ー20世紀を振り返って21世紀の宗教の在り方を考えるー
玉龍寺住職
宮 前 心 山
20世紀は人類が科学の発達が幸福につながると錯覚し、その錯覚にしたがって自然
破壊と環境汚染をもたらす工業化と経済優先主義を歩んだ時代である。それは人類が
自然に反する道をとりつづけることが犯罪や争いや混乱の増加を招くという大きな錯
誤に気づかなかった時代である。とすると、21世紀はこの過ちの反省期であり新た
な転換の時代にならなければならない。
宗教者にとっても、経済優先が人間の幸福にはつながらない錯覚であることに気づか
ず、おしなべて物資主義に毒されてたために、本当の意味での正しい宗教、智慧の仏
教を必要とする時代にそれが衰退し、商業主義的非科学的カルトの跳梁跋扈を許した
ことを反省し、新たな再出発の軸を構成する改革期であろう。
仏教に限って言えば正しい仏教は終焉した。仏教の本質は、民衆が苦悩から脱却する
ための智慧の教えであったにも関わらず、民衆から遊離して、僧侶のための仏教、宗
派のための仏教という形にすり代わり、教団組織の発達にしたがって教義は形骸化し
経営主義となった。僧侶仏教、宗派仏教という形になってからの仏教は、人間生活を
よりよく生きるための智慧の教えという本質の純粋性を失った。解脱あるいは安心へ
の導きであった筈の僧侶自体が安心を獲得しできず、したがって民衆の人心教化を果
たす人生の教師たる聖職から転落して、仏教儀式のしきたりをもって生計の具とする、
凡夫と何ら異ならない職業人に堕落した。
江戸時代の寺請け制度に起因する世界に珍奇なる檀家制度にあぐらをかいて、大衆教
化を捨て、読経業独占営利事業に変質した。
この僧侶寺院の姿に反発する形で興った仏教系新宗教も、経済優先の時代の波に毒さ
れて、僧侶寺院よりももっと露骨な形での、現代的なマーケティング手法を取り入れ
た商業主義化をとった。会員勧誘外交、効力なき崇拝物の押し付け販売、非科学的祈
とう、もしくは除霊や霊能などを売り物とする財源獲得に狂奔している様は、あさま
しき餓鬼道詐欺師の姿である。この商業的経営の妙味に羨望を感じた僧侶が追随して
お守りや水子供養を寺院経営の柱にするという日本仏教総偽仏教化、変質化という世
界宗教の中でも恥ずかしい現象を招いた時代である。
これは、世界に誇る日本独自の文化を育てた仏教が、戦後教育から追放されたことで、
国民は上から下まで仏教音痴になって、正しい仏教の理解が消失したことと無関係で
はない。一方では、北アメリカヨーロッパの知識人たちの純粋仏教への探求心は東欧
からロシアへと伝播しつつあり、チベット密教、テーラワーダ仏教、ヒンズー系アシ
ュラムが世界的な広まりをみせているというのにである。これが、現代の世界と日本
とのアンバランスな状況であるが、日本宗派仏教の体質は、そういう世界から見下げ
られている状態になっていることに、僧侶自体が気がついていない。この日本仏教の
状況は、末法を通り過ぎて絶法の時代に突入したというべきである。
20世紀末は、そういう時代認識の起こりつつある夜明け前ではないか。一般民衆の経
済優先主義に同化した僧侶の体質、それが普通としか思っていない職業僧侶が仏教の
中心に居座る限り、世界仏教としての普遍的思想化にたいする、日本仏教の閉塞性は
当分続く。仏教の皮をかぶった偽仏教の改革を論議しても無駄だ。日本仏教界の内外
が呼応して本来の理念を取り戻すための、鎌倉期に次ぐ第二の改革期を生む胎動をは
じめることを含めて、いま人類が置かれている矛盾と不合理のあれや、これやを総合
して一口に言えば、21世紀は、科学万能、経済優先の考え方に歯止めを掛ける、自
然回帰を希求する時代になるであろうと、希望をこめて予測する。
21世紀の宗教の在り方を論ずるずる場合も、この方向と切り離しては考えられない。
世界の為政者や経済人たちは、おそらく、以下に予測するような人類のアルマゲドン
的混乱の危機に遭遇してから、はじめて、人類が誤った道を歩んだことに気づくので
あろうが、混乱の果てに、いまの人類の在り方も宗教の在り方も、自然ではない、自
然の摂理に反する何かが間違った道を歩んでいることに気づいて、自然主義に回帰し
ゆく時代が、21世紀であろう。
そして各々異質の文明宗教は、あい争っている場合ではないことに気づかねばならな
い。それぞれの長所を取り入れ、大きく習合しなければならない時にきている。この
時にこそ、仏教の原点である智慧の教え、「対立しないものの見方、考え方」が、世界
