「しし丸の楽園」 ’02年2月1日
日本の真南、赤道に近い位置にパラオと呼ばれている小さな国があります。
バベルダオブ島やコロール島、マラカル島などの小さな島がいくつもより集まってできている国なのです。
これらの島々は大きな珊瑚礁の中にあって、珊瑚礁の縁(リーフエッジ)まで行くにはボートで1時間もかかります。
このリーフエッジはきわめて鋭く切り立っていて、うちよせて来る波はすべてこのエッジで砕け散ってしまいます。
ですから、リーフの中はとてもおだやかで波の音などまったく聞こえません。
まるで湖面のようになめらかな海面をボートはすべって行くのです。
非常に透明度が高いので、海底までの水深が変化するのに合わせて海面は色彩を目まぐるしく変えます。
リーフエッジには魚があふれていました。
バラクーダの群れやギンガメアジの群れ、ホワイトチップシャークやオニイトマキエイ。
私が泊まっていたのはマラカル島にあるセントラルホテルでした。
ガイドブックによるとホテルから歩いて10分ほどの所にカープレストランという店があり、そこではヤシガニやシャコガイなどのパラオの珍味が食べられるとのことでしたので、散歩がてらに夕食を食べに行くことにしました。
1時間前にこの島を襲ったスコールはたっぷりと雨を降らしたらしく、道路のへこみには泥水があふれていました。
その上、道路の舗装はかなり痛んでいるらしくて、道路の端はぐちゃぐちゃにぬかるんでいて、とても歩けたものではありませんでした。
歩けそうな所を捜しながら歩いたのですが、100m歩いただけで私は疲れきり、ビーチサンダルをはいていたから短パンのお尻からTシャツの背中まで泥のはねが盛大に飛んでいました。
まったくひどいありさまでした。
両足のふくらはぎが泥だらけで気持ち悪くてたまりませんでした。
これではタクシーでも呼ばないことにはカープレストランには行けそうもありません。
しかし、戻るのは来る時以上に時間がかかりました。
街灯が少なくて足元が良く見えないほどに暗くなっていたので、うっかり間違えて道端のぬかるみに足を突っ込んでしまったからです。
ビーチサンダルをグシュグシュ鳴らしながらホテルの敷地に入って行くと、ふいにどこからか声が聞こえて来ました。
なにやら私を咎めている声のように感じました。
あわてて顔を上げてあたりを見回すと、左側に明りが消えた小さな小屋がありました。
それは日本では道端などによくある野菜の無人販売所みたいにちっぽけな小屋でした。
不審そうに小屋を眺めていると、もう一度小屋の中から声が聞こえました。
それは英語で、「このホテルに泊まってるのかい?」と言ったようでした。
「ああ、そうだよ。昨夜ついたんだ」と、私は投げ返すように答えました。
じっと眼をこらして見ていると暗闇に眼が慣れて来ました。
小屋には窓ガラスなんか無くて、小屋の中に立っているパラオ人の男の上半身が直接見えるようになりました。
男の顔は闇に溶けてしまっていて、白い歯が時折見えるだけでした。
「どうしてそんな暗い所にいるんだい?」と、私はすなおに訊きました。
「明りをつけてくれないんだよ」と、男は言いました。
その声はちょっと淋しそうに聞こえました。
「大変だね」と私が言うと、男は「まあね。これがおれの仕事だからね」と答えました。
どうやらこの男はホテルに雇われている門番の仕事をしている人のようでした。
「それじゃ、もう行くよ。まだ夕飯を食べてないんだ」と言い訳がましく言いながら、私は歩き出しました。
私の背中に、「バイバイ」という哀愁に満ちた男の声が聞こえて来ました。
いつものようにこたつで寝てしまった妻の胸元にしし丸が顔を埋めて眠っていました。
眺めていると、うらやましくなってしまうような寝顔でした。
できることなら私もしし丸のように眠りたいと思うのですが、すでに私はしし丸よりもずっと大きく育ってしまいましたのでどうしようもありません。