空とは何か
真理と分別 欲界と無所得 常識を超える道 本物の仏教者の見分け方 在家仏教の時代 「空」を欠いた仏教学の問題点 聴いてくれる人がいればどこへでも出かける |
空とは何か
真理は二つに分けられない世界の実際の姿(実相)は、欲界に生きて いる肉欲の目から眺めていたのでは見えないのです。 真理は「空」です。真理にはよい・わるいという判断はないのです。 判断、分別は人間がするもので、真理は判断しません。ですから、ほんとうの見方、真理の見方をすると、実相は二つに分けて見てはならない のです。 真理はよい・わるいというように、相対的に二つに分けることができないのです。 しかし、私たち肉欲の凡夫は、欲界からばかり眺めますから、分けてはならない真理を、ついつい「よい・わるい」と二つに分けて見てしまいます。 しかも、二つにわける見方は、人によって異なります。その人は「よい」と主張しても、他のひとはそうは思わないのでは真理ではありません。万人の理性が等しく普遍的に認め得る、合理的、科学的で、永久に不滅不変の絶対が真理です。 よい・わるいの一方だけを見るのが、欲界の人間ですが、「空」から見た正見では、よいと、わるいは、ひとつ(一如いちにょ)なのです。よいとわるいは、一体のもので、実は分けられないのです。 真理から見ると、ほんとうはよくもないし、悪くもない空なのです。また、それを人間の肉から見ると、実はよくて、わるい両面のものなのです。両面が一緒にくっついている together なのに、その片側しか人間は見ません。 死と生を、人間は、別々に分けて見るところから悩みが始まります。しかし、死と生は、実は死にながら、生きている生きながら死に向かっているもので、一瞬一瞬に死んでは生まれているのと同じなのです。 生死一如なのです。しかし、この理は、「見性けんしょう体験」という体験をしないと、なかなか、しっくりとは納得しがたいものです。だが、それは、これまでながらく、物事を二つに分けて見る見方にばかり馴らされてきたせいで、仏道を修習していけば、この新しい見方を、理性は次第に納得する筈です。 |
真理と分別 真理とは、ただ一つの法則をもち、永久に不変なものをさします。 その内容や解釈が二つに別れたり、時代で変化するものは真理ではありません。したがって、真理は二つ見方には分けられないもので、仏教者は、分けて見てはならないということを、しっかりとわきまえてください。きれいなものでも… 汚いものでも…たとえば、尾篭な例で申しわけないが、目の前に「ウンコ」が置いてあるとして、人はたいてい 「ワアッ、汚い」「アア、嫌だわ」 となる。きれい ・ 汚いと分けて見るからです。 これを、ふたつに分けて見る見方は真理で はない、間違った見方だとわかるのが、「空」です。 ウンコを汚いと決めたのは誰だろう? 天が決めたのではない、人間が相対観念でそう勝手に判断したのです。 真理からみると、ウンコは物質であって、きれいなものでも・汚いものでもない 「欲界」から見ずに、「空」から見なさい、と説くのは、ここのところです。 正しい見方では、どう見たらよいでしょう。まず、「きれいなものでも、汚ないものでもない」という一元の見方をするのが真理だと知らねばなりません。 この一元の見方は、美醜や、優劣や、病気健康など、どんな問題の見方にも応用できま す。しかし、欲界にある肉体の認識の仕方は、二元の見方をするようにできています。人間としてそう作られている宿命も、素直に受け入れねばなりません。理性は「空」から見たい。しかし、肉体は肉欲の煩悩を欲します。この矛盾を、どう解決すればよいのでしょ うか。(※以下続きますが、少し微細な内容なので省略します) |
欲界と無所得 「さとり」の智慧を持つ者は、人類のなかでもっとも進歩した人でしょう。だが「空」には、その「さとり」というものもないのです。もし「さとり」を「得た」といったら、もうそこは「空」ではなくなります。「さとり」を「得た」と言ったとたんに、もうそれは人間の差別知にすぎず、「さとり」そのものではなくなるのです。 般若心経は「空」は得るということがないと言っているが、「空」には得るとか、得ないとかの沙汰さたがないのです。有るも無いもない。「空」はすべてが消えて無くなる世界です。言葉も論理もない。空間も時間もない。認識がない世界には、物質も存在しない。人間が現実世界としている三次元世界がなくなる世界が真理世界です。分裂病型の新興宗教教祖が幻覚を見て主張している多次元世界や霊魂の世界などはもちろんない。