月刊少年エース9月号読感
(7月26日 15:32)


お待たせです。結局3回目も書いてしまうことにした9月号読感。
正直、映画のショックのせいで、今一つ乗り気ではありません。
しかし、今回一読して思う。
やはり貞本エヴァは別物である。全く違うと言ってもいい。
映画の後では、混乱してしまうほどに。
今回は、貞本氏に対する酷評を交えながら、無理矢理映画のラストシーン問題にも切り込んでいこうかと思います。






1・戦闘シーンにやる気なし
<証拠>
 テレビ版とは異なり予定より3時間早く動き始めた使徒に、慌てるミサト。
 パイロットの搭乗がまだと知る彼女は慌ててベッドルームへ。
 そこでミサトは、床に眠り転がるシンジとアスカの姿を見て仰天する。
 寝ぼけ眼の二人を無理矢理引っ張ってゆく。
 しかし、二人もエヴァに乗れば、目はすっきり。
 強気の二人の様子に、ミサトはとまどう。
 発進。
 そしてミュージック・スタート……

<検証>
 はっきり言いますと、貞本画伯のマンガは戦闘シーンに迫力がありません
 その原因の一つはまず「書き文字」の下手さにあります。
 試しに一巻の冒頭の擬音を拾い上げてみましょう。

 「ズゴゴゴゴ」「シュパアアア」「シュオオオ」「ゴゴゴゴーン」「グオオオ」「ズズズズ」「ドドー」「ドムドム」

 ちなみに今回の戦闘シーンでは。

 「バッ」「バシュウ」「グオ」「ババッ」「ドン」「ガシャン」「ガン」

 一見して感じることは「陳腐」であるということ。ほとんど、ケンスケがビデオカメラを前に一人遊びに興じているの(三話)と同じぐらい、芸の無い擬音です。
 しかも、他のエースの作品と比べて見ても、その文字の形・配置などにも工夫がありません。アニメーター上がりというせいもあるでしょうが、「書き文字」についてのセンスは正直あまり持ち合わせていないようです。

 二つ目。戦闘シーンのカット割も決して上手くはありません。「AKIRA」などは完全に映画的なものを意識して、変形コマを極端に排除し、静止画の連続により動きを見せるという離れ技を駆使しています。この手法はさらに、「スラムダンク」にも継承され、緻密でリアルな絵に向いているものと、判断できます。
 しかるに、大友世代を経ているはずの貞本エヴァは半端に少年まんが的な変形コマを使用しており、却って、その戦闘からリアルさが失われているのが、あまりにも惜しい。
 また、テレビ版エヴァ特有のアングルつけのカットなども、故意的にか排除され、全体的に「平凡さ」がにじみでています。正直、「とんがっている」ことを要請される「ハードSF」にはそぐわぬタッチです。
 貞本画伯は、人間描写は大変巧みですが、メカや戦闘のタッチのレベルは低い。メカのデザインセンスにもそれは現れています。貞本画伯の暖かさが、SF的「とんがりさ」を抑圧しているものと私は推察します。

 しかし、そんなことは貞本画伯本人が百も承知なのでありましょう。
 では、対策としてどうすればいいのか。
 彼の結論はこうでした。
 「テレビ版の絵コンテを丸写ししてしまえ

 何しろ今回の話の元はガメラ2の特技監督も務めた鬼才・樋口真嗣氏の絵コンテによる第9話。コミカルでありながら迫力とテンポあるこの回の戦闘シーンは、エヴァ中でも屈指の出来と言えましょう(意外に派手な動きをする戦闘シーンは少ないのもエヴァの特徴か。1話・2話・8話・18話・19話などぐらいである)。
 となれば張り合うことなど最初から無駄とばかり、ほとんど戦闘シーンの全てのカットがテレビ版のそれと同じです。
 どのくらい「写して」いるかと申しますと、47ページの右下。地面のエレベーター口(若しくはスイッチ)を踏むエヴァの足のアップ。そこに、道路標識と共に「郵便ポスト」が書いてあるますが、このポスト、なんと昔の円柱形の「丸ポスト」なのです。
 計画都市である東京第3新東京市のポストが丸ポスト。
 私は、テレビ版でこのカットを見た時(コマ送りしていた)、これは原画の人が遊びで書き入れたのだろうと思っていました。さすがに丸ポストはなかろう。昔の物とのミスマッチを効果的に狙ったカットとして個人的に気に入っており記憶していたのですが。
 しかるに、今回のマンガにもこの丸ポストがあるのです。全く同じ形で。
 これ以上は繰り返しませんが、お読みになればその極端な「模写」にすぐお気づきになるかと思います。
(もちろん、第3東京市のポストは全部「丸ポスト」という設定があるのか可能性もあります)

