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NHKスペシャル「敗戦、その時日本人は」
1998年8月15日(土) 19:30〜22:30 NHK総合

 暑さのせいで疲れがたまっていたのか、土曜日は夜の8時ちかくまで18時間に亘って爆睡してしまった。目覚めて何の気無しにTVのスウィッチをONにすると、ちょうど「NHKスペシャル」をやっていた。
 明確に「戦後53年を経て、社会の仕組みが変わろうとしている」ことを述べていて、好感を持てた。
 第一部でカメラの「NIKON」の技術者を例にとり、「軍需」から「民需」への転換の中で、どんなことが日本人に問われていったのかを掘り下げ、第二部で「敗戦」から「復興」を走り抜けてきた「著名人」に、その過程を振り返らせ、いま日本人に問われることをクローズアップしていたのだが、わけても、瀬戸内寂聴さんの「モノに拘泥した日本人」批判と、中坊公平さんの「パブリックという言葉の意味を知らぬ日本人」批判には、全く同感とするところが多々あった。
第二部でこのふたりが語った内容を、第一部に普遍させると、基調的に「官」の時代は完全に終焉したというメッセージがあったように感じる。
 瀬戸内さんも中坊さんも、若かりし頃に個に埋没した人であった。ある日現実のなかで壁にぶつかり疑問を感じ、それぞれ自らを作り変えていったひとたちだ。自身の存在さえ揺るがしかねないほどの自省が、おおきな公共性をもたらしたのではないか。翻って、日本国の経済企画庁長官は、その論はユニークであり、あえて否定的な見解をここで述べるほどではないが、残念ながら「市井」にあったとは思えない。つくづく「市井」の感覚とは「皮膚」の感覚と同義語なのだと感ずる。
 しかしながら、かねてから私が誰彼無く一読を薦めている「日本語の外へ」(片岡義男著、筑摩書房刊)で、片岡さんが筆を尽くした内容はまったくもって正鵠を射た論であることを実感した。瀬戸内さんや中坊さんが提起する内容を網羅しつつ、より根源的な問いかけを最高の日本語技術を使って投げかけている。擦り切れるまでページを繰ってみては。
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