綾波配給計画 第二章




 「シンジ……」
 彼女の声がした。
 僕は横たわっている。自室のベッドの上だ。
 そんな僕の腹の上に明日香が乗っかっていた。明日香は紺のワンピースを着ていた。そして胸には卒業式のリボン。重い。その彼女の体重が感じられる。僕は自分の……一部の熱さをも感じていた。
 「シンジ」
 明日香が僕を呼ぶ。
 一体今は何時なんだろう。
 カーテンから漏れる光は弱々しく、部屋は灰色の闇に閉ざされていた。明日香の両足が僕の両脇腹にあたっている。白いくるぶしまでのソックスがのぞける。
 「明日香……」
 やっとのことで声を絞り出す。しかし、まるで自分の声には聞こえない。耳がおかしかった。物音があるのは分かるのに、全くそれに集中できない。ただ、耳たぶの奥で、脈がどく、どくと鳴るのだけが強く感じられた。
 「明日香」
 二度目の言葉に、彼女が僕の方を向いた。その目は細く、青色の瞳は小さい。眼球の白い部分だけがひどく目立って見えた。
 「あんたが」
 桃色の唇が動く。
 「あんたが、殺したのよ」
 その言葉に僕は全身を固くした。金縛りにあったみたいに動けない。
 違う。
 そう言いたかったが唇すら動かなかった。
 「あんたが、望んだから、死んだのよ」
 違う。
 泣きたいと願う強く重い感情がそこに感じられた。だが、涙は出ない。ただ、その重みだけが、胸の奥に静かに沈殿してくる。
 「あんたが……。あんたの望み通りに死んだのよ!」
 明日香のその叫びに、僕の中の何かが弾けた。背筋にさっと冷たい汗がこぼれ落ち、全身がびくりと電気が流れたみたいに震えた。気が付くと僕の両手の内に明日香の首筋があった。僕の意思とは関係無しに、その指先に力がこもってゆく。やめろ。そんな声も聞こえたが、ただ、聞こえただけだった。
 笑っていた。明日香の唇は愉快そうに曲がっていた。そして、鼻をふ、ふ、と鳴らしていた。明日香の腕が僕の股間に伸びた。僕は指先に力を込める。やめろ。だが、どうにもできない。僕の固くなった一部が捕まれた。とたん、射精していた。開放感が全身に満ちた。そして、同時に深い、闇の寒さをも覚えた。
 「明日香?」
 上半身を起こす。明日香は僕の腹の上に倒れていた。僕は一糸纏わぬ姿でいた。僕の胸に明日香の頬があった。そっと赤い短い前髪を上げると、彼女の光を失ったダークブルーの瞳が見えた。首筋には赤い指の跡がくっきり見えた。遠くで蝉の声が聞こえた。


***


 僕は目覚める。そして、またあの夢か、と思う。







  2017年6月10日 土曜日  

  朝  
  8:14 a.m.  





***


 風呂場に行き、汚れたグレイのブリーフを風呂桶の残り湯で軽く洗い、適当にこすった所で、脱衣所にある洗濯機に放り込んだ。傍らの洗剤の箱をざっと振り、中身が一応入ったのを確認するとスイッチを押した。水が洗槽にじょろじょろと溜まっていく音を聞きながら僕はリビングに出た。
 表からは朝の日差しが差し込んでいた。夢の中と違い、今日の天気は馬鹿がつくぐらいの快晴だった。
 自室に戻り、タンスから新しいブリーフを一枚出して履いた。そのまま眠り直そうとも思ったが、意識は意外なほどに冴えている。10分ほどベッドの脇に腰掛けてから、椅子にかけてあったジーンズを履き、再びリビングへ行く。

 テーブルの上には夕べ食べたカレーの皿がそのままに残っていた。僕はそれを流しの中にあるアルミの水桶につっこむ。固まった茶色い破片がゆらゆらと水中を動く。
 冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、マグカップに注いで飲んだ。食道に冷たい刺激が走る。少し意識がまともになる。
 まだ半分残ったマグカップを手にテーブルに座る。テーブルの表面は日差しを浴びて白く輝いている。まぶしい。テーブルの上のリモコンを手にして、ブラインドを少し降ろした。灰色の世界がダイニングキッチンに広がった。

 リモコンでテレビのスイッチを入れる。民放のトーク番組の画面が映る。入力切り替えのボタンを押す。入力3。ネットへの接続。
 メールボックスにアクセス。4桁の暗証番号を聞いてくる。押す。
 0314。
 どうしたって、僕はあの日を忘れられなかった。



