浴槽の湯垢を落とし終えた俺は、かがめていた背中を伸ばした。
「……ふう」
ひと息つき、それからシャワーで洗剤を流し落とした。
やっぱりペンションだけあって風呂場も広く、掃除もそれなりに手間がかかる。もっとも、こうしてタイルがピカピカになったのを見るのは気持ちがいい。苦労した甲斐があるというものだ。
掃除を終え、俺は風呂から廊下へ出た。
「あ、ミホさん。風呂掃除終わりました」
ちょうど通りかかったミホさんに報告する。ミホさんはにっこり笑って、
「ご苦労様、そーた。ほんと助かるわ」
と労ってくれた。
「それで、次の仕事は何をしましょうか?」
「うーん、そうねえ……」
俺が尋ねると、ミホさんは頬に拳を当てて考え込んだ。
「掃除は一通り終わったし、夕飯までには間があるから仕込みにはちょっと早いし……。今すぐに片付けなきゃいけない仕事はないわね」
「じゃあ、玄関前の掃除でも……」
そう言いかけた俺を、ミホさんは制した。
「あんたは少し休憩なさい。朝から働きづめなんだから」
「いや、そのために来てるんですから当然です。それに、一年ぶりだから結構楽しいですよ」
そう、叔母であるミホさんの経営するペンションちゅらに俺がやってくるのは、冬休みの期間だけだ。常夏の島、塔弦島は文字通り一年を通じて夏のように気温が高い不思議な島で、だからこそ冬はリゾート客のかき入れ時なのである。
もちろん、ただ手伝いをすることだけが目的なのではなく、俺自身この島を訪れるのが楽しみでもあった。
「そーたは真面目ねえ。ウチのバカ娘どもに爪の垢を煎じて飲ませてやりたいわ」
ため息をつくミホさんに、俺は苦笑する。
「大げさですよ。俺だって家の手伝いはあまりする方じゃないです」
ミホさんは意味ありげな表情で、
「そう? 聞いた話じゃ、そんなこともなさそうだけど……。ま、人が良いのは結構なことではあるけどね」
と言って片目を瞑った。
「でも、とにかく今は休むこと。そもそも、そんなに無理するほど人手が足りないわけじゃないんだから」
確かに、昨日までは俺抜きでもペンションを切り盛りできていたのだから、あんまり気負うのも良くないかもしれない。
「分かりました。それじゃ、休憩させてもらいます」
「うん――ねえ、そーたって実は貢ぐタイプ?」
頷き、それからいきなり変なことを尋ねてくるミホさん。
「知りませんよ、そんなの。それより、休むと言っても特にすることがないですね。散歩にでも行こうかな?」
「これが双葉や由比子だったら、こっちが何か言い出すまでもなく、糸の切れた凧みたいにどこかへすっ飛んでいって帰ってこないわね。やっぱりそーたは貢いで破滅するタイプだと思うわ、うん」
あんまり嬉しくない評価が微妙にグレードアップしていた。
そのとき、玄関の方から声が聞こえてきた。
「ただいまー」
「噂をすればなんとやら、ね。バカ娘一号が帰ってきたわ」
制服姿の由比子が玄関から中へ入ってきた。黒い長袖のセーラー服がいかにも暑そうだが、島を出れば外は冬まっただ中なので夏服を着るというわけにもいかないらしい。
「おかえり、由比子」
「おかえり。今日は早かったのね」
ミホさんがそう言うと、由比子は「うん。そー太にお客さんを連れてきたから」と頷いた。
「ちーっす」
「お邪魔します」
由比子の後に続いて、二人が姿を現した。
一人は白いワンピースを身につけ、麦わら帽子を手にした少女。南国の塔弦島にありながら白い肌に、奇麗な長い黒髪が映える。
「いらっしゃい、上坂さん」
「こんにちは、朝倉さん。突然来てしまってご迷惑じゃなかったですか?」
「大丈夫、ちょうど休憩をもらったところだったから」
「そうですか」
上坂さんは昨日、港で会った女の子だ。なんでも、以前俺そっくりの人間に命を助けられたとか。そんなことをした記憶はないし、第一その事故が起きた日は家にいたから、俺であるはずはないのだけど。
「それで、昨日はあまり時間がなかったので、今日その続きをお話しできないでしょうか?」
「うん、喜んで。俺も詳しく聞きたいと思ってたしね」
俺がそう答えると、上坂さんはぱっと表情を輝かせた。
「そう言ってもらえると嬉しいです」
清楚な顔立ちに天真爛漫な笑顔を浮かべた上坂さんに、俺の心臓が高鳴った。出会って間もないけれども、俺はこの子に惹かれ始めている。上坂さんを助けたのが本当に俺だったら良かったのにと感じてしまうくらいに。
上坂さん自身は俺が命の恩人と無関係だとは思っていないようだった。昨日は用事があったとかで細かい話は聞けずじまいだったが、その『俺』を見たのは彼女だけではないらしいから、そう感じるのも当然かもしれない。
と、そこで俺の肩がつつかれた。
「なあ、壮太。お前さ、親友の扱いが酷くねえか?」
「……ああ、悪い。素で忘れてた」
頬を微妙に引きつらせる陸サーファー。
「確か、五郎もその『俺』の目撃者なんだよな?」
俺が話を振ると五郎は目を輝かせ、水を得た魚のように話し始めた。泳げない五郎にしてみれば、本当に水を得たら大事かもしれないが。
「そうそう、そうなんだよ! 茅羽耶ちゃん達は壮太と面識なかったから、まだ人違いって線もあり得るけどさ。俺の場合はお互い知り合いなんだから、お前で間違いないって!
