凍えるような冷たい闇の中に、彼女は横たわっていた。
光はなく、音はなく、匂いもない。それどころか、時すら存在しないのかもしれなかった。
思考することもできない彼女を責め苛むのはただひとつ、寒いという感覚だけ。
永遠に続いているのか、それともほんの一瞬でしかないのか、それさえ分からない。闇の中で、彼女は身を切るような冷気にただ耐え続ける。
何も変化しないはずの世界――しかし、突如その闇を打ち砕くものが現れた。
それもまた、彼女に苦痛をもたらすものだった。彼女は痛みから逃れようと身じろぎし、そして気付く。それが闇を切り裂く光の刃だということに。
全身を焼かれるような苦痛を味わいながら、彼女は光の差す方へと腕を伸ばした。凍りついた時間をも、その閃光が打ち砕いてくれることを願って。
そして――
――そして、栞は目覚めた。
全身に軽い虚脱感。しかし、ここ最近栞を苦しめてきた痛みは感じられない。
(ここは……?)
視界には、見覚えのない天井が映っていた。不可思議な模様に彩られた天井は、栞には少し悪趣味に感じられる。照明らしきものは存在せず、天井全体が淡く光を放っているようだった。
「お目覚めですか」
隣から、若い女性の声が聞こえた。首を動かすと、白衣に身を包んだ看護婦がベッドの脇に立ち、穏やかな表情で栞の様子を窺っているのが見えた。艶やかな黒髪をショートカットにした、清楚なイメージの女の人だ。
「……」
声を出そうとして、栞は喉がカラカラなのに気付く。その様子を察した看護婦が、水差しを手にとって栞の口元へ差し出した。
吸い口を咥えて飲み込むと、例えようもないほど甘美な水が栞の喉を潤した。飲み終えた栞は小さく咳払いをして、また尋ねる。
「こほん……。えっと、ここはどこですか?」
看護婦は水差しを片付けると、美しいメゾソプラノの声で答えた。
「ここは、エヒメ・コンソリデーテッド・サンクチュアリです」
「愛媛県、なんですか?」
一晩でずいぶんと移動したものだと栞は驚いた。
「少し違いますが、おおむね正しいでしょう」
「……?」
近くだが、愛媛県ではないということだろうか。
「あなたのお名前を教えていただけますか?」
今度は看護婦が栞に問いかけてきた。
「あ……美坂栞、です」
看護婦が患者本人に名前を尋ねる――その奇妙さに栞が気付く前に、看護婦は視線を宙に這わせて呟いた。
「美坂栞……登録番号CVZF−2、確認しました」
そして視線を戻すと、表情を翳らせて栞に告げる。
「栞さん、少し驚かれるかもしれませんが……。実は、あなたが前回眠りに就かれてから、かなりの時間が経過しています」
「えっ?」
栞はびっくりし、気だるい体を動かして両手を顔の前まで持ってきた。しかし、そこには前に見たときと変わった様子はない。目が覚めたらおばあちゃん、などということはなさそうだと、栞はほっとする。
「かなりというのは、どれくらいなんでしょうか……」
尋ねる栞に、看護婦は一拍だけ間を置くと、静かに告げた。
「千年です」
栞はきょとんとした表情で看護婦を見つめた。その言葉の意味するところが分からなかったためだ。
「今は西暦三〇〇一年、三十一世紀最初の年です。栞さん、あなたは冷凍保存され、千年の間眠りに就いていたんですよ」
看護婦の語る内容を理解していくにつれ、栞の体が震え始める。
一年ではない。十年でもない。そして、百年ですらない。
千年――その響きは栞にとって永遠に等しかった。栞がかつて生きていた時間に、千年前のものがどれだけ原形をとどめていただろうか。そして今、そこから千年の時が流れた後に、栞の見知ったものがどれだけ残っているだろうか。
空が海に、鳥が魚に変えられてしまってもおかしくない、それだけの重みを持つ時間だ。
体の震えが止まらない中で、栞はようやく自分が最後に眠りに就いたときの記憶を思い出していた。
集中治療室で、人工呼吸器を取り付けられて横たわる自分。ベッドを取り囲む医師、看護婦、両親。自分の腕にすがり、泣きじゃくる姉。
『ごめんねっ。栞、ごめんねっ』
そして、暗転――。
(そっか。私、死んじゃったんだ……)
栞は理解し、納得する。人が不治の病で病死したとき、いつか治療法が見つかるまで遺体を冷凍保存するというサービスがあることは知識で知っていた。そのときはまさか、栞自身がそうなるとは思ってもみなかったが。
唯一の救いは、香里のことだった。病状が重くなってから栞を避け続けていた香里は、最後に栞を認め、謝ってくれたのだ。その泣いている香里の顔が――
(……あれ?)
