永く遠い旅の終わりに
2007-10-28 by Manuke

 警報装置が突如として鋭い音を鳴り響かせたとき、マーは暇を持て余し栄養カプセルを放って遊んでいたところだった。その音に驚いた彼は、宙に浮かせていたカプセルに食らいつくと、慌ててコンソールの元へ飛んでいった。
 警告の原因となったものは、太陽系外からかなりの速度で接近しつつある飛来物だった。まだその正体は分からないが、光速の〇・三パーセントという途方もない速度を持つ物体が建設中の電波望遠鏡に衝突すれば、それが岩であれ氷の固まりあれ甚大な被害をもたらすことは想像に難くない。
 しかし、物体の軌道を彼が調べた結果、それは幸いにして星系を遠くかすめるのみだった。マーは安堵し、規定に従って報告書をしたためることにした。
 メッセージを書き終えて送信する直前、ふとマーはその物体を確認してやろうという気になった。固有運動こそ大きいものの、衝突の危険性がない以上は監視員であるマーがいちいち詳細な調査をする義務はない。にもかかわらず、彼は不意に興味をそそられたのである――その外宇宙からの訪問者に対して。もしかしたらそれは何かの予感だったのかもしれない、とマーは後に思ったものだった。
 高精度観測システムを作動させ、目標に向けて電磁波を放射する。滋養はあるが薬臭いカプセルの中身を吸い出しながら、マーは反射波の到着を待った。時間を無駄にしているような気もしたが、なに、どうせ暇だったのだからと自分に言い聞かせて。
 スクリーンに映し出されている、長い監視任務のせいですっかり聴き飽きてしまった星々や〈天の渦〉を無意識に撫でつつ待ち、栄養カプセルが空っぽになりかかったころにようやく目標からの反射波が返ってきた。マーは早速、立体音像ディスプレイを使ってそれを確認し、そして愕然とした。
 その物体は岩のかけらでも、彗星の卵でもない。マーは全身が泡立つのを感じた。
 紛れもなく、それは人工物だったのである。

 工学者のイーロが会議室に到着すると、既に他の面々は部屋の中に集まっていた。
「やあ、僕が最後ですか?」
 彼は部屋に入り、遊泳機を片付けながらそう言った。その脳天気な台詞に、老物理学者のギルマはいらだたしげな形状になった。
「遅いぞ。早く席に着きたまえ」
 イーロは苦笑し、言われた通りに空席へと収まった。
 室内には、分野こそ異なるもののいずれ劣らぬ優れた頭脳の持ち主が集まっている。しかし、年若いイーロは気後れする様子もなく、手にしていたものを皆の前に差し出した。
「少し遅れたのはこれを作っていたからでしてね。ランデブーした無人捕獲艇からの情報を基に作成した、世界最新の〈来訪者〉の詳細模型ですよ」
 全員が驚きを露わにしてその奇妙な物体に聴き入った。ややあって、ため息に近い声で天文学者のヴィアが呟く。
「この、欠けた椀状の部分。これはパラボラアンテナで間違いなさそうですわね」
 イーロはそれに頷いた。
「ええ、破損部分を除けば放物面をなしていますからね。焦点になる部分に輻射器らしきものがありますし。それから、六角柱の本体から伸びている二本の梁は、本来なら三本あったようです。用途はまだ不明ですが、何か本体から距離を置く必要のあるものが収められていたものと推測できます」
 中年の数学者ウットが偽足を模型に伸ばし、それに軽く触れた。
「しかし、思っていた以上に損傷が大きいな。相当に長い年月、宇宙を漂流していたのだろうね」
「〈来訪者〉がやってきた軌道を逆に辿っても、近隣にそれらしき恒星は今のところ存在しません。何十万年、いえ、恐らくはもっと長い旅の果てに私達の太陽まで辿り着いたのでしょう」
 ウットの問いにヴィアが答え、一同はその途方もない時間をかけた旅に思いを馳せた。
 一ヶ月前、建設中の巨大宇宙干渉計の監視員が発見した異星の宇宙機、〈来訪者〉。そのニュースは瞬く間に世界中へ広がり、人々を熱狂させた。
 それは当初想像されたように異星人が乗り込んだ宇宙船ではなく、無人の機械であることが間もなく判明したが、それでも人々の興奮は冷めやらぬままだった。なぜならこの〈来訪者〉こそ、自分達以外の知性が宇宙のどこかに存在する初めての証拠だったからだ。
 その期待に応えるべく結成されたのが、ギルマを筆頭とする調査チームだった。彼らは遅々として進まない調査に焦らされながらも、その宇宙機を作り出した異星人の姿を掴もうと奮闘している最中なのである。
「……ところで、工学班はこの機械の正体を何だと推測しているのかね?」
 ギルマが尋ねる。
「月並みですけど、やはり探査機が最も近いと思っています。センサーとおぼしきものが存在しますし。異星人が僕達と同じように宇宙への興味を抱いていたかは分かりませんけどね。
 それから、総合的な技術レベルは現在の我々よりも数百年ほど劣っているようです。部分的、例えば自律制御技術などでは相対的に進歩している面もありますが」
 イーロの説明に、ウットがにやりと笑った。
「しかし、それも何十万年も昔の話だからな。今ごろはもっと先に行ってるんじゃないか?」
「――もしくは既に滅んでいるか。歳月を考えれば、こちらの可能性も高いですね」