 人間ドラマ部分は全くといいほど書き換えている貞本氏ですが。戦闘シーンはにはどうもやる気が見えません。5月号・6月号(STAGE22・23)のシーンがやや気合いが入っているように見えた分だけこのフィルムブックのままのような出来には、正直落胆させらました。
 個人的には「ジョジョ」を見習って、擬音の使い方ぐらいは上達して欲しいと思っております。
 それと変形コマも減らし、浦沢直樹(「MASTERキートン」「MONSTER」など)的にした方がよいかと思います。王立宇宙軍のシロツグなどキートンそっくりなのですから、相性は悪く無いと踏んでいるのですが。いかがでしょう。



2・ミサト、加持に抱きつく
<証拠>
 使徒殲滅に成功し、思わずミサトは傍らの加持の首に抱きつく。
 しかしすぐに我に返りその頬をはたく。
 「あれっ」ととぼける加持であった。

<検証>
 8月号追記で述べたように、ミサトと加持の関係もかなりテレビ版と異なっております。テレビではミサトの「ファザーコンプレックス」が破局の原因であったようですが、どうも、貞本版では「加持の浮気」あたりが原因であるよう。とにかく、ミサトは加持のした何かに怒っているのは確かで、それが主たる原因であるようなのです。
 しかし、いずれにせよミサトの扱いもテレビと比べると三巻以降ぐっと小さくなっております。加持との確執もただの「痴話喧嘩」以上のものには見えません。二人の仲もいずれうまくまとまるのでしょう。テレビ15話が一つの到達だとすると、次の章(第5巻分)の終わり頃がその決着の場と予想します。
 それまで読者は暖かく見守るだけです。

 それにしてもオペレーター三人組は全く脇の脇においやられています。今回の司令室で顔をセリフがあるのは「マヤ」だけです。日向と青葉はどこへ……。判官贔屓な私としては特に青葉が気になります。映画でも扱いはひどかったですし。青葉に幸あれ



3・シンジ、特別に許される
<証拠>
 

 例によって、使徒殲滅後、無様に重なりあうエヴァ両機。

 アスカ「着地のタイミング 外したわね」
 シンジ「ごめん… だって夕べの特訓最後の所で力つきて寝ちゃったからさ」
 アスカ「なによ 着地くらい特訓しなくてもちゃんとやんなさいよ」
 シンジ「だからごめんって言ってるだろ もう終わったんだからいいじゃないか」
 アスカ「……」
 (ここまではいい。次である)
 スカ「特別に許す。使徒には勝てたんだしね。どんくさいわりにはまあよくがんばったわ(凛々しい笑顔)」
 シンジ「……(落ち着いた笑顔)君の口からお褒めの言葉を聞けるとは思わなかったな」
 そしてエントリープラグの中で眠り込む二人。
 ミサトは一人司令室で首をかしげるのであった……。

<検証>
 
君たちダレ?

 夏映画ではシンジはアスカを愛する事もできず、またアスカもシンジを受け入れる気などさらさら無い、という展開に終わりました。それが非常な現実だと喝破するがごとく。
 しかし。
 この今回に置ける、二人の見つめ合い、そして心の通わせ合いは一体……。
 「瞬間」どころか「たっぷり」心を重ねております。
 エヴァ小説界ではLAS、すなわち「ラブラブ・アスカ×シンジ」というのが一つのテーマとして有りますが、それを地でいくようなこの展開。
 特別に許しちゃうアスカもアスカです。
 そして余裕でそれを受け入れるシンジの姿は、分かっていたこととは言え、映画の彼とは100%別人です。

