月刊少年エース1月号読感

(1998年 11月28日)

 少し遅れてしまいましたがエース読感をお送りします。
 


1・話は飛ぶ、加持が飛ぶ
[証拠]
 廃屋の中、懐の銃に手をかけながら歩を進める加持リョウジ。
 建物中身は空だった。マルドゥック機関につながる108の企業の107個目もダミーだった。一服して考えをめぐらす加持。そんな廃屋を遠くから見つめる一人の男の姿があった……碇ゲンドウである。


[検証」
 冒頭、いきなりこれです。
 言うまでもなく、これはテレビ版15話「嘘と沈黙」の最初の部分に呼応しているシーンです。いきなりハードボイルドか、って感じでびびりながらも、加持、格好いいよなあ……なんて言っている場合ではありません。
 これは、今回の他の部分にも現れていることですが、どうもコミック版は結末に向かって一気に物語のスピードをアップさせてきたようです。もしかすると、シンジ・綾波・アスカ三角関係を描きながら使徒撃退を繰り返すという、10話から14話までのパートは一気に端折り、いわゆる「フォースチルドレン編(16話〜19話)」へと持っていくつもりなのかもしれません。
 以前聞いた所によると、貞本さんは原作をなるだけ短い形でまとめてしまいたい様子。そう考えると三角関係編は既存のロボットアニメものの集大成としての面白さはあるにせよ、エヴァのメインストーリー的には横道的とも言える部分です。

 コミック版エヴァは最初からを単行本化を想定して、その一巻分を一まとまりに、エピソードを完結させています。
 すなわち、

 一巻「シンジ、ゲンドウと再会する」
 二巻「シンジ、ミサトと(同級生とも)心を通わせる」
 三巻「シンジ、綾波と心を通わせる」
 四巻「シンジ、アスカと心通わせる」

 という風にかなり明確に話のポイントが押さえられているわけです。
 従って、この五巻にあたる新パートにも何らかのポイントとなる基本ストーリーがあるはずです。それを私は、三角関係話、と捉えていたのですが……どうも当てが外れた様子。
 しかし、キャラクターとシンジとの関わりをメインした物語づくりをするとなれば次に考えられるのは……やはり、トウジを載せた参号機との対決がクライマックスとして可能性が高い。
 そして失意に陥り、エヴァに載ることを拒否しているシンジだが、最大の危機を前にパイロットとしての自覚を得る……。

***


 もっとも、ここまで考えるとどうしても外すことの出来ない問題がでてきます。それはコミック版エヴァをどのような形で終わらすのか、ということです。
 貞本さんは、インタビューでも「わかりやすい物語」にしたいと述べております。実際、今までの話はわかりやすいほどわかりやすい。しかし、それはテレビ版でもここまでは同じでした。
 エヴァの話が混迷してゆくのは20話で、シンジがエヴァの中から戻ってきて以後、です。シンジは再び駄目シンジに戻り、キャラクターは、特にアスカは失意の末精神崩壊をおかします。映画では、一時戻りますが、結局はシンジともどもわずかな進展はあったものの、心は傷ついたままでろくな元気も回復しない状態で終わりました。
 パンフレットで見る限りでは貞本さんはこの映画のエヴァや、テレビ最終2話の物語もそれなりに気に入ってはいるようではありますが、それと、自分が描くものが一緒かどうかと考えますと……やはり違うように思えます。
 庵野監督によるエヴァは、「これでいいんだ」と「いやだめだ」の間を激しく揺れる物語でした。そして有名なセリフ「逃げちゃだめだ」に端緒に表れているように、強迫的な考えに捕らわれる自分に耐えられずに、しつこく「体内回帰」を繰り返す物語でもあります。16話でのディラックの海、20話でのサルベージ、そして映画での人類補完計画。どれも、同じ構造です。甘えたいけれども同時に「それじゃいけない」という強烈な「思いこみ」も持っている自分の葛藤劇が庵野エヴァであります。はっきり言ってパラノイア(偏執狂)すれすれです。