 補足したのは、イーロに次いで若い生物学者のリケだった。異星生物学における第一人者ではあるものの、未成熟な分野だということを自覚してか、彼女の発言は今のところ控えめなものにとどまっている。
「いずれにしても、以前から危惧されていた我々自身の機械を誤認したものという可能性はありません。設計思想からして僕らの文明のものとはまるで違いますし、第一あのスピードですから」
 イーロは自信を持って断言した。その言葉で思い出したのか、ギルマは考え込むように切り出した。
「そう、その速度が問題なのだ。果たしてこの宇宙機が加速の手段を持っているのかどうかがひとつの鍵となる」
 異星からの贈り物が持つ猛烈な速度は発見当初から判明していたことだったが、それに対する答えは未だ見つからぬままだった。宇宙機が母星系に対しても高い速度を持っていたのか、そうではないのかという点は、〈来訪者〉の由来に大きく影響を及ぼすはずなのである。
「一応、ロケット推進機らしきものがこの部分にありますが……」
 それに答えて、イーロは模型に超音波のスポットを当てる。示された場所を聴いたウットが体を傾げた。
「私は門外漢だが、これは少し小さくないかね?」
「ええ。推進方式はまだ不明なんですけど、多分これは姿勢制御用かと。あれほどの速度を生み出せるとは考えにくいですねえ」
 ウットに同意するイーロ。
「となると、この宇宙機自身が加速を行ったのではないと予想されるな。制作者が何らかの意図をもって宇宙機を超高速で外宇宙へ送り出したのか、あるいは……」
 ギルマの振った言葉を、ヴィアが受けて続ける。
「……あるいは彼らの太陽が、我々の太陽に対して大きな相対速度を持っていたか、ですわね。ただ、それほどの相対速度を示す恒星はまれで、〈来訪者〉の故郷たり得る軌道を持つものはひとつも発見されてはいません」
「うむ。後者だとすれば、〈来訪者〉が宇宙を放浪していた時間はさらに長いということになるのだろうな。数百万年か、あるいは数千万年か……」
「他にも、天体の重力の影響で加速した可能性もゼロとは言えませんが、確率から考えると、こちらの方がより時間を要するでしょうね」
「うむ。イーロ、君の班ではまだ〈来訪者〉の年齢を突き止めらんのか?」
 ギルマが尋ねると、イーロはくるりと宙返りした。
「さすがに、そこまでは……。極低温の宇宙空間で異星人の作り出した素材がどう変化するのか、そう簡単には分からないと思いますよ。何か基準になるものが見つかればいいんですけど」
 そこで一旦言葉を切ると、イーロは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「それはそうと、実はもうひとつご覧に入れたい模型がありましてね。今のところ、捕獲艇のオペレータと工学班、そしてこれからお聴かせする皆さんしか知らないとっておきの奴です」
 他の者達は、一斉にため息の泡をこぼした。ただ一人、ウットだけはにやにやしながら事の次第を楽しんでいるようだったが。
「勿体ぶるのもいい加減にしたまえ。我々は遊んでいるわけではないのだぞ」
「まあまあ。取りあえず、それを聴かせてもらいましょうや」
 立腹したギルマをウットがなだめる。
 イーロは体の中に抱えていたバインダーから板状のものを取りだし、〈来訪者〉の模型の隣に置いた。
「〈来訪者〉に取り付けられていた金属製パネルの実物大模型です」
 一同は身を乗り出し、そこに刻まれた文様に息を飲んだ。ギルマですら、とげとげしかった形状がすっかり丸みを帯びている。
 金属板の表面には、意味不明の線が描かれていた。放射状に広がった直線、大小いくつかの円、そして奇妙な曲線。明白な規則性はそこから読み取れないが、何らかの意図を持って刻まれたものであることは疑いない。
「……これは、どこにあったのですか?」
 震えを帯びた声でヴィアが尋ねた。
「パラボラと思われる部分の支柱、この辺りですね。文様のある面を内向きにして固定されていました。金メッキを施されてはいますが、何ら機能を持たないただの板です」
 模型を示しながらイーロはそう説明した。
 ギルマが慎重に言葉を紡ぐ。
「この文様が〈来訪者〉を見つけた誰か――すなわち我々に向けてのメッセージと考えるのは早計だろうか?」
 リケはしばし思案した後、答えた。
「断言はできませんが、その可能性は決して低くないと思います。材質や取り付け方から、長期間の保存を彼らが意図していただろうということは間違いありませんから」
 イーロもそれに同意する。
「まだ調査はあまり進んでいませんけど、〈来訪者〉本体はあまり長い間稼働する宇宙機ではなさそうです。少なくとも、何百万年も動き続けるようなものじゃありません。けれど、金属板は実際それだけの時間を経ても無傷だったわけですからね」
「……とすれば、彼らが比較的平易なメッセージを選んでいるだろうと期待できるかもしれん。どうかね、誰か気がついたことはないかな?」
 ギルマの言葉に彼らはしばし沈黙して、探査波で金属板の表面を撫で回した。ややあって、ウットがためらいつつも切り出す。
「この、太線の突端近くにある文様、〈来訪者〉の断面図に似ていると思わないかね? それから、金属板の上側にある奇妙な曲線と重なったここにも、それに似た文様がある。サイズは少々異なるが」
「断面図、ですか?」
