君が星を手にするとき
2006-05-28 by Manuke

 その青年はリラックスした面持ちで、カメラを前に蕩々と説明を続けていた。
「――と、異例の若さながら彼は優れた資質を示し、六番目の座席を獲得したわけです。
 ではここで、サミュエル・スタインバーグ宇宙飛行士のご両親に現在のご心境を伺ってみることにいたしましょう。ミスター・スタインバーグ、今のお気持ちは?」
 あまりに想像力に欠けた質問にめまいを覚えつつ、私は自分に言い聞かせた。
(落ち着け、チャールズ。カメラの向こうでは何億もの人々がこっちを見ているんだぞ)
 サムよりも少しばかり年かさらしきレポーターの男は、一筋の乱れもなく髪を後ろへ撫でつけ、にこやかな表情でマイクをこちらへ差し出している。
 これほどの一大イベントであれ、この男にとっては所詮人ごとなのだろう。こんなにすぐそばにいても、彼には遠くの世界の出来事でしかない――私とは違って。
「……私も世界中の人々と同じく、胸を躍らせています。人類の新たなる一歩が、こうして我が息子とその仲間達によって刻まれるんですから。困難な任務もサムならきっと乗り越えられると信じていますよ」
 無難な台詞を、どうにかつっかえずに言うことができた。面白みはないが、そんなものを誰も期待してなどいないだろう。
 が、レポーターはそこで私を解放してはくれず、更に言葉を重ねてきた。
「スタインバーグ飛行士が宇宙へ興味を持ったのはあなたの影響だとお聞きしていますが、息子さんがあなたの夢を叶えることをどうお感じですか?」
 サムの奴め――!
 ああ、無論サムに悪気のあったはずはない。親思いの良い子なのだから。そして、この無神経なレポーターにも。
 今日はサムにとっての晴れ舞台だ。一時の感情でそれを台無しにしてしまうわけにはいかない。
「実に誇らしい気分ですとも。あそこで飛び立つのを待っているのは、私の魂の片割れなんですから」
 私はそう言って、三マイルほど離れた場所にある〈それ〉を手で指し示した。
 遮るものなど何一つない蒼穹の下、天を目指す尖塔、アレスI型ロケットが遠くに見えた。第一段よりも第二段の方が若干太い、いささか不格好なフォルムをしている。
 それもそのはず、第一段はスペースシャトルのブースターの流用品、第二段はサターン・ロケット用エンジンの流用品という場当たり的なロケットなのである。
 その先端に取り付けられたアルテア宇宙船――アポロ宇宙船に良く似ているが一回り大きいもの――の中で、サムとその同僚が上を向いた姿勢でシートにくくり付けられているはずだ。
 レポーターは満足げに頷き、マイクを傍らのジェーンへと向け直した。
「ミセス・スタインバーグ、何か一言お願いできますか?」
 ジェーンはおどおどとした様子ながらも、なんとかそれに受け答えした。
「わ、わたしは……とにかくあの子が無事で戻ってくることだけを、その、祈っています」
 彼女らしい言葉だった。まだ始まってすらいない二年半の冒険になど興味はなく、ただ我が子の安否だけが気がかりなのだ。
 レポーターは私とジェーンに礼を言うと、カメラマンと共に去っていった。また別の、私達などより重要な人物にインタビューするのだろう。
 私は大きく息を吐いた。取りあえず、責務は果たしたわけだ。もっとも、二つ目の質問は少々際どいところだったが。
 私を良く知る者――あるいは同類――には、私が今どんな心境なのか見抜かれてしまったかもしれない。しかし、構うことはないだろう。宇宙飛行士の親など、誰もさして気にかけてなどいまい。注目すべきは間もなくの打ち上げ、そしてその先の火星探検なのだから。
 スピーカーからアナウンスの声が聞こえ、そしてカウントダウンが再開された。ホールディングは終わり、ここから先はトラブルがない限りカウントは止まらない。
「……チャーリー」
 ジェーンが心細そうに私を呼んだ。私はその肩に手を回し、安心させるように言い聞かせた。
「大丈夫だよ、ジェーン。アレスI型は実績のあるロケットだ。サムは無事に宇宙へ行くことができるさ」
「ええ……」
 アレスI型ロケットの安全性を疑問視する者がいる、などとジェーンを怯えさせるようなことを言う必要はない。そんなことを気に病むのは私だけでいい。
 そしてもちろん、サムの奴はそれを百も承知であれに乗っているのだ。
 火星有人探査――何代か前の大統領がろくな見通しも立てずにぶち上げたその計画は、民衆の目を政治から逸らすためだったとも、利権のためだったとも言われている。が、その意図など気にかける必要はない。科学者と技術者は無茶な計画をなんとか形にすべく努力し、こうして最終段階までこぎ着けた。そしてサムは幸運の女神の前髪を逃さず掴んだ。それだけが意味のあることだった。