 ところが、この要素が貞本氏には欠けている。貞本氏の描くエヴァは「素直になりましょう」。これです。コミックのどの巻でもラストは、お互いの胸のうちをぽろっとさらしてしまうことにより、一瞬心が通い合う。そういう構造をとっています。貞本ワールドにおいては、心の通い合いは喜びの第一歩なわけです。

 くりかえしますが、一方庵野エヴァでは人の本心なんて「ただひたすら自分を傷付けるもの」にしか描かれません。他人の心の底にあるものは悪意、なのです。親しくなった友達は裏切ってゆくのです。少なくとも主人公の主観、では。テレビ版最終話では「考え方を変えればそんな風に敵意ばかりな世界も違って見えるよ」ってな終わり方でしたが、映画ではそのラストの先にさらに現実……LCLの渚で横たわる傷だらけのアスカを描きました。
 もっとも、このラストについては一つだけ肯定的な要素があります。それはミサトのクロスが墓標のように柱の打ち付けてあるカットがあることです。これはシンジ自身がやったものだと考えるのが自然です。綾波との結合シーンでも彼の手にはそのクロスがありました。
 そのクロスを打ち付けるシンジの心の内はどのようなものか。ミサトの心に応えたいという気持ち、ミサトの心を忘れたくないという気持ち、と考えられます。そして、そのミサトの心とは……死をかけてまでシンジを助けようとしたその気持ちそのものでもあるわけです。ミサトはこの瞬間、父と出逢います。そのミサトの行動こそは、ミサトの父が彼女にしたことと同じであるからです。私はここでミサトの父へのアンビバレンツな思いが解消されたと考えます。
 シンジがこのミサトの気持ちを心にとどめているということは、すなわち、他人を分かろうとする、他人と関わりたいと願う気持ちを不器用ながらも(ミサトの最後のシンジへの演説にはまだ彼女自身の悩みの押しつけが見られる)抱いているというわけでもあり。「希望」がまだそこにあります
 また、ミサトのクロスを柱に打ち付けたということは、シンジはアスカよりずっと早く目を覚ましていたことを意味します。実際、「母」と別れてLCLの海の上に顔を出した時もシンジの意識ははっきりしております。
 となると、隣で包帯だらけで倒れているアスカは、どういうことなのか。以上の流れから見れば、これはシンジが介抱したものと考えるのが自然です。つまり、シンジはLCLの渚にたどり着いてから、ミサトのクロスを墓標のように柱に打ち付けると同時に、傷だらけのアスカに包帯を巻き、彼女の意識の回復を待つように、隣に並んで寝ていた。そう考えられるわけです。
 そうなると、シンジがアスカの首をしめようとした動機が少し分かりやすくなります。助けたはいいけれども、生きているか死んでいるかも分からないアスカ。待っては見たけれども、生き返るのか分からない。もう死んでしまったかもしれない。いや、また生き返っても自分を責めるだけかもしれない。自分のしていることは無駄なのかもしれない。そう……いっそ、無駄なら……自分の手で決着を……。
 そんなシンジの心は分からなくも無い。

***


 脱線がすぎました。
 まあ、そんなこんなで結局はああいう形で終わったわけです。ここから感じるのは、庵野監督の両極端な心の動きにふりまわされていたな、ということです。シンジの心はいつも両極端を動いてゆきます。一切の内面を拒絶して表層的につきあうか、絶対的な結合を求めるか、そのいずれかへとがつんがつんとぶつかってゆきます。無論、それだけにその過剰さに観客は引き込まれるわけですが、その分疲れもしますし、なんだか騙されたような気分すらされます。
 貞本さんの場合はそういう激しさはありません。どちらかといえば、ボーリングで、力なく真ん中をうまくごろごろと頃がしてゆくような印象を与えます。庵野監督はガーターをものともせずレーンの両脇にがちがちぶつかっているようなものでしょう。
 ただし、さすがに貞本さんも「心の内をお互いさらけ出し合えばみんなハッピー」なんて物語は描かないかと思います。それでは結局人類補完計画と同じになってしまいますし、そんな脳天気な物語はもはやエヴァではありません。3巻のSTAGE16で、シンジの養父母の偽善的な姿が描かれていたりと、貞本さん自身にも人間の暗い側面を見つめていたいという気持ちはある、と思われます。

