日本科学史学会第四十六回年会発表(99年5月於拓殖大学)


パリ王立科学アカデミーとSavantコンドルセ--科学・技術の政治的有用性へのまなざしと道徳・政治諸科学への解析応用プロジェクトをめぐる社会史的考察

<目的>
コンドルセの研究は近年目覚ましい。だが、彼の思想は純粋数学から社会科学への数学の応用、公教育論、政治経済思想など多岐に渡り、その全体を捉えるのは困難である。本発表では、研究の途中報告の形ではあるが、社会数学をはじめとする科学思想のみならず、今まで言及の少なかったコンドルセの技術思想にも焦点をあてることにより、科学アカデミーという制度・環境が彼の思想とどのような関係にあったのかについて一つの見方を提示することを試みる。

<何故科学アカデミーか>
 今まで、コンドルセは革命期以降の政治思想が注目されることが多く、彼がアカデミーで何をしたかについての研究は充分でない。また、科学アカデミー自体の研究も革命直前期の1770-80年代に関してはやや手薄である。
 コンドルセが科学アカデミーに入ったのは1769年であるが、彼の人生においてアカデミーが重要な意味を持ったのは1776年に終身書記の地位についてからと思われる。1776年は彼が片腕となって働いていた政治改革者財務総監テュルゴの失脚の年であり、政治的情熱の行き場を失った年でもあった。
 終身書記とはいわばアカデミーのスポークスマンであり、行政長官のようなものであったと考えればいい。具体的には公式な議事録の作成や活動記録文を残したり、証書にサインをしたりした(フォントネル、ドルトゥース・ド・マラン、グランジャン・ド・フシーらが歴代の終身書記である)。従ってコンドルセはアカデミーにおいて学者としての研究活動を行うとともに、科学のあるべき姿やアカデミーの果たす役割に対して積極的に発言することで、他のアカデミシアンの研究内容のみならず対外的なアカデミーの戦略をある程度左右できる立場にあった。

<背景として--アカデミーの変化--1770年代以降>
 科学アカデミーの名声は18世紀前半ごろに確立し、主に数学や天文学など純粋科学的分野の理論的探求に依拠してきた。しかし世紀後半になると、成長しつつあった産業の要請や金融活動の拡大、中央集権化による行政統計事務の必要性といった外部からのインパクトを受け、実用的な諸領域、とりわけ産業技術や経済・行政統計という、近代の社会を形成する物質的・知的テクノロジーに関わる領域への関心が確実な高まりを見せた。
 アカデミシアンの職業において金融・軍事・法曹関係者が増加しているのもこの傾向を裏付けている。
 (アカデミーにおいてその変化が顕著な形で現れたのは、ダランベールなどとも密接な交流のあった開明的知識人官僚テュルゴの1770年代における政治改革(年表参照)以降のことであった。テュルゴの試み(具体的には夫役の廃止や土地台帳の改正、穀物の国内流通の自由化、工業における宣誓ギルドの廃止:すぐ復活、など)は失敗に終わったが、それ以後、行政・経済・産業・技術全ての面において啓蒙の理性に導かれた科学による改革とアンシアン・レジーム期の「旧弊」の打破という、かつては異端視された方向が正統性を帯びるようになったのである。)

