ACTS
トリニティ・ウエスタン大学
今日の教会は、地上で時間に縛られ文化に支配されつつ変化していく中に、もう一つの画期的な変化(パラダイムシフト)を経験している。その変化そのものは、「人にそれができうる」とか、「人は絶えず良くなって来た」、そして「宗教は人間の幼稚な推理の遺物であった」との啓蒙主義的運動からの反応である。今日これらの考えは、中身のないものとなってきている。科学や技術は我々の時間を奪い、貨幣価値を下げ、そして人間の価値を浅く意味のない何かに、ますます引き下げている。構造はあたかも啓蒙主義運動の産物のように見られているが、皮肉にもそれは構造の個人的自由を決めている啓蒙主義運動である。
その際立つ点は、極端な自己動機と自己志向である。教会なしに、今日の多様性を強調する傾向がある中、それらを何か意味のあるものに結びつけようとする相互発生的な動きがある。我々は、はっきりと識別できる文字どおりのものを大切に受けつがれて来た父たちの信仰を拒否する信仰の子供達を見ている。教会内で、牧師ではなく、むしろ公同の教会の代表として、個々人あるいは個人のネットワークを自己自認しているのを見ている。公同の教会の構造的次元は、神の国のメッセージの重要性を減じさせ[1]、これが文化を越えてかどうかあるいは、それが重要かどうか、いづれにしても神の宣教の中でキリストに個人的に仕えることも減じさせている。[2]
これに反して、例えば世界教会会議にあるように、管理や計画は聖職者たちによって伝統的にされている。今や、平信徒がキリストの体として立て上げられるための教育や欲求がある。そして聖職者からの自立し神の召しに応えることである。それはある意味で、信仰の中にある「人々の動き」である。Boschの暗示的な表題で、それが「Church-with-others(他の人々と共にある公同の教会)」とされている。
Boschは、church-in-mission(宣教にある教会)、あるいは世界のいたるところにあるthe Local Church(公同教会) として、新しいエキュメニカル・パラダイムの中に教会を見ている。他より優れている教会はどこにもないことを(宗派主義の鍵になる働きと反対である)仮定して、これが新約聖書の教えの基本として捕らえている。この点[3]を述べるために、Boschは使徒13:1-3と一般的なパウロの書簡を交差させて言及している。
奇妙なことだが、それは我々が過去にたどり着いたかのように見えるが、そうではなくもっと過去に注意を払うことである。The church-with-othersの考えは、クリスチャンとして成長することである。宗派よりむしろ、円満な協力、愛、相互依存の霊において他のクリスチャンとの出会いによって成長する。そしてこれは、我々のための神の愛(the church/believer《教会/信者》)が認識されるコンテクストの中でされる。
ここには聖職者と平信徒の間の「us-them《我々にと彼らに》」のシナリオの存在が暗示することは、期待されていない(これは、過去において一回以上は存在していたが)。現実には、聖職者が始めることで、平信徒が立ち上がるのに大いに励まされる。しかしこの関係で誰が先頭を切るかを読むのは困難である。そのような視点から離れて立つ時、神の愛された花嫁の歴史の中で、神の熱心な働きであると分かると、さらに重要だと気づかされ、励まされる。神の視点では、聖職者と平信徒は一つに溶け合い、二つに分かれるのは不自然である。
この新しい平信徒の一例が、1981年、韓国カトリックのキャンペーンで、誰の「アプローチが小さい共同体で直接的な人対人,家族対家族だったか」とThomas [4]によって言われた。平信徒として奉仕されるよりも、むしろ奉仕することに召されていることに気がついているが、私はこの文に見られることが世界のいたるところで現れることを言いたい。この模範は我々に新しく感じさせるかもしれないが、教会の初期には新しくない。Roland Allenは「パウロの宣教模範。・・聖霊に力を与られたlocal churches(個々の地方教会)の全権威を持って、そして聖職者と平信徒(私のものに強調)の間のリーダーシップを分かちあう」ことに戻れと言っている[5]。
