この地へ潜入を始めて、はや数日。
手がかりを求め、俺はむっとする熱気に満ちた街中を一人歩いていた。
空は分厚い雲に覆い尽くされ、太陽は見えない。けれども、その熱は雲を透過して確実に地表へと辿り着いているようだった。
俺は歩道の脇に置かれていた灰皿の前で立ち止まり、ポケットから煙草の箱を取り出した。ソフト帽を被り直しながら、一本を抜き出してライターで火を付ける振りをする。
しかし、俺が咥えたのは煙草ではなかった。
紙巻き煙草を模した小型冷却機が、内蔵された熱電変換モジュールによって温度差を生み出す――先端に炎熱を、そしてフィルタ側に冷気を。
俺は胸一杯にそれを吸い込んだ。改造を受けたこの身ではあったが、それでも不快感まで払拭することはできない。
カムフラージュの紫煙をくゆらせながら、俺は視線を上へ向けた。西の空が、僅かにオレンジ色を帯びている。雲の向こうで太陽が空を赤く染め始めているのだろう。
そのとき、不意に右側から叫び声が上がった。
「そこの人っ!」
そちらを向くと、紙袋を抱えた少女が歩道を俺の方へ走ってくるのが見えた。
「どいてっ、どいてっ!」
灰皿の前で立ち止まっていたため、通行の邪魔になっていたようだ。俺は歩道の脇に身を寄せ、彼女の通り道を開けた。
「ありが……あっ」
礼を言いかけた少女は、俺の傍らを通り過ぎる手前で、路面の氷に足を滑らせた。
「うぐぅ〜〜〜っ!」
少女の体は向きを変え、俺の方へと突進してきた。俺は咄嗟に少女の体を抱き止める。
軽い衝撃とともに、得体の知れない奇妙な悪寒が俺の体を通り抜けた。片目をすがめ、俺は体内に埋め込まれた補助コンピュータにセルフチェックの指示を出す。結果は――異常なし。違和感はその一瞬だけのことだったようだ。
見下ろすと、幼い顔立ちの少女は俺の腕の中に収まっていた。長い睫毛は伏せられたまま、身じろぎをする様子もない。
俺は冷却機を口から離すと、少女に呼びかけた。
「おい、どうした?」
返事はなかった。軽く頬を叩くが、反応もない。それほど強くぶつかったわけでもないのに、少女は気を失っているようだった。
「……うぐぅ、また抜けちゃったよ」
次の瞬間、それまで全く気配のなかった背後から声が聞こえた。俺はトレンチコートの懐へ手を忍ばせると同時に少女を抱いたまま飛び退き、声の主の方へと身構える。
そこに立っていたのは、俺が抱えているのと全く同じ容貌、全く同じ服装をした少女だった。その少女は照れ笑いを浮かべながら、ミトンをはめた手で拳を作り、自分の頭を軽く小突いた。
「お兄さん。ちょっとその体、立った姿勢にしてくれないかな?」
「……分かった」
言われた通り、俺はぐったりとした状態の少女の両脇に手を差し入れ、体を起こして立たせた。両腕はだらりと垂れ下がり、整った顔立ちの寝顔は力なく右に傾いたままだったが。
もう一人の少女は俺の方へ近づいてくると、手の中の少女へと重なった。
「……」
それは文字通りのことだった。意識のない少女の体の中へ透過するように潜り込み、二人の少女の姿が一つになる。その途端、俺が抱えていた少女は生気を取り戻し、目を開いた。
「ありがとう、お兄さんっ」
俺が腕を放すと、少女は笑顔で礼を言った。
「……まだ顔の辺りがずれているぞ」
少女の首から上だけが、まるで二重写しのように微妙に重なって見える。俺が指摘すると、少女は「えっ?」と大きく目を開き、それから両手で自分の頬を思い切り叩いた。
「うぐぅっ――直った?」
涙目で問い返してくる少女に、俺は頷く。
「どうもね、ちょっと抜け癖がついちゃってるみたいなんだよ。ほら、脱臼みたいに」
「そういうものなのか?」
「うん」
それから、少女は自分が落としてしまった紙袋を道端に見つけ、慌ててそれを拾った。雪を払い、中身が無事なことを確認すると、
「良かった。はい、ちょっと冷めちゃったけど、おすそわけ」
と笑顔で俺に差し出した。それは確か、たい焼きと言う名の食べ物だった。
「……いや、遠慮しておこう」
彼女にとっては冷めていても、俺にとってはかなりの高温のはずだ。
「そう? このお店のたい焼き、すっごくおいしいんだよ」
俺が辞退すると、少女は少し残念そうに言い、そのたい焼きにかぶりつこうとする。
「そいつは嬉しいことを言ってくれるねえ」
「――!!」
少女の走ってきた方からやってきた中年の男が、その肩をがっしりと掴んだ。エプロンを身に付けコック帽を被った男だった。少女は男の接近にまるで気付いていなかったようだ。
「うぐっ、たい焼き屋のおじさん! これには深いわけが……」
肩を掴まれて身動きの取れない少女は、焦った様子で肩越しに男を見上げた。
「ああ。あゆちゃんのことだから悪気がなかったってことは分かってるさ」
「それじゃ」
あゆと呼ばれた少女は安堵の表情を見せる。だが、男は笑顔のまま続けた。
「もっとも、だからといって無罪放免というわけにはいかんな。少しばかりお灸を据えさせてもらおうか」
「うぐぅ……」
がくりとうなだれるあゆ。
と、そこで親父が何かに気付き、少女の両肩を掴んだまま地面に手を伸ばした。拾い上げ、それを俺に差し出す。
「兄ちゃん、落とし物だ」
それは俺の小型冷却機だった。いつのまにか落としてしまっていたらしい。
「すまない」
礼を言って受け取ると、男は鷹揚に笑った。
「いやなに、こっちこそ手間を取らせて悪かったな。私はこの先で屋台をやってるもんだ。機会があったら寄ってみてくれ」
「ああ」
屋台に用はないが、ここは頷いておく。
「さてと、あゆちゃんは一緒に来てもらおうか」
「う、うぐぅ〜〜っ!」
屋台の親父はあゆの襟首を掴み、そのまま向こうへと去っていった。たい焼きを手にしたままの少女は、抵抗する様子もなくそのまま引きずられていく。