完全な「空」の一点において、善悪も有無も、病気健康も地獄極楽もあの世この世も生 死も、すべてが無くなる。ここを「無所得」というのです。 仏道の人にとっては、この「無所得」の境地でいることがもっとも大切です。だが、世間はみな反対に所得を求めて動いているのだから、なかなかそうはなれないのが凡夫の性(さが)です。 人間は、所得ばかりを望む欲界(よっかい)に住んでいます。それが人間であるわけで、そのなかで無所得「空」の境地にに生きることは、なかなか容易ではありません。しかし、欲界にいるかぎり幸福にはなれないのですから、無理を承知でその境地を目指すのです。すると、やがて年齢とともに、欲望が枯れてくると、心境は深まっていくものです。すぐには無所得の境地になれなくとも、かまわない。そのうちに、だんだんなってくる。 まずは、仏道とは、欲界に生きるのではなく無所得に生きる、そういうものだという ことだけを、しっかりと肚にいれて、かかってください。この「空」の真理を土台に、もういちど私たちの欲界の考え方を見直そう、と般若心経は教えているのです。 |
常識を超える道 ここで、きちんと知っておかなくてはならない大切なことは、仏教の本当の奥義は、人間の普通の常識を間違った見方だとしていることです。 常識をブチ破って、真理に目覚めることを、最終の目的としているということです。常識を超えるという点では、ある意味においては、超人になることといえます。ここのところが、なにか特殊な能力を開発して超能力や霊力を身につけたり、エネルギーをあげたりすることのように、誤って受け取られやすいところであります。しかし、そうではなく、普通では気がつかないでいる真理に目覚めることです。 真理に目覚めてしまえば、当たり前の世界が開かれてあることがわかり、ごく自然のありのままの人間になって生きるのですが、しかし、普通、人間が常識だ思い込んでいる自 我を超越する点で、超人、または真人になることだと言えます。正しい仏教の第一目標は、「空」の真理を悟って、心が開けることです。もし何かがあったら、それは所詮人間の思念の産物で「空」ではないのですから、仏教は超能力や霊感を目指したりするものではありません。 超能力などというものは、いくら修行してもたいして身につくものではありませんし、もし身についたとしても、心が開けなかったならば、役に立たないことなのです。仏教の目的とは、「空」の真理に目覚めて、心が開け、苦悩から解脱する安心を掴むことです。 |
本物の仏教者の見分け方 本来の仏教は、心の安心を目的として、迷いの見方を打破するものです。すぐれた心境になりたいからこそ、仏教を学ぶものですから、凡人と同じ心の持ち方でいいはずがありません。凡人の欲望にさいなまれる迷いを超えて、もっと大きな心に脱皮すべきです。では、どんな人間になればよいのでしょうか。それには、「こんな人になりたい」とい う理想像をあげておきましょう。本物の、仏教者、宗教家かどうかの判断基準の、簡単な見分け方は、 ・お金の欲がないこと。 ・名誉や地位、世間の評判などにこだわらない生き方をしていること。 ・生きる、死ぬの問題を解決していること。(解脱) 以上の三項目をきちんと解決できている人は、仏教者の中の、本物の仏教者です。前、二点をもっているいる人は、仏教者でなくても、信仰を持っている人のなかには、たまにいますが、しかし、欲界(三界の一つ)に住む人間の欲望のなかで、もっとも強い生死の問題を解決している人は稀で、たいていは落第です。 ましてや、前二点ができていない宗教家は、いくら地位があったり、名声があっても、ま だ仏道修行においては未熟な人だと言えます。ここにあげた、三点は、いったん真理に目覚めたあと、心の修養によって、次第に欲界 の垢をおとしていって、ようやくできあがる境涯(きょうがい)です。 そこまでいくと、心境がますますグレードアップして、次の四点ができてきます。・屈託がなく、人生を楽しんでいる。 ・いつも明るくて、愚痴を言わない。 ・あれかこれか、迷わない。 ・慈愛ぶかいこと。 以上の七項目は、いやしくも宗教家、仏教者を自認する者の必須の条件です。なかなか、ここまで抜け切るには、並大抵の「心の修行」ではないが、「空」の悟りをよく学んでいけば、真理に目覚め、本当の生き方がわかり、やがて次第に高い境地に達することができます。 |