大体、向こうも俺の名前を知ってたぞ。そこまで合っていながら別人だって言われても、信じられないだろ?」
「うーん……。でもなあ、俺に覚えがないのも確かだし」
そう答えてから、一つ疑問を口にする。
「お前の話だと、上坂さんの他にもその『俺』の目撃者がいるってことか?」
この問いには上坂さん自身が答えてくれた。
「はい。私が良く行く喫茶店のマスターが。その人と直にお話ししたそうなので、私よりもはっきり覚えているはずです。
それで、これからその喫茶店に行ってみませんか? マスターからも是非連れてきて欲しいと頼まれているんです」
個人的にはとても興味がある。
「あの、ミホさん。少し出かけてきてもいいですか?」
お伺いを立てると、ミホさんはすぐに了承してくれた。
「構わないわよ。ただし、一時間したら帰ってくること。いいわね?」
「了解しました。上坂さん、案内してもらえるかな?」
俺の問いかけに、上坂さんが頷く。
「はい。それじゃ……」
と、そこで由比子が悲鳴混じりの声を上げた。
「わあっ、ちょっと待って! あたしまだ着替えてないっ」
「由比子、少しは家の手伝いをしたらどうなの? 第一、あんたは無関係でしょうが」
ミホさんが腰に手を当てて呆れたような口調で言うと、由比子は口を尖らせた。
「あたしだって話の顛末を聞きたいんだもんっ」
そこへ上坂さんが声をかけた。
「大丈夫ですよ、三好さん。ちゃんと待ってますから」
「ほんと? ありがとう上坂さん、すぐ着替えてくるから」
由比子は上坂さんに礼を言った後、俺達の方に指を突き付け、
「そー太に五郎、あたしを置いていったら後で酷いんだからね!」
そう言い残して慌ただしく自室の方へ飛んでいった。
「やれやれ。もうちょっと落ち着きが持てないものかしらね。少しは茅羽耶さんのことを見習ってくれればいいのに」
ため息混じりのミホさんに、上坂さんは顔を赤らめ、慌てて首を横に振る。
「そ、そんなことないですよ。私って結構ドジですし。それに、三好さんの元気で明るい部分は羨ましいと思います」
「そう言ってくれるのは親として嬉しいんだけどねえ。まあ確かに、おしとやかなあの子ってのも想像が付かないわね」
忌憚のないミホさんの言葉に、俺と五郎は思わず苦笑する他はなかった。
喫茶店へ行く道すがら、俺と上坂さんは簡単に身の上話をした。
なんでも、上坂さんは元々あまり身体が丈夫ではなく、空気の奇麗なこの島へ療養に来たとのことだった。もっとも、島へ来てからは徐々に体調も良くなったらしい。この調子なら来年の春からは由比子達と同じ学園へ通えるようになるかもしれない、と上坂さんは喜んでいた。
俺の方はと言えば、冬休みにペンションへ手伝いに来ていることを除けばごく平凡な人生を送ってきた――と説明しようとしたところ、五郎達が面白おかしく過去を脚色し始めたのである。
「……で、壮太を捕まえた爺さんは、『坊主。柿を盗ったところまでは上手いことやりよったが、ちっとばかり詰めが甘かったのう』と言って、ゲンコツをその脳天にゴツーンと。あのときは壮太、ペンションに戻るまでわんわん泣いてたっけな」
上坂さんは五郎の話を聞いてクスクスと笑っている。
「覚えてない覚えてないっ! と言うか、お前ら薄情にも俺を置いて逃げたよな?」
「そりゃ逃げるでしょ。そー太がグズグズしてるから悪いんじゃない」
悪びれた様子もなく由比子がそう答えた。
「だってなあ……。あの『柿取りマシン3号』は会心の出来だったんだぞ。見捨てるには忍びないだろ」
「しっかり覚えてるじゃん」
上坂さんはひとしきり笑った後、
「いいなあ……。私も一緒に遊べたら良かったのに」
と羨ましそうに言った。
身体が弱かった上坂さんには、そうやってはしゃいだ思い出があまりないのかもしれない。
「まあ、今は友達になれたんだし、これから遊ぶ機会を作っていけばいいんじゃないかな?」
俺の言葉に、上坂さんは笑顔で頷いた。
「そうですね。そう言ってもらえると嬉しいです」
「……だけど、さすがにこの歳で柿泥棒は、ねえ?」
由比子が苦笑いしながら肩を竦めると、上坂さんも、
