はじめに
四世紀初頭のディオクレティアヌスの大迫害の中から生まれてきたドナティズムは、その後勢力を拡大し一大異端運動となるにいたり、特にアフリカにおいてはディオクレティアヌス以降ユリアヌス帝の治世であった数年を除き弾圧が繰り返されてきたにも関わらずカトリックをしのぐ多数派を形成することとなった。ドナティストのこの様な伸長の理由はもちろん様々な側面で論議が行われてきているが、そのひとつとしてドナティズムと北アフリカの現住民族であるムーア人との結びつきを重視し、ドナティズム運動が民衆の抵抗運動と融合した故にその勢力を保ち得たとする見方がある。つまりディオクレティアヌスやコンスタンティヌスらによる再編成で専制国家としての要素を持ちうる様になった末期ローマ帝国においては、軍制や官僚制の整備に伴う徴税、徴兵制の強化、それによる社会の階級分化、特に北アフリカで顕著であった大土地所有者の収奪など体制に抑圧される民衆が、同じく帝国の公認を得て体制に与するようになったカトリックの弾圧を受けるドナティストと結びつくようになっていったのではないかという見方である。
この階級分化の観点からドナティズムの問題を考えるにあたり、北アフリカ内の地域間の経済的な格差が浮き上がってくる。当時の北アフリカをこの格差によって二分すると、北部つまりアフリカ・プロコンスラリス、北ヌミディアと言った早くからカルタゴなどフェニキア人の影響を受け都市化が進み、ローマの支配下に入って後はその肥沃な土地から生まれる産物をイタリアに輸出し豊かな生活を享受していた地域。南ヌミディア、マウレタニアと言った土地は痩せ、従って農業より遊牧が盛んで都市化は進んでおらず人口も少ない地域という二つに大別できる。前者は降水量が多い、肥沃な土壌と言う条件も相まってカルタゴの支配を受けていた時期より小麦、ブドウと言った主要な商品作物の栽培が盛んであり、ローマの支配下に入って後はラティフンディアの伸長による農業生産の増加、そしてそれによる商品作物の輸出により多くの富を楽しむことが出来たのである。それに引き替え後者は降水量も少なくまたその結果である広大な塩分を含む土壌と言った悪条件もあって、オリーブなど比較的痩せた土地でも育つものを除き農業は盛んではなく、またその零細な農業も北部やローマからの移住者の手にありこの地域の多くを占める原住民つまりムーア人は遊牧生活に従事していたのである。民族的にもこの地域は著しい対照を示している。アフリカ・プロコンスラリスや北ヌミディアでは早くからフェニキア人が都市を単位とした社会を作り上げ、その後ローマの支配下にはいるとほぼ全域にわたりイタリアからやってきたローマ人が定住したのに対し、南ヌミディアやマウレタニアでは土地が痩せていたこともありフェニキア人の移住も少なく、ローマ人の移住も軍の駐屯した要所の周辺以外には余り広がらず、以前より遊牧生活を営んでいたムーア人が大多数であった。また詳細は後述するがローマ文化の浸透と言う点に関しても南部、特にムーア人の間では北部のそれと比べ余り広く受け入れられることがなかったとされている。
またドナティストの分布という点においてもこの両地域は大きな差異を見せている。アフリカ・プロコンスラリスや北ヌミディアではドナティスト教会の勢力はカトリックのそれに及ばない一方、南ヌミディアやマウレタニアと言った比較的ローマの影響を受けていない地域ではカトリック教会の勢力を大きく凌駕しているのである。フェニキア人、ローマ人とムーア人の民族的分布、カトリック教会とドナティスト教会の分布。この二つの分布図はほぼ同じ様な様相を示す。これは一体何を意味するのであろうか。当時のカトリックは上述したようにコンスタンティヌス大帝の公認後、帝国に追随するような方向を取るようになっていったのは周知の事実である。その一方ドナティスト教会は事ある毎にローマ帝国からの弾圧の憂き目を受け、またポジティブな面ではドナティズムと関係が深いとされるキルクムケリオーネス運動に代表される反ローマ、反カトリック運動を広く展開しているのである。反ローマ、反カトリック色の強いドナティズムが南ヌミディアにおいて広く受け入れられたこと。これはローマの文化を受け入れることを頑なに拒み、貧しい生活に甘んじるムーア人の間に、豊かな北部への羨望といった反ローマ的な感情があったとみてもよいであろう。それでは果たしてムーア人にとってドナティズムと反ローマ感情の間にはどの程度相関性があったのであろうか。
さてこの問題を考えるにあたり興味深い事件として二つのムーア人による反乱が挙げられる。この二つの反乱、つまり372年のフィルムスの反乱及び397年に起きたギルドの反乱であるが、この両者はドナティストとの関連を強く持つなど共通点が多い一方、それぞれ辿った経過は大いに異なっている。詳細は後の章に譲るが、まず共通点としてこれらの反乱の指導者であるフィルムス、ギルドは義理ではあったが兄弟であり、反乱時にはそれぞれムーア人を束ねる立場にあったこと。またそれぞれの反乱時に穏健派、急進派に分裂していたドナティストに対し両者とも急進派を援助、穏健派及びカトリックへの弾圧を助ける見返りに、ローマ派遣軍の侵攻に対してはドナティスト急進派の援助を受けていたということがある。一方相違点としては反乱の持続性の差違が挙げられる。フィルムスの反乱は彼がローマに反旗を翻して後三年間、ローマからの派遣軍の来寇に対し数度の戦闘に破れながらも、拠点を転々としながら抵抗を続けたのに対し、ギルドの反乱は彼が西帝国から東帝国へ変節し、その状況を危惧した西帝国から討伐軍が送られてくると、一度の戦闘で軍は四散しギルドは虜囚の身となりその後最期を遂げたのである。これらのことは南ヌミディアにおけるドナティストとムーア人との関係の一端を示してはいないだろうか。
往年の研究においてこの二つの反乱に対しては三様の見方が存在する。まず両者ともそれぞれ三年、半年と言った短期間に終焉したことに注目し、両者にドナティストが協力したのは自派内分離派の鎮圧が目的であり両反乱の民族性は薄いとするもの。フィルムスが三年とはいえムーア人諸部族の庇護を受けながら粘り強く抵抗を続けた点に着目し、鎧袖一触の体で破れ去ったギルドとは違いフィルムスの反乱が民衆の支持を受けていたとする説。キルクムケリオーネスが下層階級の上昇志向の発露とする立場から、キルクムケリオーネスの支持を受けた両反乱とも民族反乱であったとする見方の三つである。