何やら奇妙な違和感を覚えた栞だが、再び声を発した看護婦の方に意識を引き戻される。
「栞さん、お体の具合はいかがですか?」
「えっ? あ、はい。ちょっとだるいだけで、苦しくはないです」
栞の答えに看護婦は頷いた。
「栞さんの体の中には、ナノマシンと呼ばれる極小の機械が無数に注入されています。これが解凍時のダメージから体を守り、同時に栞さんの病を治療しました。以後、外因性・内因性を問わず、栞さんが病気に罹ることはまずないでしょう」
「はぁ……」
ずっと病弱だった栞にとって喜ばしいことではあったが、混乱している今は実感が湧いてこない。
「ただし、この治療法は確立したばかりで十分な臨床例がありません。栞さんのような長期冷凍保存から回復した場合、軽微な記憶障害が起こる可能性もあります――と言っても、軽い物忘れ程度だと思われますが」
少しだけ不安になるものの、そんなものかと栞は看護婦の言葉を受け入れる。何しろ、千年が経過しているのだ。そのくらいは仕方のないことなのだろう。
「それから、申し遅れましたが、私はR・ダーナ・オリヴォーと申します。しばらく栞さんのお世話をさせていただくことになりますので、よろしくお願いいたします」
看護婦がそう挨拶する。見かけは日本人にしか見えないが、名前はそれらしくなかった。
もっとも、そもそも『日本人』という枠組みが残っているのかすら定かじゃない、と栞は思い直した。少なくとも、先ほどの言葉から推測する限り、『愛媛県』という自治体は存在しないようなのだから。
「えっと、アールさんとお呼びすればいいですか?」
栞の言葉に、看護婦は笑みを浮かべた。
「いえ、『R』とはロボットを示す記号です。どのような呼び方をされても構いませんが、普段はダーナと呼ばれることが多いですね」
それは目を覚まして以来、栞にとって二番目に大きな驚きだった。
「ろ、ロボット? あなたは、人間じゃないんですか?」
「ええ、そうです。現代では看護の仕事を担うのはロボットであることが一般的です。それに、日本語を満足に話せる人間は限られますから。二十世紀後半の語彙に限定するとなると、ほぼ皆無と言っていいかもしれません」
「な、なるほど……」
栞は困惑しつつも、それを受け入れる。
「あ、あの……。すみませんが、少し一人にしてもらえませんか? なんだか混乱していて、ちょっと気持ちの整理をつけたいので」
栞がおずおずと申し出ると、ダーナは頷いた。
「分かりました。もしご用がおありでしたら、呼んでいただければすぐに参ります」
「えっと、ナースコールボタンは……」
「いえ。声に出して普通に名前を呼んでいただければ結構です。それでは、失礼いたします」
ダーナはおじぎしてから、栞の病室を辞していった。部屋のドアは栞が知るものと大差なく――四隅が丸みを帯びている以外には――、未来世界とは言え何もかも変わってしまったわけではないのだと少し安心する。もっとも、壁紙は天井同様あまり趣味の良い模様には思えなかったが。
「三十一世紀、か……」
視線を上に向け、栞はぽつりと呟いた。
正直なところ、今でも半信半疑だった。全部嘘だったならどんなに良いだろうと栞は思う。けれども、そんな悪趣味な冗談を仕掛ける道理などない。
それに、自分が一度亡くなったのは事実だということを、栞は漠然と感じ取っていたのだった。
(寂しいけど、せっかくもらった命だから頑張ってみるね、お姉ちゃん)
心の内で香里にそう語りかける。
しかしその瞬間、栞は愕然とした。彼女は気付いたのだった――自分が、姉である香里の顔を全く思い出せないことに。
「えっ……どうして……?」
その体が、またガクガクと震え始めた。
二人は仲の良い姉妹だった。一緒に遊んだり、喧嘩したり、いたずらして母親に叱られたりと、たくさんの思い出が栞の中にはある。けれど、その記憶の中で香里の顔だけがぽっかりと、塗りつぶされたかのように空白となり、思い出せなかった。
「嫌……嫌だよっ。お姉ちゃん、一人にしないで……!」
栞の精一杯の虚勢もそこまでだった。孤独感、寂寥感、そして家族を失った悲しみがひとかたまりとなって栞に襲いかかる。
それが記憶障害によるものなのか、あるいは自分が姉を許せないために思い出すことを拒否しているのか、栞には分からなかった。ただ、最も親しかった家族の顔を思い出せない薄情な人間なのだと、栞は自分を責める。
「うっ……ひっく……ぐすっ……」
嗚咽を押し殺しながら、栞は一人泣き続けた。やがて、泣き疲れた栞は穏やかな眠りの中へと落ちていった。その頬に涙の跡を残して。
次の日から、栞は積極的に情報収集を始めた。片道切符だとしても、せっかく未来へとやって来たのだから楽しまない手はない、と考えたためだ。
無論、栞の胸から悲しみは消えてはいなかったが、少なくとも何かに没頭している間はそれを忘れていられる。長い闘病生活から、栞はそのことを経験的に知っていた。