それを見送りながら、俺は小型冷却機をまた口に咥えた。
しかし、内蔵バッテリーは既に切れていて、肺に送り込まれたのは生暖かい空気だけだった。
俺の任務は二つ――作戦の障害となりうるものの調査と、そして先の調査員の失踪を究明することだ。
かつて二度、この地には俺と同じようなエージェントが送り込まれていた。しかし、そのいずれもが数日で連絡を絶っている。一人目は前触れなく、そして二人目は謎の言葉を残して。
我々は技術力でこそ優位に立っているものの、物理的・人的資源では彼らに遠く及ばない。失敗は破滅に繋がることになる。だからこそ、作戦遂行に先立って入念な調査が必要だった。
俺はその任務のために肉体を改造されたエージェントだ。名前はない――ただコードネームとして与えられたエックスという識別子を除いて。過去の記憶は改造を受けた時点で全て失っている。
この小型冷却機のように、目的を達成するために造られた道具。それが俺だった。
コートの内ポケットに手を入れ、携帯用灰皿を取り出すと、俺はそこに冷却機を押し込んだ。使い終えたとはいえ、道端に捨てるわけにはいかない。それに、再びエネルギーをチャージすれば再使用可能となるのだから。その点では、冷却機の方が俺よりもマシな道具なのだろう。
断熱コートの襟を合わせ、俺は歩き出す。
ふと、空から白いものが舞い落ちてくるのに気付いた。水の結晶――雪だ。そのせいもあって、気温は先ほどよりも低下しているようだった。
風のほとんどない街角へ、白い雪が音もなく降り注ぐ。始めはまばらに、そして次第に密度を増して。
前方から、地元の学校に通う学生らしき三人組が近づいてくる。少年一人と、少女が二人だった。
「ぐあっ……とうとう降って来ちまった。こんな極寒の中で遭難するくらいなら、学校に留まるべきだったかもしれん」
少年は身を震わせ、顔をしかめて言った。
「大げさだよ。祐一が寒がりなだけだと思う」
「そうそう、八甲田山の進軍じゃあるまいし。大体、夜の学校には暖房もないわよ」
少女二人がそう答えると、少年が反論する。
「考えが浅いぞ、香里。暖房はなくとも雪ならグラウンドにたくさんあるだろうが。そいつでカマクラを作れば……」
「ばっかじゃないの? そんなことしている暇があったら、さっさと帰って家で暖まればいいじゃない」
言い合う彼らの脇をすれ違うその瞬間、少年と俺の目が合った。少年の動きが止まる。
「……どうしたの、祐一?」
少女の一人が尋ねようとしたとき、少年の目が驚愕に見開かれた。彼は少女二人の腕を掴み、俺とは反対の方向へ飛びすさった。
「きゃっ」
「ちょっと、何を……」
少女達の声を無視し、少年は俺に鋭い視線を向けた。
「お前、何なんだ?」
「……何と訊かれても、な。善良な一市民のつもりだが」
俺はトレンチコートの両ポケットに手を突っ込んだまま、静かに答える――懐の銃を握り、即座に抜けるよう身構えていることを気取られないように。
「とぼけるなっ。どう見てもただの人間じゃないだろ!」
安全装置を解除する。事を荒立てるのは得策ではないが――
「何言ってるの、祐一? わたしには普通の男の人にしか見えないけど」
ストレートヘアの、穏和な表情をした少女が少年に疑問を投げかけた。
「えっ? 名雪、お前にはこいつが普通に見えるってのか?」
驚く少年に、もう一人の少女も頷く。
「あたしにも、ね。少なくとも、トポロジー的にはあたし達となんら違わないように見えるわ。相沢君は、どこが普通でないって思うの?」
「香里もかよっ! どこって、そんなの一目瞭……」
祐一という名らしい少年は俺の方に視線を戻して答えかけ、そして言葉を途切れさせた。
「……あれ、どこが変なんだっけ?」
祐一はそこで首を傾げる。
「ちょっと、相沢君。いきなりふざけるのはやめてよね」
香里と呼ばれた少女は、険しい表情で祐一を睨んだ。
「い、いや。そんなつもりはなかったんだが……」
焦った表情で祐一はそう言い、それから俺に向かって謝罪した。
「あー、すんません。なんか、妙な言いがかりを付けちまったみたいで」
香里と、もう一人の少女――こちらは名雪と呼ばれていたか――も頭を下げる。
「いきなり失礼なことを言ってしまってすみませんでした」
「本当にごめんなさい」
気まずそうな顔の三人に、俺は答えた。
「いや、構わない。少し驚いただけだ」
彼らはそれを聞いてほっとしたようだった。
「でも、本当に何だったの、祐一?」
「自分でも良く分からん。なんか強烈な違和感があったんだが……」
「相沢君って、本当に寒さに弱かったのね。今度カマクラ作ってあげるから、好きなだけ学校に泊まるといいわ」
「……微妙に嬉しくないな」
そうして会話する三人はごく自然な様子で、少なくとも演技には見えない。
しかし、祐一の『違和感』が勘違いなどではないことは、俺が一番良く理解していた。俺は事実、普通の人間ではないのだから。
彼は特別な能力を備えた少年なのか、あるいは――失踪したエージェントと何か関わりがあるのか。俺は探りを入れてみることにする。
「……ところで、少し尋ねたいことがあるんだが、いいだろうか?」
「あ、はい。何でしょうか?」
俺が問いかけると、名雪がにこやかな表情でこちらに向き直った。
「十年前にこの土地で行方不明になった子供を捜しているんだが……」
俺はコートの胸ポケットから写真を取り出し、彼らに提示する。
「もしかして探偵さんですか?」
「ああ、そうだ」
尋ねてくる香里に、俺は頷いた。
「十年前だと、俺はこっちに住んでなかったからなぁ……」
そう言いつつも、祐一は興味津々の様子で俺の持つ少しくたびれた写真を覗き込む。香里と名雪も同様に。
「うーん。記憶にない、かな」
「どこかで見たような、見てないような……」