 ヴィアがよく飲み込めずに尋ねると、ウットは自分の体内に濃度差で表現した〈来訪者〉の略式模型を造り出し、それを二つに割ってみせる。
「ほら、こんなふうに」
 数学者だけあって、形状の把握はウットの得意とするところだった。
「確かに似ていないこともないが……」
 ギルマが訝しげに問おうとしたとき、リケが口を挟んだ。
「断面図と言うより、投影図と考えたらどうでしょう?」
 ウットはすぐに頷いた。
「ああ、確かにパラボラの開口部にある線のことを考えると、その方が近いかもしれないな。しかし、どうして投影図だと?」
「現段階ではあくまで想像ですが、彼らは周囲の環境を知るためのセンサーとして光を使っているのではないかと思ったんです。
 ご承知の通り、私達は音波の反響で周囲の物を『聴き』ます。光は明暗程度しか分かりません。けれども、これは惑星オーティスの生物全般からすると主流ではないのです。どちらかと言えば、光を受信して物を『視る』生物の方が多いですから。特に、音波が伝わりにくい陸上では」
「陸上? あんな不毛の場所に知性が生まれるとは思えんが」
 ギルマが不審の念を露わに呟くと、イーロは体をやや竦めた。
「陸上生物かどうかはともかく、光で物体を認識するというのはアリでしょう。実際、我々も宇宙船では光をカメラで受信し、凹凸スクリーンに表示したりするわけですし。何しろ、真空中では音波が伝わりませんからね」
「ですが、概念を伝達するのに苦労するだろう異星人に対して二次元投影図を提示するというのは、あまり賢い方法とは言えないのでは?」
 ヴィアがそう問いかけると、リケも頷いた。
「仰る通りです。ただ、オーティス生物の研究から分かってきたことなのですが、視覚を持つ生き物は、世界を一旦二次元に変換し脳内で三次元に再構成することを当たり前のように行っているんです。ですから金属板の制作者は、自分達が三次元を二次元に投影変換しているのだと意識すらしていないかもしれません」
 ウットは唸りつつ、金属板の模型をつつく。
「うむむ。となると、この図形のうちいくつかは平面投影図の可能性があるわけだ。例えばこの並んだ大小の円は、円柱かもしれないし、球体かもしれない……」
 それを聞いて、ヴィアの体表がびくりと震えた。
「ヴィア、何か気付いたのかね?」
 ギルマが尋ねると、初老の天文学者はわななきながら切り出した。
「もし、この円が球を指しているのだとしたら、私には思い当たるものがあります。これは――これは、惑星系です!」
 全員が息を飲み、そして一斉に金属板を覗き込んだ。
「……つまり、この最大の円が彼らの恒星を示しているというわけか。しかし、それにしては惑星のサイズが少し大きすぎるような気もするが……」
 ウットの疑問にヴィアが答える。
「恐らく、板に収めるためにデフォルメをかけているのでしょう。私が先日、博物館向けに準備した三次元の太陽系模型でも、やはりデフォルメを加えています。実物と同じ比率にすると、岩石型惑星が小さくなりすぎてしまうのです」
 リケはその言葉を聞き、偽足で金属板に触れながら言った。
「だとすると、彼らのスケール感は私達に近いのかもしれませんね。
 確か私達の太陽系では、太陽と惑星オーティスの比率は大まかに言って百四十四倍ぐらいだったと思いますが、その比率は私達にとって直感的に把握しづらい大きさなんです。
 私達オーティス人は小さな比率には敏感で、大きな比率に鈍感という、対数的尺度で世界を感じ取っています。だから、自分達の把握しやすい十二倍以内へデフォルメすることが行われるんですね。
 〈来訪者〉を制作した異星人も同じようなデフォルメをしているなら、彼らも私達と同じく対数的な尺度感覚を持っているのかもしれません」
 イーロは金属板に探査波を当てて目算した。
「線に太さがあるからはっきりしませんが、小さい円と大きい円の比率はおおむね十倍程度ですねえ。彼らの太陽系が我々のそれに近いと仮定すれば、彼らにとって百四十四倍は開きがありすぎ、十倍ぐらいなら把握しやすいってことですか。確かに、僕達に近いスケール感かな」
 ギルマが感心したように表面を波打たせた。
「なるほど。デフォルメという観点からそう考察するとは興味深い。証拠はないが、一考に値する」
「あ、ありがとうございます」
 科学界でも高名なギルマに評価され、リケは恐縮して体を収縮させる。
「ところで、そろそろ相手の呼び名を決めませんかな」
 ウットが席を離れ、壁際に置かれている栄養カプセル置き場まで移動しながらそう言った。
「呼び名、ですか?」
 問い返したヴィアに、ウットは頷く。
「ええ。『彼ら』とか『異星人』ってのも芸がないし、第一、回りくどくていけない。ネットワークではもう、人々がてんでに名前を付けているようですがね。我々はこうして〈来訪者〉の所へ向かっている最中なわけですから、命名権ぐらいはあってしかるべきでしょう」
 一行を乗せた調査船は、先行する無人捕獲艇の後を追う形で太陽系外縁へと向かっていた。この後、捕獲艇はクッションを展開して〈来訪者〉を抱え込み、長い長い減速過程に入る。〈来訪者〉の途方もない速度が軌道上のそれにまで緩められたころ、調査船がちょうど追いつくという手筈だった。
