2000年になって阪神淡路大震災から5年経ちました。
私が体験したことを時系列に記してみることで何か教訓があればいいのですが。
2000/01/17

自宅のこと(阪神大震災の被災地より1995〜1996年?)


1995年1月17日--自宅にて被災する。

1Fには両親、2Fには私一人、庭に猫3匹が 同居人。 私の部屋には6畳にデスクトップ、プリンター、ディスプレイを 縦においてあった。 寝室では左にある押し入れにそって寝ていた。 頭の左上(約2Mの高さ)に小物をいれる場所がある。左右に開いた 扉の中から重さ10kg近くあるであろう分厚いこたつ板が飛び出てきた。 幸い頭をかすめて右側に落ちてきた。それが顔面をカバーするようにおおい かぶさり頭の右側(約右横1・5M)にあるパソコン一式が崩れてきたのを 跳ね返してくれた。

足元には21型のTVが正面を向いてTV台に置かれていた。それが足首から 膝の部分に上に落ちてきたが、部屋が狭いため部屋の角に物干し竿を吊していた 冬の分厚い多数の衣類が先に落ちてきたのでクッションになってくれた。
上半身と下半身には重さを感じて目を覚めたぐらいで無傷ですんだのは 今から考えると奇跡に近い。
早朝だったこともあり頭がぼんやりしていたがとっさに体を冷やしてはいけ ないと思いパジャマの上から服を着た。そして、ガラスの破片で足を怪我しな いようにとスリッパを探してはいた。

後で気が付いたが、寝室の天井から下がっていた照明器具が隣の部屋まで ぶっ飛んでいた。根元のプラスチックでできた固定部分が割れるほどの 揺れだったのだ。

部屋を出て廊下を渡ろうとするとやはりガラス戸が割れて傾いていた。 気をつけて横にどけながら階段まで到着。 玄関に降りていき、ビジネスシューズまたは運動靴をはいた。

1Fの居間は真っ暗、当然照明器具も下に落ちていて明かりはつけれない。 前にすすもうにも暗やみの中にモノが山のようになっているのでなかなか 進めない。やっとのことで寝室に辿り着き、ドアを引っ張って開けようと したが何かが邪魔して開けることができない。両親の安否を確認するために声をかけ ると返事があった。怪我はしてないらしい。何とかドアを開け両親が出てきた。

外に出てみると近所の人が着のみ着のままでポツポツと出てきた。 薄暗い中で何が起こったのかよく理解できなかった。 下から見ると我が家の北側(上)にある裏の長屋が大きく割れていたり 長屋の横についてあった鉄製階段がはずれて道(階段状)の上にころがっていた。 それを近所の人と協力して横に置くことで道を人の通れるようにした。

そうこうしていると明るくなってきた。居間に戻ってTVを付けてみると 地震のニュースが報道されていたがたいした被害ではないようだ。 窓から外を見ると煙が見えたので気になって火事現場に向かった。

電車路線の南側がケミカルシューズ工場の密集している地域だ。 そこまで歩いていくまでに見た光景にも驚かされた。 まず道路が潰れていた。アスファルトがめくれあがりブロック塀が道路に 向かって倒れている。これでは車はおろか歩行するにも危ないじゃないか。

そして、コンクリートの家屋・建物はしっかりと建っていたが木造家屋 は全く現状をとどめずに破壊されていた。まさに泥壁と木材の山になっていた のはショックだった。

自動販売機があったので持ち金で買えるだけ買った。災害状況下では水気を 確保しないといけないからだ。

現場に着くとそこは三方が破壊された家屋で囲まれた逃げ場のないところに なっていた。向こうのほうから火が向かってくるように感じたが狭い道路 でなおかつモノが散乱しているので消防車など入ってくることはできない。 水も出ないようだしなすすべが無いというのが実際である。 水が無いので消防活動よりも家屋の生き埋めになっている人を助け出そうと老いも若きも 必死になっている。目の前で鳶職のかっこうをした若いおにいちゃん数名が 瓦礫の下から老人を助け出した。頭から血を流しているがたいしたことない ようだった。

自宅に戻って居間の照明器具を取り付け直し、部屋の中を見渡すと棚の中に ある置物などが床に落ちて散乱していた。北側の壁を見ると壁の下部がはずれ たようになっていて5cmぐらいのすき間から外が見えている。 ちょうどのれんが風にゆれたような形であった。横壁にはガス栓があった のでガス漏れの危険性も否定は出来なかったが、冷たいすきま風は 考え用によっては換気の役目を果たしてくれたかもしれない。