<脱線エヴァ論・「映画ラスト、なぜシンジはアスカの首を締めたのか」>

 さて、ここであえて映画についての論評を行いたいと思います。
 映画ラスト、シンジは夜空の下、LCLの渚で目覚めます。傍らにはアスカがいます。
 この時、アスカが何故包帯をしているのか。
 補完の過程でシンジが思い浮かべたイメージが定着されたのか。これもATフィールドの特殊な使い方のせいなのか。まあ、細かい理屈は置いておきまして、問題はこの「包帯」をしているという事実そのものです。
 これはまさに私が説いていた「綾波の要素をアスカが身につけた」ことを指すものでありましょう。私は記憶が定かでは無いので、ここは他人の意見なのですが、アスカの包帯の巻き方が最初の綾波の包帯姿と同じである、という見解も存在します。

 そんなアスカに対し、シンジは馬乗りになり彼女の首を締め始めます
 ここのシーンについて「何故」と疑問の声を上げる方もおられるでしょうが、私はむしろこの首締めを一種の「成長」と受け止めました。

 直接的には「補完」の最中のアスカとの壮絶な喧嘩の後を継いでいるのでしょう。アスカにすがり泣きつくシンジ。それを「あんたは誰でもいいのよ。私のことなんか本当は好きじゃないのよ」とつきとばすアスカ。飛び散るコーヒーメーカー。異常にリアルな男女の争い。そしてシンジはアスカの首を締め始める。

 これはあくまでシンジの内面の物語でしたが、今度は違います。現実のアスカに向けての敵意です。自分を受け入れず拒否したアスカへの複雑な思い。自らの意思により復活させてアスカではあったが、そこには、その思いを否定することもできない。
 確かに、絞殺しようとする行為は常識的に見て許されるものではありません。思い返すに18話、シンジは「人を殺すよりは死んだほうがましだ」と言うような少年でした。それなのに……。
 私はむしろ「それだから」と考えました。

 「自分が死んだ方がましだ」というシンジは確かに立派ですが、そこにはどこか偽善的な色が見えます。シンジが死を選ぶと言ったのは、人殺し行為に反抗する正義感では無く、単に「悪いことをして、人に嫌われるような人にはなりたく無い」といことではなかろうか。そんな疑いを私は持っています。
 実際、19話冒頭ではいきなり「基地を半壊させる」と物騒なことを言っており、ここからもシンジの正義感の弱さを感じ取ることができます。
 結局、シンジには自分が無いのです。ただ、極限になった時、怒りという形でかろうじて自分を表現することができるのです。19話で急にシンジがはきはきしだすのも、エヴァに再搭乗して己の力に酔いしれるのも同じです。シンジが自分を出すのはいつも「マイナス」エネルギーによるものでした。

 だが、その自分もアスカへはほとんど向いたことがありませんでした。アスカに何か言われたらシンジはすぐに謝ってしまいます。
 映画冒頭のようにアスカが意識を崩壊している時には、目の前での自慰という陵辱をすることすらできたというのに……。

 従って、映画ラストでの首締めは、アスカに対する正直な自分の気持ちをぶつけているということで、シンジにとっての真実であり、それは一種の「成長」(今までより多少マシ、という程度にすぎませんが)でもあるのです。たとえマイナス的なものでも、自分の本心をぶつけること無しには関係性の発展は望めません。
 「喧嘩するほど仲がいい」という言葉がありますが、「仲がいいから喧嘩する」のではなく(そういう側面も皆無とは言い切れませんが)喧嘩により本音をぶつけあうことで仲が進むことが可能になると解すのが妥当でありましょう。もちろん、自分の本心を隠しての喧嘩ではちっとも仲良くなれないのは、皆さんがご存じの通りです。
 逆に言うなればそのようなお互い傷つく可能性というリスクを通してしか人は、他人を深く知ることはできない、と言うことです。自分と共通点の多い人とはすぐに或る程度は親しくなりますが、全く同じ人間などいるわけ無いのですから、どこかで「喧嘩」をせざる得ません。その時、どの程度自分の本音に従って行動できるか……格好よく言えばどこまで「自分に賭けることができるか」……によって、結論は異なってくるでしょう。

 さて、そうして見るにこのラスト。私は非常に期待を持って、シンジの行動を見守っていました。実際、シンジの首締めによりアスカは意識を取り戻し、その腕が彼の頬に当てられます。
 そこでシンジは自分のしている行動に気づき、泣きだします。それは単純にアスカが生きていてよかったというものでは無く、こういう形でしか他人と接することができないと、自分を受け入れた悲しさ、そして、その行動によりなにがしかのリアクションを得られたという、わずかばかりの安堵によるものと私は考えます。