「でしたら、ここはやはりギルマ、あなたがお決めになるのが筋でしょう」
 同格のリーダーであるヴィアが、年長者であるギルマに権利を譲った。
「ふむ。それならば――〈差出人〉というのは、どうかな?」
 普段の態度に似合わず、やや弱気な調子でギルマが提案した。
「なるほど、カプセル・メールですか。僕は賛成ですね」
 イーロがすぐさまそれに賛意を示す。他の面々も、特に異論はなさそうだった。
「じゃあ、それで決まりですな。しかし、なかなか風流なセンスじゃないですか、ギルマ」
 ウットの揶揄に照れたのか、ギルマは仏頂面を形作った。
「……私が子供のころ、容器にメッセージを詰めて海流に流すのが流行ったことがあった。それを思い出しただけだ」
「私もやったことがあります――返事はもらえませんでしたけど。きっと〈差出人〉達も、そう簡単に拾われることはないと知っていたでしょうね」
 リケの言葉で、皆は百万年以上の昔にメッセージを送り出したのだろう謎の異星人の姿を、各々の脳裏に思い浮かべた。
「さてと、続きをやっつけるとしますか。少しでも成果を上げておかないと申しわけが立ちませんからな」
 ウットは人数分の栄養カプセルを取り、ひとつを咥えて席へと戻った。そして、残りを全員に配る。
「……この人工泥、薬臭いのはなんとかしてほしいですよね」
「贅沢を言ってはいかん。宇宙飛行士達は皆、これで我慢しておるのだから」
 中身を吸い出しながら文句をたれるイーロを、ギルマがたしなめた。そう言うギルマ自身も、決してそれを美味と思ってはいないようだったが。
「まあ、そうなんですけど……。
 それはともかく、先ほどヴィアが明らかにされた惑星系の第三惑星の近くから、ウットが指摘された〈来訪者〉の投影図まで曲線が伸びていますよね。これはやはり、〈来訪者〉の航跡と考えられるんじゃないかと」
 気を取り直したイーロの言葉に、ウットも頷く。
「うむ、その可能性は高そうだな。〈来訪者〉側の末端に短い線が二本付け加えられているのは、こちらが進行方向だと知らせる意味なのだろうね。実際、我々もこれに近い記号を使うことがある」
「そうすると、〈差出人〉の母星は第三惑星ということになるわけですか……。でも、この曲線が第五惑星と第六惑星の間を抜けているのはなぜなんでしょう?」
 リケの疑問に、ギルマは考え込んだ。
「ふうむ……。そこに何かしらの意味があるのだとしたら、私がすぐに思い付くのはひとつだな。惑星の重力を利用して宇宙機の速度を得る、スイングバイだ」
 イーロがクリック音を鳴らして叫んだ。
「そうか、重力カタパルトですね! 動力がたっぷりある最近では使われませんが、僕達も宇宙開発の黎明期に使った技術ですし」
 ヴィアが体表面に皺を寄せた。
「スイングバイには加速・減速の両方がありますけど、外宇宙に向かうのでしたら恐らく加速スイングバイですわね。けれど、スイングバイで得られるスピードは惑星の公転速度で決まりますから、極端に大きなものにはならないでしょう」
 それを受けて、ギルマは重々しく頷いた。
「つまり、〈来訪者〉は元々それほどの速度ではなかったということになる。〇・〇〇三光速もの速度は、〈差出人〉の太陽系自体が持っていた固有運動か、あるいは後に獲得したかのいずれかと思われるな」
「あと、他にもひとつ推測できますね。スイングバイを実行するには惑星に接近しなければなりませんから、それは観測の絶好の機会になります。〈来訪者〉が惑星探査機であった可能性も強まったんじゃないかと」
 イーロの補足に続いて、リケも意見を述べた。
「〈差出人〉の太陽系が私達のものに近いと仮定するなら、第三惑星は液体の水が存在し得る距離ですね。生命を構成可能なほどの複雑性を持つ物質にはいくつか候補がありますけど、やはり水を溶媒とする炭素化合物はその筆頭に挙げられますから、〈差出人〉も私達と同じような物質から成り立っていたのかもしれません」
「たった一枚の金属板に刻まれた簡単な線の中に、これほどのの情報が隠されているのは実に驚きだね。〈差出人〉に感謝するべきだろうな」
 活発に意見が交換される様子に、ウットが感慨深そうに頷いた。その傍らで、イーロが不意に「あっ」と声を上げた。
「面白いものを見つけました。これはかなり確証の高い推測ですね。いや、間違いないと断言してもいいくらいだ」
「――いいから早く言いたまえ。君はいちいち勿体をつけねば気が済まんのかね?」
 焦れたギルマの苦言を気にした様子もなく、イーロは言葉を続けた。
「この、それぞれの惑星のそばにある縦横の短い線の並び、これは二進数ですよ!」
 改めて金属板を覗き込んだウットは、偽足で自分の体表面を叩いた。
「しまった。こいつは私が見つけたかったなあ」
 おどけた様子でやや大げさに悔しがる数学者に、一同は笑みを浮かべた。
「〈差出人〉が我々のものと多少とも似通った数学大系を持っておるならば、我々と同じく、二進法が数を表現する上で最もシンプルかつ有用なものだと考えていても不思議はあるまい。それを伝達手段に用いるのは合理的なことだと言えよう」
 ギルマがイーロの発見を肯定する。そして、ウットが記号を分析し始めた。