「お爺さんからゲンコツをもらいたくありませんしね」
とウィンクする。
一見すると上品なお嬢様風だけど、実は気さくで朗らかな人だと思う。
そうこうするうちに、俺達は喫茶店の前まで辿り着いた。商店街の外れ、少し分かりにくい場所に店を構えている。
「へえ、こんなところにあったんだ……」
去年の冬休みにこの島へ来たときにはまだなかったように思うから、一年の間に新しくできたのかもしれない。
「もうちょっと目立つ場所にするか、せめて看板広告でも出せばいいのにな」
五郎の呟きに由比子は頷きつつも、
「マスターって商売っ気があんまりないみたいだし、道楽みたいなもんなのかもね」
とため息混じりに言った。
「でも、コーヒーの味は保証しますよ」
上坂さんは微笑んで、喫茶店へと入っていった。俺達三人もそれに続く。
強い日差しの屋外から店内に入ったため、俺は目を瞬かせる。すぐに暗がりに目が慣れ、カウンターの奥にエプロン姿の男性がいるのが見えた。年齢は三十代ぐらいだろうか。
「こんにちは、マスター」
麦わら帽子を取りながら上坂さんが声をかけると、その男性は人当たりの良さそうな笑顔を浮かべた。
「やあ、いらっしゃい。茅羽耶ちゃんに三好さん、六角君。それから……」
男性はそこで言葉を一旦切ると、目を見開いた。
「君はあのときの……」
どうやら、上坂さんの恩人と間違われているらしい。どう反応したらいいものか戸惑っているところに、上坂さんがフォローを入れてくれた。
「マスター、違うんです。確かにそっくりだけど、朝倉さんはあの日、この島に来てないらしいの」
「そうなのかい? それはまた……不思議な偶然だね」
マスターと呼ばれた男性は、目をぱちくりとさせる。
「……あの、すみません」
なんだか申し訳ない気分になって頭を下げると、男性はかぶりを振って笑った。
「いやいや、君が謝る必要はないよ。むしろ、早とちりしてしまって悪かったね。
――それじゃあ、これが初対面ということでいいのかな? ボクはこの喫茶店をやっている羽柴昌平、呼ぶときはマスターでいいよ」
「あ、はい。初めまして。俺は由比子の従兄弟で、朝倉壮太です」
簡単に自己紹介を終えると、マスターは顎に手を当て俺をしげしげと眺めた。
「だけど、見れば見るほど似ているよ。まさかとは思うけど、朝倉君には双子の兄弟がいたりはしないよね?」
「残念ながら。『生まれてすぐ引き離された』みたいな話でもない限り、俺が知らないはずはないでしょうし。親戚の中にも、俺と間違われるような年格好の人は思い当たりません」
「なるほど……。まあ、それはともかくとして、好きなところに座ってくれていいよ。お客さんを立たせたままじゃ申し訳ないからね」
マスターに促され、俺達四人は一つのテーブルを囲んで座った。
「朝倉さんはコーヒー、大丈夫ですか?」
上坂さんの質問に、俺は頷く。
「うん。結構好きな方かな」
「それじゃ、きっと満足してもらえると思いますよ。全然流行ってないように見えますけど、味のせいじゃないですから」
その説明に、カウンターの向こうのマスターが苦笑した。
「茅羽耶ちゃん、それは酷いなあ……」
「あはは。ごめんなさい」
謝り、ちろっと舌を見せる上坂さん。
「でもまあ、美味いのは本当だぜ。俺もコーヒーだな」
「あたしも」
五郎と由比子の言葉を聞いて、上坂さんが注文した。
「じゃあマスター、コーヒー四つで」
「かしこまりました」
上坂さんがテーブルの方に向き直ると、由比子が切り出した。
「それで、どうしようか? 何が起きたのか知りたくても、取っかかりがないと調べようもないだろうし」
「そうだな……。まず、その日に何があったのかを詳しく聞きたいな。俺が聞いたのは断片的な話ばかりだから、もう少し順序立てて説明してくれると嬉しい」
俺がそう言うと、五郎が意味もなく胸を張った。
「じゃあ、最初は俺からだな。ごほん」
咳払いをして無駄に勿体付けると、五郎が語り出す。
「俺がその日――八月十日に朝倉壮太と出会ったのは、多分十時頃のことだったと思う」
「いや、だから俺じゃないって」