もし我々が来ようとしているパラダイムが使徒時代に等しいものと見るなら、我々はまだそれに到達していない。我々が使徒パウロのchurch-planting methods(教会開拓計画)−事実上直接的で時代にあった−に合う前に、少なくとも北米では、まだかなりの適応が必要である。パウロの時代、教会は説教の5、6ヶ月後に造られたので、きちんとした導きが必要だったが、それ自体自由に増え広がっていった。Allenは、彼の時代(私は我々自身のだと信じている)での、この実践は、実践する人々が気違いだと非難を浴びるだろうとしている[6]。しかしそれは気違いざただろうか。
Allenは、教会内での自発的な広がりは、我々の礼拝の型に隠されていると主張している。New church plants(新しい教会の開拓)は、訓練を受けていない平信徒たちのしくじりを恐れている宣教師たちがしている宣教センターに結びつけられているのである。この同じコントロールが新しい教会を守る傾向があったが、そのかわり教会を窒息死させるのである。彼らの代わりに雇われた代理人を送る宣教師のやり方が、伝道は訓練を受けたプロの仕事だと、クリスチャンの新しいグループに解釈される。それはまた、一般のクリスチャンたちが神の国のために働くというより聖職者に頼ることを彼らに教えていることでもある。
対照的に、Allenは、パウロが始めた教会にきちんと成長した平信徒(長老たち)をパウロが任命したことをあげている。パウロは各々の教会の上に数人の長老を置いた。こうしてパウロは、素早い成長を可能にし、相互の責任感を奨励することが出来た[7]。
竹中正夫氏は、教会が「静止した, 建物中心の宗教」から「人々の動き、地上で喜ばしい巡礼の旅を作る新しい人間的仲間」へと動くように呼びかけている。極東の西洋のような国、日本で、教会は「もし教会の建物とフルタイムのプロの牧師を持たないなら、イエス・キリストの教会を持っていない」と言われる厳格な構造を持続している。一方、仏教の一派である創価学会[A1]は「普通の人々の環境の中で、素人のリーダーたちとセル・グループの交わりの設立」を通して急速に進歩している[8]。
先に進むことやそのサークルを完成する事に躊躇することの大部分は、宗派の絆である。宗派があることの良い面と悪い面があり、兄弟愛の完全な表現への足かせとなり続けるという前提を処理するためには、間違えた標的となりうる。つまり人が接触するという点で、色々な宗派があることはthe Local Churchがたった一つの宗派の場合であったより、さらに早く細胞分裂する形を与えてきた。真理は、まったく同じ目で物事を見る人間は世界に二人といないことである。活性化している代行者のように、複数からなる宗派は励まされることだろう。どれ一つとして社会的なことで同じことを強調している宗派はないし、本当には宗派同士の過当競争はありえない。
否定的な考えは、各々の近視眼的な興味である。自己の意味を持つことを決定して、the local churchの流れのなかで宗派は内部に焦点を当てるが神の国のために他の宗派と協力して働くことを捜し求めてこなかった。構造的に、これは行うことが難しいかもしれない。[9] 信者の数の減少を抑えるため、また捧げることを増やすために牧師たちは、時代にあった教会を作り上げることに挑戦させられている。これらは重要な課題ではあるが、人と神の肉体的接点である教会の真の目的(構造上から言うと)から逸脱している。
この歌がそれを上手く語っている:神の国と神の義をまず求めなさい。そうすれば、これらのものは全て加えられる。アレルーアレルヤ!確かにアレルヤである。これらの言葉は、救い主の口から語られた真実である(マタイ6:33)。構造的教会は、活発な奉仕のために信者を訓練する教会となっていく。平信徒の奉仕のみから、我々は兄弟愛や効果的な礼拝の実を刈り取れるだろう。そしてこれは、人々の心臓から出る血液のように流れ出るだろう。これを食い止めることは不可能だろう。これが牧師の真の目標である。生物学用語では、捧げること、教会成長、そして妥当性は、皆「水面下にある要因」である。それらはその結果であり、その目標ではない。