「さて、これが我々の知る二進数だとすると、縦横の短い棒がそれぞれ0と1のどちらかを示しているわけだ。そして、縦に並んでいる記号は下の端が必ず横棒、それに対して上の端は横棒と縦棒の両方が使われている。ここから横棒が1、縦棒が0、そして下の端が最上位桁だということが導かれる。
 この惑星のそばに並ぶ数字を読み取ってみると……第一惑星から順に10、19、26、39、134、247、495、780、1020という数になる。ヴィア、ここから何か分かりますかな?」
 話を振られたヴィアは思案し、そして答えた。
「公転軌道半径、ですわね。私達の太陽系と、その比率がとてもよく似ています。特に第四・第五惑星の間が比率的に開きがあるのは重要な点で、ここにはガス惑星と思われる第五惑星の重力作用によって惑星形成を阻まれた、小惑星帯があるはずです。
 恒星に関する情報がないのは残念ですけど、リケの言った液体の水の存在などを考慮すると、〈差出人〉の母星は私達の故郷オーティスと類似した惑星である可能性は高いと言えるでしょう」
 ギルマは頷き、それから声を発した。
「金属板の上には他にも二進数らしき記号が散らばっているが、これについては誰か思い付かんかね? 無論、それ以外のことでもいい」
 その言葉に従い、各々は金属板に描かれた文様の謎を解き明かそうと知恵をひねった。しかし、そこから先は一向にはかどる気配はない。やがて、体をしかめたイーロがため息の泡をこぼした。
「うーん、皆目見当が付きませんね……。取りあえず、ちょっと整理してみましょうか。
 この、放射状に伸びる直線は十五本あって、全て異なる長さであり、ひとつの例外を除けばそれぞれに桁数の多い二進数が付随しています。二進数は中心側が最上位ビットですね。
 直線のうち十本には、根本近くに途切れた場所があります。ただ、これはどの線に対しても同じ位置のようですから、意味のある情報かどうかは不明です。あと、全ての線の上にはマークが付いていて、これは直線ごとに異なる位置になっています。
 つまり放射状の直線それぞれが有する情報は、偏角・長さ・マーク位置・添付された数値の四つですか。何か見落とした点はありますかね?」
 ギルマがそれを受けて答える。
「うむ、四つのパラメータのうち三つがアナログ値、一つがデジタル値というのは何か意味があることのように思えるが。このうち一つだけが別の扱いで、残りは同一の尺度を持っているのかもしれん。
 憶測でしかないが、三つの値で表されるとしたら最もありそうなのは三次元座標なのではなかろうか? 偏角と長さは聴いた通りの二次元座標、そしてマークの位置は奥行きを表していると考えることができる」
「あり得る話ですわね。推測が正しいとするなら、私としては天体関係の位置情報なのではないかと思います。何かしら、〈差出人〉達の恒星位置を特定できるような物標を表した。
 残る二進数に、それを探る手がかりが隠されているかもしれません。すぐには判明しそうにありませんけれども」
 ヴィアもそれに同意した。
「なるほど、お二人の専門分野からの観点ではそう解釈できるわけですか。これは勉強になるなあ……。
 しかし、二次元情報で三次元を表現するというのは実に非効率ですね。素直に三次元模型で作れば誤解も招きにくいのに。無駄の極みですよ」
 ギルマとヴィアの推理に感心しながらも、イーロは〈差出人〉の仕事に対して愚痴をこぼした。ウットが体を揺すってその言葉を否定する。
「一概にそうとばかりも言えないよ。二次元模型は三次元模型よりも遙かに場所を取らない点も忘れてはいけないな」
 そこで一旦言葉を切り、にやにや笑いを体表面に浮かべた。
「それはそうと、私も自分の観点からひとつ思い付いたことがありましてね。なかなか興味深いんじゃないかと」
 ギルマが苦々しい形状で呆れ気味の声を出す。
「君までそれかね? 勿体をつけるのはやめてくれたまえ……」
「ははは。いや、申し訳ない。つい、ね。
 私が着目したのは、この中央から上へ伸びる長い直線です。と言っても、直線自体の性質ではなく、それに接する曲線の方ですが」
 ウットは超音波のビームを金属板に当て、上へとなぞった。
「この通り、直線は大きい方の〈来訪者〉投影図と交わった後、その上にある奇妙な曲線の手前で途切れている。ところが、これで終わりではないんですな。二つに分かれて存在する曲線の間、そしてその上にも延長線とおぼしき直線が存在するようだ」
 金属板からの反射波に聴き入りながら、ヴィアが尋ねた。
「確かにその通りですわね。ですが、そこに何か意味があるのでしょうか?」
「リケがこの〈来訪者〉を表した図を投影図だと推測したことを思い出してください。その同じ場所に重ねて描かれた二つの複雑な曲線は、〈来訪者〉や放射状の直線よりも優先されている。これはもしかしたら〈来訪者〉図よりも手前にあるということを示しているのではありませんかな?」
 一同はその指摘に驚き、泡をこぼす。
「そうか。僕達も周囲を『聴く』ときは、聴覚的に陰になった場所を曖昧にしたり、想像で補ったりしますからね。二次元で周囲を知覚する生物が『視えない』場所を描かないというのは、確かにあり得ることだ。
 しかし、だとするとこの曲線は何を表しているんでしょうかね?」
 イーロの上げた疑問に、リケが興奮ぎみに切り出した。
