ありふれた愛に関する話
「ありふれた愛に関する話」
あるバーの片隅にて。
「おれさ、昨日、清少納言に会ったんだよ」
有田は氷の入ったグラスを片手で弄びながらそう言った。もう残り僅かになったモスコミュールを一気に空けると、彼は慣れた手つきでバーテンを呼んだ。
そんな様子を、堀井はじっとただ黙って見ていた。カウンターの上に置かれたソルティー・ドッグはまだ半分程も残っている。
「おまえも飲めよ」
盛んに酒を勧める有田の言葉を、堀井は「いや、いいんだ」と軽く受け流し、
「それより、話の続きを聞きたいな」
体を相方の方へと向け、軽くソルティー・ドッグに口をつけた。グラスの縁にそえられた塩は三分の一も減っていない。
有田の口が開く。
「ああ。そう、彼女なんだけど。おれはほとほと嫌気がさしたね、あの女には。なんて言うかさ、とにかく我が侭なんだよね、ホント。何か注目を浴びてないと我慢できないだよな。そりゃあ、エッセイの腕は認めるよ。正直面白いと思うけど。でもさ、作品と作家は別もんでさあ、って当たり前の事いっちゃうけどさ、あいつは勘違いをしてるね、うん、まじで。ブスだよ、あいつは。そうなんだよ。あいつはホント、ブスだよ。腐れ雌ブタ!」
そして彼は急に立ち上がる。堀井はまあまあとなだめる。バーテンがタイミングを見計らったかのようにI.W.ハーパーをついだグラスを持って姿を現わした。
「まあそう興奮するなよ。死んだ人間の事をとやかく言うもんじゃないよ」
「いっそ、いついつにあんたは死ぬんだよ、とでも言ってやろうかね。・・・・・あいつ何才で死んだんだっけ?」
「さあ。いつだったかな」
「長生きしそうだな。ああいうタイプはさ」
「それでどうしたんだ」
「なにが」
「だから、その後さ」
「ああ・・・・・誘われたよ。部屋にね。アパートみたいなもんでさ、貴族ってのは大体同じ建物の中で暮らしてるのな。知らなかったよ」
「宮中だけだろ」
「そうなのか? まあいいや。正直、まいったね。いや、それが普通だっていうんだからしかたないけどさ。ほら、あそこって基本的に一夫多妻だろ。女は男からの貢ぎ物でくらしてるわけだからさ、必死なもんだよ。金持ちひっかけないと生活できないからね。俺もさ、一応大学出のエリートって事になってるから、あいつもそれに惹かれただけだと思うんだよな。そういう女なんだよ」
「なんだ、君、真剣だったのか?」
有田は返事もせずにハーパーを一気に半分まで飲み干す。黒いスウェットにニコルのブルーなジャケットを羽織ったその姿は彼の一番のお気に入りのスタイルだった。女の子をひっかけるテクニックは堀井の知っている限りでは彼がダントツのナンバー・ワンであった。
堀井の方はと言えば、会社の帰りという事もあってグレーの上下に千円のネクタイといたって地味な格好だ。もっとも彼に言わせればスーツが着たきりなのは別としてタイのデザインだけには毎日趣向をこらしているらしい。その言葉を裏付けるかのように、ネクタイ・ピンなどは落ち着いたシルバーのイタリー製だ。黒縁のメガネの奥で目が細まる。
有田の方でも堀井が自分に気をつかっているのが良く分かっていた。だが、そんなだからこそ時々、堀井にストレートな怒りをぶつけてしまう。この時もまたそうだった。
「分かったようなこと言うな!」
有田が叫ぶ。
バーテンがじろりと二人の方をにらんだ。堀井はたじろぎもせずじっと友人の姿を眺めていた。彼は有田の目尻が寂しげに揺れている様を見逃さなかった。
「正直に認めろ。君は彼女を愛している」
有田は左手につけたオメガをしきりにいじり始める。それは、いらついた自分を押さえる儀式のようなものだった。
「学生時代からなにも変わっていないな」
堀井は苦笑まじりにそうつぶやいた。
「そうかもしれん。しかし、俺だって前と全く同じってわけでもない。実際、一人の女をあんなに真剣に思ったのは初めてだ。三十数年たってやっと気がついたよ。人は誰かを愛するべきだ」
「くさいな」
「かもな」
有田はにやりと笑うとハーパーでちょっと口をしめらせた。
