「……この時間通信機の公表には慎重を期す必要があるな。何しろ、悪用されたら一大事だ」
パラドックス実験の直前、天本が何気ない調子で口にしたその言葉で、俺は千載一遇のチャンスが目の前に転がっているということに突然気づいた。
雑然とした研究室の中を見渡すと、ちょうど右手の壁際におあつらえ向きの鉄パイプが数本立てかけられているのが見えた。先月、家庭用ブラックホール発電機のフレームを組み立てたときの廃材だ――発電機自体は、電力が思うように取り出せず大失敗だったが。
悟られないように一本をそっと掴んだつもりだったものの、パイプ同士がこすれて嫌な音を立てる。気づいた天本がこちらへ向き直ったが、なに、もう遅い。
鉄パイプを振り上げ、状況に似つかわしくない奇妙な表情を浮かべた天本へそれを振り下ろした。鈍い感触と、ウシガエルの鳴き声のような悲鳴。それで終わりだ。
この天本という初老の男、自分では学会を追われた天才物理学者などとうそぶいていたけれども、実際は疑わしいものだ。博士号もどこぞの学位工場で買ったらしい怪しげな代物だった。
いずれにしても、今となってはただの死体だ。いや、実はまだ生きているかもしれないが、どのみち同じことだった。
物々しく『危険』と書かれたブラックホール発電機の扉を開き、俺は血と髪の毛のこびりついた鉄パイプを中へ放り込んだ。そして白衣を脱ぐと、天本の頭をそれで包み、ひょろっとしたその体を持ち上げて発電機へ押し込む。それから一計を案じ、血液が付着しているかもしれない床のリノリウム数枚を引っぺがして同様に処分した。
これで痕跡はなくなった。天本の体の大部分はミニ・ブラックホールへ吸い込まれ、残りはガンマ線となって屋敷の上空へと放射されたはずだ。
本来の目的には役立たずでも、証拠隠滅にはもってこいの装置と言えるだろう。ブラックホールに落ちた物体を取り戻すことなどできはしないのだから。
俺は一息つくと、机の上に置かれていた時間通信機を手に取った。アルマイトの弁当箱に携帯電話を取りつけたような格好をしており、実際インターフェースは携帯電話をそのまま流用している。
天本の経歴や博士号はイカサマだが、才能は本物だった。何のひねりもない名前ではあるものの、こいつは本物のタイムマシンなのである。その原理はこうだ。
宇宙の虫食い穴、ワームホールを一対用意する。片方の穴から入ると、ねじ曲がった空間を通ってもう片方の穴から出てくるという代物である(子供向けマンガにあった、なんとかドアとかいう道具のようなものだ)。そして、片方の穴だけを光の速度に近い速さでしばらく動かしてやる。それで完成だった。
動かした方の穴はウラシマ効果のせいで時間が遅れているはずだ。一方、動かしてない方の穴は普通に時間が経過している。つまり、ワームホールの両端で時間が異なる――時間通信機の場合はきっかり二十四時間――というわけだ。ここで、動かした方の穴に入って反対側へ抜けると、そこは二十四時間前の世界となるらしい。どうにも眉唾くさいが、実際にそう働くのである。
ただし、ワームホールは小さすぎて物質がそれを通り抜けることはできない。そこで天本は、重力波を使って情報のみを伝達することにしたのである。つまり、二十四時間前の過去へメッセージを送れる通信機だ。
ワームホールを逆に潜らせれば二十四時間未来へメッセージを送ることも可能だが、そんな使い方には意味がない。未来にメッセージを送りたいならば、電報でも打っておけば済む話だからだ。しかし、過去となると話は別なのである――特にギャンブル方面で。
無限の富を生むだろう装置を手に入れた俺は、ほくそ笑みながら時間通信機のディスプレイを覗き込んだ。二十四時間未来の俺が、早くも今の俺宛てにメッセージを送っているかもしれないと考えて。
しかし、そこにあったのは予想もしなかった文章だった。
『天本は助手の黒澤に撲殺される』
黒澤とは、つまり俺だ。ありがたくないことに、お節介な名探偵が俺の犯行を暴き、それを天本に警告しようとしたらしい。
通信機には発信された時刻などを記録する仕組みはなかった。今、俺がこのメッセージを見た瞬間から二十四時間以内のいつか、時間通信機を誰かが操作して告発文を入力し、過去へ送信するはずなのだ。
「くそっ……」
苛ついた俺は、机の天板に拳を叩きつけた。いっそのこと時間通信機を壊してやろうかとも思ったが、さすがにそれは惜しい。俺は少し思案してみることにした。
そもそも、俺の殺人がこんなもに早く発覚するのはおかしいのだ。計画的なものではないから前もって知られることはないし、証拠は消したのだから殺害方法まで判明するとは思えない――疑われる可能性はあったとしても、だ。可能性としては、誰かに見られたぐらいしか俺には考えつかなかった。