 私とジェーンは、階段状にしつらえられた観客席へと移動した。招待客でなければ立ち入ることのできない、発射管制室近くの特等席だ。そして腰を落ち着け、首から提げた双眼鏡で彼方のロケットを眺める。
 約三百フィートの高さを持つアレスI型ロケットは、どこかしら頼りない印象だ。下段の固体燃料ロケット部分が直径十二フィート、上段の液体燃料ロケット部分が十八フィートと、鉛筆のようなひょろ長い形状のせいだろうか。蒸発し続ける液体燃料が、煙のようにその周囲にたなびいていた。
 私は双眼鏡を下ろすと、隣の妻に声をかけた。
「お前も覗いてみるかい?」
「いいえ、わたしは結構」
 ジェーンはかぶりを振った。
「そうか」
 私は頷き、ジェーンが膝の上で握りしめている拳の上に自分の手を重ねた。
 天候不順や機器の不具合という理由で、打ち上げは既に二度延期されている。ロケットの打ち上げは予定通りに行かないものだと承知している私でさえ、やはり自分の息子がそれに乗っているとなると冷静でいるのは難しい。母親ならば、なおのことだろう。
「心配することはない。ここまで来たら打ち上げはすぐだ。宇宙に出たサムと交信するのが楽しみだな」
「ええ、そうね……」
 気休めの言葉でしかなかったが、ジェーンは笑みを見せた。
 サムの乗ったアルテア宇宙船は、既にアレスV型ロケットで打ち上げられて衛星軌道上で待つベガ輸送船とドッキングし、火星への長い長い旅を開始する。私とジェーンにはその途中、幾度かサムやその仲間達と言葉を交わす機会が予定されていた。狭い宇宙船に詰め込まれているストレスを和らげるための配慮だそうだ。
 けれども、多分まともな会話は成立しないだろう。なにしろ、光の速さですら片道何分もかかるような距離なのだから。そんな遠くへ、私の血を分けた息子は行ってしまうのだ。
 私は空を見上げる。上空の大気はどこまでも澄み切っていて、打ち上げの妨げになるものは何もなかった。その空の青を目に焼き付けながらも、私の心は晴れない。
 サムは、私が抱く宇宙への憧れを吸収して育った。
 あの子が赤ん坊のときに一番のお気に入りだったのは、私が与えた宇宙船のおもちゃだった。言葉を覚え始めたころには早くも、テレビに映し出されるスペースオペラのヒーローに夢中だったのを覚えている。
 ジュニアスクールに入ったサムは、私が天体観測へ出かけるときには必ずついてくるようになった。週末の郊外、暗い丘の上でドブソニアン望遠鏡を交互に覗いては、星の世界の話で盛り上がった。そんな夜は大抵帰りが遅くなり、二人揃ってジェーンに叱られたりしたものだったが。
 そして、私が集めた多量の宇宙関係の蔵書――真面目な書物から、荒唐無稽な代物まで――を、サムはむさぼるように読み漁った。そんな息子が愛おしく、また誇らしかった。誰もが私に向かって「サムはお前の若いころにそっくりだ」と言った。
 サムが本気で宇宙飛行士になりたいと言い出したとき、ジェーンは無論反対した。危険だし、なれる可能性は決して高くないからだ。彼女の立場からすれば当然なことだろう。
 大抵の場合ジェーンに異を唱えることはしない私だが、このときばかりはサムの側についた。サムと私は二人がかりで宇宙開発の意義やら何やらを説き続け、ついにジェーンは根負けして同意したのだった。
 あのとき、私はサムの夢を心から応援していたつもりだった。父親として、そして同好の士として。
 しかし、それは真実だったろうか。
 私は本当は――宇宙飛行士なんて実現するはずのないただの夢だと思っていたのではないだろうか。
 物分かりの良い親の振りをしていただけなのではなかろうか。
『液体燃料注入終了』
 アナウンスがそう告げた。液体酸素と液体水素は常温で蒸発してしまうため、こうして打ち上げ直前まで補充を続けるのである。
「もうすぐ、ね」
「ああ……」
 ジェーンの声に私は頷き返す。喉のひりつきを感じて唾を飲み込もうとしたが、口の中はカラカラに乾いていた。
 ――子供のころから、私は宇宙が大好きだった。
 いつの日か、赤い火星の大地に立って雄大なオリンポス山を見上げたり、土星のリングの複雑なさまを間近から眺める日が来るのだと、そう本気で思っていた。もっとずっと遠く、恒星や銀河の世界に行くことだって、自分が大人になるころには実現しているに違いないと信じていたのだ。
 周囲の友達がそうした『子供っぽい夢』から卒業していっても、まだ私はそれにしがみついていた。信じていればきっと叶うはずだと、かたくなに。
 けれども両親や教師、そして友人達までもが、それは実現することのない夢想に過ぎないと私を諭した。いつまでも夢を見ているんじゃない、と。
 傷つき、打ちのめされ――そして私は夢を封印した。
