暑かった夏もずいぶんと遠のき、涼しげな風はともすれば肌寒さを感じさせるような、そんな秋の日。
俺はいつもの商店街を歩いていると、見知った姿を目にした。
淡い緑のブラウスと紺のスカートを身にまとった、ボブカットの小柄な少女だ。
「よう、栞!」
振り向いた栞は、ぱっと表情を輝かせた。
「あっ、祐一さん。こんにちは」
「何してたんだ?」
栞は口元に指を当てて答えた。
「えっとですね。絵の具を切らしてしまったんで、画材屋さんへお買い物に来ました」
「ああ。この間、もう残り少ないって言ってたもんな」
前の日曜日にも栞は公園で絵を描いていて、俺はそれに付き合ったんだった。
ちなみに、風景画だったので肩は凝らなくて済んだんだが。
「でも、最近絵の具の消費量が多いんじゃないのか?」
「そうですね。やっぱり芸術の秋ですから」
「『芸術』って言うには無理があるけどな」
「う〜。そんなこと言う人嫌いです」
栞が不満そうにいつもの台詞を言った。
実際のところ、栞の絵は以前に比べて遥かに上達している。今まで独学でやってきたところを、授業や部活で指導を受けられるようになったのも影響してるんだろう。
「そう言えば、あの公園の絵を文化祭で展示するんだろ? 間に合いそうか?」
来週に、ウチの学校の文化祭が開催されることになっていた。何故か体育祭の後に連続して行うらしい。
栞は美術部員として、絵を出展するようだった。
「はい。あとは仕上げだけですから。
本当は、祐一さんの絵を描きたかったんですけどね」
「……それだけはやめてくれ。恥ずかしすぎる」
ふふっと栞が笑う。
「それじゃ、行こうぜ」
「えっと、どこへですか?」
「そりゃ画材屋に決まってるだろう。俺はどうせ暇だから、栞につき合うよ」
「あ。それじゃ、画材屋さんでデートですね」
栞は俺の隣に並ぶと、笑顔でそう言った。
銀杏並木の黄色く色づいた葉が、高く青い空からひらひらと舞い降りる。
俺達はその中を、商店街の一角を目指して歩き始めた。
栞が絵の具を買った後、俺達は百花屋へ寄った。もはやお定まりのコースと言えるかもしれない。
コーヒーのカップを皿の上に戻したとき、栞が切り出した。
「祐一さんのクラスって、たい焼き屋さんをやるんでしたよね?」
「ああ、何せ焼き型がウチにあるからな。
中身はつぶあん、こしあん、クリームにイチゴジャムと、いろいろ取り揃える予定だ。
あ、そうそう。リクエストに応えて、アイスたい焼きも用意したぞ」
「えっ、本当ですか!」
栞がきらきら目を輝かせた。
その手元にはバニラアイスクリームの器。毎日のように食べているのに、よく飽きないものだと思う。
……まあ、それは他の連中にも言えることだけど。
「でも、どうやって作るんです? 先に入れてあったら溶けちゃいますよね」
「ああ、焼き上がった後に注入するんだ。理科実験用のシリンダで」
「り、理科実験用、ですか……」
栞が苦笑する。
「もちろん、新品を使うつもりだぞ。仮にも客に出すものだからな。
皮のほうは、シュークリームの皮と同じ要領で中を空洞にするんだ。
厳密に言えばシューアイスと同じなんだが、シューってのはあくまで外見がキャベツに似ているんで付いた名前らしいから、『アイスたい焼き』を名乗っても問題ないだろう」
「なるほど……。楽しみです」
「その他にも、中華肉餡入りとか牛スジと玉ねぎ入りとかも用意する予定だ」
「そ、それは……。
ずいぶんピンポイントな客層を狙ったラインナップなんですね」
一般受けしそうなものの、アイスたい焼きもその部類だぞ、とは言わないでおく。
「祐一さん……。口に出してます」
栞がジト目で俺を見る。
「ぐぁ……。またか」
この癖のせいで幾度窮地に陥ったことか……。
「と、ところで、栞のクラスの出し物は喫茶店だったけ?」
「あ、それなんですけど、面白みがないということで急遽変更になったんです。
隣のクラスと合同で、お化け喫茶になりました」
「ううむ……。分かりやすいというか、何というか。
栞も何か扮装するのか?」
「えっと、その……。
雪女みたいな格好をすることになってます」
何故かうつむいてもじもじする。
しかし、『みたいな』って……。
「ああ、『アイスクリーム女』ってことか」
「……どうしてすぐに分かっちゃうんですか?」
栞は不満そうに言った。分からいでか、って感じだと思うが。
「まあ、当日を楽しみにするとしよう」
「えぅ……」
俺はコーヒーを口に含み、その香りを楽しんだ。栞はウエハスを一口齧る。
「栞は、美術部の方は手伝わないのか?」
「一応、二日目の午前中に受付をする予定ですよ。
ウチの部は展示しておくだけだから楽なほうです。お姉ちゃんは、クラスと部の両方を仕切らなきゃいけないから大変だ、って言ってましたけど」
「そう言えば、香里の部活って何なんだ?」
俺は長いこと疑問に思っていたことを口にする。
栞は小首を傾げた。
「さあ? 何でしょうね」
「なにっ! 栞も知らないのか。
それは由由しき事態だな……」
「?」
スプーンを咥えた栞が、きょとんとした表情になった。
「栞。もし姉が人の道に外れた部活動を行っていたとしたら、命を張ってでも止めさせるのが真の妹というものだぞ」
「……どんな部活ですか」
「とにかく、文化祭当日に一大オペレーションを実行する。
名づけて、『かおりんの部活を探っちゃうぞ大作戦』だ!」
「えっと、『大作戦』は大げさですよ」
「じゃあ『中作戦』」
「いいですね。座りが悪くて半端な響きが素敵です」
……素敵なのか?