すかさず突っ込みを入れた俺に、五郎は顔をしかめた。
「人がせっかくノリ良く話そうとしてるとこなのに……。んじゃ、『朝倉壮太っぽい何か』でいいだろ?」
「良くない」
「なんだか謎の生命体っぽい語感ですね」
すかさず駄目出しをする俺と上坂さん。いや、もしかすると上坂さんは結構面白がってたのかもしれないが。
「あー、もうっ。話が進まないでしょうが。取りあえず、そー太ダッシュってことでいいじゃない」
由比子が強引に纏める。カウンターの向こうのマスターは、そんな俺達の様子に微笑みながらコーヒーを淹れていた。
気を取り直して、五郎が続けた。
「とにかく、俺が壮太ダッシュに会ったのは午前中の話だ。場所はペンションちゅらから商店街に続く道の十字路近く、奴は浜辺の方から歩いてきたみたいだった。なんだか疲れた様子だったな。
壮太は違うと言ってるけどさ、あそこまでそっくりな人間は双子でもない限りいないと思うし、当然俺も壮太本人だと思い込んだんだよ。それで、俺は壮太がこの島へ来てるなんて聞いてなかったから、驚いて声をかけたわけだ。そしたら、壮太ダッシュの奴はこっちが不思議がってること自体を変に思っている感じだった。
しばらく噛み合わない話をした後で、どうやら壮太ダッシュは日付を勘違いしているらしいことが分かったんだよ。何故かあいつは、その日が八月じゃなく十二月だと思ってたらしい」
「いくら常夏の島でも、四ヶ月も日付を間違えるというのはあり得ませんよね。朝倉ダッシュさんの正体は置いておくとしても、ちょっと普通じゃないと思います」
上坂さんが考え込みながら呟くと、由比子もそれに同意する。
「そうだね。年中同じような気温だから季節感がないのは確かだけど、普通に暮らしていればテレビやなんかで日付を知る機会なんていくらでもあるだろうし……」
それも確かに奇妙ではあった。もっとも、俺としてはもっぱらもう一つの謎、朝倉壮太ダッシュなる人物の正体に興味がある。
「それで、そのダッシュが俺そっくりだったということは分かったけど、中身はどうなんだ? 実は他人の空似で、話が噛み合わなかったのもそのせいってことはないか?」
「ん? うーん……」
五郎は一瞬考え込み、それからきっぱりと否定した。
「ないな。俺の名前を知ってたもん。『壮太』って呼んだら応えたし」
「呼びかけは適当に相槌打っただけかもしれないだろ。あと、お前は『56』って書いてあるシャツを良く着てるから、それで名前が類推できたのかもしれないぞ」
「んなわけあるかっ。じゃあ何か? シャツに『801』って書いてあったら全員ヤクザなのかよ?」
いや、『801』は多分ヤクザじゃなくて――というツッコミは止めておくことにした。なんか怖い方向に行きそうだし。妙に上坂さんの目がキラキラ輝いていたのも、見なかったことにする。
「それに確か、由比子と双葉のことも知ってた様子だったぞ。あと、地獄突きもしてきたしな」
「まあ、そこまで話を合わせてきたんなら、赤の他人だったとしても無関係だとは思えない感じだね。地獄突きはあんまり関係ないけど」
至極もっともなことを由比子は指摘した。
「じゃあ、あれか? 変装の名人が壮太になりすまして悪事を働こうとしていた、とか?」
「うーん。悪事じゃなくて人命救助だったから、あまり正体を隠す必要はなさそうです。朝倉さんに変装しなきゃいけない理由も見あたりませんし……」
五郎の妙な発想に、上坂さんが小さく首を傾げる。
今まで聞いた話から考えると、確かにその朝倉壮太ダッシュが俺と似ていたのは偶然とは考えづらい。しかし、だからといって何者かが俺のフリをする必要なんかこれっぽっちも思い付かないのである。
由比子が小さくため息をついた。
「はぁ。そうなると、やっぱり生き霊とかドッペルゲンガーとか、そういう話になるのかな? 正直言って苦手なんだけど……」
「そもそも、ドッペルゲンガーってどういう意味なんだろう。言葉は良く聞くけれど、由来は何なのかな? 英語じゃなさそうだし」
ふと疑問に思ったことを口にしてみる。