世界で話される言葉は、英語を元にしたアングリックという言語にほぼ統一されていた。さすがにこれをすぐに覚えることは無理だったので、栞はダーナに頼んでネットワークから引き出した情報を日本語に翻訳してもらうことにする。
千年の間に、人類は地球を出て太陽系全域へと進出していたようだった。今では月、火星、果ては木星や土星の衛星にまで人が住み着き、さらに遠く他の星へ足を延ばそうとし始めている。とは言え、そこで行われていることは利害の対立による諍いなど、栞が知る二十世紀の世界情勢と大差はなかった。
逆に、アート面ではかなり面食らうことばかりだった。ファッションは奇抜過ぎて、栞はしばしば赤面させられることになった。音楽も、耳ざわりなノイズにしか聞こえないものばかりだ。
かつて楽しみにしていたテレビドラマに似たものも鑑賞してみたが、前提条件が分からないためにストーリーが理解できない。ひとつは警察官が小惑星帯の鉱夫に化けて麻薬のルートを追うという筋書きらしかったが、『ズウィルニク』やら『デラメーター』などの理解不能な単語が頻出してお手上げだった。どこまでが現実的で、どこからがフィクションなのかすら栞には判別できないため、無理もなかった。
その一方で、栞は自分が世間的に注目を集めていることを知り、当惑する。ダーナに尋ねてみると、彼女は微笑んで答えた。
「ひとつには、栞さんが二十世紀という大昔から来た異邦人であることですね。これはご理解いただけると思いますが。
加えて、栞さんがナノマシンによる大がかりな治療を受けられた最初の二人のうちの一人であることも、その一因です」
「ナノマシン、ですか?」
栞が怪訝そうに呟くと、ダーナは頷く。
「はい。現代において、健康な人の平均寿命は二百歳に近づいていますが、それでも限界はあります。ところが、細胞の中にまで入り込んで治療を行うことができるナノマシンは、その限界を突き破ることができるんです。人によっては、不老不死さえ不可能ではないと信じる者もいるようですね」
「なるほど……」
要するに、自分は新しい治療法の被験者なのだと栞は理解した。
そして、ダーナは苦笑して続ける。
「最後のひとつは少々下世話な話になります。実は、栞さんは今、太陽系中でも有数の資産家なんですよ。ですから、注目を集めないわけがありません」
「えっ?」
栞は驚いて目をパチパチと瞬かせた。
「栞さんのご両親は、栞さんが回復されることを願って当施設に投資されました。そして、その研究の成果がナノマシンなのです。栞さんに分かりやすい言葉で言い換えると、『世界的に注目を集める新治療法を編み出した研究施設の主要株主』という辺りでしょうか」
「か、株主ですか……」
「今の経済は株式とは異なるシステムですので、厳密には違いますけど。むしろ、もうお一方と栞さんのお二人で、当施設の共同オーナーと言った方が適切かもしれません」
そこでダーナは真面目な表情を作ると、栞に向かって切り出した。
「実は、そのもうお一人の方に関して栞さんにご相談があるのですが、よろしいでしょうか?」
「あ、はい。私にできることであれば」
目覚めてからまだ数日。右も左も分からない状態の栞だったが、それでも誰かの力になれるというのは彼女にとって嬉しいことだった。
「その方は栞さんと同時代の人で、しかも記録では同じ病院に入院されていたとのことです。もっとも、栞さんが眠りに就かれる七年前に大木から落ちて、そのまま昏睡状態に陥ったそうですが」
ああ、と栞は頷く。
「そのお話なら聞いたことあります。面識はありませんけど、確か私よりひとつ年上の女の子でしたよね?」
小さな街ででは大きなニュースになったので、栞も記憶していた。しかし、知り合いでないとは言え、同じ時代の出身者がもう一人いるというのは心強い。
「ええ。その方は衰弱が激しかったため、栞さんより一ヶ月ほど早く冷凍状態から戻され、治療を受けてきました。今、お体はほぼ健康な状態に回復されています。
ですが、心はそう簡単にはまいりません。見知らぬ場所でたった一人になってしまったことを悲しまれ、とても意気消沈されている状態なのです。境遇の近い栞さんとお話できれば、少しは元気になられるかと思うのですけれど」
今までいた世界から切り離されて独りぼっちになってしまったという孤独感は、栞にはよく理解できた。
「分かりました。その方に会わせていただけますか?」
栞自身もまだ同じ悲しみを乗り越えたわけではないが、『空元気も元気』という言葉もある。それに、同じ時代から来た同世代の少女なら、ぜひ会って仲良くなりたいと栞は思った。
「ありがとうございます。それでは、浮上椅子を持ってまいりますので少々お待ちいただけますか?」
