2006-09-18 by Manuke

 満身創痍の姿で居住区へと辿り着いたとき、俺が最初にしたのは医者を捜すことではなかった。
 ローバーを止め、シートから転げ落ちるように降りた俺は、もはや痛覚の塊でしかなくなってしまった右足を引きずりながら集落の入り口へと向かう。
「止まれ!」
 固く閉じられた門の傍らに穿たれている銃眼から、鈍色の筒先がこちらを睨んでいた。その射線が俺の心臓を捉えていることを意識しつつ、両手を挙げて戦う意思のないことをアピールする。
「この居住区へ何の用だ?」
 女らしき声が硬い声で尋ねてくるのを無視し、俺は逆に問い返した。
「この場所に……天文関係に詳しい人間はいるか?」
「は……?」
 女はこちらの言ったことが飲み込めなかったのか、間の抜けた声を上げた。姿は見えないが、どうやら若い女のようだ。
「天文学――星とか、月とかの学問だ。誰か、そういったものに通じている人間はこの集落にいるか?」
「ええっ? それは、その……。ド、ドクターなら知ってると思うけど……」
 自信なさげに答える女に、俺は「そうか」と呟いた。
 最初に訪れた居住区では、文字通り取り付く島もなかった。そんな何の役にも立たないものを知っている人間はいないと。それを考えれば、曖昧とは言え何かしら収穫があるかもしれないのはありがたい。
 しかし、そこで気が緩んだのがいけなかったのか、俺の膝から力が抜けた――いや、そもそも立っていること自体が限界だったのだ。
「お、おい。ちょっと、あんた……」
 女の声を遠くに聞きながら、俺の意識は急速に闇へ閉ざされていった。
 倒れたときの体の痛みを感じることもなく。

Star Seeker

 目を覚ましたとき、視界に入ったのは薄汚れた灰色の天井だった。
「う……」
 呻き声を上げると、すぐさま白髪の老人が俺の顔を覗き込んできた。
「気が付いたかね」
「こ……こは……?」
 尋ねると、老人は安心させるように笑顔を見せた。
「ここは居住区の中にある診療所だよ。お前さんは門の前で意識を失ったらしいが、覚えているかね?」
 ようやく頭が働き始める。そうだ、俺はあの封印都市から逃れ、やっとの思いでこの集落へ辿り着いたのだった。
 身を起こそうとした途端、激痛が俺を襲った。思わず顔をしかめると、老人が咎めるような表情で俺を押さえようとする。
「無理をしちゃいかん。お前さんの体は全身傷だらけなんだから。大人しく横になっていなさい」
 抵抗せず、俺は老人の言葉に従った。代わりに老人に尋ねる。
「俺の、右足は……どうなってる?」
 老人の口が引き結ばれた。一拍置いて、老人は俺に告げた。
「……壊疽を起こし始めとるよ。放置すれば命に関わる。切断するしかあるまい」
「そうか」
 覚悟はしていたので驚きはなかった。
 屑屋を続けるのは不可能だろうが、もとより足を洗うつもりだったから問題はない。しかし、ただ生きるだけでも困難なこの時代に、俺は右足を失ってなお、更に無謀なことをしなければならないのだ。自分でも愚かしいとは思うが。
 と、その前に俺はあることを思い出した。
「……すまないが、俺には治療の対価が支払えない」
 老人は俺の言葉を聞くと、「そのことか」と頷いた。
「もし良ければ、お前さんが乗ってきたローバーを我々に提供してくれんかな? この集落には乗り物が不足しておってな、ローバーが一台増えれば随分と助かる。代わりとして、お前さんの傷が癒えるまで面倒を見よう。
 狡い取引かもしれんが、どうかね?」
 むしろ、願ってもないことだった。そもそも俺が意識を失っている間に全てを取り上げられても文句を言える筋合いではない。
「……それでいい。足の処置を頼む」
「うむ。ならば早く取りかかった方が良かろう」
 老人は腰を上げかけ、そこで片眉を上げて俺に尋ねてくる。
「そう言えば、お前さんはルミコに何か変なことを尋ねたそうだな」
「ルミコ?」
 聞き慣れない名前に俺は問い返す。
「なんでも、天文学がどうとか」
「ああ、門番の……」
 気を失った後のことは覚えていないが、おそらくあの女が俺を救ってくれたのだろう。
「彼女が言っていた、天文関係に詳しいドクターってのはあんたのことか?」
 尋ねると、老人は首肯した。
「うむ。私は元々天文学が専門でな。つまり、『ドクター』と言ってもM.D.ではなくPh.D.の方だ。もっとも、今となっては何の意味もない経歴だがね」
 自嘲気味に老人――ドクターは肩を竦める。
「そんなことはない。少なくとも俺にとっては渡りに船だ」
 正直、これは僥倖と言うべきだろう。
「ふむ……。まあ、いずれにせよ詳しい話は後だ。今は足の処置を先にせにゃならん」
 ドクターはそう言うと、一つため息をついた。
「お前さんには悪いが、麻酔代わりの酒は少ししか飲ませてやれんよ。血管が拡張してしまうからな。相当に辛い思いをするだろうが、覚悟はできとるかね?」
「ああ」
 俺は横たわったまま、ドクターに向かって頷いた。