<アカデミーにおけるコンドルセの思想変化 社会数学と技術・実践>
 1780年以前のコンドルセが専ら純粋数学の論文を発表していたのは知られている。だが、近年の研究で早い時期(1760年代)から彼が数学の抽象理論のみに留まらず政治経済や法の問題にも関心を持っていたことは知られている(E.Brassseaux)。しかしそれらの関心から書かれたものは殆ど断片的な手稿に留まり、数学とその応用の問題についてコンドルセの思想は未だ成熟の域に達していなかった。また、彼自身のプライオリティも基本的には純粋数学の理論探究におかれ、関心も哲学的・形而上学的であった。そして、実用や応用のために数学を道具の用に用いる態度に嫌悪感を表明していた。
 変化が現れるのは終身書記になって以来、とりわけ1780年代の確率論の応用をめぐる一連の論文を発表して以降である。レジメの引用(HARS1781sur m士. de Monge)(1)を参照されたい。そこには理論(ここではとりわけ「解析」(analyse))と応用が互いに補完しあい弁証法的な関係を持つという観点が見出される(この視点は晩年まで彼の信念となった)。この「応用」というポイントが1780年代以降のコンドルセ科学思想・哲学を特徴づけるものとなる。
 彼の社会科学への(解析で整備された)確率論の応用プロジェクトを「社会数学」というのだが、コンドルセによれば、人間の精神や社会現象(政治、経済、法、精神もしくは道徳)と社会科学、社会数学の関係は、自然現象と自然諸科学(sciences physiques)、天文学(Astronomie)の関係にほぼ等しい。そして、天文学(天文物理学くらいの感じか)が数理科学により厳密な科学となっているように、社会数学も解析を使用した確率論という数理科学により厳密な学となるのであった。コンドルセの社会数学はラプラスの確率論哲学や後の統計学の発達などに影響を及ぼした。
 だが、以上のような社会科学がカバーしてない領域、すなわち、現在で言うところの技術・工学的分野はどう考えられていたのだろうか。ここで、お配りしたレジメの引用を見ていただきたい。これは1780年代初頭に亡くなった2人のアカデミシアン、Duhamel du Monceau(1700-82)(2)とVaucanson(1709-82)(3)に対するエロージュ(賞辞)からとったものである(2人の説明)。まず、(2)だが、ここでコンドルセは彼の生きている時代(18世紀後半)が「科学を実践に呼び戻す」時代であり「公共の使用のための科学の応用」が本格化した時代であるとの認識をあげている。そして、これら実学的な方向性「公共の効用(utilit)のための科学」を押し進めたDuhamelの業績をr思olutionと表現してもいる。だが同時に、実学志向は周囲の理解を充分に得なかったことや、「少しだけ彼の栄光を損なった」ことが言及され、それを弁護するかのように、Duhamelが理論的探究をおろそかにしなかったことが強調される。そして、Duhamelの関わったような職人や役人における理論への敵意もしくはアカデミーへの軽蔑についても言及される。次に(3)であるが、ここでは機械技師の傾向と機械技師についての一般的なイメージが提示される。機械技師は実践による知識の修得を行うが、一般に理論や法則を軽視する。そして、機械学自体の理論による整備が不十分な状態であるためそれもやむを得ないという。この文から、発表者はコンドルセによる技術・実践に関わる知の分野の把握を図にしてみた。(OHP参照) 発表者は、コンドルセが「機械学の依拠する理論」とするところの「位置の幾何学」(位置解析(Anlysis situs))をいわば社会数学のような位置づけにおいていると考えた。また、コンドルセは他のところで機械技師を実践のみで才能を発揮する職人と同一視するべきでないと言っている。そこからは理論が応用により重要なインスピレーションを受けることは認めるものの、技術自体に自律性を認めてしまわず、理論により出来る限り解明・介入を行おうとの姿勢が透けて見えてくる。(注:図のように、自然諸科学と社会諸科学はコンドルセの思想において意識的にスキーム的な把握がなされているため、図式化が容易である。しかし、技術・実践はまとまった論考が無いため、これらのエロージュや革命期の『人間精神発達の歴史』 『革命議会における教育計画』などから推測せざるを得ない。コンドルセは得意とする分野の関係上、同時代の応用化学のラヴォアジエやベルトレのように技術・実践について深い造詣を持っていなかった。彼が産業技術に抱いていた関心は基本的に現代のイノベーションセオリー的な経済思想的発想、もしくは国家の公共のための技術というテュルゴ的な政治哲学的発想などに基づくものであった)。