 私には宇宙へ行くチャンスなど最初からなかった。ただの平凡な人間に過ぎないのだから――そう自分に言い聞かせて。
 しかし、それは真実だったろうか。
 努力せず、諦めただけだったのではないだろうか。
『ウォーターカーテン作動開始』
 双眼鏡で覗いてみると、ロケットノズルの周囲に水煙が見えた。噴射の衝撃波からロケットや発射台を守るため、大量の水が撒かれているのだ。
 落ち着かない気持ちで私はまた双眼鏡から目を離した。やはり、打ち上げの瞬間はレンズ越しではなく、この目で見ていたかった。
 熱い風が私の頬を凪ぐ。にもかかわらず、体の震えは止まらない。
『全システム準備完了』
 カウントダウンの数字が、私の心から虚栄をはぎ取っていく。
 周囲の景色も、人々のざわめきも意識から遠のいていった。聞こえるのは、残りの秒を読み上げる声だけだ。見えるのは、彼方にそびえるロケットの姿だけだ。
『5……』
 打ち上げの無事を祈り、私は両手を組み合わせる。
『4……』
 これは人類の新しいステージだ。人が生まれ故郷を離れ、初めて別の惑星へと辿り着く試みなのだから。
『3……』
 ああ、宇宙船の中に座るサムは今何を感じているのだろう。不安か、それとも……。
『2……』
 最後に現れたのは、あまりに愚かしい思い――
『1……』
 ――どうして、あそこにいるのは私ではないのだろうか。
『点火、リフトオフ!』
 そして、オレンジ色の光が生まれた。
 膨大な量の白煙をまき散らし、ロケットは始めはゆっくりと、次第に速さを増して上昇していく。
 世界で最も脆弱で、最も無様で、最も美しい、空の彼方を目指す船。それが炎を曳き、煙を後に残しながら天高くまで登っていく。
 次の瞬間、耳を聾する轟音が鳴り響いた。十数秒のタイムラグを置いて届いたロケットの燃焼音が、私の中に渦巻くものを吹き飛ばす。嫉妬、誇り、心配、期待、憧憬――何もかもを。
 空っぽになった私は立ち上がり、拳を振り上げた。
「行け、行くんだ!」
 爆音に負けじと、旅立つ宇宙船に向けて叫ぶ。
「……私を超えて行け!」
 やっと気づいた。サムが私の分身などではないということに。サムはとっくに、そんな段階を飛び越していたのだ。
 私の想いを受け継ぎながらも、サムは私の代わりに宇宙へ行くのではなかった。彼は一人の人間として、自分でその道を選んだのだ。当たり前すぎるその事実を、私はようやく受け入れることができた。
 サムは星を手にする――そして私には与えられない。
 ロケットは天頂近くまで上昇し、私は必死にそれを目で追った。オレンジの炎が次第に小さくなっていく。噴煙が風に流され、とぐろを巻く大蛇のごとく宙をうねっていた。
 不意に、煙ではないものが視界をぼやけさせる。ぎゅっと強く目をつぶると、それは目尻からこぼれ落ちて頬を濡らした。
 無論、この胸から羨望の思いが消えることはない。だが、私が宇宙へ行くことはできなくても、サムが、そして彼に続く者がそれをなしてくれる。その第一歩をこの目で見られたというのに、それ以上を望むのは贅沢に過ぎるのだろう。
 青い大気の向こうへサムの乗るロケットは霞んでいき、ほとんど見えなくなってしまった。周囲のざわめきが、ようやく意識の中に戻ってくる。
 スピーカーが、ロケットの第一段が燃焼終了し、第二段エンジンが点火されたことを告げた。私は上向けていた顔を戻し、空を見上げていたために痛む腰をさすった。
「……チャーリー」
 ジェーンが私の名を呼んだ。隣を見ると、私に向かって微笑んでいる彼女の頬もまた涙で濡れていた。けれどもそれを拭うことなく、手に持ったハンカチは私に向かって差し出されている。
「ああ、ありがとう」
 礼を言ってそれを受け取り、私は腰を下ろした。
 結局、ジェーンの方がずっと『大人』なのだろう。星とロケットに夢中で、なかなか子離れができず、いくつになってもハンカチを持ち忘れる私とは違って。
 私は頬を拭い終えると、ジェーンにハンカチを返した。
「……半年後が待ち遠しいな。サムが火星に降り立つ日が」
 ジェーンも涙を拭き、そしてにっこりと笑った。
「あの子は『父さんにお土産をいっぱい持って帰るから』って張り切ってたわね」
「ああ。楽しみだ」
 夢を共有してはいなくとも、ジェーンは私の一番の理解者だった。彼女と共に人生を歩むことができて、本当に良かった。
 私はまた空を見上げる。固体燃料ロケットの残した白煙は薄れてゆき、もうロケットの姿は判別できない。
(頑張れよ、サム)
 心の中で、私はエールを送った。間もなく衛星軌道へと達し、更なる遠くを目指そうとしている、サミュエル・スタインバーグという名の一人の青年に向けて――。

Fin.

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