ユダヤ陰謀説 : a brief critical evaluation
ユダヤ陰謀説というのは最近に始まったものではなく、かなり昔から存在します。 それが顕著になったのは中世からであると思います大きな所をいくつか拾うと、キリスト教に強制改宗させられたユダヤ人が初代カトリック教会に入ってきてハイランクの僧や神学者になり、カトリックの教理に操作を加えたのではないかというような話。ルターがタルムードを読んで、ユダヤ人は悪いことをたくらんでいるから懲罰を加えなければならないと言ったというような話。ユダヤ民族会議で野蛮な異邦人世界を征服する要綱が定められたと言うシオニズム偽議定書事件などが思い浮かびます。それらのことをひとつひとつ論じてコメントを加える時間はないのですが、総じて言えば流言飛語の大衆操作の域を出なかったのではないかと思います。
どうして、このようにいつもユダヤ人ばかり悪いたくらみの筆頭に挙げられるのかということも反省されるべきでしょう。最も著しいステレオタイプの例として、シェークスピアの「ベニスの商人」に現われる悪徳ユダヤ人商人がユダヤ人のイメージとして西欧で受け入れられたという事があります。キリスト教社会から迫害され悲惨な暮らしを甘受させられたユダヤ人は農耕地を持つことが禁じられ、流浪するか、特定の制限された居住地にしか住むことを許されませんでした。彼らに許されていた職業と言うのは当時は下賎の業と見なされていたカネを扱う末端流通業だけだったのです。中世のキリスト教社会は、一方でユダヤ人を蔑んで迫害しておきながら、同時に「ユダヤ民族は惨めな流浪の生活をして存在している事自体がキリスト教が正しい事の証明となっている以上、貴重な存在であるとして」ユダヤ人が根絶やしになっていなくなってしまわないように特定居住区(ゲットー)で保護をし、非ユダヤ人との婚姻を禁止してユダヤ民族がヨーロッパ人の中に拡散消滅する事を防ごうとするという裏表のある取り扱いを受けていたのでした。実際、中世ヨーロッパ諸国では、自国民の親戚結婚を禁止しましたが、ユダヤ人には奨励していたのです(それで今日のアシュケナジー系のユダヤ人の中には遺伝疾患が多い)。
そういう風にコミュニテイであしらわれてきたユダヤ人は、与えられた許された範囲の仕事の中で着々と業績を上げ、気がつくと、民族としての血統と伝統が失われないまま、周りの他の人達が羨むような成功をしていたのです。それで嫉妬と羨望とやっかみの人達が「ユダヤ人はずるがしこくて、いかがわしい」というようなネガテイブイメージを普及させて行ったものと容易に推察することが出来ます。この点においてキリスト教会はユダヤ人に対して行った罪を認めて謝罪をしなければならないのです。
もちろんユダヤ人はアシュケナジー系だけでなく、セファラデイ系やオリエンタル系、イエメナイト系など世界各地に散在してきましたが、ユダヤ人が2千年もの間生きながらえてきた民族としての生命力は、神の守りがあるならばなおさらの事、驚異的なものですから、それゆえになおさらユダヤ人を取りまく「神話」が発生する余地をいくらでも作ってきたでしょう。それは例えば キリスト教会の中ですらも、ある青年がみこころにかなった配偶者を与えて下さいと祈って葛藤していたら、不思議な導きで中身も外見も驚くほど素晴らしい女性が導かれて与えられたのを見て、他の心ない人達が神様に栄光を帰す代わりに、いやらしく「どこでひっかけたんだい。お前はラッキーな奴だ」と言う様なものであり神のわざを素直に認めて喜べない人々がする事です。言い替えるなら非ユダヤ人がユダヤ人が摂理に依って導かれて行くのを見て驚いて、やっかみしか言えないから変な神話や「陰謀説」が生み出されてきたという事です。
一方ユダヤの文化の中にも、そういう世界陰謀説を裏付けると解釈されるようなファクターが混在している事もまた事実です。第一に、ユダヤ民族は神から選ばれて神の原則を世界の人にプレゼンテーションするという使命を与えられました。それが旧約聖書のメインテーマに他なりません。これはあくまでも神の力によるのです。しかし、これは一歩誤ると、人間の力に頼るベクトルに流されて「自分達が世界のオピニオンリーダーになるのだ」というような人間的野心を増長させる方向に働くことが可能です。もちろんそれが正しくないのは言うまでもありません。またユダヤ人がキリスト教徒に不公平な仕打ちを受けた事に対して人間的な報復をしようとしたことがあったなら、それもまたユダヤ人への偏見を増し加えたでしょう。
さらにもう一つ、禁断の「カバラ」について付言しておきましょう。カバラが出来 たのはいつの事であるのかわかりません。少なくともモーセがこのようなものの編纂に関与する筈はないのです。カバラというのはユダヤ教の中の「密教教典」の様なものであり、12世紀以後のユダヤ教世界で大成して「裏経典」にまとめられました。そのベースとなったものは、実は中世どころか紀元前から存在していたと言われていますが、いずれにしてもその起源はトーラーや聖書とは全然異なるものでありました。これは長い間呪術的な裏教理として排除されたり、後のユダヤ教の内部でもこれを正典として認めるかどうかで大議論がありました。結局、これはいかにして神(もしくは天上のの高次の霊的存在 (??) )と交わるか、その「奥義」を書いているのです。私はこれを少し読みましたが、仏教の密教曼陀羅と共通点を有し、中世よりも遥か以前から何らかの交流があったのではないかと疑わせます。カバラでは神の属性を10種類に分けて、神の本質を論じようとしたものであり、逆説と多元的な神のイメージを論じて、人間が如何にその神の実在に近づく事が出来るかを述べているものです。結論的には、カバラには瞑想に関する役に立つかのような記述もありますが、中には信仰で神に頼る代わりに魔術的プラクテイスを教える様な所もあり「玉石混交」の混沌としたものであります。ユダヤ人が神に選ばれた民族であればなおさらのこと、敵対する勢力もなんとかこれに取り次いてその本来の使命をねじ曲げるような異質な教理を持ち込んで人心を混乱させようとしますが、これはそういうものの一つであると考えられます。こういうカバラの世界制覇思想がユダヤ思想とイスラエル文化の紹介と拡散に便乗して広がることによって、ユダヤ人が大いに誤解されるという事もあったのです。もちろんユダヤ人がカバラを作ったからと言って、無神論や中世カトリシズムを生み出したキリスト教の人々は責める事が出来ないわけです。
カバラはメシアが来るまでに世界を人間の力で改め、人間の精神を清めようとする一連の方法論を述べていますが、もちろん、イェシュア(キリスト)がメシアであって救いは彼から来る事を信じているメシアニック・ジュダイズムはこのようなカバラの教えとは本質的に相容れません。
メシアニック・ジュダイズムは人間の叡智や人間的な方策や権謀を用いてメシアの来られる準備をしようとするのではなく、神の一人子であるイエシュアがメシアとなって聖書にあらかじめ預言されていたように人間の救いの完成の為に来られた事を信じ、それを受け入れる迄です。
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