今日、その仕事は平信徒のものであるという、目覚めは伸びてきている[10]。しかしながら多くの場合、彼らが属している宗派は、それについて来ていない。そして、それができない。ある宗派は、神がそうするために−いわゆる、しがらみを破る−彼らを呼び出していることに気が付き、超教派団体(宗派を問わず集まって出来た組織)を作っている。
聖職者にはこの現象が容易ではないが、そうであってはならない二つの理由がある:「彼らの」平信徒の成長を助けることで、メンバーの数が大幅に増えていくだろう。神が個々人を導くことで、教会の宣教が高められるだろう。
これを見る時、粉みじんに壊された立体写真のイメージの光で1コリント1を理解する必要がある。我々のからだは、各々異なった召しや生き生きした目的を持って奉仕をしている多くのメンバーから成っている。からだとしての、the local churchは異なった召しと生き生きした目的を持って奉仕をしている多くのメンバーを持っている。からだとしての共同体の中でのThe Local Churchは、異なった召しと生き生きした目的を持って奉仕している多くの教会(メンバー)を抱えている。そしてこれは他の小宇宙(他のthe Local Church)と共に進み続けるだろう−神がそうするために与えられた、生き生きしているが異なったタスクを完成するために。各々の視点でメンバーたちは、からだの必須の構成要素である。
エキュメニカル・パラダイムは一緒に働く宗派のつながり−これは階級制度や上から下に行くリーダーシップを示している−のために召されたのではない。むしろ世界的に共通した目的のために手をつなぎ合って共に立ち上がった平信徒たちの下からも上からも来る超教派的な動きである。それは、神学的な知的協力ではなく、神の国の目的を成就するために共に個人的に、あるいは集まって働く男女,子供たち、家族、独身者たち、専門家たち、素人たちの動きである。この視点には、オ−ソドックス、カトリック、プロテスタント、エヴァジェリカル、カリスマではなく、我々の信仰の内にある境界線を超越したパラダイムである。共通した目標は、人を神との和解へ導く−それは空っぽの教会を人で満たし、さらに構造的な必要も保証する。私個人は、英国教会の伝統的な礼拝を楽しんでいる−しかしそれは私であって−他の人々は典型的な信仰の共通性を楽しみ、他の人々は違った教え、歌、捧げることを楽しんでいる。そこには平信徒と聖職者との区別をさせないので、神に仕えようとして進み出る我々を祝福される。
聖職者がする事は活発な役割に導くのではなく、養う事である[11]。今日の個々人は、奉仕に意味を見出すが、彼ら自身の賜物を知らず、この世でそれらを使って神に仕えるべく訓練がされていない。これが聖職者のまず最初にする尊い仕事である[12]。
私は、やがて来るエキュメニカル・パラダイムを呼び出された者(ecclesiastical one)としてより、むしろ人々の動き(people’s movement)として見ているので、組織から個々人へと注意を向けたい。それで『神の仕事をしていくにあたって基本的に何が必要なのか』を尋ねたい。Watchman Neeは「十字架を経験的に知ること」としてこの質問に答えている。彼は良い聞き手である事を続けているが、質問と答えは我々の父のみこころを行う事に全ての面を適用している。「効果的な働き手になるために、我々は霊的である;我々を求めている全ての人々の必要を見分ける必要がある;彼らの話を静かな心で聞く必要がある・・・我々自身は主と明確な関係の中に留まらなければならない」[13]。