かかる反乱への評価の不一致は、もちろん現存史料が少ないということもあるが、アウグスティヌスらカトリック護教家、ドナティスト、異教側の著作の間に見られる様々な差違に由来するとまず考えて良いだろう。もちろん周知の通り、これらの記述は書いた人々の意見や立場を反映したものであり、ありのままの事実を書いたものではない。特に本稿がその大部分を負うアウグスティヌスの史料に関しては、彼のドナティストを糾弾する態度からも、どの程度の信憑性がおけるのかが問題となってこよう。よって本稿では以上のことを踏まえこの二つの反乱に言及したカトリック、ドナティスト、異教側の三者の記述を対比しながら、ムーア人のローマ観、ドナティズムとムーア人の関係を追うことにより、当時のムーア人のドナティズムと反ローマ感情との間で揺れる心情の一端を探ることが出来ればと思う。
II フィルムスの反乱
まずはじめにフィルムスの反乱が如何なるものであったかを見ていきたいと思う。フィルムスの反乱については同時代の歴史家アンミアーヌス・マルケリッヌス及び少し下ったアウグスティヌスに詳しく、彼らの記述からこの反乱を再構成していきたいと思う。
ユリアヌス帝の治世にアフリカ総督となったロマーヌスは帝の死後も宮廷内の実力者レミギウスと血縁関係を持ち、それを背景に任地において職権を乱用し搾取の限りを尽くしていた。そして数度の反乱を招くもレミギウスの助力でその権力を実に十年近く保ったのである。彼の宗教政策であるが、ユリアヌス帝の死後ウァレンティニアーヌス帝に慮ってか、配下の軍を使い積極的にドナティスト弾圧に回っている。その迫害の過酷さはドナティストの理論的指導者であるテュコニウスを「アンティキリストによる迫害」と言わしめ、カトリック側であるアウグスティヌスも消極的であるがその非道ぶりを認めている。
さてこの章の中心となるフィルムスの反乱であるが、これは373年ムーア人の一部族長であったフィルムスが彼の弟を殺害したことに端を発する。当時北アフリカに大きな影響力を持っていたムーア人族長ヌベルは、その死後正嫡の他に多くの庶子を残したがその一人ザマックはロマーヌスの寵愛を受けるところとなっていた。これに自分の地位を脅かされると考えたヌベルの正嫡であるフィルムスはザマックを暗殺するが、この事実が露見しフィルムスはロマーヌスの怒りを買ったのである。
ロマーヌスはレミギウスとの友誼に依り、ザマック暗殺の件の他、冤罪も含めた様々な罪でフィルムスを宮廷に告訴し、宮廷内に多数の同調者を得ることに成功した。一方フィルムスもこれらの讒訴にたいし弁明の使いを宮廷に赴かせたが、レミギウスの画策によりこれらの弁明が後になるまで皇帝の手に届くことはなかったのである。
この事実に絶望し自暴自棄に陥ったフィルムスは帝国の支配から脱することを宣言し、帝国属州を荒涼しようとムーア諸部族に援軍を募り、瞬く間にロマーヌスの暴政に苦しむアフリカ属州全体に反乱は広がっていったのである。これに対しヴァレンティニアーヌス帝は騎兵長官(Magister equitum)テオドシウスに討伐軍の指揮を命じている。帝の命に従い彼は少数の軍を率いアフリカに上陸すると、ロマーヌスを沿岸防備の名目で少数の兵と共に遠ざけ(後に拘禁)、その後フィルムスの本拠に向かった。
この事実を知るやフィルムスはテオドシウスに弁明の使者を人質を送る約束と共に送り、蜂起の原因がロマーヌスの暴挙であったことを伝え寛恕を乞うた。テオドシウスはこれを受け入れたが、その後フィルムスが人質を送らなかったため進撃を再開、二度の戦闘においてフィルムスを撃破した。これに意気消沈したフィルムスは土地のキリスト教聖職者を人質と共に和解の使者として送り、テオドシウスはこれを受け入れた。
その後テオドシウスが北アフリカの各都市に軍を進める毎に多くの文化、言葉の違う現地部族が反抗を試みたが、フィルムスが和解し山の奥地に逃走しそれらを糾合し束ねるものがいなかったため、次々と各個撃破されていった。一方逃走を続けていたフィルムスはさらにもう一度テオドシウスと干戈を交えるも破れ、ムーア人部族であるイサフレンセス族の庇護を受けた。イサフレンセス族はテオドシウスのフィルムス引き渡しを拒み、テオドシウスと戦ったが破れフィルムスの引き渡しに応じざるを得ない状況に追い込まれたのである。そしてフィルムスはイサフレンセス族によりテオドシウスに引き渡され、その自殺によってこの反乱に終止符が打たれたのである。
以上が反乱の流れであるが、アウグスティヌスは時期は定かではないもののこの反乱中のフィルムスとドナティストとの連携について言及した書簡を残している。この反乱と同時期、ドナティストはキルクムケリオーネスの蛮行などドナティストの暴力的な要素を嫌ったカルテンナのドナティスト司教ロガートゥスの分派に迫害を加えていたのであるが、アウグスティヌスはヌミディアの一都市ルカタのドナティスト司教が自派の安全を保障するという約束をフィルムスに取り付け彼に市門を開き、カトリックを虐殺と荒涼のままにさせたこと、そしてロガートゥス派が彼らドナティストをフィルミアーニと呼んでいたことを伝えている。開城に関してアウグスティヌスはドナティスト司教の判断としているが、一司教の独断と考え得るほどの権限があったとは考えがたい。むしろ市の多数派の同意があったと見る方が自然であろう。また皇帝勅令にもこの反乱に際しドナティストがフィルムスを支援していたことを示すかのように、373年、376年、377年と連続してドナティスト弾圧勅令が出されているのである。