TVをつけると地震のニュースばかりだ。時間が経つにつれ被害の大きさを 伝える報道になっていく。

母が気が付いたのだが「おばあちゃんは大丈夫かな?」と、はっとした。 5分ほど離れた隣町に住んでいて、たまたま当時は叔父夫婦(祖母の息子) が旅行に出かけてて一人だった。父と私が急いで祖母の家に向かったが 道路が塞がれた状態でいつもの道路と比べて遠回りして行かなければならなかった。

家に着くと外壁の門戸は閉められたままなので外から呼び掛けたが反応はなし。 門戸を飛び越えて中から開けた。玄関は潰れていてそのまま奥の寝室まで気を つけながら歩いていった。祖母はたんすが倒れてきたものの、たんすの引き出し 一つが中途半端に飛び出してそれがつっかえ棒のような形になり助かったらしい。 祖母は私の姿を見て「部屋の中で靴をはいたら汚れる!」などと怒っていたが そんなゆうちょなことは言ってられない。押し入れを開ければ壁が潰れていて 外が丸見えだし、台所はぼろぼろで中に入れないし、壁も崩れかけていて 非常に危険な状態だ。家から出ようとした際にも部屋の中壁がボロッと落ちてきた。 もともと建築約90年の木造のぼろ家なんだから仕方が無い。 寒いから、と祖母はホッカロンをいくつも抱えて家を出た。 隣の家は頑丈に建てられており緊急避難させてもらった。 その他の近所の老人も同じようにこの家で一時避難していた。


午後----

このままでは自宅にいるのは余震で危険だし、水道も使えないということは トイレも風呂も使えないということなので避難場所を考えた。 しっかりした大きな建物で公共の建物を思い浮かべると近くにある学校 に気が付いた。昼前に南側に位置する小学校に出向くとそこは人だらけだった。 すでに廊下まで占領されていた。ふとん持参で雑魚寝状態である。
そこで急いで北側の小学校に行ってみるとまだ空き教室があった。3Fの教室 に勝手に入り込んで寝泊まりすることに決めた。すきまから入ってくる冷たい風 が苦痛であったがそんな贅沢は言ってられない。両親を呼ぶことにした。 数名の知らない方もこの教室に入ってこられた。


1月18日--小学校に避難

このままどうなるものかと不安げになりつつ教室にいるとまた何名か入ってきた。 階下に降りてみると人でいっぱいだ。老人はこんな3Fまでのぼれないから1F にいるんだろうな。
家に戻って食料や水を確保しようとしたが何にもない。 入ることの出来なかった南側の小学校に様子を見に行くと毛布などが支給されていた。 少ない食料も配給されていたようだ。学校によってずいぶん対応が違うんだな と思った。


1月19日--クルーザーで祖母を救出

学校から毛布とサンドイッチ2切れが配給された。水は配水車がまわってくるので それを見つけて並ぶのである。配水車はいつごろからまわって来たのか記憶が 定かでないが他府県の配水車であったことは覚えている。
このころ確か小学校の2Fに祖母がいることを知った。 祖母の親戚にあたる若い夫婦がクルーザーで大阪からやってきた。ニュースで 交通機関が不能になり道路が使い物にならないと聞いたからだそうだ。 長田港か兵庫港に到着後祖母が足の悪いことを知っているので車椅子を 押してきた。道路が無茶苦茶なので車椅子を押すのが大変だった、と言っていた。 そのまま祖母は車椅子に乗って行ったのかどうかは分からないがとにかく クルーザーで大阪に脱出したのであった。

学校のトイレは水が使えないので流せない。汚物が溜っているので使えない。 仮設トイレが設置されたが数が少なすぎる。これは大きな問題だな。


1月20日--食料を分けてもらう

配水車に並んでいる時間はかなりの長時間であった。 その時ちょうど後方から名前を呼ばれたので振り向くと会社の上司であった。 神戸市に住んでいる方でバイクにのっておにぎりを運んできてくれたので あった。会社に連絡するにも公衆電話が潰れていたり長蛇の列なので 連絡しなかったわけである。