フジョウイスってなんだろう、と栞は思ったが、ダーナが持ってきたものを見てすぐに納得する。要するに空中に浮かび上がった車椅子のようなものだ。どんな仕組みなのかはさっぱり分からなかったが、そういうものなのだろうと栞は深く考えずに受け入れた。
まだ体力が完全には戻らないので、ダーナに手伝ってもらい椅子の上に体を移す。そして、浮上椅子の背を押してもらい、栞は部屋の外へ出た。
廊下からは、赤や黄色に色づき始めた木々を西日が黄金色の光で照らしているのが見えた。開け放たれた窓から涼やかな秋風が流れ込み、栞の頬を撫でる。
こうしていると、今が三十一世紀だということが信じられない思いだった。栞が座る椅子に車輪が付いてないのを除けば、だったが。
透明なチューブ状のエレベータでひとつ階を上がり、栞が寝起きしている場所の真上にあるらしい部屋の前までやってくる。そして、栞とダーナはドアをくぐった。
部屋には、ウェーブのかかった髪をした看護婦が一人。その髪型が、今なお顔を思い出せない姉の姿と重なって、栞の胸が少し痛む。
そして、ベッドの上に半身を起こして驚いた様子で目を丸くしている少女を見たとき、栞は思わず「あっ」と声を上げてしまった。
「キミは……」
「あなたは……」
それは雪の遊歩道で出会った少女、月宮あゆとの、千年ぶりの再会だった。
「……そうですか。そんな不思議なことが起こっていたんですね」
あゆの話に耳を傾けていた栞は、溜め息をついてそう言った。
今はダーナには席を外してもらっている。栞とあゆが驚いたことに、二人の看護婦はどちらも同じ『R・ダーナ・オリヴォー』らしい。ひとつの機械知性が、同時にふたつのボディを操っているというのだ。普段のダーナは人間そっくりだが、こんなときは人ではないのだと実感させられる。
「ボクの言うこと、信じてくれるの?」
あゆがおそるおそる栞に尋ねた。
「もちろんです。だって、私は確かにあのとき、あゆさんと出会ってますから」
栞が強く頷くと、あゆはほっとした様子で弱々しく微笑む。
「ありがとう……。ボク、もしかしたら全部、ただの夢だったんじゃないかって思い始めてたから」
あゆにとって、それが現実だと証明するものはなにひとつなかったのだ。それがあゆを落ち込ませていた理由のひとつだと栞は察する。
「そう言えば、私もあの後祐一さんに会ったんですよ、二度ほど」
自分にとってはほんの一月足らず前の記憶を思い返しながら、栞は目をつぶった。
「一度目は、学校の中庭でした。授業が終わって、祐一さんが私のいるところまで降りてきてくれたんです。やっぱりちょっと変わった人ですよね。自分のこと、『お兄ちゃんと呼んでいいぞ』なんて言ったりして。
二度目は、会ったと言えるほどじゃないかもしれません。やっぱり中庭にいた私の近くへ、祐一さんが二階の教室からお金を包んだ紙を投げてきたんです。紙には『今すぐ帰れ!』とか『帰りにこれで温かいものでも買っていいぞ』とか書いてありました。失礼しちゃいますよね、女の子に向かって」
栞が目を開くと、あゆは俯いて表情を翳らせていた。
「ボクも、祐一君とは何度か会ったんだよ。でも……」
あゆはぎゅっと目を閉じて、シーツを握り締める。
「何があったのか、よく覚えてないんだ。忘れちゃいけない、忘れたくないことがあったような気がするのに、それがなんだったのかよく覚えてないんだよ……」
その目尻に、涙の雫が光った。
「ボク、どうしてここにいるんだろう。何もかも全部なくなっちゃって、祐一君もいなくなっちゃって、ボクも祐一君との思い出を忘れちゃった。ボクがここにいるのは、いったい何の意味があるのかな?」
「……」
あゆの疑問に栞は答えられなかった。その問いは、栞の中にもずっとくすぶり続けていたものだったからだ。代わりに、そっとあゆの手に自分の手を重ねる。
「私も、お姉ちゃんの顔を思い出せないんです」
「栞ちゃん……?」
あゆが気遣うように栞の方を窺う。栞は静かに続けた。
「大好きだったお姉ちゃんなのに、その顔だけが記憶からすっぽり抜け落ちてるんです。ほんと、薄情な妹ですよね。だけど……」
栞はあゆの顔をまっすぐに見つめた。栞の目には同じく涙が浮かんでいるものの、その表情は笑顔だった。
「私がいつまでも落ち込んでいたら、きっとお姉ちゃんに怒られちゃいます。私を助けようとしてくれた人達にも申し訳ないですし。
まだ答えは見つかりませんけど、生きていればきっといいことがあります」
「うん……そうだね……」
そう口にはするものの、あゆの表情はまだ暗い。
栞は浮上椅子を上手に操って、窓際に近づいた。
「やっぱり、あゆさんの部屋の方がいい眺めですね。知ってましたか、私の部屋ってちょうどここの真下なんですよ」
「そう……なんだ」
夕暮れ色に染まりゆく空と海を栞は見つめた。太陽はまもなく沈み、夜の帳と星々が辺りを包み込むのはすぐだろう。
そして、その光景の中に違和感を覚えるものがひとつ――