「確か、『ドッペル』はドイツ語で『ダブル』の意味だったような……。二挺のバイオリンで演奏する協奏曲を『ドッペル・コンチェルト』って言うんですよ」
上坂さんがそう教えてくれた。そうしたことに造詣が深いのは、やはりお嬢様育ち故なのだろうか。
「じゃあ、『ゲンガー』は――そうか、分かった! 『二人の原画さんがいる』って意味なんじゃないか?」
「んなわけあるかっ!」
危険発言をする五郎の喉元を貫手で突く。
「ブッチャーッ!?」
あくまで軽くつついただけなのに、大げさに騒ぐ五郎。
「ゲホッ、だからこうやってあのときも地獄突きされたんだよっ。夢じゃないか確認するためにって」
「酷い奴だな」
「今それをやったお前が言うなっての!」
やいのやいのと騒ぐ俺達に、由比子がまたため息をついた。
「またすぐに脱線する。話が進まないじゃない」
「――ドッペルゲンガーは茅羽耶ちゃんの言う通りドイツ語でね、英語にすると“double-goer”とか“double-walker”になるらしいよ。直訳するなら、『二重に出歩く者』になるのかな?」
そのとき、トレイを手にしたマスターが会話に加わった。トレイの上には、湯気の立ち昇るカップが載っている。
「お待たせしました」
俺達四人が囲むテーブルへコーヒーカップが置かれた。香ばしい豊かな香りがそこから漂ってくる。
「マスターは詳しいんですか? こういうこと」
上坂さんが尋ねるとマスターは肩を竦めた。
「詳しいってほどじゃないよ。昔ちょっと興味があって調べたことがあるだけで。
元々はヨーロッパの伝承に登場する、人間に化ける能力を持った妖怪のことらしい。あんまり良い存在とは思われてなくて、悪事を働いたりだとか、あるいは不幸の先触れだとか言われているんだ。特に本人が目撃した場合、その人は数日以内に亡くなるだなんて話もあるよ」
由比子がそれを聞いて難しい顔をする。
「この場合、上坂さんが崖から落ちるという事故が起きたんだから、『不幸の先触れ』ではあるんだろうけど……。でも、そのドッペルゲンガーが事故から上坂さんを助けちゃうっていうのは、ちょっと違うような……?」
確かに、それでは不幸とは言えないだろう。マスターも頷いた。
「それにもう一つ、伝説ではドッペルゲンガーは喋らないということになっていたはずなんだ。ボクと茅羽耶ちゃん、それに六角君は、そのダッシュ君の言葉を聞いているから、定義通りのドッペルゲンガーとは違うんだろう。
もちろん、そんな妖怪が本当にいると素直に信じているわけじゃないけどね」
マスターの言葉を聞きながら、俺は一緒に運ばれてきたシュガーポットからザラメを一掬いし、コーヒーに入れた。スプーンでかき回した後、カップに口を付ける。
「……あ、美味しい」
別段コーヒー通だということでもないけれど、このコーヒーの味は今まで飲んだことのあるものの中で一番美味かった。苦味と酸味が調和し、口の中に豊かな香りが広がる。上坂さん達がお勧めするのが理解できた。
「ありがとう。気に入ってもらえて嬉しいよ」
マスターはそう言って微笑んだ。なかなか人の良さそうな男性だ。
「マスターのコーヒーは美味しいんだから、もっと宣伝するべきだと思うよ。そうしたら、お客さんもたくさん来てくれるだろうし」
上坂さんの助言に、マスターは困った表情を浮かべた。
「うーん。でも、この喫茶店はボクしかいないからね。あんまり大勢押しかけられても対応できないよ」
「それだったら、バイトを雇えばいいじゃない。ウェイトレスがいればマスターの仕事も楽になるし、客寄せにもなりそうだし。あたしは部活があるから無理だけど」
由比子の提案に、上坂さんは両手を打ち鳴らした。
「それ、良いアイディアですね。だったら私、バイトに立候補しちゃおうかな。でも、どちらかと言えばウェイトレスより料理を作る方がやってみたいかも」
女性陣二人の盛り上がりに少々押され気味のマスターが、上坂さんを諫めるような手振りをする。
「ちょ、ちょっと待ってよ。大体、茅羽耶ちゃんは料理をしたことがあるの?」
そう指摘された上坂さんが、ちょっぴり口を尖らせた。
「失礼ですね、マスターは。私、こう見えても以前ケーキを――」