しかし、研究室は窓のない部屋で、出入り口は廊下に通じるドアがひとつだけ。換気口もあるが、人の通り抜けられるサイズではなかった。仮に誰かが俺の犯行を目撃したとするなら、ドアの隙間から研究室の中を覗き見された可能性が一番高そうだ。
「……」
俺は口元を引き結んだ。
殺人を犯していたときにたまたまそれを見られた、というのは少々偶然が過ぎる気がする。だが、手段がどうであろうと、それを実行できる者は一人に限られる。何しろ、この屋敷には俺を含めて三人――いや、今は二人か――しか人間がいないのだから。
時間通信機を机の上に戻し、工具箱をあさって電工ナイフを取り出すと、それをポケットにしまった。そしてドアを開けて左右を確認すると、俺は表玄関へと足を運んだ。
天本重蔵の娘、信子。自信家の父親に似ず気弱な女だが、そこそこの広さである天本邸を一人で管理しているところをみると家事能力は高いのだろう。ちなみに、母親は若い男と逃げたらしい。
玄関脇の窓のところまで行き、そっと外を覗き見る。すると、車庫には信子が普段買い出しに使っているワゴン車が見えた。この屋敷はかなり辺鄙な場所にあるから、移動には車が不可欠だ。とすると、まだ信子は屋敷内にいる可能性が高い。
そのとき――
「あ、あの……、どうかされましたか?」
後ろから声をかけられ、俺はギクリとした。驚きを悟られぬよう心を落ち着け、振り返る。
「いや、空を見ていただけですよ。いい天気だな、と」
「そ、そうですね」
天本信子――確か歳は二十三だったか、俺よりも一回りほど若いはずだ。そこそこ整った容姿だが、性格のせいで暗い印象がつきまとう。今もオドオドした様子で顔を赤らめていて、見ていると苛立たしくなる。
向こうから話しかけてきた以上、この女が『探偵』である可能性は低くなった。しかし、念のために鎌をかけてみることにする。
「それより、博士があなたにご用事があるそうです」
「父が、ですか? 何の用でしょうか」
「買い物を頼みたいとか。研究室でお待ちです」
「……わ、分かりました」
信子は頷いた。俺が先導するように歩き出すと、信子もそれに半歩遅れてついてくる。
もう間違いないだろう。態度から考えて、信子は俺の殺人を目撃していない。しかし、もうひとつ確認しておかねばならないことがあった。
「ところで、信子さんは博士が今何を研究されているのかご存じでしたか?」
努めてさりげなく切り出すと、信子は首を傾げた。
「確か、過去へメールを送れる携帯電話のようなものとか……。理屈はよく分かりませんけど」
「ええ、大体そのようなものです」
どうやら信子は時間通信機の存在を知っているようだ。つまり、こいつが『探偵』であるか否かに関わらず、邪魔であることは間違いない。
研究室のドアの前まで来ると、俺はドアノブを引いて信子に入るよう促す。
「さ、お入りください」
「どうも……」
信子は頭を下げ、部屋の入り口を潜った。俺もそれに続き、後ろ手にドアを閉じる。
「あ、あの。父はどこに?」
俺たち以外誰もいない雑然とした部屋を見渡し、信子は戸惑い気味に尋ねてきた。俺は答えずに上衣からナイフを取り出し、鞘を引き抜いて信子の喉元に突きつける。
「ひっ……」
「騒ぐな。悲鳴を上げたら殺す」
低い声でそう脅すと、信子は口を右手で押さえてガクガクと頷いた。
実際のところ、電工ナイフは工具であって殺傷に向いているとは言い難い。が、もとよりただの脅しのつもりだった。
ナイフを使って血が飛び散ったら、証拠隠滅が面倒だからだ。
「一応聞いておくが、さっきここで起きたことを覗き見していたりしないだろうな?」
威圧的な口調で問うと、信子は首を左右に振った。
「み、見てません。何も……」
そこでハッと息を飲み、逆に俺を問い詰めようとする。
「まさか、父に何かしたんですかっ?」
「察しがいいのは結構だが、そういうことは口にしないほうが長生きできるぜ」
信子は青ざめ、俯いた。その肩が小刻みに震えている。
ややこしいことに、今のやりとりのせいで信子は父親の死を知ったことになり、『探偵』に一歩近づいたのかもしれない。しかし、どのみち邪魔な存在であるのは変わらなかった。
信子を生かしたまま俺が行方をくらませたら、この女は俺に疑いの目を向けるだろう。何しろ、信子は時間通信機の存在を知っているのだから。
だが――と、俺はここで悩んだ。もし俺が信子を殺してしまえば、信子は必然的に『探偵』ではなかったことになる。
だとしたら、いったい誰が過去に向けてメッセージを送信するのか?