在家仏教の時代 近年の仏教学は、仏教とも仏道ともまったく別物になってきた。本来三者は一体でな くてはならないのに、それぞれが別々の道を歩き始めた。その原因をはっきりさせて おきたい。仏教と一口にいえば、三者の全体を指す用語なのに、そうでなくなった原因は、仏教 教団すなわち僧侶仏教、宗派仏教の変質衰退にある。とうていこれがほんものの仏教 とは思えない非科学的習俗の儀式や祈祷に傾いているから学者が相手にしなくなり、 仏教学が一人歩きをし始めた。結果は、御用仏教学の宗学否定、宗祖否定、教理否定 の花盛りとなった。仏教側(教団、僧侶)は学会に出るわけでなし、学会誌など読み もしないから宗門系大学の学者たちが反乱していることをご存知ない。 一方仏道は?というと、これは教団つまりここでは仏教も仏道を知らない。仏道は心 の修行であり実践である。仏教の奥旨は修行抜きにわかるものではない。仏教と仏道 は不離不測同義語ぐらいのものなのだから、当然に、仏教は修行を伴うものである。 ところが宗派仏教、僧侶仏教は修行を放棄し安易な職業化と祈祷化観光化してしまっ たから、修行の必要も感じていないし、実践などする気も起こらない。それでは、学者 は仏道を知っているのかというと、もちろん、知るわけはない。彼ら学者たちの研究 の賜物は、参考にさせて頂くのであるから、無価値というのではないが、仏道修行な くして仏教の奥底がわかるものか。仏教教団、僧侶のありかたに愛想をつかした学者 は仏道まで否定して、学的興味だけで学者流の仏教理解を遣り始め、珍説を発表する ようになった。では、仏道は一体どこでやっているのかというと、普通僧堂だと思うが、僧堂ではや っていない。僧堂自身はやっていると思い込んでいるが、実態は形式ばっているだけ で本当の中身は消えている。宮前の道場を見ればわかるが、まじめに取り組んでいる のは在家仏教だ。これからは在家仏教の時代である。 |
「空」を欠いた仏教学の問題点 学者の仏教学と仏教、仏道との遊離に附いて、こまった問題点を挙げておきている。 唯識、中論を研究する学者たちが少なくなったことを記しましたが、大学研究者たち の間で、笑えない愚かな喜劇が演じられている。一般にはあまり関係のない話のよ うですが、由々しき問題なので、参考までに記す。仏教学者たちの間でも、近年はコンピューターによるネットワーク化によって世界有 数の文献学者たちが共同研究するという形に代わりました。コンピューターは研究姿 勢もすっかり変えてしまいましたが、仏教観も変えてしまった。彼らの興味は思 想の研究や構築よりも、文献的検索による新発見の方向に重点が移ってしまったのだ 。思想の吟味も骨が折れる仕事だが、構築はさらに長期の思索を必要とする。 それがどういうように仏教を変えたかというと、世界一だった日本の仏教学は、これ まではひとりで(下請けの助手研究者は使うが)コツコツと漢訳とサンスクリット、 パーリ文献との比較照合していたのだが、コンピューターが導入されてからは、イ ギリス、ドイツ、フランス、ロシアにちりじりバラバラに散らばっている貴重な発掘 文献の原典や研究データーが即座に簡単に入手できるようになり、中国によって先人 が漢訳した数種異類の語義を文献的に追求して誤りを見出し、それをただすという手 法が主流になったから、必然的にこれまでの漢訳にもとづいた独訳英訳も、和訳も総 点検され、同時に誤訳された語義に基づいた学説はすべて否定されるという事態にな った。それはよいが、間違い個所を早く発見した者が業績として評価される結果、原典至上 主義とでも言う風潮が形成された。原典といっても当時の学者が当時のレベルで言い 伝えを基に創出したもので、けっして天から降ってきた神の書ではないのだから至上 最高の所説とは言いがたいが、原典至上に傾く向くあまりに、古いものほどオリジナ ルに近いという発想がいつのまにか文献学者の間に定着してしまった。そこで、これ までに漸次発達してきて高度に構築されてきた仏教思想や理論も、原典にない文言を 用いたりしていると、またわずかな誤訳に基づいて述べている個所があると、わず かな瑕疵が、あたかもその学説の成立根拠をくつがえすかのごとくに、語義の批判を めぐって誇大に論争する風潮が起こった。原始経典にはない思想だというので、正当 な仏教ではないとして、とくとくとして宗祖たちを否定する学者が横行し始めた。こ れはやはり経済優先社会にに毒された学者が学的業績を漁る結果の異説発表というだ けではない重大問題が根底にある。 つまり、学者には空が見えないということ。人生も未熟な少壮学者が、修行や思索を 経ないで何が本当の仏教がわかるというのか。