 それからのことはあまり覚えていない。ただ苦痛のみが俺の内面を占めていたからだろうか。
 悲鳴は上げなかったと思うが、それも定かではなかった。
 ただ一つ言えることは、おそらく一生その感触は忘れることができないだろうということだ――自分の骨がノコギリで削られる、そのゴリゴリという感触は。

「プラネタリウム?」
 術後しばらく経って体がやっとまともに動かせるようになったころ、俺は自分の目的をドクターに打ち明けた。
「ああ。プラネタリウムを作りたいんだ。自分の手で」
「何でまた、そんなものを……」
 言いかけて、ドクターは首を左右に振った。
「いや、問うまでもないな。つまり、お前さんはどこかで見てしまったわけだ。プラネタリウムを」
 黙ったまま、俺は頷いて同意する。
「そうか。なら、それ以上は聞かんよ。私にはそれだけで充分だ」
 そう言ってドクターは立ち上がると、壁にぶら下げられていた懐中電灯を手に取った。発電用のハンドルが後部に付いているタイプのものだ。
「プラネタリウムというのは、中にある光源を使って星を周囲のドームに投影する装置だ。これには大別してレンズ式とピンホール式の二つがある。
 今の時代、レンズ式を作り上げるのはまず無理だろうが、ピンホール式なら簡単なものだよ」
 ドクターはポケットから黒っぽいしわくちゃのハンカチを取り出すと、ペン先でそれにいくつか穴を開け、ライトにかぶせた。そしてハンドルを幾度か回して電気を起こすと、部屋の明かりを消す。
 暗闇の中、老人が壁に向かってライトのスイッチを入れると、開けた穴の形に光の点がそこに並んだ。
「と、まあ簡単な理屈だな。即席だからいい加減なものだがね」
 ドクターは明かりを戻すと、またベッドの隣に置かれた椅子へ腰掛けた。
「ピンホール式で最も重要なのは光源だ。フィラメントができるだけ小さいものを選ぶのが望ましい。後は、星のパターンに合わせて小さな穴を開けた恒星球があればいい」
 俺は尋ねた。
「恒星球はどうやって作ればいいんだ?」
「うむ。それには星が天球上のどの場所にあるのかを記した恒星カタログが必要だ」
 そう言ってドクターは苦笑する。
「幸い、それは私が未練がましく持っている天文関連の資料の中にあるよ。
 恒星球とは言っても、別に厳密に球形をしている必要はない。投影される方向さえ正しければな。まあ、正十二面体あたりが枚数的にも無難だろう。
 材質は光を遮るものなら何でも構わん。長持ちさせたいのなら金属製がいいだろうな」
 そこでドクターは俺に問いの視線を向ける。
「ところで、恒星球には何等星までの星を刻むつもりかね?」
 質問が分かりかねた俺は、それに問い返した。
「と言うと?」
「星は宇宙に無数に存在するものだが、恒星球に刻める数には限りがあるということだ。明るい星は少なく、暗い星は多い。通常、人間の裸眼では六等星まで見えるとされているが……」
「それなら、見える分は全て投影したい」
 俺の返事に、ドクターは顔をしかめた。
「簡単に言うものではないぞ。六等星までを全て合わせると、その数は軽く八千個を超える。なまなかにできるものではない。それをひとつひとつ、ドリルで穴を開けていく手間を考えてみるがいい」
 そのとき、病室のドアがノックされたかと思うと、中からの応えも待たず扉が開かれた。
 戸口に立っていたのは若い女だった。名前はルミコ。俺の恩人である快活な娘だ。
「ドクター、リネンの片付け終わったよ」
「ああ、ご苦労さん」
 ルミコは頭の後ろで縛っていたリボンを解き、首を左右に振った。ふわりとセミロングの黒髪が揺れる。
「……で、こんな時間に二人で何を話してたのさ?」
 彼女は門番の他、ドクターの手伝いもしているようだった。そのせいか、よく俺の病室にも顔を見せる。
「いや、この御仁がプラネタリウムを作りたいと言うんでな、少し相談に乗っていたところさ」
「プラネタリウム……って、何?」
 そこでドクターがルミコに一通り簡単な説明をした。ルミコは腕を組んでそれを聞いていたが、
「ふーん。よく分かんないけど、金属板にいっぱい穴を開けなきゃいけないわけだ。
 でもさ、それってドリルよりもっと簡単な方法があるんじゃない?」
 と言い出した。
「簡単な方法?」
 俺が尋ねると、ルミコはこくんと頷いた。
「ほら、あんたが乗ってきたローバーに積んであった奴。レーザー砲だよ」