「……この二つの曲線は、細部は異なるものの両者に多くの共通点が存在します。多少いびつですが、基本的にはどちらも上下対称のようです。
 そして何より私が注目したいのは、図の上下やや左よりの位置から右方向に伸びた部分、そして図の右側に並ぶ二つの細長い部分です。私にはこれが――それぞれ先端が五つに枝分かれした触手のように思えるのです」
 全員がリケの推測に絶句する。ややあって、ヴィアが言った。
「つまり、これは〈差出人〉の姿なのだとあなたは推測したのですね?」
「確証は何ひとつありません。ですが、この金属板に描かれているものの中で唯一、幾何学的ではない図形です。生物学者の私には、とても生物的に感じられるのです」
 イーロはすぐさま頷いてみせた。
「僕はその意見に賛成ですね。誰か見知らぬ相手にメッセージを送るときに、自分自身の姿を描かないのはちょっと考えられないじゃないですか。
 それにほら、この下側にある図形、触手をこちらに向けて振っているように感じられませんかね?」
 ウットはそれに苦笑しながら、
「さすがにそれは擬人化が過ぎるというものだろう。異星人の心理を探るのは時期尚早だよ。
 しかし、私としてもリケの推測には賛成だ。恐らく、彼らは自分達の姿を〈来訪者〉の大きさと比較させるために、その手前に描いたのではないかな」
 と、こちらも賛意を示した。
「そうなると、私達よりも一回り小さな体というわけですね。二体描かれているのは、〈差出人〉の代表的な二種族なのかもしれませんし、性別の違いかもしれません。多分、私達がその真実を知ることは永久にないのでしょうけど」
 ヴィアもまた、その図形を〈差出人〉だと認めたようだった。
 ギルマはいささか不機嫌になりながらも、不承不承頷く。知的生命体は自分達のような不定形生物であるはずだと彼が考えていたためだった。
「我々の推理はあくまで予備的なもので、この後も大勢の者が金属板の謎に取り組むことになるだろう。発見に当たっての初期見解としては、これで十分と言えよう。
 その他、誰か気付いた者はおるかね? 例えば、この左下に並んだ二つの円に関しては?」
 その問いに対して声を上げる者はいなかった。ギルマは大きな泡を吐き出すと、会議を締めくくった。
「各自、今の話の中で上がった見解を文章に纏めておくように。それからヴィア、発表の打ち合わせを行うために、資料室までお越しいただけるかな。
 では、本会議は以上で終了とする」

 翌日、リケが廊下を自室へ向かって泳いでいるところへ、後ろから声がかかった。
「やあ、リケ! ちょうどいいところに」
 彼女が後ろへ注意を向けると、そこには同世代の工学者の姿があった。
「あら。どうかしたの、イーロ?」
 遊泳機を止めて立ち止まり、リケは相手が近づいてくるのを待った。イーロはリケのそばまでやってくると、興奮を隠しきれない様子で話し始めた。
「先ほど、凄い発見があったんだ。捕獲艇はもうすぐ減速シークエンスに入るから、その前にできるだけ調査を進めておきたいと思ってね。減速中にできることはほとんどないから。
 しかし、これは実に驚きだよ。明日の打ち合わせで詳しく報告されることになると思うけど、僕としては――」
「……イーロ。お願いだから勿体つけないで」
 呆れた様子でリケが遮ると、イーロは悪びれた様子もなく素直に応じた。
「いや、つい癖でね。
 〈来訪者〉に残った梁のうち一本の先端に取り付けられていたのが、プルトニウム238を放射線源とする原子力電池だと分かったんだ。その残存物質は、〈来訪者〉の年齢を知る鍵になる。ウチのチームが算出した答えは――驚くなかれ、二十億年だったんだよ」
「にじゅ……」
 リケは予想を遙かに超えるそのタイムスケールに圧倒され、泡をこぼした。
「それだけじゃない。年齢に加えてあのスピードを考慮すれば、〈来訪者〉の出自が僕らの銀河系内ではないことはほぼ間違いないね」
「まさか……。〈天の渦〉、なの?」
 驚きの連続で、リケの全身がぶくぶくと泡立った。イーロが体表面を波打たせ、大きく頷く。
「そのまさか、だよ。知っての通り、〈天の渦〉は僕達の銀河系と衝突しつつあるお隣の銀河だ。〈来訪者〉は言ってみればその先駆けなのさ。
 それにしても二十億年前には、僕達の銀河系と〈天の渦〉は二百五十万光年も離れていただろうからね。〈差出人〉達も、自分のカプセル・メールがそんなに遠くの渦巻き銀河まで配達されるとは思っていなかったんじゃないかな」
 呼吸を落ち着けようと、リケは体の伸縮を繰り返した。ややあって、ようやく人心地ついたリケはイーロに尋ねた。
「その『二十億年』という数字は、どの程度正しいものなのかしら?」
「かなり確かだと僕達は考えているよ。放射性物質の半減期は宇宙のどこでも一定だからね。宇宙線の影響その他を最大限見積もったとしても、誤差は数千万年以内に収まると思う」
 イーロが自信ありげに保証した。
「……さすがに、それほどの時間が経ったとしたら、〈差出人〉達はとうの昔に滅んでいるのでしょうね。残念なことだけど」
「それはどうかなあ。仮に彼らの惑星が居住に適さなくなっても、外宇宙へ進出して文明を維持し続けている可能性だってあるよ。もっとも、その彼らはもう〈差出人〉と同じ種族とは言えないかもしれないけどね」
