次のメッセージはセブンスデー・アドベンチスト(週の第七日をサバスとして守っているプロテスタント教会)山形教会の柴田義牧師の安息日メッセージです。その意味する所は非常に重要である事を鑑みて転載許可を願い出ましたが、柴田氏の快諾を得てここに転載掲示することが出来ました。柴田先生に感謝します。一読してただちにお分かりになると思いますが、これは説教フォーマットで書かれておりますが、その中に神の律法の意義の重要なポイントが、さりげなくも適切な比喩で非常にわかりやすく説明されています。なお、HTML文書の着色、フォントサイズの変更は私の任意で行いました。 |
ハッピーサバス。みなさん、安息日おめでとうございます。今週も一週間それぞれのお仕事お疲れ様でした。今日もこうしてみなさんといっしょに神様がわたしたちを創造してくださった記念の日に礼拝を捧げられますことを心から感謝いたします。さあ、みなさんと御一緒に神様にありがとうございますと言いましょう。
「神様、私を創造してくださってありがとうございます」。
イエス様にも感謝いたしましょう、
「イエス様、私を新たに創造してくださってありがとうございます」。
聖霊様にも感謝いたしましょう。
「聖霊様、日々、私の霊を新たにしてくださってありがとうございます」。
三位一体の神様はわたしたちの霊肉すべてを創造してくださった、無から有をつくり出すことのできるお方です。クリスチャンはそのような神様と共に生活することができるという特権が与えられているのです。木や石で出来た何もしてくれない神様を担いで歩く人生とは違います。神様がわたしたちを創造し、この世に生を受けたときから死ぬときに至るまで、神様がわたしたちを担いで歩いてくださる、そういう人生が約束されているのです。感謝したいと思います。
今日、みなさんに覚えていただきたいことは、そのようなわたしたちを創造してくださった神様と上手に生活する秘訣です。それがこの箴言3章5節の聖句、「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。」という言葉です。この言葉はわたしたちが何かとても重要な選択に迫られたときにわたしたちに勇気と希望を与えてくれます。この聖句をぜひ暗唱して下さい。繰り返し、何度も言ってみることによって、わたしたちの心に刻まれます。それでは皆さんと御一緒に言ってみましょう。
「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。」
先日、ジョン・バニヤンの書いた「天路歴程」というお話を見ておりました。この物語の主人公である、クリスチャンという人物が、聖書に出会い、キリストの十字架によって重荷を取り去ってもらい、天国への人生の道を歩んでいくというお話です。クリスチャンは伝道者から天国にいくには、広い道ではなく、狭い道をまっすぐ進んでいくのだと教えられました。ところが、途中にはいくつもの分かれ道や、広い道との交差点が現れて、何度も迷ってしまいます。狭い道は険しいので人間的に疲れてしまうからです。それに比べて広い道はとても歩きやすそうで楽しく見えました。それでつい、そちらのほうへと足を進めてしまい、何度も危険な目にあってしまうのです。この広い道とは人間のわがままや、あさはかな考えを表わしています。人間は自分のしたいことだけをしたり、自分の考えだけに従って生きても自分自身を救うことは出来ません。そのままではただ滅んでしまうだけです。そこで神様は救いに至る道を用意されました。それが狭い道と例えられているもので、それは神様の考えに従って生きることを表わしています。神様の考えは当然わたしたちとは違うので、人間的に考えれば楽なことばかりではないでしょうし、不服に思うことも当然です。しかしながらそれがもっともよい方法であることは明白です。
今からちょうど1年前のことでしたが、仙台市内の広い道路を気持ち良く走っていました所お巡りさんから「スピードの出し過ぎです」と言われて止められてしまったことがありました。それで違反点数が5点を越えてしまったので、教習所に行って一日こってりと講習を受けなければならなくなってしまいました。まあ、わたしがスピードを出し過ぎでいたのだから仕方が有りませんが、そのときは、ちょっとぐらいスピード出したっていいじゃないか、という気持ちでした。ところが、講習を受ける中で、教官がどうして道路交通法が定められているのかということについてお話をされたのです。その中で道路交通法とは、道路を使用する人すべて、つまり歩行者も車に乗る人も全ての安全を守るためにある、だから決まりに従って乗ってほしい、決まりに従うこととは、自分自身を縛り付けることではなく、他人への思いやりから来るものだということを話され、交通事故のほとんどがちょっとした他人への思いやり不足からきているという例を紹介し、他者への配慮さえあれば交通事故のほとんどがなくなるということを話しておられました。現在、1年間に交通事故で亡くなる方は全国で1万4千人を越えています。アメリカのような大きな国では年間3万人以上が交通事故で亡くなっているそうですが、その数は拳銃で亡くなる人よりも多いと言われています。拳銃は明らかに殺意があって用いられるものですが、それよりも多くの人が自動車事故でなくなっているわけですから、自動車というのはちょっと他者への思いやりを欠いただけで、すぐさま殺意無き凶器へと変わるものであるということを覚えておきたい。そう考えると法というものは、人を縛るものではなく、生かすためにあるのだということがよくわかります。