「そう言えばあゆさん、あれがなんだか知ってますか?」
栞は海からまっすぐに上へと伸びた細い光の筋を指差し、あゆを振り返った。
「えっと。軌道エレベータ、だっけ?」
「はい、宇宙と地上を結ぶ掛け橋です。凄いですよね。あんなものができちゃうなんて、三十一世紀恐るべし、です。……そうだ」
栞は両手を打ち鳴らして続けた。
「あゆさん、あの軌道エレベータのてっぺんまで登ってみませんか? ずっとここにいるのも退屈ですし、せっかく健康になれたんですから色々挑戦してみなくちゃ」
栞の提案に、目を丸くしながらもあゆが頷く。
「あ、うん。それはいいけど……」
あゆの返事を聞いて、栞はにっこりと笑った。
――それから一週間後。
二人乗りエアカーの透明な天井越しにそれを見上げて、栞は驚きのあまりぽかんと口を上げたまま固まっていた。
直径数百メートルの巨大な尖塔。それが上空へどこまでも続いていき、青い空の彼方に細く霞んで見えなくなる。時折、スペースシャトルに似た三角翼の飛行機のようなものがその側面を登って、あるいは下ってくるのが見えた。
通称『クラーク・タワー』――二十世紀のSF作家アーサー・C・クラークにちなんでそう呼ばれる、第三軌道エレベータだ。
衛星軌道と地上を結んでいる、長さ七万キロメートルにも及ぶ巨大な、しかし文字どおりのエレベータだった。この施設があってこそ、三十一世紀の現代ではロケットなしに人は宇宙へと跳び出していくことができるのだ。
場所はニューギニア島のやや北、赤道直下の海に作られた人工島である。栞とあゆはお揃いのサマードレス――栞が白、あゆが黄色の、三〇〇一年にしては大人しいデザインだ――を着ていたが、エアカーの中は比較的涼しい。
「これ、倒れてきちゃわないのかな……?」
栞の隣の座席に座ったあゆが、やはり呆然とした様子で呟いた。栞は自分が口を開けっ放しだったことに気付き、赤面して口を閉じる。
「大丈夫ですよ。よろしければ、軌道エレベータの原理をお教えいたしましょうか?」
エアカーのダッシュボードから、ダーナの声が聞こえてきた。看護婦のボディは施設の備品で、外への持ち出しが許されていなかったため、ダーナは意識のみで二人に同行することになったのだった。彼女にとって、ボディは人間の衣服程度のものらしかった。
「はい。あ、でも、難しいお話になると分からなくなっちゃいますけど」
栞の言葉に、ダーナは穏やかに答える。
「簡単な説明ですから、ご安心ください。ところで、お二人は静止衛星がどんなものかご存じですか?」
「はい。知ってます」
「ボク、よく分からないかも……」
頷く栞と、首をかしげるあゆ。
「静止衛星というのは人工衛星の一種です。人工衛星は地球の周りを回っていますが、その高度により一周にかかる時間が異なってくるのです。例えば、高度千キロメートルでは一時間四十五分、高度一万キロメートルでは五時間四十七分というように。
そして高度約三万六千キロメートルでは、人工衛星は二十四時間で地球の周囲を一周します」
「二十四時間?」
「はい。地球の自転する速さと同じです。つまり、人工衛星が公転するのと同じ周期で地球が回っているために、地上から見るとその衛星は空の一点に留まって見えるわけですね。これが静止衛星です」
「なんとなく分かった、かな?」
あゆが納得して頷いた。ダーナは続ける。
「軌道エレベータは静止衛星の発展形なのですよ。例えば、静止衛星から上下にバランスよく紐を伸ばしていくとします。すると、下側の紐は重力で下に、上側の紐は遠心力で上に引っ張られ、紐はまっすぐに伸びるんです」
栞が口元に指を添えて呟いた。
「分かってきました。つまり、その紐をどんどん伸ばして下の端が地表まで届くと……」
ダーナは栞の言葉に同意した。
「その通り。それが軌道エレベータの基本です。もっとも、外側の紐はそのまま伸ばしていくとかなりの長さになってしまうので、代わりに錘として宇宙ステーションが取り付けられていますが。
つまり、軌道エレベータは下から支えられているのではなく、上から吊り下がっているわけですね。ですから、バランスを崩して倒れてしまうという心配はいりません」
「そうなんだ……」
あゆは頷いてから、再び軌道エレベータの雄大な姿を眺めて嘆息する。
「軌道エレベータの基本アイディアが生まれたのは、栞さんやあゆさんの生まれる少し前なんですよ。一九六〇年、ソビエト連邦の学生だったアルツターノフ氏が、新聞の日曜版に読み物としてこのアイディアを発表されたのです」
「私、全然知りませんでした」
「ボクも」
「それは仕方がないことでしょう。当時は数万キロメートルもの長さに耐えられる素材がありませんでしたから、軌道エレベータも夢物語に近いものでした。現実味を帯びてくるのは、二十一世紀に入ってからになります」