「仏教などになど興味はない。ただ学 的興味があるだけだ」とうそぶく少壮学者に、仏教がわかってたまるか。仏教は単純 な学的追求だけでは理解に達することができない深遠な人知のレベルを超えた哲理こ を持っている。こうして、仏教学者が仏教仏道と学的興味とを分離することになって、その結果、そ れまでの文献の流れには現れない思想的発達などが、飛躍だなどと指摘されて否定さ れるという恐ろしい誤解が世界中にまかりとおることになった。 仏教は、通常人間がしている二元相対観では捉えられない部分がある。つまり、「空」 という所は、修行による体験的直感で悟り、確認するもので、「空」は、所詮相対的 概念でしか表現できない言語では、説明しにくいし、理解しにくいものである。初期 仏教の文献には、その芽はあるが、用語として明確にはあらわれていなくて、そのあ と般若経ができて大乗思想が起こり、一、二世紀までにきわめて高度に発達したのが 中論の「空」の証明である。ここは、よほどの思索や修行がなければ理解しにくい部 分であって、思索や修行をしないで単なる文献学者には到底わからない。だから、仏 教を知らない少壮学者たちはまるで「空」をわかっていないのだから、自分がわから なくても、わからないとは言えない学者の性で「別にたいしたことはいっていないん ですよ」などと逃げている。だがこれをわからないと、中論、百論、十二門論のいわゆる三論は見えてこない。あ まりに難しいために学問仏教の三論宗が消滅したくらいなのに、修行を欠いた凡庸な 学者が簡単にわかる代物ではない。 わかりもしない者が、文献にはない飛躍であり仏教とは違うという珍説を発表して、 それが学会に堂々とまかりとおる時代となってしまったのである。つまり現代は「空」 が見えなくなった時代なのです。ということは、人類最大の智慧である仏教の根幹が 喪失されつつあるということだ。 そして、現実にはありえない非科学的な原始宗教的な発想の部分が原始経典にあるか らからといって、それを正当な仏教とし、思想的な発達をとげた科学と矛盾しない高 度な空観を否定するという誤解が、堂々と大学や大学院の講義で行われ(もちろんま じめな学生とは議論の衝突がくりかえされる)そういう凡学者が優秀な研究と評価さ れて、研究費を助成されるという呆れた実態がある。仏教をまるでわからない学者が仏教仏道と文献的仏教学とを分離してしまい、先人の 思想を批判する仕事が学問的業績として評価されるというスタイルに代わってしまっ たのである。その結果はどうなったか。恐ろしい害毒的な学説が世上に横行すること になった。仏教思想の吟味や構築にはほとんど努力が払われなくなった。文字として は文献には現れにくい二元相対を超えた「これこそ仏道究極の真理」の部分が隠れて しまった。 面倒な思想構築には興味がなくて、コンピューターを駆使して原典用語が当時の古語 方言などからの変化であうことををつきとめる研究に憂き身をやつしているところは、 いかにもだが、私は、これらの現代っ子学者たちに、仏道の原理は「苦悩」の「滅尽」 を目指すものであり、苦を滅尽するためには、「空」を知る智慧を獲得しなければな らない。「空」を知るためにの「修道」がなくては成立しないことを教えたい。 |
聴いてくれる人がいればどこへでも出かける Aさん。ファックスありがとう。お元気ですか。子供たちも、変わりないと存じま す。(私の)いったん立ち消えて冷めた火を、ふたたび燃え上がらせるのは、ちょっと難し かった のですが、Aさんの熱意にほだされました。あなた方がやるという気になってくれ れば、さいわい期間が短いで、なんとか都合をつけられると思うので、9/11―13前 日から飛んでいきましょう。確定したら、チケットをすぐ購入したいので返事下さい 。 解脱したひとには慈、悲、喜、捨の四無量心というものが、自然に沸き上がるといわ れますが、その通りです。したがって、欲望を達成してそこから得る悦楽というもの もまったくない生活だし、また望んでもい ませんが、しかし、それに代わる楽しみや喜びが、ひとさまに自分の掴んだ、苦を抜 いて楽を与えるという仏教の真髄をコーチすることです。それによって、人々が従来 の人生の考え方、見方、生き方が錯誤であることに気づいて、以後の人生を確固とし た信念と確信を持って、充実して生きていくことができれば、それが、このうえない 私の喜びと楽しみなのです。人々は、苦や楽があると錯覚していることに気づかない。ゴータマ・ブッダの純粋仏 教は宗教ではありません。 