夜の帳があたりを闇色に塗り込める中――。
私は公園の噴水の前に立っていた。
日の光の残滓はもう消えてしまって、代わりに街灯と、ライティングされた噴水が夜の侵食を阻んでいる。
でも、そこには太陽がもたらす暖かさはない。
(私は、何をしているんだろう?)
答えは、やっぱり見つからなかった。
肩に羽織ったストール越しに、冷気が体の中へ染み込んでくる。
もう帰るべきだ、そう思っても足は動かなかった。
『相沢君は、知ったわ。病気のこと……残された時間のことを』
家を出るとき、お姉ちゃんがそう言った。背中を向け、私の方を見ないまま。
知られてはいけないはずだった。祐一さんにそれを知られたくなかったから、私は祐一さんに別れを告げた。
なのに、心の中に安堵している自分がいる。
やっぱり、私はずるい人間なんだろうか……。
『ありがとう、お姉ちゃん』
お姉ちゃんはその言葉を聞くと、口元を抑えて自分の部屋へ飛び込み、ドアを閉じた。
『かおりの部屋』と書かれたドアプレートが左右に揺れる。押し殺した嗚咽が、そのドア越しに聞こえた。
私の言葉が、表情が、お姉ちゃんを悲しませる。
そして、私はそれを癒すすべを知らなかった。どう足掻いても、私という存在がもうすぐ消えてしまうんだという事実を覆すことなどできなかったから。
私がもっと賢かったなら、誰も傷つけることなく穏やかに『その時』を迎えることができるのだろうか。
(それとも……)
噴水の中に仕掛けられたライトの色が変化した。
中央の噴水が勢いをなくし、周囲を取り囲むように配置された水柱が高く吹き上がる。
(それとも、あのとき命を絶つべきだったのかな……?)
それは、心の奥に封印した想い。
どんなに苦しくても、最後までまっすぐ前を見ていようと決めて、決別したはずの弱い心。
覚悟していたはずなのに、やっぱり心が揺れた。
(私の存在が、お姉ちゃんを、そして祐一さんを苦しめてる……)
私は祐一さんに、なんて残酷なことをしてしまったんだろう。
『栞……』
『はい?』
『俺は、ドラマはあまり見ないけど……。
でも、今ここで、そんなありがちな場面を見てみたい』
『……え?
……どうして、ですか……?』
『栞のことが、好きだから』
『……』
『ずっと一緒にいたいと思ってる。
これから、何日経っても、何ヶ月経っても、何年経っても……。
栞のすぐ側で立っている人が、俺でありたいと思う』
『……』
『……』
祐一さんの側にずっと立っている人。
それは私ではあり得なかった。
(だって……もうすぐ私は……消えてしまうんだから)
私は祐一さんに、好きになった子との永遠の別れを強いようとしていたことになる。
なんて残酷なことをしてしまったんだろう。
私はただ祐一さんに、『かつて学校の中庭で会った風変わりな女の子』のことを、時々でもいいから思い出してもらえるのなら、それでよかったはずなのに……。
(嘘だ!)
私の中の私が、一際大きな声で糾弾した。
(そんなの、ごまかしだ! だって、私は……。
私は祐一さんのことが好き、だから……)
――それは、目をそらそうとしていたこと。けれども、否定しようのない事実。
祐一さんと一緒にいると楽しくて、温かくて……。
他愛のないおしゃべり、何気ない触れ合い。そのひとつひとつが切なくなるぐらい大切な思い出になって……。
(私は、祐一さんの側に立っていたい……。ずっと、ずっと)
――決して叶わない願い。
ライトに色づけされた水柱は、絶え間なく姿を変えていく。
きらめく飛沫が、闇を彩る。
もし今時間を止めたのなら、噴水はまるで繊細なガラス細工のオブジェのように見えるだろうか。
けれども、時を止めることなど誰にもできない。それに……。
静止してしまった噴水は、こんなにも人の心を惹きつけたりはしないだろう。
ぎゅっ、ぎゅっ……。
雪を踏みしめる音が背後から聞こえてきた。
「ここは、夜の方が奇麗ですよね」
そう言って私が振り返ると、その人は答えた。
「俺は寒いから昼の方がいいな」
「残念です」
街灯の逆光になって、その顔はよく見えない。でも、それは私の大好きな人だってことは、振り返る前から分かっていた。
私は、また噴水のほうに向き直る。
「……噴水、こんな時間でもちゃんと動いているんですね」
「止めたら凍るからな」
「あ……それでなんですね」
――止まってしまった噴水は、オブジェにすらなれない。
「噴水は、見てると余計に寒くなるから嫌いなんだけど……。
どこかに栓とかないか?」
「そんなのないですよ。
あっても、止めたらダメです」
「……」
「こんなに奇麗なんですから、見ていたいじゃないですか……。
……ずっと、ずっと」
ガラスのオブジェではなく、凍ってしまった姿でもなく。
ただひたむきに躍動するさまを……。
(これ以上、心を偽ることなんてできないよね)
私はこれまで以上に残酷なことをしようとしている。
それでも……。
最後に夢見ることを許してくれますか? 祐一さん。
Fin.