 二人はしばし、遙か遠方より届けられた手紙と、それを差し出した生き物達のことに思いを馳せた。果たしてどんな気持ちで、彼らがその宇宙機にメッセージを託したのか、と。
 ほどなく、イーロが我に返った。
「おっと、用件を忘れるところだった。それで、〈来訪者〉の出自の判明祝いと、減速プロセスの成功を願って、これから工学班の連中でパーティーをやるつもりなんだ。内緒で持ち込んだ、イムシカヤ海底産の泥もある。冷凍ものだし、少ししかないけどね」
 持っていた小さな容器を振ってみせる。
「それって規則違反じゃないのかしら?」
「まあ、堅いことは言いっこなしで。どうかなリケ、君も来ないか? 僕としては、〈差出人〉のことやら何やらで、君と色々話してみたいと思っていたんだ」
 リケは少し思案する。
「……そうね。お誘いは嬉しいけど、あまり騒がしいのは好きじゃないから――」
 それを聞いて、イーロはあからさまに気落ちした形状を取った。その様子に、リケは慌ててフォローを入れる。
「別に、あなたと話すのが嫌だと言ってるわけじゃないの。やらなきゃいけない仕事も残っているし。
 イーロ、あなたが私の部屋へ来てくれるというなら、そこでお話をするのはどうかしら? ただし、紳士的に振る舞ってもらうという条件付きで」
 それを聞いて、イーロは途端に元気を取り戻して宙返りした。
「もちろんさ! 何しろ僕は、半径一天文単位以内で二十二番目に紳士的な男と呼ばれているんだからね」
 リケは思わず吹き出した。宇宙船の周囲に真空と塵ぐらいしか存在しないこの場所で、それは最下位と同義だったからだ。
「じゃあ、そうと決まれば早速部屋へ行こう!」
「ちょっと、押さないで。それに、パーティーをすっぽかしてしまってもいいの?」
「向こうは向こうで楽しくやってるだろうから、僕一人が抜けたって気がつかないと思うな。気にしない気にしない」
「まったく、困った人ね……」
 リケはため息の泡を吐きつつも、その形状にはまんざらでもなさそうな笑みが浮かんでいた。
 二人は寄り添いながら遊泳機のスイッチを入れ、そのまま廊下を奥の方へと泳ぎ去っていった。

 老学芸員は一仕事を終え、大きく伸びをした。
 必要なことではあるものの、彼は役所との折衝が苦手だった。できれば他人に押しつけたいところだが、立場上そうも言っていられない。
 軽く体を動かすと、以前よりも随分と柔らかくなっているのを実感した。体組織を維持できなくなるのもそう遠い話ではなさそうだ、と彼は心穏やかに思う。
 子や孫達はそろそろ隠居してはどうかと勧めるが、今のところ彼としては博物館の仕事を辞めるつもりはなかった。できれば死ぬまで続けたいものだとさえ考えている。
 それは彼に与えられた特権なのだから。
 気晴らしついでにと、老学芸員は部屋を出た。日頃の運動不足を少しでも解消するため、遊泳機は使わずに。
 清浄な海水で満たされた回廊を抜け、ゆっくりと漂いながら中央展示室に入る。そこで彼は、閑散とした室内にいた一人の少女に気付いた。
 年若い、彼の孫ほどの小柄な少女は、食い入るように金属板の複製を調べていたかと思うと、展示ケースに設置された音像ディスプレイに向き直り、それから説明パネルを読み、とせわしなく動き回っていた。
 熱心に展示物を聴いてくれるのは彼としてはありがたいことだったけれども、ここは子供が一人で来られるような場所ではない。恐らく、展示に夢中になっている間にはぐれてしまったのだろう。携帯コンピュータで記録を調べると、イムシカヤ海西岸にある学校からの団体客が来館中とのことだった。
 老学芸員は少女に近づくと、声をかけた。
「君はもしかしたらホブック南中学校の生徒かな? 引率の先生とはぐれてしまったのかね?」
 少女は彼に気付いていなかったらしく、驚いて収縮し、すぐに元へと戻る。
「あっ。本当だ、みんないなくなってる……」
 周囲を聴き回して、ようやく誰もいないことを知ったようだった。少女を安心させるように、彼は微笑みを浮かべた。
「大丈夫。すぐに連絡を取ってあげるから、心配はいらないよ」
 そうして彼がインフォメーション・センターへ連絡しようとしたところ、少女は体をたわませ、やや気後れした様子で切り出した。
「あ、あのっ。もう少し、ここで聴いてちゃ駄目ですか?」
「ふむ……。展示を気に入ってもらえるのは、博物館員としては嬉しい限りだよ。
 しかし、どうしてまたそんなに入れ込んでいるのかね? 海下にも、これのレプリカはたくさんあるだろう。そちらなら探査波を直接当てて聴くことができるし、第一こんな場所まで上がってこなくても済む」
 老学芸員は穏やかに尋ねた。
 それは、この衛星軌道博物館に寄せられる批判の中で最も多いものだった。先刻まで彼が格闘していた文書も、本質的には同様の批判への対処だ。
 実際、一昨年の〈来訪〉四十八周年記念には来館者も倍増したものの、それから二年も経つとすっかり元の状態に戻ってしまっていた。以前よりも宇宙がずっと近くなったとは言え、やはりそう気軽に訪れることはできないのだから。
 しかし、少女はそれまでの態度を一変させ、強い口調で彼の質問に答えた。
「そんなことないです! それは、お爺さんの言う通りレプリカはオーティスにもありますけどっ、やっぱり違うんです!