少女二人は見覚えがなさそうだった。
「……??」
一方、祐一は心当たりがあるのではなく、再び『違和感』を覚えている様子だ。
「それから、彼は失踪直前に謎の言葉を二つ残したらしい。一つは、『刀を持った少女が襲ってくる』」
祐一の頬が引きつった。やはり、彼は何かを知っている。
「そしてもう一つは、『オレンジ色のジャムが……』だ」
今度は全員の顔から血の気が引いた。
「し、知らないなぁ。なんのことだろうな?」
「そそ、そうね。ジャムなんて珍しくもないし」
「うん。た、多分、失踪とは関係ないんじゃないかな……」
焦った様子で早口にまくし立てる三人。
そのとき、近くを通りかかった別の少女が不意に足を止めた。髪を左右で結わえ、デニムのジャンパーを羽織った小柄な少女だ。
その少女は「きしし」と妙な笑い声を上げると、言い訳がましい言葉を口にしている三人の後ろへそろそろと近づいた。
「祐一、かくごーっ!」
少女は叫び、少年の膝裏へ向かって自分の膝頭を突き出した。
「……あまいっ」
しかし、祐一はその声を聞いて即座に反応した。左足を軸にして体を回転させ、後ろに迫っていた少女の背後へと回り込む。
「必殺、膝カックン返し!」
「あわっ」
少女が繰り出そうとしていた左足の反対側、右足の膝裏に祐一の膝が押し当てられた。
「わーっ!」
バランスを崩した少女は、ぐるぐると両腕を回転させながらたたらを踏み、そして道端に盛られていた雪の塊に向かって転倒した。
「あぅーっ……」
「わっ。真琴、大丈夫?」
雪に頭を突っ込んで目を回している少女――真琴と言うらしい――を、慌てて名雪が助け起こす。
「ちょっと相沢君、かわいそうじゃない」
香里もその隣にしゃがみ込み、真琴の頭に載った雪を払い落としながら、祐一を見上げて文句を付けた。
「いや、いきなり襲いかかられる俺もかなりかわいそうだろ。……悪かったな、真琴」
祐一は真琴の手を取り、引っ張って立たせた。
「保育所帰りにたまたま祐一を見つけただけなのに、なんで真琴が酷い目に遭わなくちゃいけないのよぅ」
「そりゃこっちの台詞だっ」
「うーっ、本当だったら転んでるのは祐一のはずだったのに」
どうやらこの真琴という少女は彼らの知り合いで、祐一に悪戯を仕掛けようとしたのだと俺は理解した。しかし、それとは別の、誰も何も言おうとしない『異状』を俺は指摘する。
「……その頭についているものは、なんだ?」
真琴の頭には、先ほどまでなかったはずのものが出現していた。外側は山吹色、内側は白の和毛に覆われた三角形の突起物が二つ、その髪の間から飛び出している。
「馬鹿っ。真琴、早く隠せ!」
祐一が視界を遮るように俺と真琴の間に割って入った。
「そ、そんなこと急に言われたって……」
「わ、真琴。尻尾も隠さなきゃ……」
慌てる真琴へ、名雪が更にそう言う。見ると、少女のスカートの中から先端が白くなった獣の尻尾のようなものが飛び出していた。
「あぅぅ、ぱんつがずり落ちちゃう……」
と、そこで香里が横目で祐一を見た。
「相沢君」
「なんだ?」
「鼻の下、伸びてるわよ」
「この状況でそんな余裕があるかっ!」
祐一は憤懣やるかたない様子で叫び返し、それからすぐに冷静さを取り戻す。
「……いや、なんでもないっすよ。こいつは保育所で働いていて、子供の相手をするときの道具を取り忘れただけです」
そこの言葉に俺は頷いた。
「そうか、分かった」
「ええっ? 今ので納得してくれるんですかっ」
自分で言い出したことなのに、何故か驚く祐一。
「ああ。何か信じることに問題でもあるのか?」
「い、いや。全然。
ともかくっ、俺達は何も知らないです。オレンジのジャムとか――」
言いかけた祐一の台詞を遮って、真琴が祐一の陰からこちらを覗き見、怯えた表情を見せた。
「ジャムって、秋子さんのジャムっ? 真琴、あれだけは駄目……」
その頭上の耳らしきものは、真琴の怯えを反映してか伏せられている。
「うわっ、真琴! 余計なことを言うなっ」
「むが、むぐぐがぐ」
祐一が真琴の口をその手で塞いだ。
「と、取りあえず、俺達はちょっと用事があるんで、もう行ってもいいっすか?」
「ああ。手間を取らせて悪かった」
俺がそう答えると、香里と名雪が頭を下げた。
「なんだか慌ただしくてごめんなさい」
「し、失礼しました」
そうして四人は、何やら騒がしく会話を交わしながら俺の元を去っていった。
俺はしばらくその後ろ姿を見送り、それからポケットに写真を収めた。ソフト帽を深く被り、俺は足を踏み出す――彼らの去っていった方へと。
尾行の結果、俺は一軒の家の前に辿り着いていた。
祐一達は香里と別れた後、俺が先ほど出会ったあゆという名の少女と合流し、帰途に就いた。そして、住宅街にある二階建ての一軒家へと帰宅したのだった。
補助コンピュータに指示を出すと、ほどなく結果が得られた。世帯主――水瀬秋子。その娘である名雪、あゆ、真琴。そして甥の相沢祐一。いずれも住民票の写しを閲覧したときに記憶しておいた情報だ。
しかし、そこで補助コンピュータは気になる報告を付け加えた。住民票が何らかの不正手段によって改竄されている可能性があるというのだ。
一階の窓のいくつかから外に光が漏れていた。恐らくは団らんの時間なのだろう。微かに楽しげな笑い声が中から漏れ聞こえる。
俺は帽子を取ると、降り積もっていた雪を払い、また被り直した。そして家に背を向ける。
今はまだ彼らに直接手出しをする段階ではない。俺は闇に籠もる熱気の中、街外れの丘へと歩き出した。
――自分の方も誰かに監視されていたのだとは知るよしもなく。
ピッ。
「エージェント・エックスより本部へ。定時連絡だ」
『……こちら本部。声紋を確認した。エージェント・エックス、報告せよ』