これらの言葉のなかには、多くの考えが提示されている。平信徒が十字架を経験的に知るとは何を意味しているのか。端的に言って、十字架は何を表しているのか。十字架は、事実我々のこの世の死を表している;もし我々がクリスチャンなら、自分たちの命はキリストに捧げた事を認識する必要がある。我々は過去を後に死に、新しい命−キリストのよみがえりによってか取って代わられた命−を頂く事が必要である。これは純粋な新約聖書の教えである。そして、これは霊的に解釈した教えではない−この認識からさらに進んでいく事を言及している。十字架を経験的に知ることは、あなた方の過去の知識に耳を傾けるのではなく、人々を通して、経験を通して、神への献身を通して、あなたがたに神が語られるとして、神の言葉に信仰をもって耳を傾ける生活をすることである。この過程は、まことに心地悪い事である[14]、しかし我々が、効果的に神の奉仕をするためには必要なことである。この流れで、各々はthe Church(唯一の神の教会)である。
霊的な明確さとは何だろう。神の国の内で我々が神の境界線を知ることである。我々はこれをどのようにして知ることができるだろうか。我々を通して神が働かれるとの信仰によって、少しずつ祈り心をもって、また神の言葉の光に当てて、我々の学びを思い返す事によって習得する。神に頼るとき、思いがけないことが起きる。神への信頼が他の人々を信頼するに値する事へと導く時、神は我々を他の人々と接触できるように道を開かれる。しかしながら、これら全てにおいて、我々は神と明快な関係で結ばれていることが必要である。
「奉仕はそれだけでは生じない。キリストのからだの一員として、世界宣教に参加している時に生じる。我は個人では奉仕をしない;我々よりもさらに大きな何かの一員として奉仕する−the eternal Church of Jesus, the living Lord(イエス、生ける主の永遠の教会)。」[15]
これらはさらに偉大なこと−神によって造られ、定められた−へ我々が再び目を向けさせる際たつ言葉である。悲しい事に、エキュメニカル・パラダイムの理解を掴む前に、2−3のことが神の国の光荷当てて、これらの言葉を訳せるかもしれない。むしろ永遠の教会のために、エキュメニカル・パラダイムを各自の宗派を利用する傾向がある。しかし、我々がこうであるとか、ああであるとか、言っても我々は皆the Churchである。この暗示の全体重は、自分の宗派のしがらみを持ちつつ、他の教会に参加できるように主が導かれた時、我々の心にやってくる。そして、もし信者が自分の宗派外でキリストにある目的を獲得するなら、兄弟姉妹の救われる数は少ないであろうか。
一方、キリストのからだの一員として奉仕する時、自分の宗派の一員としてのみ奉仕しているのだろうか。我々に働きかけておられるのは神であり、神の民は我々の民でもある。神の目にはその区別はない。今日、我々が神に仕えることを求める時、これはより鮮明に我々に見えるようになってきている。パウロが道の途中でどのように改宗し、アンティオケの教会で送られ、しかもエルサレムの教会でどのようにして共に働いたかに目を留めてください。これは教会(an ecclesiastical issue)の論点ではなく、神の国の論点である。
James L. Garlowによると、一般信徒は、一般信徒の奉仕を取り巻くサポートグループの拡大で成功していくだろう。『グループを送る』の対象は、単に『送る』ではなく、励ますことである。[16]この陳述のなかで、我々は一人一人の弱さを見始める。啓示されたパラダイムは解放された視点を我々にもたらしたが、我々はそれを信じる許容力がない。エキュメニカル・パラダイムは解放についてでもなく、それに依頼でもない。むしろ相互依存についてである。
世界に存在することについて語ることは簡単だが、世界に属することについてはそうではない。しかし平信徒にとって、これはどんな意味をもつのだろうか。しばしば平信徒は、自分のタスクにたいして能力不足、[17]十分に訓練されていないと感じる。[18] Richard J. Mouwは、礼拝中する時に我々の心に占めている世界と我々が働く時の世界との間には溝がある。それは場所ではなく種類であると主張している。彼は、教育過程が3つの側面を持つ溝に橋を架けると論じている。この溝は3つの側面は:1)社会、政治、そして経済に関する問題へと平信徒の意識を高める。「クリスチャン意識を高めることは、我々がすでに自分自身をささげている事に気がつくことから成り立っている」[19]、2)平信徒は、この世の必要にイエスがどのように答えているかを知るために神学的教育を受ける必要がある。そして、3)原則と教義は土台のあるしっかりした適用を生むはずである。真実、そのような命令で、平信徒は神の民、the laosとしてキリストに仕える事が可能になるであろう。