偶然にも同じ教室に同級生の家族の方がいた。その親戚の方が加古川でコンビニ 経営をしているので大量の食料をもってきて下さった。それでこの教室内に 避難している人々は飢えをしのげた。もちろん無料でわけてもらった。 ありがたいことだ。ところで、教室内はもはや足の踏み場もないぐらい多くの人 が入ってきた。外気の冷たさも加え、風邪をひいた人が入ってきたがそのような 劣悪な環境の中でウイルスは猛威を奮った。私も高熱にうなされ39度まで 体温があがった。このままでは死んでしまうかもしれないと死の恐怖がよぎった。


1月21日--能勢に疎開

旅行を終えた叔父さん夫婦が戻ってきた。私は叔父さんたちと行動を供にする ことに決めた。というのは川西の能勢にある叔母さんの兄弟のもとに避難する ことになったからだ。私の勤務先は大阪だったので通勤できると考えた結果で ある。熱は38ー39度のままだがこのままここにいては医療も受けられない のでワゴン車で迎えに来てくれた能勢のおじさんの車に叔父さん夫婦と同乗 して神戸脱出を試みた。そのころちょうど福岡の弟が来ていたので母親を 福岡の自宅まで連れて行った後だった。

父は隣町の伯父さん(父の兄)の家で避難生活することにした。 もはや一家離散状態であるがこうするしかしかたなかった。 我が家の猫ちゃんたちはどうしているのだろうか。 この時点で3匹のうち1匹しか確認できなかった。 それでも父は毎日猫ちゃんに食事を与えるために自宅にもどって猫缶を 開けることが仕事の一部になっていた。


1月下旬--文化住宅を借りた

能勢で暖かくむかえられた私達3名(私+叔父さん夫婦)は迷惑をかけないように とおとなしく生活をはじめた。同じ部屋で3名が暮らしていたが文化住宅を 経営されていたので2月から住めるように頼み込んだ。

会社には風邪がまだ直ってないことを理由に休暇を取り続けていた。 会社からは被災グッズともいうべきバッグが届いたが特にそれを使うことは なかった。


2月--携帯電話購入

出社は1月下旬からになった。能勢から大阪まで少ない本数の電車に乗って 通勤することにした。こちらに住んでからというもの世話になりっぱなし なので休日はまき割りを手伝うことにした。風呂は薪で炊いているのである。 文化住宅には家賃2万円で貸してもらい、携帯電話をこの叔父さんのお店で 購入した。家族と連絡を取るために携帯電話は必需品であった。

食事とお風呂は隣のおじさんの家で世話になっているので夜8時までには 帰宅することにした。そのためには会社を6時半にでると約1時間半の通勤 時間なのでちょうど8時頃に帰宅できるわけである。

被災後最初に会社に出ると仕事の山だった。地震対応の人員をまわしたために 日常業務そのものが止まった状態であった。いびつな人員構成は仕事量をも 不公平にしたものになっていたと思う。一般論になるが大阪の人にはやはり 他人事に思えたのかも知れない。温度差を感じる日々であった。


3月--父がダウン

休日になると大阪や神戸に出かけるようになった。 神戸にいる父親が風邪でダウンしているとの知らせを受け会いに行った。 日曜日だったが様態がかなり悪化しているように見受けられたので急患として 緊急病院まで自転車の後ろに乗せて運んだ。自分で「このままでは肺炎になる かもしれん。」と言いながら仕事を休もうとはしなかった。父はその頃、旅行 会社に勤務しており、顧問にもかかわらず人手不足なのでバス運行の警備を するようになった。長蛇の列を事故の無いように管理するのであった。 待ちくたびれたお客からは文句を言われ、寒空の下での仕事は60才を越えた 体にはきつかったようだ。雨の中でも立ったままの仕事は簡単に風邪を引く 環境なのである。社会に対する責任感からそこまでやったのだ。

猫ちゃんも、1匹目は被災後3日目に出てきて、10日後に2匹目は姿を現 していたがもう1匹がまだ見つからないでいた。だが2か月たったある日 ひょこり現れた。よかった地震を生き延びたんだ。


4月--両親も神戸に戻る

やっと4月にはいってから両親と私は神戸のぼろぼろになった自宅に戻った。 家族揃っての日々をすごした。 自宅を補修すればなんとかこの家でも過ごせるんじゃないかと思いはじめた。 それにはどこから手を付けるべきか難しい問題だ。


