ダニエル書の秘密の鍵のありか :
Invitation to Study of "the Book of Daniel."
ダニエル書の解説を読んでみますか? (はい、いいえ)
ダニエル書の第一章から第六章までの物語は、ダニエルのその友人達が実際に経験した証の記載です。これらは子供達の為の安息日学校のお話のタネになっているくらいですから、恐らくはほとんど大きな疑問や当惑無しにすんなり受け入れられ理解されている場所です。問題は、それから後です。 ダニエル書の第七章は、ダニエルが夢に4つの獣を見せられて、それが世の終わりまでに現われる帝国の興亡を象徴していると示された所です。伝統的には、第一の獅子のような獣は鷲の翼があるというのは、獣の王のライオン、猛禽の王の鷲が、組み合わされて世界の王たるものという事で、当時のバビロニア帝国であると推測され、第二の獣は北方の山から来た熊は、ザクロス山脈から起こったペルシャ帝国第三の4頭の獣はアレクサンダー帝王を失って四つに分裂したマケドニア帝国、第四は泣く子も黙る鉄拳軍団のローマ帝国であり、その頭にある10の角は、ローマがゲルマンに侵略されて10の王国に分裂したことを表し、そのうちの一つが大きくなったというのは、ローマカトリックの覇権を表すという一連の解釈があります。これは非常にパワフルな解釈で、説得力に富んでおり、第七章の聖句が、歴史上の出来事と見事に一致しているように見えます。
私が中学生の時、教会に来て初めて 聞いたメッセージはこれでした。私はその時、すっかり感動していました。しかしこの解釈で完全に満足できるかというと、一つ難がでます。それは、7章の24節と25節の間の因果関係のギャップが後世の歴史の記述に依ってはまだ埋められていないということです。解釈全体には何の影響も与えない問題ですが、それはそれとして残されています。また、小さい角がローマカトリックを表すと言った場合、それがカトリックの政治権力を意味しているのですが、そういう解釈は当然カトリックの組織を擁護する人達には受け入れられる代物ではありません。ですから、当然このような解釈はキリスト教世界の中で誰にでも一般的に受け入れられるようなものではありません。それどころか、このような解釈を信じて受け入れるような人々は、反カトリックのカルト集団か何かのように思われて蔑視の対象にされてしまうリスクを請け負わなければなりません。またカトリック教会に属している人が皆獣の支配にあるかというと必ずしもそうとは言えないわけですから、そこにこの解釈を公にして行く使命を持った教会の葛藤が起こることになるのです。
ダニエル書に限ったことではありませんが、ユダヤ教の参考図書を物色していると気がつくことですが、預言書に関する注解やコメンタリーがほとんどありません。 旧約聖書はモーセ五書(トーラー)、歴史書、詩篇、預言書群と大まかに大別されていて、それぞれのカテゴリーにタルムードとかミシュナーとかいろいろ大きな量の参考書籍が設定されているのですが、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルなどには参考注解が、disproportional にわずかな量しかついていないのです。もちろんダニエルの預言書なんか研究すれば、いろいろ隠された事が沢山分かってきそうなものを、殆ど手つかずの状態になっているのです。ユダヤ教の中には、「ユダヤ教の密教教典」とも言えるカバラという難解な神秘主義の書もありますが(正統からは異端とされていますが)、それを見てすらもダニエル書のダの字もイザヤ書のイの字も出てこないと言う有様なのです。これは一体どうしたことでしょうか。
そこで私は最近、物わかりのよい知り合いのユダヤ教のラビに、どうしてイザヤや ダニエルの預言はユダヤ教のサイドでは研究の対象にならなかったのか?と質問し てみたところ、帰ってきた答えは実に驚くべきものだったのです。それは、
『そういう預言書をマジに原典で研究したら、イエスキリストがメシアである事を証明してしまう結果になるからだ』
という言い分でした。私はすっかり驚いてしまいました。これをあるキリスト教神学校でヘブル語と旧約聖書の講師をしている方にお話したところ、その方も驚いていました。
確かに、イザヤの53章などの、メシア預言は、クリスチャンの中で大々的に高揚 されてきましたが、クリスチャンに迫害されてきたユダヤ人は、それにわざわざ対 立するような解釈を施して「それはキリストのことではなくラビ・アキバとかの偉 大なユダヤの殉教者の事だ」とか主張して、キリストを反駁するような政治的預言 解釈をやったらしいのです。それは、クリスチャンに迫害され、キリスト教に政治 的に改宗するように強要されたユダヤ人達のせめてもの精神的自衛対抗措置だった のでしょう。 しかし、ユダヤの原典の側で預言書を全く研究を怠っていたというのでもないので す。実はユダヤの側で預言書が集中的に研究されたのは、キリスト降誕直前の時代 に死海写本を残した、いわゆるエッセネ派のユダヤ人達でした。しかし残念ながら この時の研究された文書は死海写本以外は失われてしまっていて現代まで伝承され ていません。またその死海写本ですら、まだ厳重な管理下にあってまだ全貌が公開 されていないと言う恨みがあります。従って、現状の預言書の研究に関する限り、 プロテスタント教会にあるダニエル書解釈は、ユダヤ教の認識を凌いでいる事にな ります。しかし、たとえそうであったとしても、我々はヘブル語の読解力が絶対的 に不足している分、その書かれている預言の言葉の真意を必ずしも隅々まで捉えて いるとは断定できないと言う弱い立場にあることを告白しなければなりません。そ ういう意味では、ダニエル書というのは、20世紀終了直前の現代に至っても未だ封 印された書であると言えなくもないのです。 しかし、神は謎だらけの書を、理解する手がかりも確証もないまま、後の世代の人 々を困惑させるためにわざわざ残されたとは考え難い事です。謎だ謎だ、と思って いるのは現代の我々がそう考えるかも知れないことであってそれが書かれた時には それがもっとよく理解できるような鍵が与えられていたのではないかと考えられま す。もちろん、その一つは聖霊の賜物であり、それらは各 自に与えられるものであるはずです。また、もうひとつ注目するべき事は、ダニエ ル書の研究がユダヤ教の側から殆ど明らかにされていない事です。つまりこれが書 かれたのはヘブル語の言語と文化背景の上で書かれた物であり、それについて全く 知らないでいてこの預言書を読んでも、現実にどうあてはめてよいのか理解に苦し む箇所が多いのは寧ろ当然ではなかったのか、そこにそもそも我々非ユダヤ世界に 残っている者達の把握の限界の原因があるということを率直に認めなければなりま せん。 この封印が解けるのは、ユダヤ人とクリスチャンが和解をして、手を取り合ってこ の旧約聖書の預言書群の研究に毅然として着手する時であろうと思います。そうい う事が起こらないと、いつまでたってもこのダニエル書や、ゼカリヤ書とか、その ほかの預言書はいつまでたっても大衆の前では「謎の書」のままで終ってしまうの ではないかと思うのです。 どうですか、みなさん。そういう秘密の鍵をMJを通して手にいれてみたいと思い ませんか。私はそう思っています。そして、その鍵はキリストがメシアである事の 証にあると信じられます。
あなたもダニエル書を読んでみませんか。とりあえず、このページを読むとあなたもダニエル書に就いてdeepな議論のスタートラインに立てます。
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