 そう考えてゆくと、庵野監督が描いたテーマそのものを貞本さんも一応は受け継ぐのではとも思います。それはつまり、ゲンドウやユイという両親に対するシンジのコンプレックスを描くであろう、ということです。
 それを貞本さんなりにわかりやすい形でまとめる。具体的には、人類補完計画を進めるゼーレが実は本当の敵であり、ユイはそれに気づき無害な方向に修正しようとしたが志をゲンドウに譲り自身はエヴァと融合する。ゲンドウはユイの意思をつぎながらも、ユイとの再会を果たしたいがためさらにユイの計画に変更を加えている。シンジはそれを知り(勘づき)、ユイの計画を遂行する形でゲンドウと対決(もしくは和解)。ユイとの再会を果たすも、現実に帰ってゆく……。
 抽象的ですが大筋はこんな感じでは無いかと思います。
 とにかく、フォースチルドレン編で1巻分費やすことは間違い無いと思いますので、その後の「人類補完計画の全貌が明らかになる」というパートでラストにたどり着くには最低でも1巻分。全6巻にまとめるのが限界だと思われます。最初は7巻分だと思っていたのですが、貞本さんのやる気の問題もあるので難しいと思います。
 大穴として、19話のクライマックスと人類補完計画の発動を一気にからめ、さくっと終わらせてしまうという可能性もあります。そうすると相当格好いいシンジ君がラストに見れることになるかとも思います。結構、本気でこれを望んでいたりもするのですが……どうでしょう。


2・アスカ、マジでシンジにLOVE LOVE LOVE?
[証拠]
 明後日から始まる中間テスト対策のため、シンジのマンションに集合することにした三馬鹿トリオ。しかし、シンジの部屋は段ボール箱で埋められていた。ふりむくとそこにはフレアのミニスカートにTシャツ姿の惣流アスカラングレーが腰に手をかけ立っていた。
「ミサトに誘われたの。ほんとはひとりのほうが気楽なんだけど。ミサトがどうしてもっていうしぃ」
「僕に一言の相談もなく?」
「なによっ、なんかモンクあるっての? ま、あんたはあたしのストレス解消の相手にはぴったりだし。たっぷりかわいがってあげるわ」
『じゃあ僕のストレスはいったいどうしろっていうんだョ?』

 そしてミサトが帰宅する。
 断りもなくひどい、と食い下がるシンジにミサトは言う。
「アスカが自分で来たいって言ったのよ」
「え?」
「シンジ君だけひきとって彼女を断るわけにもいかないでしょ。自分で言い出したってことは、あなたと二人ですごした五日間がよほど楽しかったんじゃない?」
 アスカは鼻歌を歌って、部屋の整理に夢中になっている。二人の会話は聞こえていないようすだった……。

[検証]
 以前より「シンジとアスカは同棲するのか?」という議論がありました。そして同棲するとするならば、どのような形になるのか、という問いに対しては「アスカの部屋が使徒の攻撃で壊れて……」という一応のエクスキューズを考えていましたが、事実はもっと単純。
 『人恋しくなったアスカがミサトやシンジのいるマンションで住みたいと思ったから来た』。これだけでした。しかも、アスカとミサトの交流シーンが乏しい所から、アスカはシンジ目当てである印象が強く感じられます。
 それにしても、このようにアスカとシンジの関係が接近しだすと気になるのがレイの存在です。今回はちらりとも顔を現しませんでした。しつこく三角関係話にこだわっていますが、考えてみると11話「静止した闇の中で」でアスカがレイに「ひいきにされているからっていい気になるんじゃないわよ」というセリフは、既に3巻STAGE21でも登場しています。『原作短縮化計画』は既に始まっているわけです。