Thomas W. Gillespieは、彼の資料として出エジプト19:4−7に、「総括して神の所有としてのthe laosとは、特典が与えられた者として選ばれたのではなく、仕えるための特権が与えられた者として選ばれた」と記している。彼の言わんとする、この仕える事は「『全地球』の上にある神の要求と直接関係があることを詳しく説明している。・・・神のthe laosと呼ばれるこの民は、媒体としての働きを成就するために構成され任命されている。」付け加えるなら、この地球上の人々がこの仕事に携わる事を考えるなら,『一般の信者』と『聖職者』や『素人』と『プロ』との間を区別する言葉はなにもない。我々が今使っている『平信徒』という言葉に特徴づけられるような分け隔てはない。」[20]
Guido A. Merkensによると、「すべての信者のユニークな祭司の血統は主の民に与えられた名前に見出せる。」[21]我々はStewards(管理者)(1ペテロ4:10)、Labourers(労働者)(マタイ20:1−16)、 Salt of the earth(地の塩)(マタイ5:13)、Lights of the world(世の光)(マタイ5:14)、 Witnesses(証し人)(使徒1:8)、 Soldiers of Jesus Christ(イエス・キリストの兵士)(2テモテ2:3)、 Disciples(弟子)(ヨハネ8:31)、the Body of Christ(キリストのからだ)(1コリント12:27)、 Ambassadors(使節)(2コリント5:20)、 Christians(クリスチャン)(使徒11:26)と呼ばれている。「それ自身の名には、それ自身(神)が我々に責任を与え、我々を奉仕させるために整える。」
世界は、世界の資源の減少や技術を通して世界の相互的結合によって小さくなりつつある。これらは、我々の背後に捨ててきた啓示的パラダイムの自然な結果でもある。楽天家は、今あるような教会成長が潜在的にあったことは今までになかったと言うだろう。確かに、空の旅や『インターネット』の発明により、望んでいるほとんど誰とでも連絡がとれる。ただし物事が単純であれば、である。我々ととりまく生物圏の生態環境のように、我々は、自分たちが測り知ることができるよりもっと、見た事も予想した事もない事実を学んでいる。感覚のある生き物として、我々は未来を見る試みにはまだまだ限界がある。しかし我々は、注意深く評価したり論じたりする2000年の歴史を持っている。そしてクリスチャンとして神の教会と創造のために備えられている神の能力に確かに信仰も持っている。
西洋世界においては、その宣教地が、長期宣教師たちから短期宣教師たちへと変化している。それは、多くの国々が負債と戦い、また国民に税を課せるように、苦しい金銭的流れの直接的結果である。さらに三分の二の世界によって送られる宣教師たちがいる。[22]三分のニの世界とは、いわゆる伝統的に西洋の宣教師たちが送られるところである。
もっと重要なことは、おそらく世界のいたるところでイライラしながら希望を探している人々である。彼らの希望は、我々の知る限りイエスにしか見出せない。しかしながら、そのメッセージは彼ら自身の共同体に関連していなければならない。もし誰かが手を差し伸べるなら、それは平信徒であろう。高くつく学びは、訓練されたプロへの期待を薄くする。しかしこれは、あるいは良い事かもしれない。
我々はあまりにも習慣を固執しているので、神だけが我々を自由にさせ、この世界で責任ある行動を起こさせる事ができる[23]。我々は先に小グループでの奉仕、平信徒指導者の増やし方のテクニック、そして奉仕への希望が増加していることを証明した。これらは神のthe laosとして我々の優先に対してバランスが必要である。