そんな会話をしているうちに、エアカーはエレベータの基部、地上ステーションへと辿り着いた。栞達はエアカーを降り、軌道エレベータを登っていくエレクトリック・ビークルに乗り移る。ダーナもまた、エアカーからビークルへと意識のデータを転送させた。
ビークルは栞が外から見た通り、スペースシャトルに似ていた。ダーナに尋ねると、「何かトラブルが起こったときに、そのまま滑空して地上へ戻れるようになっているんです」とのことだった。
「なんだか、どきどきしますね」
栞が胸を躍らせながらあゆに話しかけたとき、機内にベルが鳴り響いた。
「あっ、動き出したよ、栞ちゃん」
二人が窓にかじりついて外を見ると、自分達が上昇していくのが分かった。青い海に囲まれた中、ビークルは次第に速度を上げて軌道エレベータの側面を登っていく。
雲を突き抜けて成層圏に達するのはあっという間のことだった。空は次第に藍色から黒へと変化していき、昼間にも関らず星が見え始めた。
「あゆさん、栞さん、席に戻ってシートベルトをお付けください。間もなく強い加速が始まりますので」
「分かりました」
「うん」
ダーナの指示に従う二人。ほどなく機内アナウンスが流れ、ダーナの言ったことと同様の言葉を告げる。
じっと待つ栞達は、やがて体がぐっと下に押さえつけられるのを感じた。
「うぐ……。ちょっと苦しいかも」
「そうですね。体重が、二倍に、なってますから」
ビークルが猛然と加速を始めたためだった。呼吸できないというほどではないが、絶え間なく続く加速感は病み上がりの二人には少し辛い。しかし、それもそう長くは続かなかった。
「だんだん、楽になってきましたね」
「加速、終わっちゃったのかな?」
あゆの疑問にダーナが答えた。
「いえ、加速はまだ続いています。体が軽くなったのは、ビークルが地球から次第に離れていくために重力が弱くなってきたからです」
「へぇ……」
普段は意識しない重力と距離の関係を実感して、あゆは目を丸くする。
上昇を始めて三十分ほどが経過したところで、ビークルは一旦加速を打ち切った。一時的な無重量状態の中、栞とあゆの座っている座席が回転し、上下逆さまとなる。
そして、依然猛スピードで上昇中のビークルは、今度は減速を始めた。上昇時にかけたのと同じ時間を要してビークルは速度を殺していき、三万六千キロメートルの高みに置かれた静止軌道ステーションで停止した。
「すごいですね……。地上からここまで、一時間ちょっとしかかかってません」
栞が感心してそう言うと、あゆも同意した。
「うん。なんだかエレベータって言うより、電車みたいなイメージかな」
二人は静止軌道ステーションでしばし無重量状態と景色を楽しんだ後、目的地へと向かうために、さらに上へと伸びるエレベータのビークルへ乗り込んだ。行程も所要時間も、地上から静止軌道までとほぼ同様だったが、地球重力の影響が少ないために苦しさは感じなかった。
そしてついに、栞とあゆは軌道エレベータの最上階、地上七万キロメートルに位置する終端ステーションへと到達したのだった。
「ここが軌道エレベータのてっぺんなんですね」
展望室に入った栞は、透明なドームに覆われた天井を見上げて喚声を上げた。
「わあっ……。この場所では上に地球があるんだ……」
地上から見上げたとき同様、軌道エレベータの長大な姿がまっすぐ上へ伸びていた。しかし、その消失点にあるのは青空ではなく、雲の衣を纏った蒼い惑星だ。
漆黒の宇宙を背景に、三分の一ほど欠けた地球が、あたかも巨大な月のように栞とあゆを照らしている。
「この高度では、地球の重力より遠心力の方が強いですから」
ダーナの声が室内に響いた。
地上ステーションの反対側の端に置かれた終端ステーションでは、地上の三十分の一程度の力で地球と反対方向に体が引っ張られている。そのままでは何かの拍子に体が浮き上がってしまうため、栞達は靴底が床に張り付く特殊な靴に履き替えていた。さすがに飛び上がることはできないものの、普通に歩く分には違和感はない。
「……あゆさん、どうかしましたか?」
「あ、ううん」
さっきから黙ったままのあゆを怪訝に思った栞が声をかけると、あゆは気のない返事をした。軌道エレベータを上がってくる間は明るかった表情も、今は沈みがちだった。
その様子を見た栞は、ダーナに声をかける。
「すみませんけどダーナさん、ちょっと二人だけにしてもらえますか?」
「分かりました。ご用がありましたら、いつものように名前をお呼びください」
「はい、お願いします」
ぺこりと頭を下げると、栞はあゆの方へ向き直った。
「あゆさん。やっぱり辛いですか?」
「……ごめんね、栞ちゃん。ボクのこと元気づけようとして、せっかく連れてきてくれたのに」
あゆがすまなそうに謝ると、栞は首を横に振った。
「それは構いません。でも、あゆさんが悲しんでいるのを見ているのは私も辛いです。よかったら、あゆさんのお気持ちを私に教えてもらえますか?」