 それはともかく。
 シンジは、アスカに「あんたは物置ね」と言われてあっさりひきさがってしまうのは……ページの都合とは言えずいぶん優しい奴です。なんだかんだ言ってもアスカと一緒に暮らせるのが楽しみ、なのでしょうか。
 このことについては後述します。

3・ケンスケ、ミサトに怖がられる
[証拠]
 シンジがアスカと五日も二人で暮らしていたという事実を知り、シンジを攻めるトウジ&ケンスケ。そのケンスケが突然、声を上げる。
「君達! 気付かないのかネ? 葛城さんの襟章の線が二本になっていることを! 一尉から三佐に昇進されたんですよ ネッ」
「ええ、まあ」
 冷や汗を流しながら笑顔で答えるミサト。
「そんなん気付くのおまえだけや……」つぶやくトウジ。
「よっしゃあ そうと決まれば祝賀会だ!」
 さけぶケンスケの背中を見ながらミサトは『この子、ちょっとコワい……』と思うのであった……。

[検証」
 これは12話「奇跡の価値は」のエピソードです。シンジは昇進して喜んでいないミサトの姿に自分の姿を重ね合わせる、という物語でしたが……多くの人は「ニンニクラーメンチャーシュー抜き」の回と記憶していることでしょう。
 ミサトは突っ走るケンスケの姿に「コワい」と心の声を漏らします。ケンスケはテレビでもマンガでも不遇をかこうばかりです。

 ケンスケの位置はいわゆる「メガネ君」と呼ばれるものに少なくともテレビにおいては限定されておりました。「メガネ君」とは竹熊健太郎&相原コージ著「さるでも描けるまんが教室」の中で少年漫画に置けるひとつのタイプとして紹介されております。それによればメガネ君の役割とはずばり「主人公をひきたてること」。これに尽きるようです。
 思えばケンスケは、常にシンジの状況にあこがれ続けています。ミサトさんとの同居に、エヴァのパイロットである事実に「いいなあ」と言うばかりです。19話で、シンジがパイロットをやめてネルフを去るときにも「なぜ今更逃げるんだよ。トウジですらエヴァに乗れるってのに、俺は……」と愚痴る始末。
 しかし、実際の行動を見るに、ケンスケの諜報能力にはただならぬものがあります。本編では削られておりますが、3話の脚本ではシンジ以上にエヴァに詳しいケンスケの姿が描かれてもいます。あの、JAを作った時田ですらも加持の手配した偽文章に騙されたというのに。
 しかも、14話で引用されている綾波の分析。零号機の行動の把握、綾波の内面の洞察。いずれも正確である。
 おそらく情報源はケンスケの父親からなのであろう。しかし、そんな機密情報を父親は家にまで持ち帰っているのであろうか。端末の中に仕組んだデータのパスワードをケンスケはなぜ知っていたのか。死んだ母親の名前だったからなのか……などと妄想は広がりますが、いずれにせよケンスケがネルフの行動やエヴァについてかなり精通しているのは確かなようです。

 そんなケンスケの潜在的危険性を察知してミサトはケンスケを「コワい」と思った……なんてことは無いとは思いますが、もう少しケンスケにも出番と言うか晴れの舞台が欲しいものです。