「作戦決行は文化祭初日ヒトヨンマルマル、栞の教室に集合とする」
「午後2時、ですね。分かりました。
その時間なら大丈夫だと思います」
「よし。中作戦の存在を決して香里に悟られることのないように」
「了解しましたっ」
ぴしっ、と栞が敬礼する。
妙なノリで始まったその作戦。それが、その後どんな事態を巻き起こすことになるのか、俺達には知るよしもなかった。
文化祭当日。
一昨日の体育祭の疲れはまだ少し残るものの、むしろそのせいで全員が妙にハイテンションになっているようだ。徹夜ハイに通じる部分があるかもしれない。
普段は割と厳格な感じの校風だが、こういったイベントのときには盛り上がる。各教室は意匠を凝らし、無秩序に飾りたてられていた。
俺自身、こうした雰囲気は嫌いじゃない。
栞の教室の前には、おどろおどろしい書体で『喫茶・魑魅魍魎』と書かれた看板が置かれている。窓には暗幕が引かれ、中をうかがい知ることはできない。
こんなんで商売になるのか、と心配になる。そこへ、
「……いらっしゃいませぇ〜」
と唐突に声をかけられた。
「おわっ! びっくりした」
乱れ髪の和服の女生徒が、いつの間にか俺の横に立っていた。髪を一筋、口に咥えているのがお約束だ。
――はっきり言って、無茶苦茶恐かった。
「美坂さんにぃ……ご用ですかぁ」
「ああ。そ、そうなんだ」
しょっちゅう教室を訪れるせいで、栞のクラスメイトには俺の顔を覚えられてしまっているようだった。ちょっと照れ臭い気もする。
「……フフフ。
それではぁ、中でお待ちになってくださいませぇぇ」
「わ、分かった」
そんな雰囲気出さなくても、と思うが、女生徒はノリノリのようだった。栞もこんな感じの扮装なんだろうか、と不安になる。
教室内は、やや薄暗い照明と陰鬱な書き割り、定番のBGMが雰囲気を演出していた。
その中を、幽霊やら妖怪変化やらがうろつき回っている。手に飲み物の載った盆を持っているのが妙にシュールだった。
待つことしばし、俺の傍らに白い影がすっと現れた。
「お待たせしました。祐一さん」
「栞……か?」
「はい」
栞は、白い着物に水色の帯を締めていた。髪が伸びているのはウィッグなんだろう。
それにしても、意外だった。
童顔の栞のことだから、座敷わらしのような感じになるんじゃかいかと予想していたんだが、さにあらず。元々色白の上に、目元に入れたシャドーと寒色系の口紅のせいか、凄味のある雪女風の美女に仕上がっていた。
しかしその雰囲気も、胸元にぶらさがった『怪奇・アイスクリーム女』と書かれた名札と、小脇に抱えた巨大カップアイスでぶち壊しだった。
奇麗なんだか面白いんだか、評価に窮する。
ところで、さっきから栞が、頬を膨らめたかと思うと顔を赤らめ、その後に複雑な表情になったりしているのは何故だろう?