 軽装対人戦車メンシェンイェガーには対人用の低出力レーザー砲が装備されている。とは言っても直接的に人体を損傷させるためのものではなく、目に照射して失明させることを狙ったものだ。
 しかし、近距離に焦点を当てるなら薄い金属板に穴を開ける程度の出力はある。
 封印都市を脱する際に残骸から杖代わりに拾ってきた代物が、こんなことに役立つとは思ってもみなかった。メンシェンイェガーは俺の右足を蜂の巣にした相手だけに、少々複雑だったが。
 ベッドから起きられるようになると、俺は早速恒星球の作成に取りかかった。
 居住区の片隅に放置されていた製図用ドラフターを拝借して分解し、そこにレーザー砲の尾部を取り付けた。スケールに固定された尾部を大きく動かすと、砲門が小さく首振りするようにしてある。
 これを使って、延々と五角形の鋼板に穴を開ける作業を繰り返すのだ。それは相当に根気の要る仕事だった。
 Qスイッチにより高出力化されたYAGレーザーの消費電力は約千ワット。無論、タダとはいかない。俺は屑屋の経歴を生かし、夜の門番及び機械修理の仕事を引き受けることにした。
 昼は主に恒星球の制作と、時折舞い込む機械の修理。夜は夜警と、なかなかに多忙な毎日だった。
 しかも、それに加えて俺はドクターから解説員としての知識を教示してもらう必要があった。プラネタリウムというものは、単に星を見せるだけに留まらない。夜空に輝くきらめきを解説する人間が必要なのだ。人当たりの良くない俺にとって、それは恒星球作りと同じくらい困難なことだった。
 そうした日々を過ごしているうち、俺はよくルミコと接する機会があった。始めはただの偶然かと思っていたが、いかに鈍い俺でもそのうちそれが意味することに気付いた。しかし、俺は彼女をどう扱ったらいいのか分からなかった。
 幾度か失敗して鋼板を駄目にしたりしながら、ようやく恒星球が完成したのは春のことだった。俺があの封印都市で星を脳裏に焼き付けてから、半年ほどの時が経過していた。