以上アンミアーヌス・マルケリッヌスの記述よりこの反乱の推移、アウグスティヌスよりフィルムスとドナティストとの関係を見てきた。フィルムスが数度の戦闘に敗北しながらも各地を転戦し、またムーア人諸部族も独自にテオドシウスの軍に戦いを挑んだという事実からは、ムーア人のフィルムスへの支援が積極的に行われたと見てとれる。またアウグスティヌスの記事は多少誇張があるとしても、ドナティストとフィルムスの間に連携関係があったことは疑いないであろうし、同時期立て続けに帝国がドナティスト弾圧勅令を出していることはこれを裏付けるものであろう。なおキリスト教、特にドナティストとフィルムスの関係についてアンミアーヌス・マルケリッヌスがほとんど言及していないことが気にかかるが、マルケリッヌスが異教徒であったこともあり、この問題に関し無関心乃至は知識を持ち合わせていなかったと見るのが妥当であろう。
III ギルドの反乱
次にギルドの反乱についてみていく。この事件の概要は冒頭でも述べたが、この章では反乱を引き起こしたギルドとその同時期に南ヌミディア一帯にその支配を確立したオプタートゥスがどの様な経緯で反乱にいたり、その後どの様な末路を辿ったかを追っていきたい。
この反乱の中心人物であるギルドは、ムーア人首長でありカトリック教徒であったと言われているヌベルの子として生まれた。なお彼自身の信仰であるが、彼の叔母と娘がカトリックに帰依、帝室に嫁し、また彼自身も死後カトリック教会に埋葬されていることからも、カトリックであったと思われる。彼が歴史上の表舞台に出てくるのは同じくヌベルの子であり、彼の兄であったフィルムスがローマに対して反旗を翻したときである。この反乱においてギルドは討伐軍であるテオドシウス軍の一翼を担っている。彼がローマ軍につき義兄と戦う理由が奈辺にあったのかという事は定かではないが、ともかくも彼はこの戦いで戦功を上げその後テオドシウスが処刑されると騎兵を率いヨーロッパを転戦し、その功あってか385年頃にはアフリカ総督(Comes Africae)の地位についていた。しかし388年、マクシムスによる反乱が勃発した際には当初マクシムスに好意的な立場をとっていた。しかしこれは赦免され、391年には、娘の一人を帝室に嫁がせ、さらには"Comes et magister utriusque militiae per Africam"という特別職を与えられ、アフリカにおける事実上の最高権力者となったのである。
一方オプタートゥスであるが、彼は388年にタムガディのドナティスト司教に選出されている。この当時の状況であるが、アウグスティヌスの伝記作者でもあるポシディウスは「390年にはドナティストが北アフリカの多数派となっていた。」と伝えている。この様なドナティスト優勢の状況の中ドナティスト司教に選出されたオプタートゥスは、就任直後からカトリックに対する蛮行の限りを尽くしている。この蛮行についてはアウグスティヌスもドナティスト理論家であるペティリアヌスのカトリック非難に対し、しばしばオプタートゥスの所業を上げ反論を加えている。
一方この同時期、ドナティスト教会も分裂の傾向を見せている。ドナティスト教会の代表格であったカルタゴのドナティスト司教パルメニアヌスが391年頃に死ぬと、その後を暴力行為を是とする強硬派でカルタゴの大衆やヌミディアの司教達の支持を受けたプリミアヌスが襲った。これを嫌う富裕なドナティストや穏健派はドナートゥス派の名の由来でもあるカサエ・ニグラエのドナートゥスの血縁者とも言われるマクシミアヌスをパルメニアヌスの後継者とした。この二派は相争い非難を加えたが、394年のバガイのドナティスト公会議でマクシミアヌス派が異端とされると彼らはより積極的な迫害を受けるようになっていった。
この事態に際しオプタートゥスはプリミアヌス派に同調した行動をとっている。彼はバガイの勅令を受け入れないヌミディアのマクシミアヌス派司教であるムスティのフェリキアーヌス、アシュラのプラエテクスタートゥスに対し、配下にあるキルクムケリオーネスを率い司教座を放棄するように迫り、二人を殺害することに成功している。さらにこの勝利によりタムガディに凱旋したオプタートゥスは、その地でプリミアヌス本人の歓待を受け聖堂の高みに設けられた椅子に座ったとアウグスティヌスは伝えている。
また"Comes et magister utriusque militiae per Africam"の地位を与えられテオドシウス帝に忠誠を誓っていたギルドであったが、392年を境にその態度を徐々に変化させている。同年にイタリアで起きたエウゲニウスの反乱に際しギルドは日和見を決め込み、テオドシウスの命を受け取る一方当時エウゲニウスの支配下にあったイタリア、特にローマに対しては穀物の供給を続けていた。この時期の彼の対キリスト教政策であるが一貫してドナティスト、特にプリミアヌス派の擁護に回っている。バガイの公会議によりマクシミアヌス派が異端とされた際、プロコンスルでありギルドの配下にあたるヘロデースはプリミアヌス派の正統性を認め、マクシミアヌス派の財産を彼らに引き渡すことを認めている。
395年テオドシウス帝が泉下の人となるとギルドはさらにラヴェンナ宮廷からの離反を決定的なものにした。397年にはホノリウス帝との決別を宣言、東帝国の皇帝であるアルカディウス帝と盟約を結ぶに到った。彼のこの一連の行動の動機を示す資料は残っていないが、おそらく自身の権力強化が背景になっていたことは間違いないと思われる。彼のこの申し出に対し東帝国は歓迎の意を示し、この地に対する総督を派遣している。しかしフレンドは東帝国のこの地に対する影響力はヴァンダル侵入時のそれよりははるかに弱かったとし、この行動はギルドのアフリカにおける権力強化が背景にあったとしている。
さらにギルドはイタリアに対する穀物の輸出を停止、船団をアフリカに止め置きローマを飢餓の危機に陥れた。事態ここに到り西帝国の宰相であるスティリコはギルドに対し実力行使に踏み切ることとなる。彼は元老院にギルドが公敵であることを宣言させ、ギルドに対し彼の弟であり、息子二人を兄の手によって殺害されイタリアに逃れてきていたマスカッツェルを将とする討伐軍を397年の冬に派遣した。彼が派遣されて後数カ月は大きな戦闘はなく、ギルドは南ヌミディアに位置する都市テヴェステに本拠を置き軍を召集した。オロシウスによるとその集めた軍勢は七万に及んだと言われている。 この期間中もアフリカのカトリックに対する迫害は一層の厳しさを増し、この事態に対しホノリウス帝はカトリック教会を略奪するものには死刑に処すとの布告を出している。春になると、マスカッツェルは抵抗を受けることもなくアマエダラとテヴェステの中間地点となるアルダリオ河に到達する一方、ギルドはテヴェステに留まり積極的な行動を控えていた。この反乱に際しドナティストは"Gildonianus"と呼ばれたオプタートゥスを始めギルドを支援している。