「それは祐一さんが声に出しているからです」
「しまった!」
いつかこれで身を滅ぼすぞ、俺。
周りの妖怪どもや客たちは、笑いをこらえている様子だ。
「と、とにかく、だ。今から中作戦を開始するぞ」
「はいっ。了解しました」
「……」
「……」
「……栞」
「何ですか?」
「もしかして、その格好で行くつもりなのか?」
「いけませんか?」
栞は自分の格好を見下ろしながら言った。
「目立つだろうがっ! 今回の作戦はあくまで隠密裏に行わねばならんのだ。
だいたい、その巨大アイスも持っていくつもりなのか?」
「可愛いから気に入ってるんですけど……。
ちなみに、『アイスクリーム女』はこのカップから零下273度のアイスを放出して、全てを凍らすって設定なんですよ」
「アイスクリームが超流動を起こしそうだな……」
「あ、それいただきです」
「いや、それはいいから……。
着物は着替えるのが大変そうだから、せめてメイクは落としてくれ」
「ちょっと残念です」
栞が肩を落とした。
「どうしてだ?」
「その、祐一さんが……奇麗って言ってくれたから……」
急に周囲のあちこちから咳払いが聞こえてきた。
いかん、これ以上ここにいるのも限界だ。
「とりあえず、ここを出るぞっ」
俺は栞の手を掴んで教室から逃げ出した。
俺と栞は、廊下の角に身を潜めていた。
ちなみに栞は、ウィッグを外してメイクを落としてはあるものの、衣装は白い和装のままだ。まあ、妙な格好をした連中がうろついているから、それほど目立たないとは思うが……。
「あ、お姉ちゃん出てきました」
栞が囁くように言った。
「よし、後を追うぞ」
「はい」
俺達は慎重かつ大胆に尾行を開始した。
香里は特に周囲を見回したりする様子もなく、まっすぐに目的地に向かって歩いていく。
やがて、その足がとある教室の前で止まった。
教室の上に掲げられた燦然と輝く看板。そこには『イルカの曲芸部』とあった。
「……」
「……」
香里は用心深そうに周囲へ視線を走らせた。俺達は慌てて柱の影に隠れる。
そして香里は入り口の戸を開いた。その隙間越しに、イルカらしき着ぐるみを着込んだ生徒たちの姿がちらりと見える。香里は躊躇する風もなく教室に足を踏み入れ、後ろ手に戸を閉じた。
教室の壁には、イルカのイラストとともに『ヘディング10回連続で豪華賞品!』と書かれていた。
「し、栞?」
傍らの栞も呆然とした様子だ。
しかし、こんな部があったとは初耳だった。……そもそも、部として成り立つのか?
「なんと言うか、これは人の道に外れてないか?」
「……イルカの道には沿ってそうですけど」
二人して空ろな笑みを浮かべる。
しばらくして、香里が教室から出てきた。
妙に嬉しそうな表情だ。腕にはリボンが掛けられた箱がひとつ。
「あれ、豪華賞品……かな?」
「みたい……ですね」
どうやら、ここは香里の所属する部ではないようだった。
歩き始めた香里の後を、再び俺達は尾行する。
しばらくして、香里がたどりついた場所は――『タクラマカン砂漠部』。
一体、何をする部なのか想像もつかない。
「もしかしたら、ヨートカン遺跡の発掘とかをする部活なのかも」
「余計に訳分からんぞ……」
えらく地味な様子で、外からは教室内になにがあるのか全く分からなかった。
ほどなく、香里が廊下に出てきた。手にはさっきの豪華賞品のほか、A4サイズぐらいの包みが増えている。ここも違うらしい。
三たび香里の後を付ける俺達の後ろから、何やら騒がしい声が聞こえてきた。
「公安委員会だ! ここを開けろ!」
「やばい、ガサ入れだ。撤収〜!」
……謎が謎を呼んでいた。
「栞、振り返るんじゃないぞ……」
「分かってます……」
妙に脱力した俺達のことを知らぬげに――と言うか、知られたら困るが――香里はまた、ある教室の前に立ち、その戸を引いた。
今度は『劈掛掌同好会』。
「よしっ、今度はまともだ」
「ええっ?」
「いや、少なくとも運動部ではあるし、活動内容も想像がつくだろ」
「そうかもしれませんけど……。
でも私、ひかしょう――って読むんですか?――がどんなものなのかも知りませんし」
「安心しろ。俺も知らないから」
語感からして中国拳法っぽいってことしか分からない。
「でも、俺はむしろ納得だけどな。香里は格闘技系の部活だろうと思ってたから。
あいつって、なんとなくポケットにカイザーナックルとか潜ませてそうじゃないか?」
「――誰が、何を、潜ませてるですって?」
「うおぁっ!」
後ろから響いてきた低い声に慌てて飛びのくと、そこには美坂香里が仁王立ちしていた。
「香里っ! お前何でここに……。
はっ、まさか中国四千年の秘儀で」
「……後ろの出口から出てきただけよ」
ため息をつく香里。栞が隣で苦笑している。
「いつから気づいてたんだ?」
「後ろが騒がしいと思って振り返ったら、なんだかげんなりした様子の座敷わらしと悪人面の男が見えたのよ」
何気に酷いことを言われているような……。
しかし、メイクを落とした栞は、まさに香里の表現した通りではある。
……と、そこまで考えた時点で栞に足を踏まれ、睨まれた。
また声に出していたのか、はたまた心を読まれたのか、深くは追求しないでおく。
「それより何なの。人の後を付け回して」
「いや、特に深い意味はないんだ。お前が何の部活に入っているのか確かめようとしただけで……。『劈掛掌同好会』だったんだな」
「違うわよ。ここは単にあんたたちを捲くつもりで通っただけ。
あたしは文芸部に入っているわ」
「……そんなにあっさりバラされると面白くないんだが」
「あたしは元々面白くないもの。勝手に尾行される側の身になってよ」
……ごもっとも。
「じゃあ、『タクラマカン砂漠部』も無関係なのか?」
「あれは北川君に頼まれただけ」
侮りがたし北川。お前は何者なんだ?