Francis of Assisiがしたように我々は神を信奉する必要がある。恐らく、それは彼のように貧しくではなく、神に心から仕えるということにおいてである。しかし、我々がこれをする前に、我々の人生を神に正直に明け渡すことである。神は与える方である。与えられたものでないものは何もない。我々はまず自分の人生を神の意志とすることもできるし、神の意志を無視することもできる。神の国は精神的に感じているような社会的現実ではない。我々の戦いは自分たちの心であるが、神はイエス・キリストのためにすべてを虜にする権利を我々に与えられた。そしてもし神が我々と共にいるなら、誰が敵対できようか。
イエス・キリストにある兄弟姉妹は我々の周りにいる。我々の家族は、今経験しているよりも、さらに大きく、良く、素晴らしくなって来ている。それは、聖職者や平信徒、豊かなものや貧しいもの、男や女、大人や子供、そしてすべての人種を含んでいる。それは普遍的である。エキュメニカル・パラダイムの成就はその精神的な認識となるだろう。それは我々を待っている[24]。
[1] Bosch 1994: 385. 「教会が歴史にとどまることを軽蔑するような風潮が始まった。人々は教会に自信を失った。」
[2] Bosch 1994: 378.
[3] Bosch 1994: 386. 「教会が神を賛美するため、交わりを楽しむため、霊性を維持するために集まり、そしてそのメンバーのいるどこでも神に仕えるために散らばる。」
[4] Thomas 1995: 81.
[5] Thomas 1995: 82-83.
[6] Thomas 1995: 84.
[7] Braun 1971: 87-88.
[8] Braun 1971: 89. BatesとPauck編集、Takenaka Masao氏の「Japan」からの引用。世界を通してキリスト教の展望、1964。
[9] Thomas 1995: 91.「現代社会で神の活動を語ることは、キリスト教会の問題−教会の外のキリスト−を持ち出す事である。我々は神の活動を教会のみの活動に制限できない。またキリストの出来事が撤回できないほどに世界を変えたことを認めなければならない。それゆえに今日あるように教会と関係のない人々の行方を探るべきである。」World Council of Churches, The Churches for Others and the Church for the World から。(Geneva: WCC 1967)。
[10] Thomas 1995: 91. 「真の協力者がいる新しい人間のビジョンは、階級構造が生活を支配しているこの世では現実化しにくい。そのような構造は、政治、経済、そして家族だけでなく、協力や人間性と呼ばれる共同体である教会の中にも痛ましく存在している。もっとも信仰的なからだであり、すべての信者の参加する場所を支配している聖職者のカースト制度を永続させることによって、教会は平信徒の生活を圧迫している。」Human Liberation in a Feminist Perspective A Theology (Philadelphia: Westminster Press, 1974) Letty Russellから。
[11] Lyra 1975:以後 「さらに偉大な努力は、地域の会衆によってなされなければならない。
[12] Thomas 1995: 94. 「世界中にある神の代表として、教会の宣教的性質が選ばれたものである時、時々これが開かれた教会論(選び分かたれたもの)と呼ばれる。・・・開かれた教会論は参加することから始まり、その形や教会の性質を理解することへと移行する。」
[13] Nee 1974: 50-51.
[14] Kennedy 1969:122. さらに励まされる覚書で、Kennedyはこのように言っている:「クリスチャン平信徒は、キリストにある神の約束の土台をもとに行動を決めている者である。一番良いことは、それを調べれば調べるほど、それが真理であり有効的であることを確かにする。アーメン!」そして、キリストにあるこの兄弟のために、アーメン。
[15] Garlow 1981: 136.
[16] Garlow 1981: 140.