4・ヒカリ登場
[証拠]
 ミサトの昇進祝い兼アスカの引っ越し祝いということで、突然焼き肉パーティを切り盛りしはじめるケンスケ。
 つぶやき合うアスカとシンジ。ちゃっかり二人は隣同士に並んでいる。
 「そこ! 何ヒソヒソやってんの? さあ食べて食べて」
 肉をのせた皿を片手に立ちながら肉を焼くケンスケ。
シンジ「試験の作戦会議はどうなったんだろう……」
トウジ「おまえ腹くくる言うたやないか。ワシも腹くくったでェ」
ミサト『この際飲めりゃだんでもいいか。オゴリだしィ』
 そこに横縞のTシャツに腰のくびれたジャンパースカート姿の少女が現れる。
「あのーー コンバンワ」
 ソバカスの目立つ、上目遣いなお下げのその少女は後ろ手に花束を持っている。
「あ、ヒカリこっちこっち」
 シンジの隣でアスカは片手を上げながら笑顔で挨拶を返す


[検証」
 ヒカリちゃ〜ん。などとつい声を上げてしまうほど、アップで初登場の委員長。テレビ本編同様、アスカとヒカリは問答無用で既に友達になっている模様。委員長という立場上、転校生のアスカと接している機会が多い、それがため、親しさも生まれた……そんな所であろうか。アスカは、そのルックスと澄ました態度で友達は出来にくいタイプなのでは心配していたがよかったよかった(分かり切ったことではありますが)。いずれにせよ、ヒカリとアスカの仲は、フォース・チルドレン編には欠かせない要素でもあり、まさに「役者はそろった」という状態。
 ヒカリの性格は典型的な良妻賢母型。優しさの反面、厳しく子供を叱ることも忘れないタイプである。ただし妙に考えが古くさい。その点は「男らしさ」を強調するトウジとも共通している。その分浮気したら後が怖そうだ……。
 いずれにせよ、今回の登場を皮切りに今後の活躍を望む。個人的には髪を降ろしたチャイナっぽい寝間着姿がよかった。

 関係は無いが、鉄板の上に並んだ品々、野菜が多くて肉が少ないのはわびしい。すぐ焼ける肉を後回しに焼いているのかもしれないが……。鍋奉行というのは聞くがケンスケの場合鉄板奉行とでも呼べばよいのか。まあ、稼ぎが無さそうなわりにオゴルという根性は素晴らしい。がんばれケンスケ。

5・シンジ、余裕をかます
[証拠]
「アスカ、ほんとに碇君と住むんだ」
 隣に座ったヒカリの言葉にアスカはすまし顔で、
「そ、作戦上仕方なくね」と答える。
 反対隣のシンジはそれを見て吹き出す。
『何が作戦だよ、ミエ張っちゃって』
「何? 今の笑い」
 つっこむアスカ。
「いや、なんでも……」


[検証]
 前回述べましたように、完全にアスカに対して精神的に優位にいるシンジ。しかしシンジの心の奥にいるのは綾波レイ……おそらく。


 人が人を好きになるのに理屈は無いとはもうしますが、やはりそれでも多少の法則はあるもの。原則的には「共通点」がお互いにあった上で、すごいと思えるだけの「自分には無いもの」を持っていた場合、好きになることが多い。これは異性間でも同性の友達間でも同じであろう。
 その点シンジとアスカの間には「エヴァパイロット」「いい子でいなくてはいけなかった」などの同じ屈折を抱えているわけです。しかし、これは綾波とて同じこと。
 となると問題は、綾波とアスカの何が違うということであり。綾波がユイのクローンであるなどの条件を抜いて考えると、外向的と内向的との違いがもっとも顕著です。日本でも古くは清少納言と紫式部にまでさかのぼるまでにこの差には深い溝があります。
 ちなみにこの外向的と内向的との性格の区別はユングによってまとめられ広く受け入れられております。これはユングは師匠であるフロイトと仲間のアドラーの対立の様子を見てまとめた研究とも言われておりますが、精神分析的要素が弱い分もあり、心理学上の通説として広く受け入れられた考えでもあります。
 この手の細かい話は、数多くのエヴァ関連書籍でも繰り返し述べられている所なのでここでは深く紹介しません。ただこの説によれば内向的か外向的かの基本的性格はかなり生来的なもので環境に左右される部分が少ないとされます。
 また外向的=父性的=西洋的内向的=母性的=東洋的と区別されることもあります。まあ、曼陀羅にかぶれたユングの言うことですから、少しさっぴいて考えた方がよいかもしれませんが、エヴァ全体のテーマともなかなか呼応しており、見逃せない要素でもあります。
 (そしてこのように西洋的価値観と東洋的価値観の対立という観点から捉えるとこれは、広く日本人の価値観そのものの問題ともつながってゆきます。法律などはその一番の例ですが、とにかく一般の感覚と「建前」の感覚には違和感があります。この違和感に価値観の対立が表れているとも言えます。
 そしてこの二つの価値観を使い分けることが出来るのが、一種東洋的でもあるわけですが、同時にその事自体に疑問を持つことがあるのも事実。ややこしいのでこれ以上はここでは深入りしません)


