一さんの顔を見つめると、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「君は、本当にいい少年なんだな。
では、言い直させてもらおう。
祐一君、私の娘を愛してくれてありがとう」
「……はい!」
祐一さんはお父さんの視線をまっすぐに受け止め、力強く答えた。
私はソファーの上に置かれた祐一さんの手に、そっと自分の手を添える。祐一さんは私に微笑むと、優しく私の手を包んでくれた。
「あーっ、何を仲良く手を繋いでるのよ」
お姉ちゃんとお母さんが、後片付けを終えてリビングに戻ってきた。
「まあ、いいじゃないの。『仲良きことは美しき哉』って言うでしょう?」
「そうだけど……。あんまり見せつけられるのも、なんだか癪なのよね」
お母さんになだめられながらも、お姉ちゃんは愚痴る。でも、その表情はちょっぴり嬉しそうに見えた。
そこで、お父さんが膝をぱん、と叩いた。
「うん、私は祐一君が気に入った!
どうかね? いっそウチに婿入りしてみる気はないかな?」
「えっ! あの、その……」
「おっ、お父さん! ちょっと気が早すぎるよ!」
突然の言葉に動転する祐一さんと私。
「我が家は二人とも娘だからなあ。どちらかの相手が婿に来てくれると嬉しいんだが……」
「そっそれなら、香里の方はどうなんだ?」
唐突に祐一さんに話題を振られたお姉ちゃんも、慌てた様子で首を横に振った。
「あ、あたしは駄目よ。だってまだ相手もいないんだし……」
すかさず私が追い打ちをかける。
「うん、まだ片思いの段階だもんね」
「しっ、栞! あんた余計なことを……」
「あら、香里にもそんな相手がいたのね。どんな子?」
「うむ。詳しく聞きたいな」
「えっとね……」
「わーっ! それ以上は駄目っ!」
そうして、にぎやかに夜は更けていく……。
玄関の明かりと街灯、そして家々の窓から漏れる光が、夜の闇を照らす。
私は祐一さんを見送りに、外へ出てきていた。
祐一さんは私のお気に入りのマフラーを首に巻いている。夜になってかなり冷え込んできたため、お貸ししたのだ。明かりの中、自分の吐く息が白くなるのが見える。
「祐一さん、今日は本当にありがとうございました」
私はそう言って、ぺこりとおじぎをした。
「いや、礼を言うのはこっちのほうだ。楽しかったし、料理も美味かったからな」
「私も、祐一さんに喜んでもらえて嬉しいです」
「そうだな。栞が喜ぶと俺も嬉しいし、俺が喜ぶと栞がまた嬉しくなる」
祐一さんが空を見上げる。そこには春の薄い雲越しにぼんやりと、上弦の月が見えた。
「ポジティブ・フィードバックですね」
「ボジ……なんだって?」
私の言葉に、祐一さんは視線を私に戻した。
「ポジティブ・フィードバック、正帰還とも言います。電気回路なんかで使われる用語ですよ。増幅した信号を入力側に戻すことで、高い増幅率が得られるんです。
簡単に言うと、好循環とか、悪循環とか、そんな感じの意味になりますね」
「うーん、電気の方は知らないんだが、だいたいは分かった。
やっぱり栞は頭がいいんだな」
「そんなことは……ありませんよ」
少しだけ微笑む。だけど、祐一さんは私を見て、怪訝な表情になった。
「何か、心配なことがあるのか?」
「あ、いえ。大したことじゃないですから」
「いいから、言ってみろって」
やっぱり、祐一さんを誤魔化すことはできないみたいだった。
「……ポジティブ・フィードバックは、本質的に不安定なんです」
祐一さんは頷いた。
「ああ、栞の言いたいことは分かる。つまり、好循環と悪循環は表裏一体ってことだな。
相手が幸せだと自分も幸せになる――それは裏を返せば、相手が不幸だと自分も不幸になってしまうということだ。
……ちょうど、少し前の栞と香里のように」
「はい……」
そう、相手を思いやる気持ちは変わらないはずなのに、時としてバランスが崩れてしまうことがあるのを私は知っている。
そして、私が何よりも恐れるのは、祐一さんを悲しませてしまうことだった。
祐一さんは私の手を取って続けた。
「けどな、栞。
俺達は単なる電気回路なんかじゃない。決められた通りの働きをするだけの部品とは、わけが違うんだ。悪循環が気に入らないのなら、自分の意志で断ち切ってしまえばいい。
おじさんはああ言ったけど、栞と香里が仲直りできたのは俺の力じゃないさ。二人がそう願ったからだろう?
相手のことを思うというのはどういうことなのか、それさえ見失わなければ大丈夫だ」
――そう、これがこの人の強さ。
「ふふっ。私、ちょっと取り越し苦労でしたね」
「そうだな。まあ、分からんでもないが……。
確か去年の今日、だったんだろう?」
「ええ、そうです。去年の入学式の日に、私は倒れたんです」
それが悪循環の始まりの日だった。
私の病状はどんどん悪化し、両親を悲しませ、そしてお姉ちゃんの心を凍りつかせた。
愚かな選択と知りながら、私は自らの命を断つことでそれを終わらせようとし……そして、祐一さんと出会った。
「一年遅れではあるけれど、今日からやりなおせばいいさ。
大丈夫、栞は幸せになる。俺がそれを叶えてやる」
「嬉しいです……」
二人の顔が近づき、そっと触れるようなキスを交わす。
そう、どんなに辛いことがあっても、この人と一緒ならば乗り越えていくことができるだろう。
体を離すと、祐一さんは笑顔で言った。
「それじゃ栞、また明日な」
「はい、明日また学校で。おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
祐一さんは踵を返した。そしてポケットに両手を突っ込み、空を見上げながら去っていく。私はその背中に、心の中で語りかけた。
(大好きです、祐一さん。世界中の誰よりも……)
少しだけ祐一さんの後ろ姿を見送った後、私は玄関のドアを開けて中へ入った――暖かい家族が待つ家の中へ。
Fin.