398年五月、両軍はゴウレの地で会戦したが、干戈を交えるや鎧袖一触の体でギルドの軍勢は崩壊、ギルド自身は一時逃亡に成功したものの、398年七月三十一日タブラカ(現タバルカ)で捕縛され、処刑乃至は縊死し、そしてその遺体は皮肉にもカトリック教会に埋葬されたと伝えられている。オプタートゥスもギルドと同じ運命を辿り、多少長らえたものの保身を図ったドナティスト聖職者によりその地位を追われ処刑されたのである。
以上ギルドの反乱について見てきたが、ギルドが上記のようにオプタートゥスに好意的な態度をとっていることを、そのままドナティストに好意的であったと取るのは早計であろう。アウグスティヌスは後にドナティスト司教エメリトゥスに対し翻意を促す書簡を送っているが、その中のギルドとオプタートゥスについて言及して次のように述べている。
「例えこれまで私が説いたドナティストの非についてお認めにならないとしても、あのオプタートゥスの罪にはあなた方全てその非をお認めになるでしょう。しかし彼はあなた方の中で許容されていたのです。しかし私達はあなたを非難しようとするのではありません。何故ならあなたを含む全アフリカの呪詛を受けていた当時彼は絶大な力を持っており、彼を破門に処することはあなたの一派を分断してしまうことに繋がりかねなかったのですから。(中略)あなたはこれでもオプタートゥスを擁護することでしょう。しかし全アフリカ特にあのギルドの名が知れ渡った一帯では、彼よりその悪名高いオプタートゥスの所業に関して口をつぐんでいることは、その地の人々の期待を裏切る事となります。・・・」
この一節からはアウグスティヌスがドナティストとオプタートゥスの一派を区別し、ドナティストの側もオプタートゥスらにより何らかの被害を被っていたことを伺える。このようなオプタートゥスのドナティストと他のドナティスト一般を同一視するのは些か無理があるように思われる。寧ろオプタートゥスがドナティスト教会の名の下に、独自の私兵集団を囲っていたと取るほうが自然であろう。他のドナティストからの謗りを受けるオプタートゥスと手を結んだギルドは、ムーア人の幅広い支持よりも即戦力となり得る彼の私兵を当てにしたのではなかろうか。
それではムーア人とドナティストとの相関関係はいかなるものであったのであろうか。次の章ではそれを探っていきたいと思う。
IV ムーア人のローマ観
以上二つの反乱を概観してきたわけであるが、ローマへの抵抗という点では共通する両反乱においてムーア人はそれぞれ援助を与えているものの、その程度には大きな差が見られる。この差違は一体何に起因するのであろうか。本章ではムーア人の間でのローマ観を、マウレタニア、南ヌミディアにおける民族構成、ローマ文化の浸透の度合、生活形態の違い、そして遊牧民と定住者の関係といった点からうかがい、この差違を明らかにする一助にしたいと思う。
北アフリカへのローマ人の移住はアフリカ属州の成立、つまり紀元前146年のカルタゴの滅亡時より本格的に始まるのであるが、その移住先は均一ではなくかなりの偏りを見せていた。つまり都市化が進み比較的地味も豊かであったアフリカ・プロコンスラリスや北ヌミディアにローマ人の移住が集中し、それに対しマウレタニアや南ヌミディアへの移住はアウレス山脈の北西部への退役兵による集住などを除きほとんど行われず、またその数も圧倒的に少数である。
それは移住開始後数百年を経た後のローマ文化の浸透の度合いからも伺い知ることが出来る。例えば北部の都市では公衆浴場、舗装路、フォーラム、凱旋門と言ったローマ的な建造物や施設を擁しており、また都市の数も南ヌミディアのそれと比較し格段に多い。その一方で南ヌミディアやマウレタニアの都市は農作物その他の集配所としての性格が強く、北部の都市に見られるローマ文化の象徴のような建造物は余り見られない。また住民の名に関しても北部の住民が都市民から農場の奴隷まで原義を残しながらもラテン語の名を持っていたのに対し、南ヌミディアの都市であるテヴェステでは現地語そのままの名が通用していたという対照をしめしていることからもこの事は明らかであろう。
このようにローマ人の移住が大きく偏りを見せていることからも、これら地域の民族構成はローマ人の入植前のフェニキア人とムーア人の住み分けと同じ様相を示していたと見て良いであろう。つまり早くから都市を単位とした政治体制を確立していたフェニキア人の支配地域にローマ人が集中的に移住し、逆にムーア人が多数を占める南ヌミディア、マウレタニアといった地域にはそれほど移住が進まなかったということである。
またこの住み分けの問題を考えるに当たり興味深いのは、ディオクレティアヌスによる属州再編成に際するリメスの後退である。彼は再編に際し、マウレタニア・ティンギターナの南境を北へ、マウレタニア・カエサリエンシスの西の境界を東にそれぞれ後退させているのである。後者の後退の理由を具体的に示すものは残っていないが、前者は南境に隣接していたムーア人の脅威によるものであったとされており、この後退が同時期に行われたことからも、この時期両マウレタニア属州はムーア人の反ローマ感情の激化、自立の様相を見せていたと見てよいであろう。
しかしにこのようなムーア人のローマ文化の拒絶、帝国への反抗といった要素はいかなる過程で形成されていったのであろうか。この問題を考えるに当たり留意しておくべきこととして、遊牧生活が主体であるムーア人が遊牧民として、特に帝国ではなく豊かな生活を享受する農耕民自体に対して敵意を抱いていたか否かという点があると考えられる。