 アスカはそのシンジにどんな態度を取るのか。
 期待高まる中、アスカが吐いた言葉は……「気持ち悪い」という最高の侮蔑でありました……。
 ああ、と見る者は落胆します。
 やはり現実は甘く無いのだな。甘いどころが無茶苦茶苦いのだな、と。いや、苦さなんてものですら無い。苦痛だけなのだな、と。
 その絶望の大きさはひどいものです。

 補完計画の終わる直前、ユイによる「生きていればそれだけで幸せになれるのよ」というセリフがありましたが、少なくともこのラストシーンからシンジは幸せをくみ取ることは難しいです。
 私はこの点からこの映画が「分裂している」と考えました。また、画面の端々にも「肉体の崩壊」「結合」「分裂(カヲルとレイの下半身が一緒)」を感じ取ることができます。サイケデリックと申しましょうか、正直、病的イメージです。
 それ自体は悪いことではありません。仏像の幾つも手がある姿も充分分裂していますし、また、分裂は創造性の一つの温床でもありますから。

 しかし、最後の最後まで分裂したままでは物語は閉じられません。では、どうやれば終わったと見ることができるか。
 その答えが「終劇」の文字であり「幕」であるわけです。

 私は「ガイナへの手紙」でラストについての見解を述べましたが、あえてプライベートフィルムという側面を抜いて、私が捉えたエヴァのラストは、以上のような感じです。
 おおいなる希望と絶望。それを間をおかずして繰り返されることの混乱。そしてどうもその結論は絶望のままらしい。いや、「らしい」と言うことすら単なる期待にすぎず、現実には「絶望のまま全ては終わっている」と言うべきなのだろう。

 気持ち悪いという言葉は単に、アスカが寝起きで(?)少し精神状態がおかしくなっていただけだ、とか、アスカのあの言葉も取りようによっては、いつもの「あんたバカ」と同じ性質に見れる、という説もありますが、それはかえって監督に失礼な解釈だと思います。
 明らかにあれは絶望的ラストです。
 希望はわずかに、「アスカもシンジも生きている」ということだけですが、お釈迦さまが喝破された通り「生きているということは苦しいもんである」というのもまた真実。「生きていれば死ぬより絶対幸せ」と断言することはできないのです。もし、呑気にそんなことを言う人がいたら、それは絶望の意味を知らないのではと疑ってみる必要があります。エヴァの壱拾六話にあったように絶望こそ「死に至る病」であり。
 逆説的ではありますが、アスカはいっそ死んでいた方がよかったのかもしれません。そうすれば新しい彼女を見つけることもシンジにはできたでしょうから。非情なようですが、お互いが離れられずにずるずるとおかしな関係を続けるよりかはマシであると私は考えます。元々シンジはアスカのことを好き、というわけでもなく単に依存したいだけであったようですし。

 ちなみにあのラストでは、私は二人以外の人間も生きているものと踏んでおります。最初に死んだと思われていたアスカが生きているということで間接的に他の者も生きていることを示唆していると考えられるからです。
 アスカはシンジにとって、男では無い女、自分では無い他人の総合的象徴であるわけで。
 それだけに見るもののショックの大きさは計り知れません。



***


 ここで、話を貞本エヴァに戻しましょう。
 そんな風にアスカを通して「他人」を描き、そこにある深い溝を描いた映画と比べ、この今月のマンガの「ラブラブ」なこと。
 二人の「喧嘩」は前回のようなマイルドな形で昇華されて描かれいます。そこには「大人」である加持の姿がありました。すなわち「喧嘩」も背後に見守る人物があれば、決して横道にそれずとりあえず前向きに進む可能性が高くなる、と貞本エヴァの中では描かれているわけです。
 考えてみると、アニメエヴァでは見守る人物が皆無でした。ミサトは自分の思いを勝手にシンジにぶつけ、母=エヴァ初号機もまた、シンジを取り込むグレートマザー的恐怖の存在でありました。誰一人じっとして事態を見守ることができなかったのです。
 何もせずただ側にいるってのは難しいもんです。何か一言言ってみたり、ちょっと行動して見たり、何かしないと落ち着かないのが普通です。