わたしは宗教を広めようとはしていない。ゴータマブッダが発見し、ナーガルジュナ が論理化した宇宙の構造やものごとの在り方が「空」であることの真理を世界中の人々 に紹介したいだけです。全存在が一切空である。このこの道理は、キリスト教やイス ラム教、その他のどんな宗教の人たちでも、また無宗教の人たちが聞いても、決して 矛盾しませんし、無理なく納得して聞けるものごとの道理です。人々が常識と思い込んでいるすべてが、実は錯覚です。人間が正しいと思い込んでい る事柄が、みな錯覚である。それは、二千五百年も前に発見された真理なのに、今日 聞いてもなお新鮮な驚きをもって聞くことができる「真理の気づき」です。これまで の西洋哲学や西洋的分析手法の科学が見抜けなかった真理であり、宇宙の法則です。 ですから、これは宗教ではない科学なのです。いま先端物理学の素粒子論は、ようや く、このことを証明しつつあります。 世界の一流物理学者に宇宙や物質の起源は何か?と問うと、一様に「無」と答えます。 素粒子の存在領域はと問うと、「真空」と答える。宇宙を含むあらゆる物質物体を生 成消滅させる原質料因は何か?と問うと、かつてはエネルギーというような答えが返 ってきたものだが、現在では真空説が主流を占めている。物理学者は、二千五百年前によくぞ「空」なる構造論、存在論をを見つけたものだと 、みな一様に舌をまいている人類最大の智慧なのです。 仏教や禅というとみな宗教だと思っているが、そう見えるのは僧侶仏教が変質させた 習俗がそうなのであって、仏教の本質は決して宗教ではない。そう、科学に反しない 新発見の真理のうえに構築された哲学思想なのです。人類が大きな錯覚を冒している ことを見抜いた智慧なのです。どう見抜いたのか。そこをわたしは教えたい。それが 、苦を楽に変える方法に通ずるのです。あとは聞いてのお楽しみ。こんなにも素晴らしい人類最大の叡智を現代の人々は、知りません。僧侶さえ知らな くなってしまった。かつては、唯識、中観(空観)を勉強しなかったなら僧侶にはな れなかったのに、いまではごくわずかな学者を除いて、誰も省みるものがいない。ど うしてそうなったかというと、人間の営みが、科学技術中心、経済優先になり、自然 に反する考え方、生き方をするようになったためです。科学は自然を克服するという 発想がもとになっています。科学から受ける便利性快適性という恩恵と経済優先から 受ける欲望、快楽の充足という満足追求のうら側に、満足が達成できない不満と不安 による苦悩が増大していることに気づかなければならない。自然に暮らしていた時代 に比べて、すべてにおいて異常な事態が進行している。 異常な病気、精神病、不安神経症、心身症、ストレスによる心因性の医薬では治らな い症状の増大、欲望による犯罪や争いの激化、自殺の増加、殺人の増加、自然破壊、 環境汚染、資源の枯渇、異常気象、人口爆発、食糧危機どれをとっても、自然ではな い考え方や生き方の産物で、人類の幸福を目指した科学の発達とは裏腹に、悲劇的な 不幸が増大してしまった。これすなわち反自然の営みがもたらす混迷であって、人類 が直面している危機的状況である。今こそ、科学を上手につかう知恵が要求されている時代はない。世界の反自然の流れ を変えることはできなくても、そのなかで生きていかねばならない自分の生き方、考 え方を自然流に変えて、不安のない充実した人生をすごすことはできる。 現代は、科学中心、経済優先という、考えてみればもっとも自然に反する営みを人類 がしているわけです。「空」は自然の姿(実相)なのですから、反自然の考え方生き 方からは、見えなくなってしまうのも無理はありません。 今こそ、食べ物でもなんでも生活全般が、自然な生き方、自然なものの考え方、見方 による改善を必要とする時代です。たとえば、自然の考え方、自然の生き方をしてい れば、病気などは老化の過程でおこる自然現象であって、もともと本来はないものな のです。私たちは、自然の考え方を持つことによって、不自然生活から起こる病気と 訣別して、死ぬが死ぬ間際までぴんぴんして充実した生をまっとうする生き方をした いものです。一人でも二人でもよいから、わたしの講義を聴いてくれる人がいるならば、旅費など はいらない。手弁当で、どこへでも出かけます。 摂心などという重苦しい修行形式を取り外して、気楽に学べる研修会にしては如何。 また、修行を望む人、望まない人いろんな考えの人がいるので、みんなの要望するか たちにこたえてあげたいと思います。 |