ローマ人の入植以前北アフリカの主導権を握っていたのは、カルタゴを中心とした農耕に主体をおくフェニキア人たちである。フェニキア人のムーア人への対応であるが、力で押さえるという方法ではなく、むしろ自治を認め、部族の首長に地位や役職を与えその軍を自らの傭兵軍の一員に加えるなど懐柔策を採っている。その一方ムーア人諸部族はカルタゴの懐柔策に応じることもあれば、カルタゴより有利な条件を提示した別の勢力に靡くこともあった。実際紀元前310年からのシラクサの僭主アガトクレスの北アフリカ侵攻に際し、カルタゴ及びシラクサはそれぞれムーア人部族を懐柔することに努めたのに対し、ムーア人諸部族はそれぞれの勢力に味方し相争ったのである。この事実はムーア人たちが特定の勢力につくことを潔しとはせず、またムーア人という民族単位で統一された意識を持つこともなく、むしろ自治権などの諸権利に依拠する自立性を保つことに重点を置き、またフェニキア人も直接彼らを支配することを敢えて望まず、諸権利を与え懐柔しておくという消極的な支配に甘んじていたことがうかがえる。
このフェニキア人とムーア人との関係は、カルタゴが滅びローマがその後を襲った後もローマ人と同じ様な形で存続している。紀元前107年から105年にかけてのヌミディア王ユグルタの反乱に際し、ムーア人の一部族であるガエトゥリアネス族は土地の供与を条件に、同じくムーア人であるユグルタに敵対しローマ側に立って参戦している。また紀元前46年の内戦に際しガエトゥリアネス族は当初ポンペイウス側にあったのが、やはり土地の供与などの見返りを約束されカエサルに寝返っているのである。
しかしイタリアの内戦終結後、つまりオクタウィアヌスがアントニウスを破り秩序を取り戻した後ローマはこの様なムーア人との妥協政策の転換を始めている。紀元前37年にはムーア人諸部族の支配地域にであった南部ヌミディアやマウレタニアに侵攻を開始し、四十年程の抵抗の後にローマよる直接支配を行うようになっていった。もちろんこの様なローマ側の動きに対し、ムーア人も反抗の動きを見せている。タキトゥスは17年にムーア人の一部族長であるタクファリナスが自分とその部下に土地を与えるよう求め、それを拒否したローマと五年間にわたり戦いを繰り広げたことを伝えている。この記述の中でタキトゥスはタクファリナスの動機が奈辺にあったかという事は伝えていないが、彼を盗賊と呼びまた彼がローマ軍と戦闘に入るまでレプティス・マグナ及びキルタの周辺を略奪したとしている。レプティス・マグナ、キルタはそれぞれヌミディア屈指の大都市で、帝国行政の中心地でもあった。これらの都市を特にムーア人が襲撃対象としたことは、彼らの帝国に対する感情の表れととって良いであろう。
この反乱以後もその支配を確立した帝国とムーア人との間の抗争は続くのであるが、最早ローマは共和制期のようにムーア人の抵抗にムーア人をもってその鎮圧に充てるという策を採らず、総督直属の軍及び第三軍団アウグスタの様な現地駐屯の軍団をもってその任に充てたのである。もっとも二、三世紀になると他の地域と同様これらローマ軍も現地での徴兵を行っているのであるが、彼ら兵士の多くはローマの影響力が大きいアフリカ・プロコンスラリス、北ヌミディアの都市の出身者で占められているのである。このような経過を経て四世紀の初め、ディオクレティアヌスにリメスの後退を余儀なくさせた背景には、フェニキア人や共和制期のローマ人には持ち得なかったムーア人の帝国に対する反感があったと見てよいのではないか。
それではこのムーア人の反感は以前の諸特権を奪った帝国自身のみに向けられたものであったのか、それとも帝国の支配の下豊かな生活を享受していた農民やその他定住者にも向けられたものであったのであろうか。ここでは次に帝政時の北アフリカにおける遊牧民と定住民との関係を見ていき、この問題を明らかにしていきたい。
まず彼らの関係を探る手始めとして、両者の間における通商関係について見ていく。この問題を議論する際にしばしば引き合いに出されるのが、アルジェリアのアイン・ズライアでのラテン語碑文である。この碑文は202年における南ヌミディアのザライ(現アイン・ズライア)を通る商品への関税(portoria)について記されたものである。これによると課税対象となった商品の半数以上が、羊、山羊の皮、膠、羊毛といった当時の天水農法が主力の農民が生産したとはおよそ考え難い、遊牧生活の産物とみるべき品で占められているのである。またザライはムーア人の主な居住地域よりも北に位置していることからも、ここを通過する商品は遊牧民の間での交易を目的としたものではなく、北部の市場に運ばれるべきものであったするのが妥当であろう。勿論この一件のみからは両者の通商関係がどの程度のものであったかという事を伺い知ることは出来ない。しかし遊牧民と定住者との間にある程度の交易関係があったことはまず確実であるといえよう。
また通商関係以外にもこの両者の関係を示すものとして、農民を初めとした定住者が遊牧民を労働力として雇用の対象としていたということがある。特に農繁期の補助労働者及び農作物の輸送力として使われたことは、様々な研究者の指摘するところである。例を挙げると四、五世紀に北アフリカ、特に南ヌミディアやマウレタニアを中心に展開したキルクムケリオーネス運動に従事した人々を季節労働者とする見方が存在する。このキルクムケリオーネス運動についてはその性格などまだ論議の対象となっており、またそのことは次章で詳述するが、彼らの活動地域からその多くはムーア人から構成されていたとすることには大勢の一致を見ている。このキルクムケリオーネスを季節労働者、補助労働者とする立場に立つのが、新田氏、ブリッソン、ショウなどである。新田氏は南ヌミディアの地理的、経済的特殊性に着目しキルクムケリオーネスがオリーブ収穫の補助労働者と位置づけている。またブリッソンはキルクムケリオーネスは荘園で労働に従事する遊牧民、コロヌス、奴隷など下層で貧困に喘ぐ人々による集団であり、その運動は当初階級闘争的性格を帯びていたが、後にドナティスト主流派に同調したとしている。そしてショウもやはりキルクムケリオーネスの宗教的性格を否定し、遊牧民を主体とした下層労働者の上昇志向の発露だとしているのである。前述したようにこのキルクムケリオーネスの定義は定着したものではない。しかしこれらの説はそれぞれ相応の論拠によるものであり、否定することもまた出来ないのである。