「本日、エージェント・ジェイの失踪に関連していると思われる情報を得た。明日、その人物の身辺を探るつもりだ」
『エージェント・オーの行方は?』
「そちらはまだ何も。それからもう一点、気になることがあった」
『それは?』
「一人の少年に、俺が普通の人間でないことを見破られそうになった。幸い、発覚することはなかったが……」
『貴方が何かミスをしたということではないのか?』
「それはないはずだ。彼の同行者は俺の異常に気付かなかったからな」
『今後の任務の障害となりうるのであれば、邪魔者は早急に始末せよ』
「必要もなく命を奪うのは、彼らと我々のどちらにとっても不利益しかもたらさない。少年も、最終的には自分の勘違いだったと認めている」
『エージェント・エックス、それは貴方の関知するところではない。奴らは我々の敵であり、配慮など無用だ。要らぬ同情心は貴方の命を危機に晒すことになる』
「……了解した」
『他に報告は?』
「いや、特にはない」
『ならば、以上で交信を終了する』
「了解、交信終了」
ピッ。
その翌日――俺は窮地に陥っていた。
始まりは朝、水瀬家の主である秋子が家を出たところからだった。チャコールグレーのジャケットとタイトスカートの上にピーコートを羽織った秋子は、白いショルダーバッグを肩に掛け、外へ姿を現した。俺は彼女に気付かれぬよう尾行を開始した。
秋子は徒歩で駅へと向かうと、そこで隣町までの切符を買った。俺も同様に切符を購入し、新聞で視線を隠しながら彼女と同じ電車に乗り込んだ。
異変が起きたのはそのすぐ後だった。電車が走り出してほどなく、吊革を掴む俺の前の席に座っていた初老の女が突如悲鳴を上げたのだ。車内は騒然となり、俺の周りにいた人間は俺から遠ざかるように逃げ出した。人々は恐怖をその顔に浮かべ、『怪物』とか『宇宙人』などと叫んでいた。
車両内の全員がパニックに染まる中、一人秋子だけが冷静な目で俺を見ていた。嵌められたのだと悟った俺は、電車の窓を開き、タイミングを見計らってそこから飛び降りたのだった。
しかし、電車を降りてもその異変は収まらなかった。道行く者が俺を指差し、口々に化け物だと叫び声を上げたのである。秋子が一体何をしたのかは分からなかったが、突如として人々は俺が普通の人間ではないと見抜くようになったようだ。
――そして、奴が俺の前に現れた。
俺は壁にもたれかかり、荒い呼吸を繰り返していた。落下の衝撃で冷却機能に異常を来し、その上で攻撃回避のために激しく動き回ったため、俺の体はオーバーヒートを起こしつつあった。もはや小型冷却機程度では追いつかないほどに。
「あの、どうかされましたか?」
不意に、前から声が掛けられる。顔を上げると、ライトイエローのセーターの上にチェックのストールを羽織った少女が、心配そうな表情でこちらを覗き込んでいた。既に周囲の気配も察することができないほど消耗しているらしい。
「……いや、なんでもない」
「でも、随分とお加減が悪そうですよ? あの、救急車を呼びましょうか?」
「必要ない。それより、そばにいると危険だ。俺に関わるな」
「えっと。良く分からないですけど、そんなわけにはいきません」
線の細い印象とは裏腹に、その少女は強情なようだった。と、そこで少女は視線を上げると、誰かに向かって声を上げた。
「舞さん、佐祐理さん!」
二人分の足音がして、何者かが近づいてくるのが分かった。
「どうしたの、栞ちゃん?」
現れたのは、ストールの少女――栞よりもやや年上らしき二人の娘だった。明るい色のブラウスとプリーツスカートの上にカーディガンを羽織った、おっとりとした方の少女が尋ねてくる。
「こちらの男の人、具合が悪いようなんです。でも、救急車はいらないと……」
「ふぇ〜」
そこで、この少女達が俺を見ても驚かないことに気付く。水瀬秋子が何をしたのかは今もって不明だが、それは栞達には影響を与えていないようだ。
「……」
もう一人の、ブルゾンにジーンズ姿の凛々しい娘は、何も言わずに俺の方をじっと見つめていた。
「舞、どうしたの?」
清楚な雰囲気の少女が尋ねた。してみると、こちらが佐祐理なのだろう。
「……なんでもない」
舞は首を左右に振った。他の二人とは違って、彼女の視線にはこちらを探るような色が見えた。しかし、だからといって悲鳴を上げるような素振りもない。
「えっと、せめて怪我の手当てだけでもさせてください」
佐祐理はそう言うと白いハンカチを取り出し、制止する暇を与えず俺の腕に巻き付けた。どうやら、知らぬ間に奴との攻防で傷を負っていたらしい。
「……感謝する。だが、さっきも言ったが俺に関わるのは危険だ。俺は敵に追われている。すぐにここを離れろ」
「敵、ですか?」
不思議そうに首を傾げる栞。そのとき、舞が視線を左に走らせた。
「……敵とは、あの人?」
舞の見た先には、奴――長身の黒服の男が立っていた。目にはサングラス、口元には煙草。そして、その右手には恐るべき武器、棍が握られている。
俺は少女達を押し退け、彼の前に立とうとした。しかし、舞がその行動を制し、一歩前に出る。
「お前ら、この怪物の仲間か?」
咥え煙草で男が問う。しかし、舞は答えず、右腕をすっと横に差し出した。手の中に、突如として剣が出現する。
その瞬間、俺の体に埋め込まれたPSYセンサーが反応した。彼女、舞と言う名の少女は、作戦実行時における最大の障害と目されたPSY能力者だった。アポーツか、あるいは更にハイレベルの物質生成か、いずれにせよ要注意人物だ。
――そしてまた、恐らくエージェント・ジェイの失踪に関わりがある少女でもある。
舞は剣の柄を両手で握り直すと、その切っ先を黒服の男に向けた。
「くっ……」
男もまた棍を構える。が、すぐにそれを下ろした。
