「トラの思い出」      ’98年4月30日


ベランダのトラ

 前にも書きましたが、食事をねだるのはいつもメリーです。
 娘の久美子の部屋に行っていつにもまして甘えたり、ガスレンジの前でカレー用のたまねぎを炒めている私の足元に来てかすかな声で「クーン、クーン」と催促するのです。
 それはとても控えめな催促で、どうかすると私などはまるで気づかなかったりするのです。
 そして、シッポの毛を踏みつけて、やっとメリーがいたことに気づくといったありさまでした。
 モコにいたっては食事の催促など一度もしたことはなく、皿に盛られたキャットフードに真っ先に口をつけるのはいつもメリーなのです。
 もちろん、メリーとモコはそれぞれ専用の皿を持っています。
 色も違うし、間違えようがないのですが、メリーは最初に出された皿のものを食べてしまいます。
 それでもモコはあまり気の無いそぶりでおとなしく待っているのです。
 こんなメリーやモコを見るにつけ思い出すのはトラのことでした。

 トラはきわめて乱暴な性格で、夕食の用意をしている妻の足元に来ては、「エサをよこせ」とうるさくせがみ、妻が料理にかまけてかまわないでいると不意に妻のかかとに爪を立てたり、足首に噛みついたりしたのです。
 それも、血が出るほどひどいものでした。
 そんなトラでしたが、不思議なことに私とは馬が合っていました。
 私が勤めから帰って来て家から少し離れた駐車場に車を置いて歩き出すと、どこからともなくトラが現われて「ニヤア」と声をかけるのです。
 「トラ、おいで。家に帰ろう」と、私が言うとトラは並んで歩き出します。
 私が座椅子に座ってワープロをしていると、トラは隣の座布団の上でクークーと寝息を立てているというふうでした。
 そんな幸せがいつまでも続くものと思っていたら、別れは突然にやって来ました。
 トラが白血病になってしまったのです。
 どうしてそんなことになったのか、今でも分かりません。
 猫の白血病だと分かった時にはもう手遅れでした。
 抗生物質もほとんど効果はありませんでした。
 2年前の夏にトラはひっそりとこの世を去りました。
 それからというものは、駐車場に車を停めて家に帰る道、どこからかトラが不意に現われそうな気がしてつまずきながら歩く毎日でした。
 私の車も、ラーメン屋さんの駐車場でブロック塀にぶつけて壊してしまいました。
 私が借りていた駐車場にも家が建てられ、駐車場も無くなりました。
 それが去年の夏でした。  

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