5月のゴールデンウィーク--2次災害

それは金曜日の豪雨の日だった。私が出社していると自宅から電話が入ってきた。 家が崩れた、っと。驚いて急いで帰宅した。ちょうど裏の長屋が雨を吸い込んで 崩れてきたのである。震災で長屋は真っ二つに割れたような形になりそのまま 放置していたのである。再三長屋の持ち主にはこちらに傾いているで余震があっ たら危険だから何とかしてほしいと申し入れていたが対処しなかった。

せめて屋根にカバーでもかぶせていれば雨を吸い込むことはなかっただろうに。 両親の話によればガラガラと何かが落ちる音がしたので危険を感じて外に出た とたんに轟音と供に長屋が我が家に崩れ落ちてきたらしい。我が家はそれでも 押し潰れなかったが燐家は完全にどろ山の中に埋もれてしまった。 我が家も燐家も幸いにしてけが人が出なくて何よりであった。

しかし、この日は急遽ビジネスホテルで家族で1泊し翌日には自宅にある 衣服類を持って小学校に入った。当初、避難した小学校に逆戻りである。 多くの被災者は小学校から仮設住宅に移り変わりつつある中でこの時期に 避難生活を再会させなければならないのは悔しかった。小学校から父と私は 通勤する羽目になった。毎朝5時半に食事が配給されるので教室の誰かが 人数分まとめて箱に入れて運ぶのである。夜は8寺を過ぎればもう真っ暗で ある。大阪の事務所から戻ってくると大概真っ暗になっている教室で配給された 弁当を寝ている人の中で食事するのである。風呂は9時まで開いているグランド に設置した臨時風呂を利用した。

プライバシーも全く無く教室の床の上に薄い発泡スチロールをひいてそれを 畳代わりにしていた。しかし、結構満足もしていた。同じ教室の中にいる 人たちが言い人ばかりなので私はストレスを感じなかったのだ。食事もあるし テレビも見れるし、良いところだと思った。


8月ごろ--仮設住宅へ

仮設住宅が当たりそこに住むことになった。 三宮で開かれた抽選会には大勢の人が押し寄せていた。抽選発表は避難している 学校のグランドに張り出されるのでそれを見ては悲喜こもごもだった。
抽選会では希望のところがほとんど残って無く、偶然目に付いた空き部屋を 指定したのだがそれが小束山仮設住宅であった。場所は学園都市からバスに 10分ほど乗ったところにある。横には草の手入れをしていない広い場所が あるので空気が良いし眺めがいい。天気の良い日は鳥がさえずり、これは別荘 だなと思ったくらいだ。部屋は2部屋設けられており小さな台所と風呂もある。 隣の部屋の物音が聞こえすぎるのが難点だな。それとバスが1時間に2本ぐら いしかないのはちょと不便。でも、他の仮設住宅のよりは恵まれているだろう。

一番重要なのは一緒にくらす人々とうまくやっていけるか、ということである。 幸いにしてきっちりとした方ばかりだったので私がいた棟はうまくいっていたよ うだ。仮設住宅には10棟もありそれぞれ10部屋あるので全体で100家庭 いることになる。格棟で班を結成して自治会が運営される。
ふれあい集会所を仮設住宅の外れに設けてそこで会議や催しものが開かれる。 輪番制にして誰でもが休憩できるお茶飲み場として機能していた。


1996年--家屋再建へ

我が家をどうするのか・・・どうやって再建するのか・・・
そのことで父が役所に何度も出向いたり大工さんと話を重ねた。 融資は私が借りるしかなかった。退職した父が銀行融資を受けられるはず もなく仕事を持っている私がいたから融資を受けることが出来た。


被災した方は年金暮らしのお年よりも大勢いいた。安い家賃で暮らしていた 借家が崩壊し、仮設住宅に入ったものの元の場所に戻れ無い人がいかに多い ことか。町にはマンションとプレハブ住宅が乱立した。駐車場も増えた。 これが物語るように低所得者層が戻ることはなかったのである。 行き場の無い方は結局公的住宅にはいったんだろうな。

コミュニティは短期間で築き上げられるものではない。 それは長年培われてきたものである。被災者が同じ場所に戻る、との意味 はそれまでのコミュニティを存続させるということである。
近所の人との何気ない会話の中に知恵や人情が折り込まれている。これこそが 現代の町が失いかけているとても大事なものなんだろうと思う。
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