さらに定住者が遊牧民を雇用した例としてトリポリタニア属州内ヤバル・ナフサの荘園領主とアウグスティヌスとの往復書簡がある。この書簡は異教徒の遊牧民を雇う是非について論じたものであるが、この書簡においてこの荘園領主が遊牧民を「信頼に足る人々」として自領の農作物の運搬の管理人に、またそれらの運搬の護衛として雇用していると述べているのである。これら雇用の観点からも遊牧民が大半を占めるムーア人と農民をはじめとする定住者との、比較的良好な関係を推測することは可能であろう。
以上ムーア人とローマ帝国の関係を様々な角度から見てきたわけであるが、ローマの帝政期に入って後、つまり南ヌミディアやマウレタニアに対する直接統治を開始した後の以前とは違ったムーア人に対する懐柔路線の転換、及びムーア人を中心とした遊牧民と定住者との友好的な関係から、二つの反乱時期におけるムーア人のローマに対する感情は、自分たちより比較的豊かな生活を送る定住者への嫉みといった性格のものではなく、むしろかつて享受していた権利を奪った帝国行政に向けられたととって良いのではないであろうか。
V ドナティズムとムーア人
最後にドナティズムとムーア人の関係を見ていきたいと思う。本稿のII, III章でも述べたように、この二つの反乱においてそれぞれドナティストは反乱勢力であるフィルムス、ギルドに援助を与えているのであるが、フィルムスの反乱におけるこの両者との関係はアウグスティヌスの一書簡に言及されるのみであり、異教史家であるアンミアーヌス・マルケリッヌスもキリスト教徒がフィルムス側の和平交渉の使者にたったことを伝えるのみである。
その一方ギルドとドナティストの関係にはアウグスティヌスのみならず他のカトリック教父やドナティスト聖職者も多くを割いてこの事について触れているのである。またムーア人たちもこの両反乱に対しそれぞれ支援しているのであるが、その支援に差が見られるのもまた前述した通りである。それではこのムーア人とドナティズムの間にはどれほどの相関関係が存在したのであろうか。この章ではドナティズムとムーア人の関係を、ドナティズムの勃興からこの反乱にいたるまでのドナティズム浸透の地域性、ドナティズムの性格とムーア人との親和性、キルクムケリオーネスとムーア人の関係といった観点からみていき、この二つの反乱におけるドナティスト、ムーア人の対応の差異の要素を探ることが出来ればと思う。
ドナティズムの勃興、伸長とムーア人
まずドナティズムの勃興とその勢力拡大に際する背景及び、その過程におけるムーア人との関係について見ていきたいと思う。キプリアヌスの時代、つまり三世紀の半ばにはアフリカ属州には既にキリスト教はかなりの規模で浸透していたと思われる。例えば256年のカルタゴにおける公会議には80名を越える司教が参加しているのである。この数は同時期の他の地域と比較しても格段に多く、アフリカ属州のキリスト教の隆盛を示すものであろう。またこの時期の司教座は都市単位のものが多く、必然的にアフリカ・プロコンスラリスや北ヌミディアにおいてキリスト教が盛んであったことが推測されるが、南ヌミディアの国境地帯にも数は少ないが司教座が存在したことが伝えられている。
260年のガリエヌスの勅令からディオクレティアヌスの弾圧までの四十年あまりの間、アフリカにおけるキリスト教の拡がりを示す史料は見られない。しかし例えば312年にヌミディアの司教座が70余りしか存在しなかったのに対し、330年頃にはドナティストの司教座が270以上存在したこと。また305年のキルタ公会議に出席した10人の司教のうち七人がキプリアヌスの時期には存在しなかったことは、この時期のキリスト教の拡大を示すものであろうし、マウレタニアに関してもウォーミントンは都市よりもむしろ辺境地域で著しい拡がりがあったとしている。さらにこれらキリスト教の拡大は富裕層よりも貧困層を中心に盛んであったと思われる。例を挙げるとカルタゴ周辺の村落であったアビティナではディオクレティアヌスの迫害の際に多くの殉教者をだしているのであるが、その内都市評議会員と富裕な女性の二人を除く全てが下層階級出身であり、さらにその中にはラテン語ではなく現地語の名を持っていたものもいたと伝えている。
さてディオクレティアヌスの迫害は305年に終了するのであるが、その迫害中官憲に聖書その他信仰を証すものを引き渡した者、つまりtraditorと呼ばれる人々の取り扱いに関する対立がその後生じてきた。この対立が顕在化するのが311/312年のカルタゴ司教の選挙である。この選挙はヌミディアの司教抜きで行われたのであるが、この結果に対しヌミディアの司教達は選挙に加わった司教の一人がtraditorであるとし、選挙の無効を宣言すると南ヌミディアの国境地帯にあるカサエ・ニグラエ出身のドナートゥスを後継者に指名したのである。これがいわゆるドナティスト派の興りである。この動きに対しカトリック及び帝国は早速初回の選挙の有効性を認め、ドナティストの財産を没収するよう命じている。しかしこの決定には実効性が伴わずカルタゴや一部の都市で行われたのみであり、ヌミディアなどのドナティストはほぼ手つかずのまま放置されていたのである。この結果ヌミディアやマウレタニアでは、ドナティストがその勢力を飛躍的に拡大することになった。この時期属州総督の行在であるキルタ(コンスタンティーヌと名称は変わっているが)で、皇帝の命によりカトリックのために建てられたバシリカがドナティストの勢力下にあったことなどはこの事実を如実に示すものであろう。