俺の犯罪を暴き、それを警告しようとした『探偵』は誰だ?
そう考えたとき、俺はふいに閃いた。
「クククッ。なんだ、そうだったのか……。そいつは俺でいいんじゃないか」
こみ上げてくる笑いを抑えきれない俺に、信子は気味悪そうな視線を向けた。しかし、構いはしない。
何のことはない、俺が『探偵』だったのだ。殺人の手段を知っているのも、警告でありながら天本に届かなかったようなのも、全てそれで説明がつく。
動機も単純、そうしなければ過去が変わってしまうからだ。
つまり、犯行から二十四時間後、『未来の俺』は自分が読んだものと同じメッセージを過去に向けて送信する。すると、天本を殺した直後の『過去の俺』がそのメッセージを受け取り、読む――それで辻褄合わせが完了する。
俺がそれを実行しなければ、過去の出来事との矛盾が生じ、タイムパラドックスが起こることになるだろう。天本は過去を改変したときに何が起こるのかを実験しようとしていたが、俺には学術的興味などない。せっかく殺人というリスクを冒してまで手に入れた時間通信機なのだから、くだらない好奇心で無駄にしたくはないものだ。
そうと分かれば、この女はもう不要だった。
「さて、と。どうせ殺すんだから、その前に少し楽しんでも構わないよな?」
俺がそう同意を求めると、信子は恐怖を満面に浮かべて後ずさりした。
実際、こうして見ると結構な上玉で、殺してしまうのは少し惜しい気もするが、だからといって生かしておくわけにもいかないだろう。この女は色々知りすぎている。
腕を伸ばし、信子の肩を掴もうとしたその瞬間――俺の全身に稲妻のような衝撃が走った。
「がッ……!」
体中の筋肉が弛緩し、俺は前のめりに倒れた。顔面を床で強打して、激痛とともに鼻から血が流れ出すのを感じた。しかし、首から下は麻酔でもされたかのように全く感覚がない。
「やれやれ、どうにか間に合ったようだ」
足下の方向から、聞き覚えのない男の声が聞こえた。
「楡崎さん! どうしてここに?」
信子が驚きの声を上げる。どうやらその男は信子の知り合いらしい。
「おっと、詳しい話は後で。こいつはお父上に貸していただいた麻痺銃なんですが、いつまで効果が続くのか分からんのです。取りあえず、こいつをふん縛っちまいましょうや」
「は、はい」
ゴトゴトと室内を探し回る音。それから俺の体が引き起こされ、椅子に無理矢理座らされ、ロープでぐるぐる巻きに椅子へと括りつけられる。
「これでよし、と」
ようやく俺の視界に現れたのは、四十絡みのしょぼくれた中年男だった。
「……あんたは誰だ?」
手足はまだ動かせないが、少しずつ麻痺は解けてきているようだった。努力して声を絞り出すと、男は俺の方に向き直った。
「博士の助手の黒澤君だな。私は楡崎興信所の楡崎と申す者でね、以前から博士とは懇意にさせていただいている」
「つまり、本物の『探偵』ってことか。どうやって俺の犯行を見抜いた?」
俺が続けて問うと、楡崎は片眉を吊り上げ、それから愉快そうな笑みを浮かべた。
「いやいや、君は勘違いをしているよ。私は探偵なんて大それたものじゃない。普段は浮気調査なんかが主で、殺人事件に関わったのは今回が初めてだ。それに、黒澤君の罪を暴いたのも私じゃない」
それから机の上に置かれていた時間通信機を手に取った。
「後少しで指定の時間になるから、そこで見ていればいい。何が起こったのか、それで分かるだろう」
楡崎は慣れない手つきで通信機を操作すると、袖を捲り上げて時計の文字盤を確認し、タイミングを合わせてボタンを押し込んだ。
「……ちょっと待て。今、何をした!」
「見ていたんだろう。君も読んだ例のメッセージを、そのまま過去へ転送しただけさ」
楡崎はニヤニヤと笑っている。
