書評(『科学史研究』掲載予定) イアン・ハッキング『偶然を飼いならす』木鐸社,1999年5月,xii+354頁,4500円,ISBN4-8332-2274-4.(原著,Ian Hacking,The Taming of Chance,Cambridge University Press,1990).
20世紀の物理学は世界に対する概念を塗り替えた.量子力学を皮切りに「世界は決定論的なものでない」ことが発見されたのである.しかし,実はこの転換に先駆け,「この世界は確かに秩序だっているが普遍的な自然法則に従っているのではない」という考えが19世紀を通じて浸透していったことを見のがしてはならない.その「秩序」とは今日の我々が「統計学的法則」と呼ぶ類いのものであり,広く「偶然」(chance)の作用する現象が対象となる.すなわち,20世紀の発見以前に決定論は「偶然」により侵食されていたのだ.その緩やかな転換の背景には、人間や習俗など国家の全てが統計的「数え上げ」の対象になるという「社会の統計化」があった。
著者イアン・ハッキングによる本書の目的は,この「社会の統計化」と「決定論の侵食」という二つの転換の関連性を探ろうとするものである.ここで注意せねばならないのは,「決定論の浸食」が無秩序や無知の産物ではなく逆説的にも社会の制御・管理能力を飛躍的に増大させた「統計化」の帰結であるということ,すなわち非決定論が優勢になるほど人間の制御可能性が高まっていくというパラドックスである.
ハッキングは1936年生まれのカナダ出身の科学史・科学哲学研究者である.言語の哲学から心理学的問題,科学論まで多岐にわたる著作の中で,本書は1975年の著作The Emergence of Probability(Cambridge University Press)の後編ともいえる位置づけのにある.Emergenceが17世紀における確率論の出現を描いているのに対し,本書は18世紀から19世紀末までのいわば「その後」を描いているのである.
では冒頭に引き続き本書の展開を概観してみよう.最初の舞台は啓蒙の時代である.
18世紀以前「偶然」は無知な大衆の迷信じみた観念であり,啓蒙された人々の思考からは除外されるべきものであった.これに対して,啓蒙の知識人が非理性的な妄信ではなく合理的な判断をするために用いた理性の計算,それが確率であった.そして人間が確率論を用いるのは背後にある決定論的な法則に人間が無知であるからとされた.すなわち,依然として世界は普遍的法則と因果関係による事象の継起という決定論モデルで記述されるべきものだったのである.
他方で,啓蒙の時代は「数え上げること」への官僚・民間アマチュアの双方における情熱を用意した.しかし,国家側は決して集めた数値を公表することはなかった.それが1820年代を境に転換期を迎える.すなわち,ナポレオン後,本格的な国民国家編成期を迎えたヨーロッパ諸国は,次々と統計局を設置し数字データを公表しはじめるのである.このような「印刷された数字の洪水」により大規模なデータから規則性を見い出そうとする試みが可能になった.しかし,統計学的法則が存在するという認識がすぐに生まれたわけではなかった.まず,東欧世界では個人をベースとする統計データから導出される法則という概念事態が発達しなかった.個人が国家を作るのではなく国家が個人を作るという全体主義的な社会観があったからである.従って統計学的法則は西欧,とりわけフランスとイギリスを舞台に発展していった.社会をニュートン力学的な決定論的法則と確率論により説明しようとする道徳科学(moral science)の伝統と「印刷された数字の洪水」の双方が西欧には揃っていたからである.英仏では社会的逸脱(自殺,犯罪)や疾病,人間の属性など統治に関連の深い統計データが多く集められ,1830年代になると様々な事柄において規則性が見い出されるようになる.
1835年にはフランスの数学者ポアソンが社会の出来事の中に統計学的安定性がいかなる形で存在するかを説明する法則として「大数の法則」という用語をつくり出し,極限定理を証明して確率論の社会事象への応用の合理性を示した.1844年にはベルギーの天文学者ケトレが人間の特性や行動の経験的分布が正規曲線(ベルカーブ)を描くという「法則」を見い出した.社会工学的関心を強く持っていた彼はそこから「平均人」という概念を生み,正規曲線を構成する母集団が目指すべき模範として実体化させた.ただ,彼の発見した正規曲線の「法則」は複数の決定論的な原因が個々の標本に働いていることを前提とするという意味で真に決定論から自律性を獲得した統計学的法則とはいえないものであった.しかしケトレの「法則」は統計学的宿命論という問題を引き起こし内外で多くの反発を招いた.すなわち,社会現象が正規曲線に従うとしたら社会に常に一定数の自殺者が出るのをなくすことは出来ないことになり,人間の自由意志の否定につながるとされたのである.政治的,認識論的,様々な立場の反発があり,ル・プレなどケトレとは全く違う定量化形式による社会科学の試みや,「社会学」の祖コントによる統計学的概念化を拒否した有機的社会観などが提示された.
