Eric Brian, La mesure de l'Etat:Administrateurs et geometres au XVIIIe siecle, Paris:Albin Michel,1994.について
今日,統計学は国家の経営に欠かせない道具となっている.そして,統計により政治・社会・経済の現実を記述する能力には大きな信頼がおかれている.このような状況が科学的・政治的という観点から正当化されうるような事態は,どういった歴史的経緯において作られたのか.一世代前までなら,このような分野横断的なテーマは自然科学と社会科学(心理学・経済学・社会学など)を隔てるディシプリンの壁に阻まれて充分に扱われずにいた.しかし近年そうした枠にとらわれずに,自然科学・技術のみならず社会科学をも射程にいれた新しい形の科学史研究が現れつつある.『国家の測定--18世紀における政治家と数学者達』という意味のタイトルを冠した本書もその一つであり,18世紀後半のフランスにおける科学と政治の関係性を考察の焦点に据え,制度史的,社会史的,文化史的観点を交えた広い視野での分析により上記の問いに答えていこうとする意欲的な試みの書である.
著者エリック・ブリアンは現在,フランスEHESS(社会科学高等研究院)の助教授,かつ国立人口学研究所(Institut National d'Etudes Demographiques)の準研究員であり,また,科学技術史の研究所として国立自然史博物館(Museum national d'histoire naturelle)に設けられたアレクサンドル・コイレセンター(Centre Alexandre Koyre)の研究員メンバーでもある.彼の基本的な関心は,18世紀から19世紀にかけての社会統計をめぐる科学と政治の関係性,及び,統計が人々にもたらした認識論的変化などにあり,それらを問い直すことから,実証的とみなされていた知のカテゴリーの再点検というM.フーコー以来の問題に取り組もうとしているのである.
では,前置きはこのくらいにして内容を概観してみたい.本書は四部構成をとっているが,それらは全てある一つの歴史的事例を中心に,そこからトピックが派生する形で構成されている.その事例とは,フランスのパリ科学アカデミーによる研究論文集,『王立科学アカデミー研究論文集』(Memoires de l'Academie royale des sciences ) の1783年版から1788年版まで六回に渡って掲載された論文,“王国の人口を知るための試論”(Essai pour connaitre la population du Royaume...)である.
この論文は,役人出身のラ・ミッショディエールが,当時のフランスの地方行政区の長官たちからデータ収集し作成した人口調査の結果をまとめたものであった.だが,それにもかかわらず,掲載された“王国の人口…”に名を連ねたのは,科学アカデミー会員である三名の学者,ディオニス・デュ・セジュール,コンドルセ,ラプラスらであった.彼ら三人が実際に作成したのは,ミッショディエールの労作の冒頭に付けられた数ページの報告文のみであったにもかかわらずである.
何故このようなことが生じたのか?確かに,『王立…論文集』に掲載される論文の著者は原則として科学アカデミー会員である必要があり,その資格のない役人畑のラ・ミッショディエールの論文がそのまま掲載されるわけにはいかなかった.だが,非会員が投稿する論文のための学会誌は別にあり,しかも,デュ・セジュールらの報告文(とミッショディエールの数値データ)が『王立…論文集』に載っているということは,アカデミーの活動による所産として紹介されているということである.従って,これは明らかにアカデミーの規則からすれば非常識なことであった.
そもそも,人口統計や社会調査というもの自体,それまでのアカデミー科学の伝統からすれば異質のものであった.旧来の通念からすればそれはあくまでも,税徴収など地方行政レベルで便宜上行われる機械的な作業か,アマチュアによる知的好奇心の所産であるかのどちらかで,少なくとも正当な科学的知の対象とはみなされていなかったのである.ゆえに,人口統計という異端な内容の論文を,当時のヨーロッパ科学の権威であるアカデミーの論文集に掲載させるためには,上述のような迂回路を使うことが必要だったのである.では,先の三名の会員達はどのような意図からそうしたのか.著者は次のように答える.すなわち,それは「人間の生命に関わる事柄」(例えば人口に死亡率,出生比など)に「確率論計算を応用する研究の例」として載せたのだという.そして,確率論こそが当時発展し続けていた新しい数学,「解析」(analyse)のフロンティアだったのである.従って,と著者は続けるのだが,この論文“王国の人口…”において見て取れるのは,アカデミーの学者達が行政のデータに最新の研究分野を発展させるための研究材料を見出しているといるということと,同時に,行政の側が自ら収集したデータの権威付けとしてアカデミーを利用しているという,学と官の密接な,だがどこかぎこちない分業の構図である.特に“王国の人口…”が,国家が人口について出版した公的な統計シリーズとしては初めてのものだったということを考慮すると,後者の科学による「権威付け」というのは説得力のある解釈であろう.いずれにせよ,これは今までにない事態であった.そして,まさにこの時点より,統計は「科学的」なものとしての正統性を帯びるものとなっていくのであり,その「科学的」な統計により,「人口」など現代の社会を構成する上で欠かせない一連の概念がリアリティーを持つものとして形作られていくのである(なお,本稿では冒頭から「人口」という概念を便宜上,超歴史的に用いてしまっていることをお断りしておく).