言いかけ、そこで上坂さんの言葉が途切れる。
「――あれ? 作ったことは一度もない……ような……」
それを聞いたマスターが、がっくりと肩を落とした。
「さすがに、それじゃあ任せられないよ」
「えっ? そうですね……」
心ここにあらずといった有様で、上の空で返事をする上坂さん。頭の上にいっぱいクエスチョンマークでも浮かんでいそうな様子だ。何かを思い出したいのに思い出せないような、もどかしい表情だった。
「まあ、それはともかくとして、そのダッシュって奴はその後どうしたんだ?」
俺が話を戻すと、五郎はカップを口から離してソーサーの上に戻し、コーヒーを飲み下してから答えた。
「どうも何も、その日が八月だって分かった途端、いきなり走ってっちまったよ。なんか『用事ができた』とか言ってたな。多分、商店街の方へ行ったんだと思う」
「おそらく、朝倉君――じゃなくてダッシュ君は、六角君の次にボクの所へ来たんだろうね」
と、感慨深げにマスターが語った。
「すみません。そのときの状況を聞かせてもらえるでしょうか?」
尋ねた俺に、マスターは頷く。
「構わないよ。他にお客さんもいないことだし」
マスターは隣のテーブルにトレイを置くと、椅子を引いてそこに腰掛けた。俺達四人はマスターの方に向き直る。
「とは言っても、それほど話すことは多くないんだけどね。
朝倉ダッシュ君が店に入ってきて、注文を聞いた後に、ボクはちょっと尋ねてみたんだよ。君は茅羽耶ちゃんの知り合いなのか、って。ダッシュ君は同意したんだけど、今思うと少し後ろめたそうな表情だったかな。
それで、彼に茅羽耶ちゃんのことを聞かれたから、朝ここでコーヒーを飲んだ後はそれっきりだって答えたんだ。今頃は必死に絵を描いているところだろうって」
「あの日は父の誕生日の二日前で、プレゼントにしようと思って絵を描いていたんです」
気を取り直したらしい上坂さんが補足した。マスターはその言葉に頷く。
「そう、それでそのことを伝えたら、いきなりダッシュ君は血相を変えてね。居場所を聞かれて答えたら、コーヒーも飲まずに店を飛び出していったんだよ。茅羽耶ちゃんの命が危ないんだって言い残して。あれには本当に驚いたな」
「あ……すみません。コーヒーを無駄にしてしまって」
何となく申し訳ない気がして頭を下げると、マスターは笑った。
「いや、朝倉君が謝る必要はないんじゃないかな。君本人に覚えがないんだから。
それで、聞いた内容が内容だったから、ボクは昭彦さん――茅羽耶ちゃんのお父さんに連絡を取って、ダッシュ君の後を追ったんだ」
「……時系列的に並べるなら、ここからは私の番ですね」
上坂さんがマスターから話を引き継ぐ。
「マスターの話にあった通り、私は山道の途中にある見晴らしのいい場所で絵を描いていました。そうしたら、突然強い風が吹いてきて、麦わら帽子が飛ばされてしまったんです。
崖の近くだったんだけど、そんなにギリギリの位置じゃなかったから、少し油断があったんだと思います。つい一歩、足を踏み出してしまって。
そのとき、私の背後から『ダメだ』って叫び声が聞こえてきました。でも、警告に従う間もなく、崖が崩れて私はそのまま下の海に……」
「……落ちてしまったの?」
俺が尋ねると、上坂さんは一瞬身震いして、自分の両肩を抱いた。そのときのことを思い出してしまったのだろう。
「はい。多分、十メートル近い高さだったと思います。それで、落ちたときのショックで私は気を失ってしまいました。普通だったら、死んでいてもおかしくないですよね」
十メートルと言ったら、水泳の飛び込み競技並みの高さだ。スポーツ選手でさえ死亡事故を起こしてしまうこともあるらしいから、何の準備もしていない上坂さんが落ちたら、確かに危険な状況かもしれない。
けれども、上坂さんは一転して笑顔を取り戻した。
「だけど、そんな私を朝倉ダッシュさんが助けてくれたんですよ。
気がついたとき、私は砂浜で仰向けに横たわっていました。すぐそばに朝倉さんそっくりの人がいて、それから『ああ、この人が助けてくれたんだ』って分かったんです。