だが,後の世代はこうした反統計的な立場からの業績をも次々と取り込み,情報の増加と統制をすすめるための統計機構を発展させていく.「偶然の飼いならし」は着々と進行したのである.例えば「社会学」者のデュルケムは統計学的手法を自身の研究に用い独自の理論を生み出した.彼は「正常な状態」からの「偏差」が社会の病理状態の指標であるとしたのだが,その際に根底にある個別の因果性により統計学的法則を説明することを避けた.社会現象に見られる偏差は個人からは独立した社会的法則と社会的諸力により支配されているとしたのである.そしてゴルトンに至って,統計学的推論は他の因果的原因に準拠する必要無く説明力を持ちうるのだという主張が展開されるようになった.ここにおいて統計学法則は「決定論」からの本格的な自律性を獲得したのである.「偶然」は統計学的法則をそこに見い出すための素材として十分に飼いならされたのだ.その結果,現象を予測しかつ説明することが可能とされた統計学は社会の管理のみならず,権力行使の際の意思決定に重要な影響を及ぼすことになっていくのである.本書では例として世紀末の反ユダヤ人主義における統計の用いられ方が取り上げられている.
そして,全体を締めくくる形で19世紀後半のイギリスの思想家でプラグマティズムの始祖として有名なC.S.パースの世界観--偶然に満ちた宇宙--が提示される.本書におけるパースの役割は「偶然の飼いならし」「決定論の侵食」の結果生じた出来事の目撃者としてのものである.そこでは,パースが必然性の教義を徹底的に否定したこと,統計的安定性の基礎の上に機能的推論の論理や,全くの無作為(ランダム)から成る宇宙像を構想出来たことが述べられる.決定論の廃棄と社会の統計化の間の関係性および両者の人々への浸透という歴史的背景とがパースの思想には実に明確に見出せるのである.
さて,本書のテーマは,カテゴリー化(階級など)や人間像の定義(例えばIQと天才の関係)など統計学により我々のリアリティが構築されてしまうという問題や,科学的推論のスタイル全体に確率論が及ぼした影響といった大きなトピックにつながっていく.ハッキング自身はそれらに深入りしない立場を取ると宣言しているが,プロイセンのアマチュア統計家の話から偶然を扱ったマラルメの詩やニーチェの思想までもが所狭しと展開されるような本書の莫大な情報量はそれらトピックに添わせた別の編集も可能であったのではないかと思わせるものがある.
また,最後のパースを扱った章を付録的な要素として読むか,全体を統括する要として読むかにより,本書の捉え方は変わってくるであろう.すなわちいささか極端な表現を用いれば,統計学の社会工学的・人間管理的側面の由来をミシェル・フーコー的な方法論でもって追求しようとする科学思想史書とも,パースの「偶然の宇宙」という世界像の由来とその行く末に関する認識論的・哲学的関心に導かれた書とも捉えうるのである.書評子は,ハッキングが冒頭の辞で「博物誌的」と本書を表した理由がここにあるように思う.すなわち,一つの読みを強要するような直線的な情報の配置・主題の絞り込みにこだわるよりは,樹形図的に複数の通り道,解釈を残すような記述を意図的に選択したのではないか.
翻訳についていえば,統計学のテクニカルな内容を踏まえた議論から政治史・科学史や思想・哲学的内容に至るまで,非常に広範な領域を踏破する本書を,二人の訳者が各々得意な専門分野を生かしつつ仕上げる体制から出来上がった翻訳は質が高いものである.また,原著にはないメリットとして注が本の末尾ではなく章末についていることや,訳注として本文中の統計数式や思想的内容に関わる項目について若干の解説がつけられていることなどの細かい工夫があげられる.
最後に蛇足ではあるが訳で気になった点を若干指摘させていただく.まず,9頁の下から8行目,「(f)遺伝学的進化」とあるのは「発生的進化」などの訳の方が望ましいのではないか.また,60頁下から5行目の「コンドルセの死のわずか二年前」は「二年後」の間違いである.(隠岐さや香)