「どんな相手だろうが、女と戦うわけにはいかねえ。命拾いしたな」
そう言い残し、男は踵を返した。驚くほどの俊足で、たちまちその姿が見えなくなる。
舞が構えを解くと、手の中の剣は消え失せた。その少女に向かって俺は問う。
「何故、俺を助けた?」
舞は振り向くと、無表情のまま答えた。
「……魔物が全て討つべきものとは限らないから」
「まもの?」
栞はその意味が分からないようだった。しかし、舞は俺が人間ではないことに気付いているのだろう。
「……それよりも、お体の具合はどうですか?」
「大したことじゃない。ただ、奴に追い回されたせいで少し暑いだけだ」
それは正確ではなかった。体内の冷却機能がこのまま回復しなければ、俺はほどなく死を迎えることになるはずだ。
しかし、それを聞いて栞はポンと手を打ち鳴らした。
「ああ、それならアイスクリームはいかがです?」
「アイスクリーム?」
それは、彼らが好んで食べる冷菓の名前だったはずだ。
「はい。体が火照ったときにはアイスクリームが一番ですから」
頷いて、栞はストールの陰から容器を取り出した。上蓋に『ザ・カップ:業務用/4リットル』と表記された、プランターのような大きさの四角いケースだった。蓋の上に、スプーン代わりらしき園芸用スコップが置かれている。
「……今、これをどこから取り出した?」
「えっ? もちろんポケットからですよ」
栞はさも当然のように答えた。その隣で「あ、あははーっ……」と佐祐理が困った表情で笑っている。
舞のときとは異なり、PSYセンサーは反応しなかった。栞はPSY能力者ではない。ポケットなどに収まるはずもないその物体をどのようにして取り出したのか、全くの不明だった。
しかし、今はそれよりも体の冷却が先決だ。
「分かった。ありがたく頂こう」
「はいっ」
栞から容器を受け取り、蓋を取った。その上にスコップを刺して白いクリーム状の物体を多量にすくい上げ、喉へ一気に流し込む。
「わ、豪快ですね……」
栞が感心したようにそう言った。
体内に入った4リットル分のアイスクリームが、余分な熱量を奪い取っていく。余力ができたためか、動作異常を起こしていた冷却器官がほどなく機能を回復した。
最後の一口を飲み込み、俺は一息つく。
「いかがでしたか?」
空になった容器を受け取ると、栞はそう尋ねてきた。
「ああ、滑らかな喉越しで美味かった。取りあえず、落ち着くことができたようだ。感謝する」
「そうですか。良かったです」
栞はにっこりと笑った。
実際のところ俺には味は分からないが、栞はその言葉で満足してくれたようだ。
栞が空の容器とスコップをストールの陰に持っていくと、それは掻き消すように見えなくなった――俺の目は高速度撮影モードだったのにも拘わらず。
PSYセンサーには異常はない。この少女は、舞とは異なる仕組みでテレポーテーション類似の芸当ができるようだった。しかも、その原理は不明だ。場合によっては、彼女もまた作戦の障害となる可能性があった。
「……ところで、ついでに尋ねたいことがあるんだが、少しいいだろうか?」
俺は昨日と同じくジェイの写真を取り出した。理由も昨日と同様だ。舞がエージェント・ジェイの失踪に関わりがあるのだとしたら、何らかの反応を見せるかもしれない。
「もしかして、昨日お姉ちゃんが会ったって言っていた探偵さんですか?」
栞が目を丸くした。
昨日出会った人物の中で、俺が探偵だと教えた少女は二人。しかし、名雪は水瀬家の娘であり、栞はそうではない。
「ああ。確か、香里と言ったか?」
「はい、美坂香里の妹、栞です。あ、これが捜している子の写真ですね」
「そうだ。十年前にこの街で消息を絶ったらしい」
俺が写真を差し出すと、三人の少女はそれを覗き込んだ。
「うーん、佐祐理にはちょっと分かりませんね」
「誰かに似ているような気もするんですけど……」
佐祐理と栞には心当たりがないようだ。しかし、舞の反応は違った。
「……北川潤」
顔を上げると、あっさりと答えた。
「えっ、北川さんなんですか? そう言われてみれば、確かに面影があるような……」
栞は、舞の口にした名前に驚いた様子を見せた。
「知っているのか?」
「はい、お姉ちゃんのクラスメートです。昨日も学校で会いましたよ。でも、失踪ってどういうことなんだろう……」
栞は状況に疑問を感じたのか、口元に指を当てて呟く。
「――すまないが、その先は職業上の秘密で話せない」
「あ、探偵さんですもんね。詮索しちゃってごめんなさいです」
栞は素直に引き下がってくれた。
しかし、栞の疑問は当然だった。エージェント・ジェイが無事生きているというのなら、連絡を寄こさない理由が不明だ。
「でも舞、良く分かったねー」
佐祐理がそう言うと、舞はこくりと頷いた。
「……昔、魔物と間違えて追いかけ回したから」
「はぇ……」
予想通り、ジェイが言い残した『刀を持った少女』とは舞のことだったようだ。
エージェント・ジェイがこの街にいるというのなら、近いうちに接触を図る必要があるだろう。しかし、今はそれより先に済ませておかねばならないことがあった。
俺は写真をしまうと、三人に告げた。
「君達には色々と世話になったな。この礼はいつか必ず返す」
「いえ、いいんですよ。アイス仲間には遠慮なんていらないです」
栞はぐっと親指を持ち上げて、当人はニヒルなつもりなのだろう愛らしい笑みを浮かべた。
「佐祐理は別に何もしてませんから」
「……」
佐祐理に続いて、舞も頷く。
「では、いずれまた会おう」
俺は帽子を被り直し、コートの前を合わせた。
「はいっ」
「さようなら」
「……タコさん」
踵を返し、俺はその場から立ち去る――もう一つの気配を背後に感じつつ。