 ディスプレイ越しにしか聴けなくても、ここにあるのは、〈差出人〉さん達が組み立てた本物の〈来訪者〉じゃないですか。二十億年の間ずっと宇宙を漂いながら、誰かに拾われるのを待ってたんですよ。だから……その……」
 〈来訪者〉に関して自分より遙かに詳しいだろう相手に力説していることを自覚したのか、少女の言葉は尻すぼみになった。しかし、老学芸員は優しい形状で頷いてみせた。
 そして彼は通信機のスイッチを入れると、それに向かって喋り始めた。
「――ああ、私だ。中央展示室で一人、ホブック南中学校の生徒がはぐれているのを見つけてね。……いや、それには及ばない。私が少し展示物の案内をしようかと。……うん、察しがいいな。そういうことだから、引率の先生に後ほどお連れすると伝えておいてくれないか。……えっ? ああ、忘れていたよ」
 老学芸員はそこで少女に注意を向け、
「お嬢さんのお名前を教えていただけるかな?」
 と質問した。少女はそれに慌てて答える。
「は、はい。イーリケと言います」
「イーリケ、だそうだ。……うん、よろしく頼むよ。じゃあ、また後で」
 彼が通信機を切ると、イーリケはおずおずとした様子で尋ねた。
「あの……もしかしてわたし、ご迷惑をおかけしてるでしょうか……?」
 老学芸員は体を揺すって否定した。
「いやいや。さっきも言ったように、展示品に興味を持ってもらえるのは喜ばしいことだ。特にこの〈来訪者〉に関しては――」
 ケースを偽足で軽く叩き、彼は続けた。
「――私が発見したものだけに、思い入れもひとしおなんだよ」
 少女が驚きの泡を吐き出した。
「もしかして、あなたはマー監視員ですか?」
「元、ね。今はただの学芸員さ」
 マーは穏やかに笑った。
「〈来訪者〉の調査から、私達はたくさんのことを学んだ。特に光学系では何世代分にも相当する技術を教わったんだ。視力を備えていたのだろうと言われる〈差出人〉達は、私達よりも遙かに優れた光学装置を有していたからね。
 しかし私は、〈来訪者〉が惑星オーティスにもたらした一番大切なことはもっと別のものだと考えている。それが何か分かるかな?」
 イーリケは神妙な形状で答えた。
「……わたし達がひとりぼっちじゃないと教えてくれたこと、です」
 マーは体表面を同心円状に波打たせ、頷いた。
「うん、そうなんだ。この広大無辺な宇宙の中で、オーティスの他にも知性の芽生えた星がどこかにあったんだということを、今の私達は知っている。その認識は、私達の文明レベルを一段階上へ引き上げたと言っていいもだろう。自分達だけが特別な存在なのではないことを、彼らに教えてもらったんだから」
 そしてマーは金属板のレプリカのところまで行き、それにそっと触れた。
「――けれども、それを教えてくれた〈差出人〉自身はどうだったろうね? 果たして彼らは、自分達以外の知的生物の存在を知ることができただろうか。それとも孤独のうちに、絶滅してしまったのだろうか。
 私達がメールを受け取ったことを知らせる術はないし、〈差出人〉が今なお生きているかどうかすら分からない。どんなに感謝を伝えたくとも、ね」
 しかし、イーリケは体を揺すった。
「わたしは、彼らの文明がまだ続いているって信じたいです。いつか本当に、出会える日が来るって……」
「そうだね。いつか『メッセージを受け取ったよ。ありがとう』って伝えられたら、どんなに素晴らしいだろうね」
「はいっ」
 そう、マーは〈来訪者〉とその制作者達を愛おしく思っていたのである。傍らの少女と同様に。
 存在するかどうかも分からない誰かに向けて、宛名のない手紙を送り出す――それがロマンチストでなくてなんだと言うのだろう。そして、どんなに確率が低かろうと、こうして彼らの思いは成就したのだ。
 最初の接触から後、マーの人生は〈来訪者〉に振り回されっぱなしだった。当初は取材やら何やらで息をつく暇もなく、そして博物館設立時に学芸員へ誘われてからは畑違いの職種に悪戦苦闘し、気がつくといつの間にやら館長の座を押しつけられていた。
 しかし、それを後悔したことはない。彼が自ら望んだ道なのだから。
「おっと、少し脱線してしまったようだ、すまないね。〈来訪者〉や〈差出人〉のことについて、何か聞きたいことはあるかな? 遠慮はいらないよ」
 マーが話を戻すと、イーリケは遠慮がちに尋ねた。
「あの……。〈来訪者〉を見つけたときのこと、教えていただけますか?」
「ああ、いいとも。あのときは休憩時間でね、ドキュメンタリーでは食事中だったということにされているようだけど、実はちょっとだけ嘘なんだ。当時の栄養カプセルは本当に不味くて……」

 不定形生物の老人と少女が楽しそうに談話する傍ら、腐食を防ぐため真空が保たれたケースの中にそれは鎮座していた。
 かつて自らを制作した者に〈十番目の開拓者〉と名付けられ、今は〈来訪者〉と呼ばれるようになったその宇宙探査機は、永遠に近い旅の終わりに全ての役割を成し遂げ、ライトの淡い光を浴びながら今は静かな眠りに就いている。

Fin.

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