またヌミディアとアフリカ・プロコンスラリスにおける教会の数やその構成も明らかな差異を示している。411年のカルタゴ公会議の際の司教座の数は巻末の表や地図にも示されるように、ヌミディア、マウレタニアにおいてはドナティスト教会が数の上で優位を示している一方、アフリカ・プロコンスラリスでは逆にカトリック教会が優位に立っているのである。しかし都市化が進んでいるアフリカ・プロコンスラリスとそうではなかったヌミディアやマウレタニアにおける司教座数が同じ様な数を示していることは何を意味するのであろうか。411年カルタゴ公会議における、あるカトリック司教の発言はこの事を考えるにあたり興味深い要素を含んでいるように思われる。この司教はアフリカ・プロコンスラリスの一都市の司教なのであるが、彼は会議の冒頭において「自分の司教区においては現在も昔もドナティスト司教は存在しない」、「全ての都市は誕生してこのかたカトリックであった。」と述べているのである。もちろんこれはカトリックの強盛を示すための演説であり大幅にその信憑性は割り引いて考える必要はある。しかしこれは都市と農村、それぞれカトリックとドナティストの住み分けがあったことを示唆しているとは考えられないであろうか。
またマウレタニアにおけるキリスト教の拡がりの様相もこの事を裏付けているように思われる。マウレタニアにおいてローマ文化の浸透は海岸部及びマウレタニア・シティフェンシスの高原周辺の都市部に限られ、その他地域の多くはムーア人の自治地域が広がっていたが、4、5世紀にかけ後者の多くにキリスト教が浸透せず異教がそのまま残っていたことが伝えられている。そしてドナティズムの活動が下火になってきた5世紀におけるカトリックの浸透に際しても、山岳部の多いマウレタニア・シティフェンシスにおいてムーア人のかなりの数が異教徒であったと伝えられている。これらは都市化の進んでいない地域において、さらにはムーア人の間でローマ嫌い、そしてローマ文化とカトリックを同一視する風潮があったことをを示すものではなかろうか。
キルクムケリオーネス運動
次にいわゆるキルクムケリオーネス運動に触れておきたい。この運動については前章でも少し触れたが、そこで述べたようにドナティズムの社会的役割を論ずる場合常に引き合いに出されるものであり、ドナティズムとムーア人の関係を論ずるにあたり避けては通れない問題であると思われる。これらキルクムケリオーネスについて初めて言及しているのが、360-370年代にミレウィのカトリック司教オプタートゥスが当時のドナティストの指導者であるパルメニアヌスに宛てた書簡である。この書簡でオプタートゥスはヌミディアにおいてDuces Sanctorumと呼ばれる人々に率いられたキルクムケリオーネスが富裕な人々や債権者を襲い、その後彼らがオクタウェンシスの地でローマ軍により鎮圧され多くの死者を出すもドナティスト下級聖職者が彼らを殉教者としたことを伝えている。さらに347年にはコンスタンス帝が両教会の統一を目的に派遣した使者が、南ヌミディアと境を接するテヴェステから南ヌミディアのタムガディ間の移動に際しローマ軍の護衛をつけたこと、さらに南ヌミディアのバガイにおいて当地のドナティスト司教ドナートゥスがキルクムケリオーネスと呼ばれる人々を召集し、彼らと共にこの使者に抵抗したものの鎮圧されドナートゥス以下全員虐殺されたのである。その後フィルムスの反乱にいたるまでキルクムケリオーネスが関与した事件の記述はない。しかしこの間にマウレタニア・カエサリエンシスのドナティスト司教ロガートゥスが、キルクムケリオーネスの蛮行がドナティスト教会を汚すものとして分離派を結成していることからも、彼らの蛮行が続いていたことは明らかであろう。
ではキルクムケリオーネスとは一体何者であったのであろうか。本稿では前章でも述べたようにキルクムケリオーネスが農繁期などに農業に携わる補助労働者であり、またその多くはムーア人であったという立場をとりたいと思う。勿論このキルクムケリオーネスに関しては未だ定義は定まっておらず、この説はあくまでも仮説の一つにしか過ぎない。以下の節ではこの仮説を補強していきたい。
キルクムケリオーネスを農業補助労働者と見る研究者らがその論拠を大きく依るのは、412年一月に両皇帝の名において出された勅令である。この412年の一月というのは、ドナティズムの異端性を最終的に決定づけたカルタゴ公会議の直後であり、勅令の内容はドナティストに対する身分別罰金刑の規定である。以下それを表示すると、
Inlustres :金50ポンド
Spectabiles :金40ポンド
Senatores :金30ポンド
Clarissimi :金20ポンド
Sacerdotales:金30ポンド
Municipales :金20ポンド
Decuriones :金5ポンド
Negotiatores:金5ポンド
Plebei :金5ポンド
Circumcelliones:銀10ポンド
Servi :主人からのAdmonitio
Coloni :体罰
この勅令はキルクムケリオーネスに直接触れた唯一の公的史料であり、彼らの社会的地位を知る上で最も重要なものであると言えよう。この勅令においてキルクムケリオーネスは奴隷やコロヌス、つまりその罰は主人の裁量に委された身分と違い、自由人であり一身分を構成する人々であったことが推測される。
さらにこの勅令ではこの罰金刑に応じなかったものに対しその財産を没収するよう命じている。この点に着目しキルクムケリオーネスが没収されるべき不動産などを持つ定住農民であるとする研究者もいるが財産を不動産と同等視すること、これは些か飛躍した論であるように思われる。アウグスティヌスはキルクムケリオーネスを納屋(cella)を巡って放浪するもの、辺境部を徘徊、定住する地を持たないものの集団として言及しているが、これは彼らが土地を持たず方々の荘園で労働力を提供していた季節労働者と見る方がむしろ自然ではなかろうか。(新田氏はこのアウグスティヌスの意見に対し、アウグスティヌスが実際ヌミディアに足を踏み入れていないことを強調しその信憑性を否定している。)