その人は、自分のことは気にしなくていいと言っていました。『きっと、また出会えるだろうから』って。私はそこでまた気を失ってしまったので、それっきりです。せめて、お礼ぐらいは言いたかったな……」
少し残念そうな表情の上坂さんの後に、マスターが続けた。
「ボクと昭彦さんは最初、山道の方に向かったんだけど、茅羽耶ちゃんがいるはずの辺りで崖崩れが起きていてね。こりゃあ大変だと消防団に連絡を入れたんだ。
それから砂浜の方に回ってみたら、波打ち際に茅羽耶ちゃんが倒れているのを見つけたんだよ。そのときはもう、ダッシュ君の姿はなかったね」
由比子は二人の言葉を聞きながらミルクをたっぷり入れたコーヒーを口に含み、それから大きくため息をついた。
「詳しく聞いたのは初めてだけど……。崖の上で上坂さんを止めようとしたのも、そー太ダッシュだったの?」
その問いに、上坂さんがこくりと頷く。
「姿は見てませんけど、多分。声は朝倉さんと同じでしたから」
「そうすると、壮太ダッシュは崖の上から茅羽耶ちゃんを追いかけて飛び込んだってことなのか? そりゃ凄えな」
五郎が感心した表情で腕組みする。五郎の言う通り、簡単にできることではないだろう。朝倉壮太ダッシュが何者かは分からないし、少々薄気味悪くも感じられるけれど、その行動が立派なことは認めざるを得ない。
しかし、俺にはそれ以上に気になることがあった。
「だけどさ、上坂さんが崖から落ちたっていうのは純粋に突発的な事故だよね? どうしてダッシュはそれを事前に知っていたんだろう?」
俺の疑問に、皆が考え込む。
「……確かに、朝倉さんの言う通りですね。そこが一番不思議なところです。顔や声が似ているのは偶然だったという可能性もありますけど、事故を知っていたのは偶然じゃ片付けられませんから」
上坂さんの言葉に、由比子が頷いた。
「帽子が風で飛ばされたのも、崖崩れも、仕込もうったって無理に近いもんね。第一、それこそ理由がないじゃない」
どちらも絶対に不可能というわけじゃないだろうけど、大がかりになり過ぎてしまうだろう。危険だし、得られるものもなさそうだ。
「うーん、どういうことなんだろうな。せめて何かヒントになることでもあれば……」
思わず唸る俺の左隣で、五郎が「あっ」と声を上げた。
「すっかり忘れてたけど、そう言えば壮太ダッシュが変なことを言ってたな。『まさか、タイムスリップ?』とか何とか」
「……どうしてお前はそんな大事なことを黙ってるんだっ」
その肩を揺さぶる俺に、五郎は悲鳴を上げた。
「ちょ、やめろっての! しょうがないだろう、今まで忘れてたんだからっ」
それを聞いたマスターが、ぽんと手を打った。
「そうか! それなら一応、全部のことに説明が付くね」
「えっと、どういうことですか?」
尋ねる上坂さんに、マスターが説明する。
「つまり、朝倉ダッシュ君はタイムトラベラー、未来から来た朝倉君本人だったってことさ。それなら朝倉君にそっくりなのは当然だし、これから起こるはずの出来事を知っていてもおかしくない。その朝倉君が過去を変えたいと強く願ったとしたら、そうした不思議なことが起きる可能性はあると思う」
由比子が「そんな馬鹿なことが……」と言いかけ、はっと気付いたように呟く。
「もしかして、灯幻鏡の伝説ですか?」
マスターが頷いた。
「大抵の人は与太話だと思っているだろうけど、実はちょっとボクの知り合いに関係者がいてね。あながち法螺でもなさそうだ。どうもこの島では、本当に願い事が叶うことがあるらしいよ」
言われてみると、塔弦島にはそんな伝説があった。にわかには信じ難いけれど、タイムスリップ説は確かに辻褄が合うように思える。
「じゃあ、俺はこれから過去にタイムスリップするということになるんでしょうか?」
俺が質問すると、マスターは顎に手を当てて考えを巡らし、それから首を横に振った。
「いや、多分そうはならないと思う。日付の勘違いとかの件から、朝倉ダッシュ君にとってもタイムスリップは予想外の出来事だったように考えられるからね。だけど今、君はこのことを知識として知っているから、彼の行動とは一致しないだろう?