 回りくどい言い方をしましたが、そうした観点でシンジ自身を見ると……と、実はこれが一番の問題になります。正直言いますと、「どちらにでもとれる」ようにも見えるのですね。基本的には内向的ではあるのでしょう。しかし、その内面の理解力が弱い(特に庵野シンジの自己分析は鋭く深い一面があると同時に何かぽっかりと無視されている側面があると感じる)部分について、考えるとこれは外向的とも考えられます。
 私自身は庵野監督は本来は外向的なのに、あえて内向的側面を強調している人、貞本さんは本質的に内向的で、それを素直に提示してみせている人、と捉えています。その判断に従い、コミック版シンジを見るとわりとアスカとうまくいきそうにも考えられます。物語としては、という限定つきですが。
 一般的に見て、タイプが違う人とは激しい恋を、似たような人とは穏やかな関係を、というのは多くの人が了解する所でしょう。そして、物語として面白いのは前者であるわけです。
 この辺りに、綾波とアスカ、いずれにこころ引かれるか観客の好みの差が出るとも考えられます。この点についてはいずれ機会をあらためて述べたいとも思います(既に日記で序論らしきものは述べておりますが……)。

6・取材旅行の行く先は……
[証拠]
 ヒカリとアスカは加持の噂話をする。アスカ曰く、ここ3日電話もつながらないという。
 そこへ玄関のチャイムが。加持、登場である。パーティか、と尋ねる彼に、部愛想な返事しかしないミサト。
「つれないなあ、せっかく松代の土産持ってきたのに。ワサビ漬けと桜肉」


[検証]
 取材旅行ということで、長いこと連載が泊まっていた貞本さんですが、もしかしてその取材先とは「松代」であったのか。そこでワサビ漬けと桜肉を所望なされたとか……。ありえそうなのが怖い。
 ちなみに今月号は「私立樋渡高校COMICS」と「ヱデンズ ボゥイ」が同じく取材旅行の名目で休載。分かりに二つの新人読み切りが載っている。さすがに「代原」では無いようだが……エースには取材旅行による休載が多いのも事実である。

 さらにこの後、アスカは加持の腕にしがみつき、お土産をねだるのだが、そんな彼女に加持が渡したお土産は「まねき猫」。こっそり「なにこれ」とつぶやくアスカですが……確かに。気の利きそうな加持にしては少々間抜けなプレゼントです。ここは、突然土産をせびってきたアスカに手持ちの品から咄嗟に渡したものと解釈しておきましょう。個人用に買ってきたものかもしれませんね。もしくはミサトの部屋においておいてあげるもの、か……。

7・団欒、そして……
[証拠]
 あれは二重人格女や、というトウジの挑発に思わず右ストレートをアスカはお見舞いしてしまう。とりつくろうアスカに、ミサトは「育ててくれた義理のご両親の前じゃないからムリしていい子でいなくていいのよ」と語る。
 「僕の言った通りじゃないか」と言うシンジ。照れくささをごまかすようにそんなシンジの首をしめかかるアスカ……。
 こんな風に騒ぐのも、こんなに楽しく思うのも初めてだ……しかし、こんなことは長くは続かないだろう。シンジはそっと心の隅でそう思った。