栞の言葉に小さく頷いたあゆは、ぽつりぽつりと語り始めた。
「ここは、地上からすごく離れてるよね。高度七万キロだっけ? ちょっとボクには想像もできないくらい、遠い遠い距離だよ。でも……」
あゆは顔を上げ、まっすぐに地球へと向かう軌道エレベータを仰ぎ見る。
「このエレベータを伝っていけば、いつだって戻れるよね。軌道エレベータが使えなくても、ロケットで降りていくことだってできるんだ。
だけど、時間は違うんだよ。千年の時間は一方通行で、どうやっても元に戻ることはできない。だって……この世界にはタイムマシンはないんだもん」
栞の胸が痛んだ。彼女自身も現代にそれが実用化されていないか、こっそり調べたことがあったのだ。しかし、分かったのはタイムマシンなど存在し得ないということだけ。三十一世紀でも、それは空想の産物に過ぎなかった。
「だからせめて、祐一君達があの後どんな人生を送ったのか、調べてみようと思ったんだ。知れば余計に辛くなるかもしれないけどね。でも、千年も昔の記録は残ってなかった。祐一君がそこにいたって証拠は、どこにもなかったんだよ……」
あゆがぎゅっと目を閉じると、涙が小さな水滴となって弾けた。その雫はふわりと、羽毛のようにゆっくり床へ舞い降りていく。
栞はあゆの心にある孤独の深さを知った。栞と再会するまで、あゆは自分自身の記憶すら信じることができなかった。世界の全てから隔絶されたように感じているのだろう――そう、かつての栞自身のように。
「ボクには、なんにも残ってないんだ。いっそあのまま、あの場所で……」
「そんなこと、言わないでください!」
栞はあゆを抱きしめて、その台詞を遮った。
「栞、ちゃん?」
「生きている意味なんて私にも分かりません。だけど、あゆさんがここにいる理由はありますよ。それは、私があゆさんにいてほしいからです」
「あ……」
あゆの肩が小さく震えた。
「三〇〇一年の今になって私達が命を取り戻したのは、きっと奇跡です。でも、私とあゆさんがここで出会えたのは、奇跡でも偶然でもありません。一人では寂しくて挫けてしまうことも、二人なら乗り越えられる。私達の家族がそう考えて、二人を一緒に未来へ送り出してくれたんだと思いますから」
栞はあゆの体を放すと、その目を覗き込んで続ける。
「あゆさんは私にとって大切な、大切なお友達です。だから、あゆさんにここにいてほしいと思います。こんなわがままなお願いは駄目ですか?」
あゆは首を左右に振った。
「ううん……嬉しいよ」
そして、目をごしごし擦ってから、栞に向かってにっこりと笑った。
「全部なくなっちゃったって、そう思ってた。大切なものはなにもなくて、ボクは自分が空っぽだって考えてた。だけどいつの間にか、新しい大切なものを手に入れてたんだね。ボクも、栞ちゃんが大好きだから」
栞は悪戯っぽい表情であゆにウインクした。
「じゃあ、私達は両思いですね」
「そうかも」
二人は顔を見合わせ、ふふっと笑い合う。
「ボクは変わっちゃうことが恐かったけど、それじゃきっと駄目なんだよ。だから、そろそろ前を見ないと」
あゆの言葉に栞が頷いた。
「きっとこの時代だって、捨てたものじゃないと思います。私達、せっかく元気になれたんですし、これからお友達もたくさん作っていきましょう」
「うん。ダーナさんとか、仲良くなれるといいね」
「そうですね。目が覚めてから、お世話になりっぱなしですけど」
栞は展望室の中央まで歩いていくと、その場でくるりとターンした。吸着靴がきゅっと音を立てる。
「でも、どんなに交友関係が広がっていっても、私の一番のお友達はあゆさんですよ。だって、私達は冷凍マグロみたいにコチコチに凍った状態でずっと一緒に過ごしてきた、千年来の関係なんですから」
「うぐぅ……。栞ちゃん、それ笑えないかも」
そう言いながらも、あゆは苦笑していた。
栞は頭上を見上げると、指で作った四角形越しに地球を眺めた。
「それにしても、とっても不思議で素敵な光景ですね。スケッチブックがここにないのが悔やまれます」
「もしかして栞ちゃん、絵を描くのかな?」
「はい、趣味なんです。あんまり上手くないんですけどね」
「そうなんだ……」
あゆは素直に感心している。
「風景画も描きましたけど、もっと描いていたのは家族の似顔絵ですね。でも、私がスケッチブックを持っていくと、みんな逃げちゃうんですよ。モデルになるのが嫌だったみたいです」
それでも時々はつきあってくれた父と母、そして姉。描き上がった絵を見せると困った笑みを浮かべられたり、沈黙されたり、辛辣な批評をされたりしたものだった。
中でも、一番頻繁に描いたのは姉である香里だ。居間でクッションを抱いて居眠りしているところをこっそりスケッチしたら怒られたりと、絵にまつわる思い出はたくさんあった。そして――
「……っ!」
栞は唐突に口元を押さえた。その目尻に涙が滲む。