本屋とコンビニの間にあった路地裏へ身を滑り込ませた俺は、周囲に人影がないことを確認し、打ちっ放しのコンクリート壁へ取り付いた。そのまま壁をよじ登り、屋上へと達する。
身を潜めて待つと、やがて棍術使いの男が姿を現した。男は俺の姿が見あたらないことに気付き、待ち伏せを警戒してか慎重に路地裏へと足を踏み入れた。
『――邪魔者は早急に始末せよ』
俺は手にしていた熱線銃の安全装置を外し、銃口を男へと向けた。十マイクロメートルの波長を持つ赤外線パルスレーザーが標的を瞬時に燃え上がらせる、この世界にとっては存在するはずのないオーバーテクノロジー兵器だ。
補助コンピュータが、銃口から伸びる仮想的な延長線を視界に重ねた。この距離であれば大気の揺らぎを補正する必要もない。
線の先を男の体へと向け、引き金を引こうとしたそのとき――
「そこまでです」
不意に熱線銃が暴れ、俺の手から飛び出した。俺は咄嗟に転がって距離を取り、その声の主を見上げた。
熱線銃は漂うように宙を浮かび、そこに立っている娘の手の中へと収まった。
「佐祐理……」
それは、別れたばかりの少女達の一人、佐祐理だった。しかし、つい先ほどまでの出で立ちとは異なり、フリルの多いパステルピンクの衣装を身に付けている。
「あははーっ、佐祐理は佐祐理ではなく、『まじかる☆さゆりん』ですよー」
良く分からないが、『自分は佐祐理とは別人だ』と言いたいらしい。
それから表情を改めると、
「とにかく、この街にいらっしゃる以上、人を殺めることは佐祐理が許しません」
と、右手に持った杖らしきものを掲げながら宣言する。その杖の先端では、ハート型の枠の中で宝石状のものが何の支えもないまま浮かび、輝きを放っていた。熱線銃のことといい、明らかに物理法則を超越している。
「――マジック・ユーザーか」
この地に存在するただの作り話だと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
「まあ、そのようなものですね。……それで、どうなさいますか?」
少女は頷き、それから俺に尋ねてきた。
「どう、とは?」
「矛を収めてくださいますか? それとも、この武器を佐祐理から取り返しますか?」
熱線銃を持ち上げ、魔術使いの娘は俺の出方を問う。
「……いや、やめておこう。正直、勝てる気がしない。それに、君には借りがある」
魔術などというものの存在は、俺の潜入調査において全く想定されていなかった。対PSY戦ならともかく、物理法則に従わない相手では分が悪い。
「買いかぶりだと思いますけど、そう仰っていただけると助かります。では、これはお返ししますね」
少女は熱線銃のグリップをこちらに差し出した。
「あっさりと返してくれるんだな。俺が銃を取り戻した途端に裏切るとは考えないのか?」
俺が問い返すと、しかし少女は微笑みを浮かべ、片目を瞑った。
「あなたはそんな方ではないと思います。それに、佐祐理にはあなたが止めて欲しがっているように見えたものですから」
「それこそ買いかぶりだ。俺はそんなに殊勝な人間じゃない」
銃を受け取り、懐のホルスターに収める。
「――取りあえず、今は君の言うことに従っておくが」
俺の答えを聞き、魔術使いの少女は満足そうに頷いた。
「そうですか。では、佐祐理はこれで失礼しますね」
言い終えると、彼女の背後に虹色の光が生まれ、翼のように広がった。少女は軽く頭を下げた後、地を蹴って屋上から飛び上がる。そして、きらめく光のかけらを後に引きながら、舞うように空を飛び去っていった。
気がつけば、黒服の男は路地裏から姿を消していた。俺は少女の飛び去っていった方向をもう一度だけ眺める。それから帽子を拾い上げ、屋上から路地へと飛び降りた。
ピッ。
「エージェント・エックスより本部へ。定時連絡だ」
『……こちら本部。声紋を確認した。エージェント・エックス、報告せよ』
「いくつか重要な報告があるが、その前に確認したいことがある」
『何だ?』
「作戦が実行に移された後、こちらの住人との和解は想定されているのか知りたい」
『それを貴方が知ってどうする?』
「いや、必要なことだ」
『まあ、いいだろう。和解など最初からあり得ない。地球侵略作戦は地球人の絶滅を目的としているからだ。奴らの科学力では、我々のファイティング・マシーンに対抗する術などないのだから』
「……了解した。しかし、その前提は間違っている」
『どういう意味だ?』
「この地において、高レベルPSY能力者の存在を確認した。これは推測だが、物質生成を行っている節がある」
『何……!』
「それだけではない。幽体離脱能力者とライカンスロープ、そして魔術使いも存在するようだ。更に、未確認ではあるものの、我々の科学力を遙かに凌駕するらしい空間操作を目撃した」
『嘘を言っているのではないだろうな!?』
「疑うのなら、映像を送信しよう」
カチッ……ピピッ。
『こ、これは……』
「全て真実だ。恐らく、ファイティング・マシーンは彼らに通用すまい」
『貴方は、地球侵略を止めるべきだと言うのか?』
「それは――」
俺は手にしていた小型冷却機を口に咥え、冷気で肺を満たした。そして続ける。
「――俺の関知するところではないな」
『くっ……。しばしそのまま待機せよ。追って指示を出す』
ピッ。
通信機をオフにし、俺はこめかみのソケットからケーブルを引き抜く。そして、丘の上から空を眺めた。
月のない夜だった。深い闇の中で星々が微かに瞬いている。昼間よりも気温は下がり、心地良い風が俺の頬を撫でていく。
頭を巡らせると、ほどなくそれは見つかった。煌々と一際明るく輝く赤い惑星――この地では昔から不吉な星と言い伝えられてきたらしい。その住人として、あながち否定しきれないというのは皮肉なことだが。