[検証]
 アスカは、その凶暴な一面を周囲にさらけだすことにより、かえって友人たちと結びつきを強くします。そんな状況にシンジも嬉しさも感じる一方、不安も隠せない。幸せなんて長く続くわけないんだ、と……。

 うがった見方をすれば、この後に続く参号機との対決を予兆させる手段としてこのようなつぶやきをシンジにさせているともとれますが、物語的には幸せな気持ちより不幸せな気持ちの方が慣れているというシンジの性格を表したものととれます。
 また、作劇上も不幸を強調する前に幸せなシーンを強調した方が効果がある。もちろん、逆もまた真なり、ですが。まさに人生泣き笑い、であり。

 情報としてここでアスカもシンジと同じく養父母で育てられたことが明らかになり、両者の距離が一段とぐっと近づいたと感じられます。

 ちなみにエヴァには語弊のある言葉ではありますが、いわゆる「欠損家庭」が多いと指摘されております。しかし、これは子供を主人公にした物語の一つのパターンでもあります。親がいると、自由な活動をさせにくい、つまり話を進めにくい、という点の他に、その方がよりわかりやすい形で親子関係の物語を描けるという利点もあります。
 そうなると普通の家庭に育った子供は感情移入しにくいのではという危惧もありそうなものなのですが、意外とこれは大丈夫なのです。子供というのは誰でも自分と親とのつながりを疑ってみたり、または親なんていない方がいいのにと思うものですから。それが自立してゆく準備でもあるわけです。

 もっとも、ミサトの言葉は義理だから悪いという構図に陥りそうでちょっと危険さも漂わせます。義理だから悪いとは限らないし、実の親の方が悪い場合もある。ゲンドウなどはその例でもあり。考えてみればシンジをおいてエヴァに残ったユイだってほめられたものじゃありません。世界を救う前に息子を救え、ともちょっと言いたくなります。ユイとしては、シンジは自分がいなくても立派に育つと考えたのでしょうが映画を見る限りではちょっと、去るのがはやすぎた様子です。その分エヴァに載った時に、シンジを守ってあげているのかもしれませんが……。
 まあアスカの義理親子問題に限ればアスカが天才児すぎて養父母ももてあましてしまい、アスカの方もそんな彼らに気を使ってしまっていたのでしょう。是非、アスカが養父母から幼児虐待にあって……なんて展開にはなって欲しくないものですが。こればかりは祈るほかありません。痛快SFを目指すとも言っておりましたし、それは無い、ですよね、貞本さん? ……ね?(^_^;



正直、エヴァから頭が遠ざかっていたので、今回ムリにひねりだして書いたという気分です。
そのせいかちょと切れ味が悪いかな、とも思いますが、ご勘弁の程を。

参考文献
「月刊少年エース1998年1月号」
「新世紀エヴァンゲリオン Volume1〜4」貞本義行著 角川書店
「EVANGELION ORIGINAL I〜III」富士見書房
「THE END OF EVANGELION Air/まごころを、君に (フィルムブック)」角川書店
「DEATH&REBIRTH 映画パンフレット」東映
「スキゾ・エヴァンゲリオン」「パラノ・エヴァンゲリオン」太田出版
「ユング心理学入門」河合隼雄著 培風館


[Back to DEEP EVA]/ [MORIVER'S HOMEPAGE]


文責:moriver(moriver@geocities.co.jp)(感想、叱責等、一言でもお願いします)
なお、この文章のリンク以外の無断転載・無断引用は禁止します。
「新世紀エヴァンゲリオン」は、(C)GAINAX/Project Eva.,テレビ東京,NASの作品です。

1