「十二単衣ってのは意外にぬがすのは簡単なんだ。そういう風に出来てるんだろうな。肌を見た時、俺ははっと息を飲んだね。例えでも誇張でもなく、本当に呼吸が一瞬止まったよ。肌がまっ白なんだ。透き通るような肌ってのはまさにああいう事を言うんだな。傷一つないんだ。香の匂いが部屋いっぱいに広がってきてさ。くらくらっときたね。なんか危ないハッパでも入ってるのかな。彼女の髪が床一面に広がっててさ。そんな光景が燈台の僅かな明かりの中で目の前に浮かび上がってるんだ。で、俺はまず彼女の頬に手を当てた。やたら、ひんやりとしていた。眉墨の辺りにも触れてみた。彼女、黙って目をつぶっていたよ。手をしだいに下ろしていくと、彼女、緊張してくるのがわかるんだ。ちょっと寒かったからさ、一応彼女の体には脱いだ着物を数枚かけていたんだけどそれを押しのけもせず、俺、思わずそのまま倒れこんだよ。彼女の手も俺の体に手を回してきてさ。それからいつもの習慣で彼女の薄い唇にキスしたんだけど、そしたらさ、彼女急に泣きだしちゃってさ。こんな事されたの初めてだって言うんだ。もちろん彼女、処女ってわけじゃないよ。キスを知らないってんだから驚きだよな。まるで子供だよ。でもさ、その泣き方もさめざめって言うのかな。うつむいて、白い着物を体にぎゅっとひきよせて、細い肩を小刻みに揺らしながら、声も出さずにただすすりあげてるんだ。あの、彼女が。気丈で、いつも自信たっぷりに語るあの彼女が。泣いてるんだ。いつまでも。おれも、どうしたらいいのわかんなくなっちゃって、黙って反対側向いて座ってた。煙草吸う訳にもいかないしさ、傍らにあった魔除けの弓を慢然と鳴らしていたら朝になった」
有田はため息をついてうつむいた。
「あんな女初めてだ。全くわからんよ」
「僕は女房の気持ちすら今もってわかんないけどね」
両手を組んで、堀井は背中をぐっと後ろに反らせる。それから友人の方を向いて笑った。
「ミステリアスな部分があるから好きでいられるんだよ」
「かもな」
勘定を済ませ、二人はバーを出た。表は雨だった。
「まいったね」
堀井が黒い空を眺めながら言う。すると、後ろの扉が開き、バーテンダーが傘を持って姿を現わした。
「どうぞ」
「いいんですか?」
堀井は傘とバーテンダーと有田の姿を順に眺めて言った。
「返すのはいつでも結構ですから」
「いつになるかわからんぞ」
有田がバーテンの言葉を遮るように叫んだ。
「どうして?」
堀井は振りかえって言った。
「彼女と暮らす。当分帰ってこないつもりだ。いや、もう帰ってこれないかもしれん」
「そうか」
「ちょっと待って下さい」
バーテンはそう言って扉の奥に消えると、藁束らしきものを抱えて戻ってきた。
「『ミノ』ですよ」
「良くこんなのがありましたね」
堀井がミノを手に取って眺めながら、感心の声を上げる。
「実家の秋田で方ではまだ使ってるんですよ」
バーテンが笑顔を浮かべながら得意気にそう言った。
「ああ、『ナマハゲ』ね」
有田は愉快そうに笑い声を上げる。
「これなら、持って行っても違和感は無いでしょう?」
「たしかに」
そう言って有田は、ミノを堀井から受け取ると体の前に当てた。
「似合うか?」
有田のおどけた態度にバーテンと堀井は一緒になって笑う。
「さしあげますよ。じゃあ、お元気で」
「ああ、ありがとう」
バーテンは有田と握手を交わすと店へと帰って行った。
「じゃあ、俺はこっちへ行くから。ここでお別れだな」
有田はミノの具合を確かめながらそう言った。
「もう会えないのか?」
「連絡するよ」
「どうやって?」
「そうだな。金剛山の山頂にでも手紙を埋めておくよ」
「そのうち掘りに行く」
「絶対また会いに来る。いつか、このバーでな。約束だ」
「分かった」
どちらからともなく手を伸ばし、固く、二人は握手をする。
「じゃあ、奥さんによろしく」
そう言って有田はミノを纏うと雨の中を駆け足で去ってゆく。
堀井は借りた傘をさし、反対方向へと歩き始める。
ふと、振りかえってみると、有田の姿はもうどこにも見えなくなっていた。
<了>
初出 93-11-20
HMTL化 98-01-15