神様はわたしたちを縛り付けるために、ご自分の考えを押し付けるわけでもなく、法を設けたわけでもありません。神様がわたしたちに与えてくださる法とは、愛の律法であり、自由の律法です。それは本当の意味でわたしたちを生かすものであり、本当の意味でわたしたちの命を守り、人生の安全を守り、平和を実現するものなのです。それがわかったとき、狭い道とはわたしたちの人生の中でもっとも確実で、もっとも安全な道であることがわかると思います。人生の選択肢の中において、どれだけ神様を信頼し、ゆだねているでしょうか。「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。」と聖書はわたしたちに薦めます。別の訳で読むと、「心をつくして主により頼め、自分の悟りにたよるな。(新改訳)」また、「心をつくして主に信頼し、自分の分別にた頼らず、(新共同)」と訳されています。自分の知識に頼らないということは、自分でこれだと思った道へ行くな、これだと思ったことをするなということです。そして全て神様を信頼して任せるということです。そのためには常に、神様と共にいることを意識した生活をしなければなりません。キリストは天にお帰りになられましたが、代わりに聖霊様をわたしたちにお遣わし下さいました。聖霊様はキリストと全く同一でありながらキリストにはない遍在という能力を持っておられます。ゆえにわたしたちはひとりもれなく、この聖霊様を通してキリストと共にいることが出来ます。それは心の中だけでなく、まるでキリストと共にいるように面と向かってその存在を感じることも可能です。聖霊様はその遍在という能力の故に内にも外にも、どこにでも共にいることがおできになるのですから、喜んでお迎えいたしましょう。ただし、聖霊様がいなくなるときは、火が消えるように、さっといなくなります。もしわたしたちが聖霊の臨在に対して少しでも否定的なことを考えるなら、聖霊様は火が消えるようにわたしたちの内からも周りからも消えて、離れていってしまいます。そうならないためにも常に神様のことを考え、キリストに注目し、聖霊の臨在を身近に感じるよう心掛けていきたいと思います。そして何をするにも必ず祈りの内に、聖霊様と相談して決めるようにいたしましょう。自分の勝手な判断や知識に従った決定は、わたしたちも、わたしたちの周りにいる人たちをも、霊的危機に直面させる可能性をいつでも持っているということを覚えなければなりません。どんな小さな選択でも残らず神様と相談しましょう。そうすることによってわたしたちは霊的識別力を持つことができるようになります。こうして、この終末時代、わたしたちは常に正しい狭い道を選び歩み続けていくことができるのです。 もう一度みなさんと御一緒にこの聖句を暗唱しましょう。 「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。」箴言3:5
(以下は柴田先生のコメントです)
上の説教の中では述べませんでしたが、「自分の知識に頼ってはならない」箴言3:5の「知識」という言葉はたぶんヘプル語の「ビン・Byw (= understanding)」という言葉だったと思います。 判断力とか洞察力、理解を意味している言葉ですね。自分の判断や思い込みの勝手な理解に従って生きることが広い道を歩むことなのです。それに対して神様の判断、考え、計画に従って歩むことが、神様の自由の律法である、狭い道を歩むことだと思います。
それから、もう一つ大切なテーマは、「自由と無法」ということです。無法とは法のない状態ですから、どんな罪を犯したとしても罪として問われません。そのためわたしたちの周りで無法な行い、例えば暴力や殺人、盗難などがあったとしてもそれらから守ってくれるものはなにも無いわけですから、自分でなんとかしなければなりません。よって弱いものは物も命も取られ、強いものだけが生きていく事ができる世の中になります。それで神様はすべての人を生かそうとする愛によって、命の律法をたてられました。その代表が十戒です。十戒の各文章は、かならずその全文である「わたしはあなたのヤーウェ、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」という言葉につながるように書かれています。そして各律法は「〜だろう・はずだ」という意味で読むことが出来ます。つまりその用法に従って十戒を読むと、例えば第1条は、「あなたが、わたしをあなたのヤーウェ、主であり、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者であることを知るならば、わたしのほかになにものをも神としないはずだ」となり、同様に以下の律法も「私があなたを救った神であることを知るならば、〜〜安息日を守るはずだ、姦淫しないはずだ、殺人しないはずだ、父母を敬うはずだ、...ETC」というように読めるようになるではありませんか。わたしたちが信じている三位一体の神様が愛をもって人を救い、生かしてくださる神様であることをよく知っているなら、わたしたちは神様の律法に従う筈だという訳です。これはとても目から鱗が落ちることでした(既に御存じのかたもおられると思いますが)。そういう意味が実感として受け入れられるほど、私達は自分の信じている神様が本当に愛の神様であるということを知っているのだろうか?、体験しているのだろうか?と改めて考えされられました。神様の与えてくださった律法というのは、強い人も弱い人もすべての人が、神様の愛の律法の守りの内に、自由に楽しく生きることが保証されているということでもあるのです。それだったらやっぱり狭い道を歩いた行きたいと思いますよね。 そういうわけで、この神様が本当に愛の方であるということを体験し、神様の備えてくださった道を歩むことを実現させてくれるのが、聖霊様と共に交わり、生活し、歩むことだと思ったのです。そのときに、わたしたちは自分の限られた知識や判断力ではなく、神様の知識、知恵、判断力のもとに人生の道を歩んでいくことができるのではないでしょうか。神様に感謝したいと思います。
(転載許可申請者のコメント)
こういう風にして神の戒めを守ろうとしている人々を「律法主義者」であると批判する事はできません。それどころか、むしろこのような捉え方こそが福音と律法を調和させると十分信じられる事を指摘されなければなりません。キリストが律法を廃する為ではなく完成させるために来たという言葉が実感させると思います。このページに関するご意見ご質問はE-メールでお寄せ下さい。