「取りあえず中に入って、奥の椅子に座ってくれ」
 部屋の中に作られたドームの暗幕をめくって、俺はルミコに声をかけた。
「ふうん……。これがそのプラネタリウムなんだ」
 子供の頭ほどの、黒くてごつごつした恒星球を横目で見ながら、ルミコは言われたとおりに奥の寝椅子の上へ仰向けに横たわった。
 俺もプラネタリウムの隣に置かれた椅子に座ると、スイッチの位置を確認し、そして暗幕を閉じた。ドームの中が闇に閉ざされる。
「うわ、なんか真っ暗だよ」
「夜空を真似るわけだからな。闇に目を慣らす必要があるから、少し待って欲しい」
 説明すると、ルミコはからかうような口調で、
「真っ暗だからって、変なことしないでよね」
 と言ってきた。
「安心しろ。そんなことはしない」
 そう俺が返したところ、ルミコは小声で何か文句を呟いた。何を言っているのかは聞き取れなかったが。
 俺自身とドクターを除けば、プラネタリウムを披露するのはこれが初めてだった。リハーサルもやり、ドクターは大丈夫だと太鼓判を押してくれたが、やはり少々緊張する。
 俺は唾を飲み込むと、解説を始めた。
「……これから投影するのは三月の夜空だ。つまり、空が晴れ渡っていれば今夜見ることのできるはずの星ということになる。
 ちょうどこの時期、全天で最も明るい星であるシリウスが南の空に輝く。どれがシリウスなのか、見つけてみて欲しい」
 語りながら、俺は電球のスイッチを入れた。
 部屋の上部に取り付けられたドームに、無数の星々が浮かび上がる。
「ふあ……あ……」
 ルミコの口から驚きの声が漏れた。
 プラネタリウムが生み出す偽りの星には、本物のような色は付いていない。手作りだから、明るさも位置も正確とは言えないだろう。今はまだ、『プラネタリウム』の語源である惑星や月の運行を映し出すこともできない。
 それでも、これは俺にできる精一杯のものだった。星のことなど何も知らなかった俺が、半年を費やして作り出したものだった。
「……あの、正面にある明るいのが、シリウス?」
 かすれたようなルミコの声が聞こえた。
「ああ、そうだ。この星が明るく見えるのは、実際に俺達の住む地球に近いからなんだ。とは言っても、光の速さでも八年以上かかるんだが。
 シリウスの右上と左上に明るい星が見えるだろう? この三つを結んだ形を『冬の大三角形』と言うんだ」
「あ、うん。分かる。……その三角形の間から、ぼんやりとした煙みたいなのが上下に伸びてるけど、あれは?」
「それは天の川と呼ばれているものだ。煙のように見えるが、実際には小さな星が集団になっている。何千億もの星が渦巻き状に集まった銀河系を横から見たものなんだ。俺達の太陽系もその中に含まれる」
 天の川投影機は、俺の作業と平行してドクターが作ってくれたものだった。歯車で恒星球と連動して動くようになっている。
「そうなんだ……」
 それから俺は、星と星座に関して色々な話をした。オリオン座とM42、プレアデス星団、ふたご座の由来であるカストルとポルックスの神話と、α星カストルが実は六重連星であること、そして北斗七星と春の大曲線。
 最初のうち、ルミコは俺に質問したり、説明に笑ったり、恒星球を回転させたときは歓声を上げたりしてくれたものだった。しかし次第に、彼女は俺の言葉に相槌を打つのみになってしまった。
「――以上で今回の解説は終わりだ」
「……」
 一通り春の星々に関する逸話を話し終えて、言葉を切る。けれどもルミコの反応はない。俺は少し不安になり、ルミコに尋ねた。
「もしかして、俺の説明は退屈だったか?」
「あ、ううん! 凄く面白かったよ。ありがとう」
 ルミコは慌てて否定すると、鼻をすすって自嘲気味に続けた。
「……馬鹿だよね、あたしって」
「泣いて、いるのか?」
 ルミコは涙声だった。
「ホントはさ、ちょっと難癖でも付けてやろうかと思ってたんだ。今はもう見られない星なんか追いかけても意味ないって。そんなことは忘れて……あたしと一緒に暮らそうって」
「ルミコ……」
「だけどさ、うん。これを見ちゃったらもう何も言えないよ。こんな奇麗なものが世界のどこかにあるなんて知らなかったもん。だからもう止められない。あんたのことが好きだからこそ、止められない」
 こんなろくでなしで無愛想な俺のどこを気に入ってくれたのかは分からないが、その気持ちは嬉しかった。しかし、俺は……。
「あんたは、近いうちにこの居住区を出て行っちゃうんだろ?」
 俺はそう指摘したルミコの言葉に息を止め、吐息と共に肯定した。
「……そのつもりだ」
「そうだと思った」
 プラネタリウムの微かな光の中、ルミコはドームに映る星々に手を伸ばす。
「あんたはいつか、本物の星を人間の手に取り戻したいんだ。喩えそれを手にするのがあんた自身じゃなかったとしても。
 だからプラネタリウムを作って、それをたくさんの人に見せようとしてるんだよね?」
「ああ」
 彼女は俺の心を、俺以上に理解しているかのようだった。
「だけど、あたしには無理だ。あたしはこの居住区以外の場所を知らないし、ここを出て生き延びる自信もない」
 陽気で活発な普段とは裏腹に、ルミコは決して体が丈夫ではなかった。俺も半年の付き合いでそのことを知っている。おそらく、ルミコ自身の言うとおりだろう。
「そうだな。だから、俺達は――」
「それでもっ!」
 言いかけた俺の言葉を、ルミコは激しい口調で遮った。
「……それでも、今だけでいいからそばにいたいと思っちゃ駄目なのかな?」
 震える声で続けたルミコは、半身を起こして俺を見つめる。
 その瞳は星のきらめきを宿していた――偽りの、けれども純粋な想いを秘めた。
「それは、お前を傷つけることにならないか?」
 分かり切った問いを、俺はあえて口にする。
「そんなこと、ないよ」
 ルミコはかぶりを振った。
 ――無論それは嘘だ。そして、俺はそうと知りながら彼女の想いを受け入れた。
「それなら、別れの日までの時間を一緒に過ごそう。ルミコ、俺もお前のそばにいたい」
「あ……」
 ルミコの口から吐息が漏れる。俺達は身を乗り出し、唇を重ねた。
 そして身を離すと、俺はルミコに言った。
「悪い。最初にした約束を破ってしまった」
「約束?」
 不思議そうに問い返す彼女に、俺は頷く。
「ああ。変なことはしないという、な」
「……ばか」
 ルミコは照れたように顔を伏せ、呟いた。