 貞本エヴァにはチルドレンを見守る目が幾つもあります。ミサト、加持、そしてあの父ゲンドウでさえも。厳しい言葉のわりに、今まで最初の出撃以外、シンジに行動として無茶はさせていない。もっとも、今後どうなるかは分かりませんが、少なくとも現時点では、貞本エヴァとアニメエヴァ(庵野エヴァ)は完全にドラマ的には別物語になっていると明言できそうです。
 まさに読者として黙って「見守っていきたい」ものです。
 (え、ここまでうだうだと述べている私が言っても説得力が無い? そうかもしれません(^^; ここが私の限界です)



4・グッナイ・ベイビー。次回新展開−−!
<証拠>
 最後のページにある「あおり文句」(欄外の編集者のコメント)、
 それがこの「グッナイ・ベイビー。次回新展開−−!!」である。
 そして、最後には小さく「次号は取材のため休載させていただきます。さらにパワーアップして再開しますので、お楽しみに!」の文字が。

<検証>
 改めて言う。
 エヴァの担当者は即刻クビ、である。でなければ他の人に変えたほうがいい。
 なにが「グッナイ・ベイビー」だ!!
 もしかして、貞本氏が音楽好きだということでつけたのではなかろうな。まさか画伯本人が書いているのか?
 いや、いずれにせよこのあおり文句のセンスはひどすぎる。大先生の作品だというので緊張しているのか。恥ずかしい上に、ちっとも心に訴えてこない。
 最近復刻された「サルまん」(竹熊・相原著)によれば「サルまん」「伝染るんです」の元編集者の方などあおり文句を考えるのに締め切りを遅らせてまで二日かけて練り上げたりもしたらしい。
 それに比べ……。
 エース編集部は、エヴァについては編集者がタッチできない聖域であり、逆に誰でもいいと思っているのだろうか。いや、あおりも立派な作品の一部だ。そう私は信じる。
 ともかく。エヴァ担当者は猛反省をして欲しい。でなければ「変えろ!」


 そしてもう一つの衝撃。
 なんと「次号がお休み」。しかもその理由が「取材」。
 一体今更何を取材しに行くのだ。貞本画伯、映画が終わって一段落している場合じゃないっすよ。それともエースの部数安定を長期化させるための編集部の謀略なのか。
 一月わずか24ページですよ。一日1ページでもお釣りがくるというのに。
 最近酒鬼薔薇事件でまたまた有名になった「寄生獣」でも一月34ページも書いていたのですぞ。しかも、話も基本的に一人で考えて(おまけにこっちはラストも最高の出来だった)。
 エヴァは大枠の話があって、一月24ページ。せめて、「寄生獣」なみに。できれば、週刊レベルに。こんな、長丁場の物語を打ち切りの心配も無く書けるというだけでかなり精神的には楽だと思うのだが(庵野監督と比較されるというプレッシャーはあるだろうが)。
 早く我々にラブラブ三角関係話を見せてくれ。お願いします。







 やや酷評の上、字数稼ぎのために映画論まで強引に入れてしまいましたが。
もうこんな調子だとネタも無くなるので、面倒になってきます。
 リクエストとして「貞本ゲンドウは『理想の上司』だと思うのですがその辺りの言及お願いします」というのも来ていますが、これはなかなか難しい。ゲンドウの性格が映画でもよく描かれていたとも言えないし、またそれはマンガにおいても同様なのであり。またリーダーシップ論は奥の深い分野でもあります。
 ただ、もしこの読感を続ける気力がありましたなら、いずれは触れたいとも思っております。
 ともかく、妙に中身の薄かった今回の話。
 おつきあい願いましてありがとうございました。
 やや比較のパワーが弱かったですが。
 これもみんな、映画が悪いんだ(;_;)


[Back to DEEP EVA]/ [MORIVER'S HOMEPAGE]


文責:moriver(f7152684@nv.aif.or.jp)(感想、叱責等、一言でもお願いします)
なお、この文章のリンク以外の無断転載・無断引用は禁止します。
「新世紀エヴァンゲリオン」は、(C)GAINAX/Project Eva.,テレビ東京,NASの作品です。

1