各宗教のなかにも取り込まれて、新たに進歩した人類の統一原理として働くのでなけ
れば、人類の未来は悲観でしかないことに、気づくべきである。
「神」の概念が非科学的な不合 理なものとして批判され、宗教が科学に押されて後退
したのが20世紀の特徴でもあるが、同時に、仏教が智慧の教えであるための中心論
理たる「空」の概念、これが見えなくなった時代も20世紀である。だが、世界各宗教
が神の概念に「空」の概念を取り込めば、人類の思想が飛躍的に発展するのは21世
紀であると、これも希望をこめて予測したい。
21世紀の宗教の在り方を説く前に、先に20世紀の反省材料を挙げて置く。これら
が、すべて、人間の相対差別観を超えた仏教の平等観の智慧、および、大いなるもの
自然の摂理にお任せする安心解脱の考え方、受け取り方、すなわち自然に生きる見方
でかたづく問題であることに注目せられたい。
科学万能、経済優先が人類の幸福のために正しいと思い込んだ人類が、科学の進歩の
おかげで享受する一時的な快楽と利便性の陰に、却って不幸と苦悩を増大させたこと
は、科学が与える便利や快楽や合理性が、不便と苦悩と混乱と裏表一体の関係にある
ことを証明した。
以下にあげ諸問題は、人類が科学、経済優先をもって反自然の道を歩み続けた結果引
き起こした、現代を象徴する一例だが、かつて予言者が示したアルマゲドンに突っ込
み行く兆候にほかならないではないか。もろ刃の剣である科学の発達と経済優先主義
の引き起こす現象は、自然に生きている他の生物には決してない、人間特有の反自然
の考え方生き方のもたらした問題である。ただ、純粋仏教の本質である「空」の真理の
理解によって、すべてが解決することに目を向けていただきたい。
国家と国家の戦争、民族と民族の争い、イデオロギーとイデオロギーの衝突、個人
間の不和や争い、差別、排除、身近ないじめ問題の論理も、すべて個我の主張から始
まる。西洋流の個我の尊重は、大なる錯誤である。六十億の人間一人一人が、能力性
向思考がおのおのみな異なる。この違いを違いのままに許容することこそ、仏教の平
等の智慧であり、自然の摂理に従うものである。この智慧を万人共有の教育理念とす
ることこそ、争い不和いじめをなくす根本解決策である。
ごみ問題、環境汚染、自然破壊、資源枯渇と景気問題はリンクしている。 大都市の
行政が頭をかかえるごみ処理問題は、ごみを大量に出す仕組みそのもの、商業主義と
反自然の生方を反省すれば片付く。経済優先主義は、この方策をとろうとしない。そ
れは、経済優先主義が景気の冷却を恐れるからである。だが、不自然な工場製品、不
自然な大量消費を止めて、自然な考え方、自然な生き方、自然の食べ物に転換すれば、
無駄な消費は止み生活費は堅実となり高額の所得を望む生き方がそもそも不自然だと
いうことがわかってくる。地球全体をこの考え方で覆うことはできなくても、少なく
ともこの生き方をする者は、混乱に巻き込まれずに生きて行ける。ここでも、ブッダ
の智慧が基調であることはもちろんである。以上は、環境の破壊汚染、資源の無駄遣
いにも通ずる問題で、景気の低迷など、むしろ人類が目を覚ますためには、天恵と言
うべきである。
科学の進歩に伴い文明病が増加し、病気ではない病気で病院はにぎわっている。一
説によれば70パーセントの患者は、病気ではなくて心因性の心身症、あるいは不安神
経症の類だという。さもあろう、現代ストレス社会のひずみは、大量の精神的疾患、
ノイローゼ、社会や学校に適応できないぶらぶら病、得体のれない難病を生み出した。
これらは三分間診療や投薬では治らないが、ものの考え方、受け取り方を自然に戻せ
ば治る。ここにも解脱者の教育的な役割がある。
その他、これから人類が遭遇する危機的状況、人口爆発と飢餓問題、犯罪の激増、教
育のひずみ、統一論理を欠いた人心の混乱等々の深刻な諸問題全般が、対立しない見
方考え方、一口にいえば自然の摂理に従う仏教的生き方に転換すれば、少なくともそ
の叡智を獲得した人類だけは、この混乱の中を混乱に巻き込まれずに悠然と生きるこ
とができる。
こころある宗教者、仏教者諸君!世紀末の状況の反省に立って、いつの時代にも新鮮な
ブッダの叡智をわがものにして、21世紀初頭を輝かしい時代の幕開けにしようでは
ないか。
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