しかしキルクムケリオーネスをローマ社会を構成する一身分とみる場合、キルクムケリオーネスとドナティストがどれほどの相関関係の下にあったのかという問題が生じてくる。最近の研究ではこの問題から逃れるため、この立場と他の説の折衷、つまりオリーブ収穫のための季節労働者たる正規の一階層であったキルクムケリオーネスが、時代を経るに従いその中身を変化させていったという説も登場してきている。階級として最下層の位置にあるキルクムケリオーネスに逃亡農民集団や犯罪者などの社会的脱落者が加わり、またさらには熱狂的ドナティストが加わることとなり、その結果キルクムケリオーネスは本来の階層としての意味の他に、狂信的ドナティスト集団、さらには彼らを含む犯罪、暴力集団を指すようになっていったというのがこれらの説である。もちろんこれら犯罪、暴力集団というのはローマ帝国、カトリックにとってである。カトリックを擁護する法を連発する帝国、そしてその権力を背景にドナティストを圧迫するカトリック。この状況においてドナティストがその庇護を頼むことが出来るのはキルクムケリオーネスをおいて他になかったであろうし、キルクムケリオーネスの活動の記録がヌミディアやマウレタニアに偏っていること。彼らが農園を転々とする補助労働者、さらには放浪、浮浪者集団と見られることが多かったこと。そしてドナティストとキルクムケリオーネスが結託し、また犯罪、暴力集団と言及されることが多いこと。さらに当時のドナティストとカトリックとの対立、国教としてローマ寄りの姿勢をとるカトリックの立場を考えると、キルクムケリオーネスは社会を構成する一階級であったが、その特殊性、地域性から彼らを構成する大半がローマに敵意を抱くムーア人であったととることが可能ではないだろうか。
以上ドナティズムとヌミディア、マウレタニアとの関わり、そしてそれら地域とアフリカ・プロコンスラリスとの違い、そしてドナティストとムーア人との観点から見たキルクムケリオーネスについて見てきた。前章でも述べた如くムーア人とヌミディア、マウレタニアとの連関性は広く認められており、またドナティズムの反ローマ的な性格も本章で述べたとおりである。またキルクムケリオーネスの活動もそのドナティズムとの深い関わりとともに、その地域性、反ローマという性格はドナティズムに共通するものである。これらの要素を備えるドナティズムと伝統的に反ローマ的な感情を持つムーア人、この両者の間に深い関係があったと見て良いと筆者は考える。
おわりに
以上本稿では四世紀末北アフリカにおけるムーア人による二つの反乱をケースに、ムーア人のローマ観、ドナティズムとムーア人の二点から考察を加え、ドナティズムの民族性を伺う一助とすべく検討してきた。もう一度これらの関係を整理すると以下の通りである。
両反乱ともにムーア人による反ローマの要素を帯びたものであり、双方ともムーア人及びドナティストの援助を受けている。しかしムーア人の援助に関しては、フィルムスは三年間に渡りムーア人諸部族の援助を受けながら各地を転戦し、さらにはフィルムス討伐に差し向けられたテオドシウスの軍に対しムーア人諸部族が独自に抵抗運動を展開した。その一方、ギルドの反乱においてはムーア人がギルドへ援助を行ったとの記述はあるものの西ローマ軍との一度の会戦において破れ去り、ギルドはその後二度と以前の勢力を回復することはなくその死を迎えている。また両反乱とドナティストとの関わりであるが、フィルムスの反乱に関してはアウグスティヌスの書簡において、一都市のドナティスト司教がフィルムス軍にその門を開いたことの一事が言及されるのみである一方、ギルドとドナティストの結びつきはアウグスティヌスらカトリック護教家、またドナティスト護教家により広く言及されているのである。
兄弟であり共にムーア人を束ねる立場にあったフィルムスとギルド。前者がムーア人諸部族を代表する立場に留まり、苛斂誅求を尽くしたローマ総督の讒訴によりその憂き目を見たのに対し、後者はローマの軍務に服し、さらにローマにおいて高い地位を得たにも関わらず、さらなる高みを目指して転落したのである。彼らが伝統的に反ローマ観に立つムーア人の目にそれぞれ如何に映ったか、想像するに難くはない。それは両者とローマ軍との戦闘に際するムーア人の態度にも裏打ちされる。
南ヌミディアやマウレタニアにおけるドナティズムの浸透は、ローマを「サタンの国家」と見なすこの異端派に、同じく反ローマ感情を持つムーア人が同調したことが要因であることは疑いない。また帝国と手を組みその権力拡大を図るカトリック教会に抵抗するものとしても、この流れに拍車をかけたことであろう。この点ドナティズムがムーア人の民族主義に多分に一致していたと見るべきである。しかし両反乱におけるドナティストとムーア人との関係はどうであろうか。フィルムスの反乱時、ヌミディアの一都市が彼の軍に入城を認めたこと、これはドナティストとムーア人が協調関係にあった一端を示すものであろう。そして反乱後連続してドナティスト弾圧勅令が出されたこと、ドナティストがフィルムス派と呼ばれたことはフィルムスとドナティストとの結束を示すものと思われる。
一方ギルドの反乱の場合であるが、ここでは彼と結んだドナティストの中心人物タムガディのオプタートゥスの特殊性を考慮する必要がある。「絶対者」とアウグスティヌスに揶揄され、カトリック司教を捕らえ凱旋式を行い聖堂の高座に座るオプタートゥスは、ドナティスト聖職者としてその繁栄を求めたのではなく、むしろ私心の赴くまま己の野望を追求した結果ギルドと結んだと見るべきではなかろうか。ドナティストの理論的指導者たちも、自分達とオプタートゥスの一味との間に一線を画していることもこれを示すものである。オプタートゥスの配下にギルドを支援したものとしてアウグスティヌスに言及されるキルクムケリオーネスも、階級としてのキルクムケリオーネス、つまり各地を渡り歩くムーア人を中心とした季節労働者ではなく、むしろオプタートゥスの私兵と考えるほうが自然であろう。
長年のローマからの圧迫の中苦難の生活を送ってきたムーア人にとって、自分達の立場を代弁するようなフィルムスの反乱は多分に同情すべきものであったのに対し、ギルドの反乱は長年ローマの禄を食んできたギルドの野望の結果であり、支援する価値を見いだせなかった。また様々な親和的要素を持つドナティストとの関係の深かったムーア人であるが、ギルドに協力したオプタートゥス率いるドナティスト・キルクムケリオーネスは彼の野望達成のための一種私兵軍団で、他のドナティストからも軽蔑される本来のドナティストからは外れたものであり、フィルムスを支援したドナティストとは一線を画し、本来のドナティストとムーア人との動きには同じ方向性があったと言うことで本稿の結びとしたい。