 以上の資料はアカデミーの年報に載ったものであり、アカデミーの審査委員会で全て目を通され、承認された書物、すなわちアカデミーを代弁することを許された言説といえるものである。
 さて、今までざっと紹介してきた資料に伺える特徴をあげるとそれは次のようになろう。すなわち、アカデミー内の学者達の間に根強い新しい分野への応用・技術的実践に対する軽蔑とアカデミー外における理論への敵意の双方を配慮しつつ、実学的な応用科学・技術探究にアカデミーが積極的に関わっていくことを鼓舞しようとする姿勢である。だがコンドルセ自身は応用や技術・実践に一定の役割を認めつつも、理論の力を最終的には重視している。くり返し表明されるのは「実学的な応用研究で得られる目先の利益にとらわれることの不毛さ」や「機械技師、職人が理論に無知であることへの懸念」である。そして、他方では抽象的理論探究、とりわけ数学の発展に楽観的な姿勢を維持し続けるのである。これは、ラグランジュらの数学へのペシミスム(1772、1781,oeuvres,t.XIII,p.368)ダランベールへの手紙)と対照性を成す。
 では1780年代にみられるコンドルセ思想の変化・特色と科学アカデミー全体の傾向との関連をどう捉えればいいのだろうか。まず、コンドルセが終身書記になった1776年が彼にとってどういう年であったかを考えたい。それは、テュルゴが失脚し、直接政治改革に携わる夢が断たれた直後であった。この前後に書かれたと思われる手稿の次の一文(4)がコンドルセにとってアカデミーという組織が一般に意味するところを語っている。これによればアカデミーは「政治的秩序における地位を科学者に供与」してくれるものであり、王権に仇成す可能性のある者をも収容し有用に使えるようにする機関である。科学者共同体が行政府や国家と相対的な独立性を保ちつつも、学問の世界に閉じこもらずに社会・政治への関与を積極的に続けるという可能性を与えるものとして「アカデミー」という機関が捉えられているのである。したがって、テュルゴという強力な後ろ盾を失ってアカデミーのスポークスマンという立場に立ったコンドルセが志向した方向性は、社会・政治的秩序における科学者の地位向上を目指しつつ、アカデミーを、象徴的な価値による地位に留まらぬ政権にとって有用で不可欠な諮問機関としていくことだったであろうとの推測が出来る。そのためにコンドルセが積極的に行ったのは、アカデミーに既に備わっていた実学志向を「社会に有用なもの」として奨励しつつ、一方でアカデミーを他と差異化するためことさらに「理論」探究の意義とその蓄積の場としてのアカデミーを強調することであった。いわば学問のオーガナイザーとして科学の全体像や将来のビジョンを提示しようとしたのである。そのために彼は一部ではあるが執拗なまでに繰り返される「公共のための有用性」(utilit publique)と知識人による「啓蒙の光」(Lumi俊e)とがこうして組み合わせられる。
 終身書記という立場から彼が及ぼした影響とアカデミーにおける他のアカデミシアン研究傾向とのはっきりとした因果関係は見出しにくいのだが、現在のところ発表者がみた限りでは1780年代のアカデミーをそれ以前と特徴づけるのは伝統的な分野に還元できない積極的な応用や社会的な関心に基づく「雑多な」領域、すなわち産業技術、統計調査、政治経済、応用化学、公衆衛生に関わるような社会事業などに関連した論文、研究活動報告が激増していることである。(OHP)このように因果関係とまではいわないものの、コンドルセの思想上の変化とアカデミー全体の活動内容の変化にはある種の相互作用性がみられるといえよう。
 だが最後になるが、彼の思い描いたようなものとしてアカデミーが受け入れられたわけではなかったことにも言及しておかねばなるまい。と、いうのも上述したような実用性への関心の拡大は18世紀初頭のニュートン主義的数学理論探究によって名声を獲得したアカデミーのアイデンティティをぼやけさせるものと人々の目には映った一方で、コンドルセが主張し続けたような理論的探究の重要性とその質の保持のための少数エリートによるアカデミーというあり方は人々、とりわけ成長しつつあった知識人層にとって、アカデミーによる知の独占批判を誘発する要素となっていったからである。


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