ちなみに北川は今、たい焼き職人として腕を存分に振るっている。
「『イルカの曲芸部』は?」
ぽつりと呟く栞の言葉に、香里はびくっと体を震わせた。
「あ……あれは」
「お姉ちゃん、最近イルカグッズに凝ってたよね」
「ち、違うのよ栞!」
「グッズのために人としての尊厳を……」
さすが妹、姉の追求の仕方を心得ているようだ。
「だぁーっ!
大体、栞! あんた、あたしが文芸部だって知ってるでしょうが!」
香里が逆ギレする。
――と言うか、それは衝撃の新事実だった。
「栞っ、それ本当なのか?」
栞はぺろっと小さな舌を出すと、悪戯っぽい様子で言った。
「実は、そうなんです」
「どうしてそんな嘘を……、あっ」
そう、あのとき栞はこう言ったんだ――『さあ? 何でしょうね』と。
決して『知らない』とは言っていない。
俺は、がくりとその場に膝をついた。
「――不覚。一本取られた」
「ふふっ。久々の完全勝利です」
拳を握り締めた栞が、自らの勝利を高らかに宣言する。
香里は呆れ顔だった。
「あんたたち、果てしなく変なカップルよね」
「ほっとけ」
俺は立ち上がると、栞に向かって言った。
「仕方がない。今日の学園祭巡りの費用は俺持ちだ」
「うれしいです。
でも、勝負とはいえ祐一さんを騙していたことに変わりないですから、祐一さんの分は私が持ちます」
俺は栞の手をそっと握る。
「栞……」
「祐一さん……」
「容赦、しないぞ?」
「もちろん、私もです」
見つめ合いながら不敵に笑う俺達の横で、香里がまた溜め息をついていた。
「ほのぼのしてるのか、ギスギスしてるのか、よく分からない状況ね」
「気にするな」
「そもそも、あたしの部活なんてつまらないものより、もっとほかに探る対象があるでしょうに」
「例えば?」
「そうね。……秋子さんの、『例のジャム』とか」
俺達二人は凍りついた。栞も水瀬家の敷居をまたぐ身、既に『ジャム』の洗礼を受けている。
「香里……。お前、何という無謀なことを……」
「そう? でも、あれは絶対確かめておくべきよ。
何をどうすれば、あんな味になるのか……」
その両肩が、がしっと後ろから掴まれる。
「――そう。香里ちゃん、興味があったのね」
「なっ……」
振り向いた香里は、そこに笑顔の秋子さんを見た。
だが、その目は意味深な光を帯び、今にもキュピーンと音を立てそうだった。
「知らなかったわ。香里ちゃんが知りたがっていたなんて。
そう、だったらわたしが作り方を教えてあげるわね。ちょうど材料も揃っていることだし、祐一さんの教室を借りて、今から実践しましょう」
「え、や、あの……」
拉致されていく香里。俺達は目を合わせないようにした――これ以上の被害者が出ないことを願って。
しかし、教室でブツを作るのなら、北川あたりは巻き込まれそうだな。
まあ、それは良しとしよう。
「ちょっと、黙ってないで助けなさいよっ」
「栞……。香里って、何のために生まれてきたんだ?」
「私にお姉ちゃんなんていません……」
二人して空ろに呟く。
「あんたたちっ! 覚えてなさいよ〜!」
香里の声は次第に小さくなり、やがて聞こえなくなった。
「さてと。済んだことは忘れて、学園祭を楽しみましょう。祐一さん」
「ああ、そうだな」
まあ、別に命に別状があるわけでもないから、大丈夫だろう。
俺達は連れ添って、校内を見て回ることにした。
――しかし、本当はその時点で気づいていなければならなかったのかもしれない。
『ジャム』の作り方を体得した香里が、再び俺達の前に姿を現したときに起きる惨劇のことを……。
Fin.