[17] Segler 1964: 76. 「キリストの証しとして最も障害になることは、恐らくタスクに対する理解不足である。・・・的を得たクリスチャンの証し人は、これらを持っている。(1)イエス・キリストに信仰がある。・・恵みによって人が救われる。(2)キリストを分かち合いたいという真の思い。(3)人々に対する本物の愛。(4)他人に対する祈りの習慣。(5)他人に出会うために出かけていく態度.(6)常識。・・全ての人はユニークである。(7)自己犠牲の謙遜さ。(8)聖霊に全く頼っている。(9)人々を動かす神を待ち望む忍耐。(10)神が祝福していることに感謝。・・そして人の証にたいする約束に感謝。」
[18] Kennedy 1969:107-108. 「クリスチャンの平信徒は、時々彼の仕事は重要ではないと考える。・・・その真実は神が世界を造り、その中に住む者の中から神を表す重要な人々を見出しにくい。それは、いつも神を表すことを彼の重荷とする単純な人である。」
[19] Bucy 1978: 113. 6章はRichard J. MouwにThe Corporate Calling of the Laity と題をつけられた。
[20] Bucy 1978: 15. 1章はThomas W. GillespieによってThe Laity in Biblical Perspectiveと題をつけられた。
[21] Merkens 1959: 4.
[22] McKenna 1990: 114, 118. 「この地球のあらゆることころで聖霊の働きが見られる。三分のニの世界で、偉大なる覚睡がすでに起きている。何千もの人々の改宗が、アフリカ、ラテン・アメリカ、東南アジアではありふれている。・・・若い人々が、単に国がリバイバルされ、新しくされ、変えられる幻を見るのではなく、世界宣教の幻を見ている・・・神が肉体を持っておられるイメージや奉仕者の態度・・・壁を越える・・・金持ちや貧しいもの、若者や年寄り、教育のある者もない者、北や南、東や西。」
[23] McKenna 1990: 119. 北アメリカと三分のニの世界との間での送リ手と受け取り手が逆になっていることで、McKennaは奉仕することへの新しい態度の必要性を強調している。「仕える精神に代わるものはない。地球上の若く貧しい者は、国内でも国外でも、我々がリーダーか僕なのかを直ちに知る。」
[24] Segler 1964: 77. 「福音化はあなたの共同体でとどめておけないし、我々の国の境界でもとどめられない。福音化は、国内と国外で宣教を意味する。・・・宣教はすべてのクリスチャンの仕事である。」
[A1] 仏教の一派である創価学会は、宗教としての仏教の代表ではなく、日本の仏教会からカルトと思われている。したがって「派」という言葉はもはや当てはまらない。そのテキストは、もともと提出された形が保存されるため書き換えられていない。私のノートから、創価学会について更に、Chris Naylor博士による日蓮宗と創価学会についてのOMFセミナーから引用した;9月8日
http://members.tripod.com/~Shido/ASCRP066.html
Bosch, David J., Transforming Mission: Paradigm Shifts in Theology of Mission, Maryknoll: Orbis Books, 1991.
Braun, Neil, Laity Mobilized: Reflections on Church Growth in Japan and Other Lands, Grand Rapids: Eerdmans Pub., 1971.
Bucy, Ralph D., Ed., The New Laity: Between Church and World, Waco: Word, Inc., 1978.
Garlow, James L., Partners in Ministry: Laity and Pastors Working Together, Kansas City: Beacon Hill Press, 1981.
Kennedy, Gerald, For Laymen and Other Martyrs, New York: Harper & Row, 1969.
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McKenna, David L., The Coming Great Awakening: New Hope for the Nineties, Downer Grove: InterVarsity Press, 1990.
Merkens, Guido A., Organized for Action: How to build a successful Parish and its program, St.Louis: Concordia Publishing House, 1959.
Nee, Watchman, The Normal Christian Worker, Kowloon: Hong Kong Church Book Room Ltd., 1965.
Segler, Franklin M., The Christian Layman, Nashville: Broadman Press, 1964.
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