「今からちょうど二十四時間前、私が転送したメッセージを受け取った博士は、自分が黒澤君に殺されることを知った。そこで私を呼び出して離れに潜ませ、研究室内にビデオカメラを設置したんだ。私は一部始終を見ていたし、記録にも取ってある。言い逃れはできないだろうな」
「そんなことを聞きたいんじゃないっ。俺が知りたいのは、誰がメッセージを入力したかってことだ!」
この男はメッセージを転送しただけだ。だとしたら、最初にその文章を書いたのは誰なのか。
激昂する俺を尻目に、楡崎はわざとらしく肩を竦めた。
「やれやれ、君はポルチンスキーの思考実験を知らないのかね? 助手ともあろう者が、嘆かわしいことだな。
あのメッセージは博士が昨日受け取り、そして今私がそっくりそのまま昨日へ転送した。つまり、メッセージは同じ時間の中をぐるぐる回っているだけで、誰も入力してなどいないということだ」
「そんなわけがあるか! だとしたら、俺は誰に犯行を暴かれたっていうんだ? 俺の犯罪を見抜いた『探偵』は誰なんだ?」
「それに対する答えも同じ、誰もいないってことになる。タイムマシンってのは因果律を破壊する機械なんだから、そこに原因と結果があるとは限らないのさ、辻褄さえ合っていれば。気にしても無駄なんだよ」
そこで楡崎は苦笑する。
「まあ、こいつは天本博士の受け売りなんだがね。私だって半信半疑、いや、十分の一も信じていなかった。博士の考えだと、この奇妙な時間ループはタイムパラドックス実験を妨害するために生じたものだろうとのことだが……」
そうだ。すっかり忘れていたが、天本は時間通信機を使って過去を改変する実験を行おうとしていたのだった。ゴタゴタのせいですっかり忘れていた。
「それなら、俺も時間ループの犠牲者ってことになる。天本が変なことを言わなければ、俺がそそのかされることもなかったはずだ」
しかし楡崎は鼻で笑い、俺に冷ややかな目を向けた。
「そんな言い訳は弁護士にでもするんだな。情状酌量の余地があるとは、私には思えないがね。
大体、こんな愚かなことをしなくとも、君は労せずして全てを手にすることができたはずなんだ。うまく立ち回りさえすれば」
「……どういうことだ?」
意味を図りかねて尋ねると、楡崎は信子の方に向き直った。
「職業柄、こうしたことには敏感になってしまってね――信子君、あなたは黒澤君のことを憎からず思っていた。違いますかな?」
楡崎の言葉を聞いて、信子はちらりとこちらを見た後、悲しそうな表情で目を伏せた。それ見たことかと言わんばかりに、楡崎は両手を広げる。
「つまり、そういうことだよ。犯罪なんてものは大概、割に合わないものさ」
「くそったれ……」
正論ぶる楡崎にはムカつくものの、気の利いた反論は思い浮かばなかった。代わりに、もうひとつの疑問を口にする。
「それじゃあ、天本は自分が俺に殺されるって知っていたんだよな。なのに、どうしてその運命を避けようとしなかった?」
それを聞いて、楡崎は苦い表情で頭を掻いた。
「ああ、そのことか……。私も博士に忠告したんだがな、まるでこちらの話に聞く耳を持ってもらえなかったよ。それどころか、『タイムパラドックス実験は成功した』と大喜びだった。くれぐれもメッセージの転送に失敗しないよう念を押されたほどだ。
自分の命より実験の成果を優先するとは、本当に恐れ入る。まったく、マッド――おほん、学者ってのは始末に負えないね」
信子に遠慮して楡崎が言い淀んだ『マッド・サイエンティスト』の語が引き金となって、俺は天本が最後に見せた奇妙な表情のことを思い出していた。
そう、あれは恍惚の表情だった。今まさに殺されようとするその瞬間にありながら、あの男は時間ループが形成されつつあることに歓喜していたのだ。
思わず漏れ出た深いため息は、図らずも他の二人のそれと重なることになった。三者三様の立場にありながら思いを同じくした俺たちは、顔を見合わせて苦笑するほかなかった。
Fin.