だがここで,王政府が何故18世紀も末になってから行政統計に対する知的権威付けを必要としたのか,ということが問題になる.その歴史的背景は次のように説明される.
18世紀以降フランスでは,出版物の数が劇的に増大し,知的で教養のある一般読者の層を広げていた.これら読者層は啓蒙の精神に導かれた「公衆」(public)として,国家の活動や基礎に対し批判的な論議や意見のやりとりを行うことの出来る知的な層に成長し,その論議は王権も無視できないものになっていったのである.従って18世紀後半になると,国家財政収支や人口統計など司法・行政・経済に関する各種データはもはや王権や大臣だけのものということでは収まらず,公衆を形成する開明的知識人の間にまで需要は拡大していた.そして,公衆の批判の的とならぬためには,純粋に行政の観点から見て正統な数値データを示すだけでは不十分であり,公衆の側が要求する合理性の基準を満たす必要があった.そうした事情を背景に,開明的知識人官僚テュルゴによる政治改革(挫折したが)の試み以後,中央集権化と行政の合理化・簡素化,そのための各種行政統計事業整備の必要性が政府の側からも公認されるようになる.そこから,科学的知の政治的有用性を訴えることで立場強化をはかっていた王立科学アカデミーと行政との間に,旧来にない直接的な接点が生まれた.“王国の人口…”は科学と政治のこのような直接的な邂逅の成果が結実した事例だったのである.そして,この科学と政治の遭遇に積極的な役割を演じたのが,テュルゴを精神的師と仰ぐコンドルセであった.彼は科学アカデミーの学者として,数学により統一された社会科学の構想を掲げ,解析により整備されつつあった確率論の応用分野を,社会・政治・経済にまで広げていくことを提唱していた.そこから生まれるべき新しい応用科学は,直接の政治的有用性を持つものとして期待されたのであり,このヴィジョンは彼の死後も少なからぬ影響力をもって19世紀に引き継がれたのであった.
以上,やや長くなったが,本書の中心となる歴史事例について著者が語るところ,すなわち全体を通じて流れている大きな物語とでもいうべきものをまとめてみた.しかし,この「大きな物語」だけで本書の内容を語ったというべきではないだろう.そう筆者が考える理由は,ブリアンのとっているアプローチに由来する.と,いうのも彼は“王国の人口…”をめぐる物語を考察するにあたり,フランス革命前の王政のあり方,テュルゴら政治改革者達をとりまく知的環境,ダランベールを中心とするパリの数学者達の社会,文芸共和国,科学アカデミーの制度内で織りなされる学者達の世界など,幾多もの複雑に絡み合った小社会を対象にする.そして,これら複数の世界をつなぐ導きの糸としてコンドルセの生涯を伝記的に用いるという二重のアプローチを採っているのである.従って本書は,コンドルセの伝記とも,それぞれの小社会を支配する思想や制度に関する歴史記述の集合とも読める側面も有している.「解析」に関する数学の認識論的問題から,科学アカデミーと王権の政治権力関係や行政統計の歴史まで,数学史,社会史,文化史,制度史の多岐にわたるトピックが展開されているのである.だが,これらのサブトピックはさほど掘り下げていないものも多く,今後の論点を軽く提示したというに留まるものも多いといえる.
では最後に,若干の批判的な視点と全体の印象とをまとめておこう.まず第一に,これはブリアン自身も認めていることだが,本書は,今までの歴史研究理論の蓄積を分野横断的に総合しすることに成功しているものの,新しい認識論・方法論を打ち出す出発点となるような書にはなり得ていない.第二に,メインテーマとなる事柄が社会史・政治史・数学史と広範な領域を横断しているため,議論の展開がいささか図式的になったり,細部の整合性がまだ充分に詰められていなかったりするきらいがある.そして第三に,やや具体的な話として,本書の第四部の後半(革命後の科学アカデミーによる統計事業について19世紀前半まで描いている)が,いささか蛇足ではないかという疑問があげられる.ページ数の少なさに不相応な内容の密度から考えても,この部分は本書から独立させてまとめた方が構成上望ましいのではないかと思われる.
とはいえ,今までの各分野の研究成果を斬新な形でドッキングさせ,多種多様な問題意識をかき立ててくれるという点で本書は非常に刺激的であり,全体としては充分な成果をあげているといえよう.英米系の科学史と比べても,フランス史におけるアナール派の社会史・文化史研究の遺産や,ブルデュー的な理論構築を取り入れつつ,「科学史の文化史/社会史的アプローチはどのように行いうるか」という問いを投げかけるなど,フランスEHESS的な知の伝統を感じさせるひと味違った面白さがある.日本では多く紹介がなされているとはいえないEHESSの科学史研究を知る上でも興味深いと思われるので,翻訳が行われることを望む次第である. (隠岐さや香)
1999.3.1作成