「ど、どうしたの?」
「……お姉ちゃんの顔、思い出しました」
驚くあゆに、くぐもった声で栞は答えた。
心のキャンバスが、香里の顔を写し取っていたのだった。切れ長の瞳に長いまつげ、カーブを描いた眉、通った鼻筋、赤くふっくらした唇、そして優美な顎のライン。記憶の空白だった部分が埋められていく。
技術が追いつかなくて紙に上手く描くことはできなかったけれど、いつだって栞は香里を目で追っていた。美人で頭が良い、自慢の姉だった。
「栞ちゃん、よかったね」
あゆがやさしく声をかけると、栞は頷いた。そして静かにその目を閉じる。
香里の顔が目蓋の裏に浮かんだ。それは最後に見た泣き顔ではなく、穏やかに微笑む姿だった。
「……ばいばい、お姉ちゃん」
栞の目からこぼれた涙の雫が、地球光を反射してきらきらと青い宝石のように輝いた。
あの冬の日は遠く、栞と香里の人生はもう二度と交わることはない。だから、香里の笑顔に向かって栞は別れを告げた――明日への一歩を踏み出すために。
そして栞は涙を指で拭うと、あゆに笑みを見せる。
「あゆさん、ぜひ今度似顔絵を描かせてくださいね。三十一世紀にやってきてから最初の絵は、あゆさんを描きたいです」
「うん。ボクはいいけど……」
「それから、あゆさんをモチーフにした天使なんかも描いてみたいですね。うん、創作意欲が刺激されちゃいます」
「えっ、て、天使? ボク、そんな柄じゃないよ……」
指を頬に当てて考え込む栞に、あゆが顔を赤らめた。
「そんなことないです。あゆさん、初めて会ったときに羽の付いたリュックを背負ってたじゃないですか」
「うぐぅ、あれは……たまたまだもん」
「あれ、可愛かったです。とっても似合ってましたし」
「し、栞ちゃんの方がボクよりずっと可愛いんだから、自分をモチーフにしたらいいんじゃないかな?」
「あゆさんの方が可愛いですし、私こそそんな柄じゃ……あっ」
言いかけて、栞はふいに言葉を途切れさせた。
「どうしたの?」
訝しむあゆに向かって、栞は楽しそうに笑った。
「面白いこと考えちゃいました。
あゆさんは知ってますか? 中世のヨーロッパでは、『針の上で天使は何人踊ることができるか』って議論があったらしいんですよ。天使がどんな存在なのかはっきりした定義はありませんから、結論は出ないんですけど」
「ボク、初めて聞いたよ……」
感心して頷くあゆ。栞はそこで両手を広げ、厳かに告げた。
「でも、今ここで決着しました――答えは二人、です」
あゆは一瞬きょとんとした表情で栞を見つめて、それから吹き出した。
「あははっ。それ、気が利いてるね」
「ですよね。それじゃ、やっぱりここは音楽が欲しいところです。……ダーナさん、いらっしゃいますか?」
栞が名前を呼ぶと、すぐに応えがあった。
「はい。なんでしょう」
「えっと、ちょっと音楽を流してほしいんですけど……」
「了解しました。曲目は何になさいますか?」
ダーナが尋ねると、栞は腕を組んで首を傾げた。
「どうしようかな……。そうだ、確かこの軌道エレベータは『クラーク・タワー』って言うんでしたよね? それなら、クラークさん繋がりで『美しき青きドナウ』をお願いします」
「ヨハン・シュトラウス二世ですね、かしこまりました。それから、お二人にお尋ねしたいのですが……」
珍しく言いよどむダーナに、栞とあゆは少し驚く。
「ダーナさん、どうかしたの?」
あゆが促すと、ダーナは続けた。
「私は人ではありません。それでも、お二人は私を友達にしてくださいますか?」
二人は顔を見合わせた。先刻の会話を聞かれていたのだろう。しかし、彼女らは特に気にならなかった。
「もちろんです。私はダーナさんのこと好きですから」
「ボクも。ダーナさんが嫌じゃなければ、だけど」
そう答える栞とあゆ。
「ありがとう……ございます」
穏やかな口調ながら、その声が喜びの感情を帯びているのを二人は感じ取った。
「僭越ながら、心を込めて演奏させていただきますので」
「えっ? ダーナさんが演奏してくれるの?」
あゆは目を丸くする。
「はい。私の趣味なのです。もっとも、実際に生の楽器を扱うのではなく、音源の発音タイミングや強弱などを操るだけですが」
「素敵だと思います。ぜひ、お願いしますね」
「分かりました。それでは、演奏を始めます」
栞の言葉を受けて、ダーナがその軽やかなワルツ曲を奏でる。栞はあゆに近づくと、その腕を引っ張った。
「さあ、あゆさん。踊りましょう」
「えっ。でも、ボク踊り方分からないし……」
「そんなの私だって知りません。いいんですよ、楽しければ」
「あ、うん。そうだねっ」
白と黄色。お揃いのドレスを纏った二人の天使は、全長七万キロメートルの超巨大な『針』の頂で踊り始めた。ウィンナワルツの調べに乗って、不器用に、ぎこちなく、けれど満面の笑みを浮かべて。
くるくる、くるくると――
Fin.