暗闇の中、冷却機を咥えながらしばらく待つと、やがて惑星間通信機がコール音を立てた。俺は通信機を顔のそばへ持っていく。
「こちらエージェント・エックス」
『本部より、エージェント・エックスへ。侵略作戦は凍結された』
「了解した」
『惑星突入カプセルは帰還能力を備えていない。エージェント・エックス、貴方はその惑星で生を終えることになる』
「もとより、承知の上だ」
『どのみち貴方の余命は半年もないだろうが、その灼熱の地でせいぜい正体を悟られないよう注意することだ。僅かな余生かもしれないが、平穏に暮らすがいい』
「気遣い感謝する」
『以上で交信を終了する。これ以降、一切の交信は許可されない』
「了解した」
『……どうか、お元気で』
「ああ」
ピッ。
通信機をしまい、俺は冷却機をまた口に咥えたが、既にバッテリーは切れていた。俺がカプセルに戻ろうとしたそのとき――
「てめぇ、こんなところにいやがったか」
男の声が響き、俺は身構えた。昼間、俺を追い回した黒服の男に違いない。
ホルスターから熱線銃を抜き、林の間から姿を現した男にそれを向けようとしたところで、俺は一瞬だけ躊躇する。その隙を見逃さずに男は棍を突き上げ、熱線銃を弾き飛ばした。
後ろへ飛びすさる俺より、奴の踏み込みの方が速い。銃を弾いた棍はそのまま半回転し、先端が俺へと迫る。
避けられない――と見たとき、俺と奴の間に影が割り込んだ。
「くっ……!」
俺の代わりに男の攻撃を受けたのは、俺が朝に尾行していた女、水瀬秋子だった。胴に男の棍を叩き込まれ、俺の方へと飛ばされた秋子は、気を失ったのか俺の腕の中でぐったりとしている。
「お、おい……。大丈夫か、あんた」
黒服の男は、突然割り入った秋子に驚いたようだ。今度は俺がその隙を逃さず、秋子を抱えたまま回し蹴りを放った。
男の構えていた棍が、俺の蹴りを受けてその手を離れ、回転しながら闇の奥へと飛び去っていく。武器を失った男は後ろへ下がり、姿勢を低く取った。
「てめぇ……。女を盾にするたぁ、いい根性じゃねえか」
「……」
奴は俺が秋子を盾代わりにしたと思っているらしい。しかし、どのみち釈明などしても無駄なことだろう。
互いに得物を失った俺と男は、数メートルの間合いを取って対峙する。だが、幸運の女神が微笑んだのは俺ではなく奴の方だった。
「……ん?」
男は自分の足下に何かがあることに気付き、こちらに注意しながらそれを拾い上げた。
「こいつは……」
奴が拾ったのは、俺の手からはじき飛ばされた熱線銃だった。男はそれを掴んだ拍子に引き金を引いてしまったのか、銃口が突如閃光を放つ。
不可視の熱線が上に伸び、木の枝に積もっていた雪へと命中した。途端にその雪は解け、水となって男の上に降り注いだ。
「うわちっ! こりゃ本物の光線銃かよ。凄えな……。
おっと。てめぇ、待ちやがれっ。その女を置いていけ!」
男が熱線銃の威力に気を取られた瞬間、俺は秋子を抱えて逆方向へと走った。しかし、男と俺の間には遮るものはない。撃たれたら一巻の終わりだ。
そのとき、自分がバッテリーの切れた小型冷却機を咥えたままだったことに気付く。俺は一か八かに賭けてみることにした。
秋子を抱えて走りながら、俺は冷却機の被覆をはぎ取り、内部の精密な構造を剥き出しにする。そして奴へ向けてそれを投げた。
放物線を描いて自分の方へ飛んでくる物体に、黒服の男は咄嗟に熱線銃を向け、引き金を引いた。
レーザーの照射を受け、一瞬だけ赤熱する冷却機。初めて触れた武器を易々と使いこなし、煙草大の標的へ命中させる男の技量は驚くほどだ――しかし、それが奴の命取りだった。
力学的エネルギーを持たない赤外線レーザーは、冷却機の運動を妨げることはなかった。冷却機は放物線を描いて飛んでいき、男の体へと当たる。
「がッ……!」
青白い電光が走り、男は体を痙攣させて倒れた。
小型冷却機の熱電変換モジュールが、熱線を浴びてそれを電力へと変化させたのだ。ずぶ濡れだった奴はそれに触れ、感電したのである。
俺は慎重に男へと近づき、その様子を確かめた。気絶しているようだが、体には異常はなさそうだった。もとより、大した電力量ではない。
「やれやれ。一時はどうなることかと思ったけど、どうにか収まりが付いたようだね」
「……誰だ」
唐突に聞こえてきた声に誰何すると、木陰から見覚えのない少年が姿を現した。
「オレは北川潤。あんたにはエージェント・ジェイと名乗った方が分かりやすいかな」
少年はそう告げると、屈託のない笑みを見せた。その手には先ほど俺が蹴り飛ばした棍が握られている。
「悪いけど、さっきの交信を立ち聞きさせてもらった。あんたがどうするつもりなのか知りたくてね」
「別に構わん」
ここの住人ならばともかく、ジェイに聞かれて困るようなことはなかったはずだ。
「ところで、どうしてあんたは地球人を庇ったんだ?」
ジェイは俺に尋ねてくる。
「……嘘は言っていない」
「けど、彼女達が無害そうな女の子だってことは報告しなかったよな」
「さあな。それは俺が判断することじゃない」
「そうかもね」
俺の言葉にジェイは頷き、棍を地面に突いた。
「ねえ、秋子さん。そろそろ起きてくれるかな?」
ジェイがそう呼びかけた途端、俺の腕の中にいた秋子がどろりと溶けた。
「……!」
オレンジの燐光を放つゾル状の物体に変化した秋子は、俺の腕から抜け出して地面に降り、そして再び女の姿へと戻った。
「あんたは、一体……」
絶句する俺へ、ジェイは妙に楽しそうな表情で言った。
「この人はね、親父が昔偶然に創り出したジャム型生命体なんだ」
「娘にはまだ黙っていてくださいね」
秋子は頬に手を添え、にこやかに笑う。『ジャム型生命体』などという聞き慣れない言葉も気になったが、俺にはそれ以上に引っかかる部分があった。
「親父、だと?」