憶測になるけど、ダッシュ君――別の時間軸の朝倉君はおそらく茅羽耶ちゃんの身に起きた事故を知って、その過去を変えたいと願ったんじゃないかな。そして、彼によって改変された歴史の先にボク達が今こうしている、ということさ」
「じゃあ、朝倉さんは……時間を超えて私を助けに来てくれたんですね」
上坂さんが拳を胸元に当て、目を潤ませる。その表情に、また心臓がどきりと鼓動を打った。
「正確にはこの俺じゃないみたいだけど……。そもそも、それが正解なのかどうかも分からないし」
若干戸惑いつつ、俺は答えた。
「いえ、私はそうだと信じます。それに、私を助けてくれた朝倉さんとあなたは、決して別の存在なんかじゃありません。だから、こうして私達が出会えたのも、きっと運命だと思うんです」
「上坂さん……」
開け放たれた窓から差し込む日差しが、上坂さんの目に浮かぶ涙をきらめかせる。指で目尻を拭い、上坂さんはにっこりと笑った。
とても奇麗な子だと思う。でも、たおやかな印象とは裏腹に、芯の強い人でもある。俺は疑いなく上坂さんに惹かれているのだと自覚した。
上坂さんの見せるちょっとした仕草、時折覗かせる茶目っ気、そして輝くような笑顔――まるで以前から知っていたかのように、それは俺の心を捕らえて放さない。これが彼女の言う『運命』なのだろうか。
「あー、その。なんだ。……俺ら、もしかしてお邪魔じゃね?」
お互いに見つめ合っていた俺と上坂さんは、五郎の言葉ではっと我に返った。
「なによ。鼻の下を伸ばしちゃって……」
「そ、そんなんじゃないって」
由比子がジト目で俺を睨むのを、俺は慌てて否定した。
「いや、でもさ。今、結構いい雰囲気だったよな」
「あぅ……」
茶化す五郎に、上坂さんは赤くなる。
……これが俺の自惚れでなければ、少しは期待してしまってもいいんだろうか。でも、その原因が自分自身ではなく、別の時間の俺だというのは少し後ろめたい気もするけれど。
そのとき、喫茶店に別の客が入ってきた。
「おっと、お客さんだ。いつまでも油を売ってられないね。
いらっしゃい」
マスターが立ち上がって、客を迎える。
「いやあ、外は暑いねぇ……。マスター、アイスコーヒーもらえるかい?」
「あ、俺はビールね」
営業周り中の休憩だろうか、ワイシャツにだらしなくネクタイを緩めた男性の軽口を、マスターが受け流す。
「駄目ですよ。ウチは飲食店じゃなくて喫茶店ですから、アルコールは出せませんって」
「そりゃ残念。じゃあ、こっちもアイスコーヒーで」
「アイスコーヒー二つですね。かしこまりました」
それから俺達の方に向き直ると、
「もうちょっと二人の仲の進展を見ていたかった気もするけど、ボクは仕事に戻るよ。それじゃ、ごゆっくりどうぞ」
と言い残してカウンターの奥へ戻っていった。
「もう、マスターまで……」
口を尖らせ、席に着く上坂さん。少し子供っぽいその様子がおかしくて、つい笑みを漏らしてしまう。
「あっ。朝倉さん笑ってますね!」
そんな一瞬の表情を見逃さず、柳眉をそばだてる上坂さんに、俺は慌てて言い訳した。
「別にからかうつもりはないよ。ただちょっと、そんな上坂さんも可愛いなって……」
「えっ」
それを聞いた上坂さんは、今度は首筋まで真っ赤になってしまい、俯いた。
「……なんか、今日は局所的にすげえ暑いよな。誰かさんのせいで」
「うー……そー太のバカ」
からかい半分、呆れ半分の五郎の言葉と、ますます不満げな由比子の表情で、今度は自分の台詞の恥ずかしさを自覚した俺が赤くなる番だった。