 雪が雨へと変わるのは、去年よりもずっと遅い時期になってからだった。
 ドクターの言によると、土星の衛星タイタンと同じく反温室効果が働き始めているらしい。太陽光が塵で遮られたことにより、地球は次第に冷えていくのだ、と。
 いつかこの星は雪だけの荒涼とした世界と成り果て、人は滅んでしまうのだろうか。俺は、違うと思いたい。
 出立に当たって、居住区の人々は俺との別れを惜しんでくれた。ほんの半年あまりのことだというのに、こうして受け入れてもらえたことは本当にありがたいことだ。
「義足の調子はどうかね?」
 ドクターが俺に尋ねる。
「とてもいい具合だ。最後まで手間をかけさせて、すまなかった」
「なに、礼を言うのはこちらの方だ。この歳になって、また星を拝むことができるとは思いもよらなかった。感謝しとるよ」
 そう言ってドクターはニッと笑った。
 そして俺はルミコの前に立つ。
「ルミコ……」
「行っちゃうんだね」
 瞳の端に涙を浮かべたまま、ルミコは笑顔で言った。
「ああ」
「そう……。元気、でね。体を壊さないように気を付けて」
「分かった。お前も、元気でいてくれ」
「うん……っ! また、近くに来たら……きっと、会いに来てね……」
 それは遠い約束だった。だが、俺は泣きじゃくるルミコの肩を抱き寄せ、そっとささやいた。
「ああ、必ず」
 そして彼女の体を放すと、俺は警備隊長に向かって頷いた。
「頼む」
 隊長が指示を出すと、閉ざされていた居住区の門がゆっくりと開き始める。そして彼は俺に向かって尋ねた。
「本当に送っていかなくてもいいのか?」
「ここからは、俺は一人でやっていかなきゃならない。それを見極めるためにも、自分の足で歩いてみたいんだ」
「そうか。とにかく、あんたには色々教えてもらって感謝してる。ありがとう」
「こちらこそ」
 俺は隊長と握手を交わした。
 ルミコの方へ振り返ると、彼女は頬を涙で濡らしたまま微笑み、手を振った。俺は頷き、そして踵を返す。
 居住区の外は灰色だった。絶え間なく降り続く雨が視界を閉ざし、雨音が世界を支配している。俺は食料と衣類、そして何より大切なプラネタリウム一式が収められた大きなナップザックを背負い、杖を突きながら外へ歩み出した。
 俺の背後で、再び門が閉ざされる。安寧の地となり得たはずの場所を、俺は自ら捨てたのだ。ただ一度きりの邂逅と引き替えにするにはあまりに惜しい、愚かな選択だった。
 それでも俺は、こうとしか生きられない。
「プラネタリウムはいかがでしょう……か」
 しとしと、と降り続ける雨の中、俺は独りごちた。そう、俺はこれからプラネタリウムの上映を生業としていくのだ。三十年間、来ることのない客を待ち続けた彼女の意思を受け継いで。
 ――プラネタリウムはいかがでしょう。
 どんな時も決して消えることのない、美しい無窮のきらめき。
 満天の星々がみなさまをお待ちしています。
 プラネタリウムはいかがでしょう――
 俺の旅はどんな結末を迎えるのだろうか、そんなことを思いつつ、無数の波紋が重なり合うぬかるみを踏みしめる。右足を引きずり、転ばぬよう注意を払いながら、俺は歩き出す。
 厚くたれ込めた雲の向こう、彼方にあるはずの星々を夢見ながら。

Fin.

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