俺がジェイの言葉を聞き咎めると、ジェイは「ああ」と頷いた。
「便宜上の父親、あんたにとってはエージェント・オーだ。あんたも既に会ってるはずだよ。ほら、たい焼き屋の……」
「あの男がそうだったのか」
俺はあゆを連れて去っていった、人の良さそうな男のことを思い出す。そう、今にして思えば、あの時点で気付くことも不可能ではなかったはずだ。所詮、後知恵だが。
「それで、結局お前達の失踪はどういうことだったんだ?」
俺がそう尋ねると、ジェイは頷いて答えた。
「別に、大した話じゃないのさ。親父はこの惑星へ調査にやってきて、地球人と親しくなり、侵略が嫌になっちまったらしい。それで行方をくらまし、地球に永住することにしたわけだ。オレの場合は……」
そこでジェイは苦笑いを浮かべた。
「到着早々、一人の女の子に正体がバレた。で、その子にさんざん追いかけ回されたあげく、秋子さんにとっ捕まえられて、親父に寝返るよう説得されたわけだ。今じゃ、それで良かったと思ってるけど」
ジェイの『正体がバレた』という言葉で、俺は朝のことを思い出した。
「そう言えば、あんたは朝、電車で俺に何かをしたようだが、あれは?」
秋子に尋ねると、彼女は首を左右に振った。
「正しくは、あなたに何かをしたわけではないんです。ただ、あなたをこの街の外に連れ出しただけなんですよ」
ジェイがそれに補足する。
「どうやらメンタル構造が根本的に違うらしくて、オレ達が完璧に変装したつもりでも地球人にはバレバレらしいんだ。だから、オレと親父の体には精神干渉装置が埋め込まれていて、その近くでなら彼らはオレ達が自分とは違う生物であることを意識しなくなる。距離が遠くなれば効果はなくなるし、勘のいい奴には気付かれたりすることもあるようだけど」
「なるほどな」
俺は頷き、それから足下に横たわる黒服の男を指した。
「では、この男は……」
「多分、ちょっと正義感の強いそこらのオッサンだと思う。あんたが街の人々を襲っていると勘違いしたんだろ。大体、どこかの秘密組織の人間だとしたら金属バットで異星人を追いかけたりはしないだろうしな」
ジェイは笑って、俺が棍だと思っていたものを軽く叩いた。
「この方は悪い人ではなさそうですし、ずぶ濡れのまま放置しては凍えてしまいます。できれば家まで運んであげたいのですけど……」
秋子の言葉に、俺は頷く。
「分かった。俺が運ぼう」
「すみません」
秋子は頭を下げた。そこでジェイが口を挟む。
「それなら、オレの家にした方がいいな。親父にこのオッサンの半日の記憶をあやふやにしてもらえば面倒もなくなるから。
そうそう、ついでと言っちゃなんだけど、あんたも親父に再改造してもらえばいい。寿命も延びるし、地球人に驚かれる心配もなくなる」
「それも、いいかもしれないな」
俺は男を担ぎ上げながら答えた。
視線を上に向けると、また赤い星が目に映った。太陽系第四惑星、酸化鉄を含む赤褐色の砂嵐が吹きすさぶ、荒涼とした砂の星だ。
「あの、さ。こういうこと聞いていいものか分からないけど……」
それを見上げていると、ジェイが少し遠慮がちに切り出してきた。
「何だ?」
「さっき交信していた相手の人、もしかしてあんたの……」
曖昧に言葉を濁すジェイに、俺はかぶりを振った。
「さあな。俺には改造前の記憶がないから何とも言えん」
「そっか、そうだったよな……。変なこと聞いて悪かった」
ジェイ――いや、北川潤は寂しそうな笑みを浮かべ、俺に謝った。
「構わんさ。仮に記憶をなくす前の知り合いだったとしても、どのみち二度と会うことのない相手だ。互いに忘れてしまう方がいい」
潤は頭の後ろで触手を組み、俺同様空を見上げた。
「遠い、な……」
「ああ」
そして俺は、一際明るく輝く星を見つめ、口の中で呟いた――ぶっきらぼうな言葉ながら俺を気遣ってくれた、名前も、顔さえも分からぬ女を思いながら。
「……願わくば、彼女の生に幸多からんことを」
俺の名は北川エックス。
かつてこの地球へ、侵略計画の調査と前任者失踪の究明のためにエージェントとしてやってきた男だ。
「お兄さんっ、ボクたい焼き五つ」
「わたし、イチゴクレープ」
「真琴は焼きそばねっ。超特急で!」
「お前ら、秋子さんの夕飯もあるんだからほどほどにしとけって」
「うぐぅ。じゃあ、たい焼きは四つね」
「……了解した」
俺は注文に応え、第一触手でたい焼きの生地を焼き型へ流し込みながら、第三・第四触手を使って鉄板の上の焼きそばを炒め、第七触手でクレープの上にクリームとイチゴをデコレーションしていく。
そして、第十六触手でソフトクリームフリーザーから絞り出したバニラソフトを先客に手渡した。
「待たせたな。百五十円だ」
「わ、山盛りで嬉しいですー。はい、これお金です」
「確かに受け取った」
「……それにしても凄い手際ね。探偵さんが北川君の生き別れのお兄さんだったって聞いたときはびっくりしたけど、この技はやっぱり親父さん譲りよね」
俺の頭の上には潤や親父と同様、触角を模したアンテナが植えられている。これが放射する精神波により、俺の正体がバレることはないらしい――未だに彼らと俺のどこが違うのか分からないが。
俺は親父の指導を受けた後、屋台をまかされるまでになった。今はもうエージェントなどではなく、単なる民間人だ。
もはや俺には帰るべき場所も、従うべき使命もない。彼女の願ってくれた、平穏だが退屈な日々があるのみだった。
けれども、こうして遠く火星を離れ、地球人達を相手に屋台を切り盛りするのも、まあ悪くはない。
「だけど、このお店ではたこ焼きは売ってないんですね」
「……タコさんがたこ焼きを作ったら、共食いだから」
「そこの天然娘、俺はタコではないと何度言ったら分かる?」
「ふぇ……」
Fin.