***



 ボックスにはメールが6通あった。
 うち二つは、マンションの家賃滞納についての管理会社からの通知だった。
 母さんが死んでから知ったことだが、僕らの住んでいたマンションのビルは元々母さんのお父さん……つまり僕の祖父が、結婚祝いにと母さんたちにくれたものだったらしい。もっとも経営も管理も、全て祖父の管理会社が行っており、実質上、母さんは何もタッチしてはいなかった。
 しかし、母さんが死んで、父さんと僕がそのマンションの名義を相続することになった。祖父も亡くなって3年がたっていた。父さんはマンションの名義は僕一人にした方がいいと言い、実際そうした。父さんが日本を去り、外国を飛び回るようになってからは、このマンションの管理が僕の仕事の一つとなった。管理人も人任せにしてもいいのだが、これはこれでちょっとした気晴らしにもなるし、いい小遣い稼ぎにもなった。
 メールによれば、僕の部屋の隣に新しく来る住人は、まだ敷金すら振り込んでいないらしい。これは、すっぽかし、だろう。一応のメールで管理会社から連絡を受け、部屋を開けて掃除はしておいたが、もとより、あてにはしていなかった。築17年もたったマンションに入るのは、家賃が幾ら安いとは言え、誰だってためらうだろう。セカンドインパクト以後、気温と湿度の上昇のせいか建物の寿命はどんどん短くなってきている。
 もう一つのメールは単純な振り込み忘れだろう。毎月、一人か二人は期日を忘れてくる。カードの返済に先おろしされ、口座を空にしてしまうらしい。よくあることだった。
 とにかく、メールを受け取ったという確認の返事は後でしなくてはいけない。


 3通目は、ケンスケからだった。
 高校が別々になったせいで、疎遠になってしまっているがこうして時々メールをくれる。最後に会ったのは、確かトウジと洞木さんの婚約式だから、もう半年も経つ。高校に入ってからケンスケもずいぶんとあか抜けた。メールの内容も、今月末に合コンをやるから来ないかというものだった。つきあっている彼女ごとに使い分けてるんだ、とポケット電話を3つ見せてくれたのを思い出す。

 4通目はダイレクトメール。無修正ビデオ、今なら3本まとめて大特価。ちょっと考えてから削除した。

 5通目は、担任の葛城ミサト先生からのものだった。このままだと出席日数が足りなくなるから、きちんと登校するように、と顔文字をたっぷり使って書いてあった。い っそ削除しようかとも思ったが、とりあえず「要返信」のチェックを入れておく。

 そして6通目。父さんからだ。しかし、本当に父さんが書いたものかどうかは分からない。ただ、今月は**万振り込んだ。なにかあったら連絡するように、とだけある。どこにいるのかも書かれていない。勿論、後で銀行の口座紹介を見れば、振り込み先も分かるが……正直、どうでもよかった。



 
***




 家具も、絨毯すらも無い、薄暗い部屋の中に僕は土足で立っていた。
 入居が決まらなかった、隣の部屋のリビングルームだ。
 明日香とおばさんがドイツに行って以来、一時、入居した人もいたが、不必要に広い、家族用のマンションは独身者にはかえって淋しいと一年もせずに去っていった。その気持ちは分からなくもなかった。僕自身、家族と共に育ったあの部屋で、母の姿も父の姿も無いまま一人で暮らすことに、時折、ひどい孤独を感じていた。しかし、そこを離れることも僕にはまたためらわれた。それはいけないことだとは分かっていても……そうせずにはいられなかった。
 ミサト先生に言わせれば、それは僕が母親の思い出にしがみついているからだということだが、その説明に僕は満足していない。むしろ逆なのだ。僕は母のことなど忘れてしまいたいのだから。だが、できない。その矛盾の中で、僕はずっと立ちすくんでいるしかない。それでも、そう諦めて認めてしまえば、かえってまだいくらか楽になれた。

 ベランダに出る。日は高い。昼食はどうしようかとぼんやり考える。
 ふと、僕の部屋との境にあるボードを見る。前の居住者も、さして気にとめなかったので、修理もせずにそのままにボードは口を開けていた。思わず苦笑する。そこに何かを求めている自分の気持ちに気付いてしまったからだ。明日香はもう僕の知っている明日香じゃない。僕がまた、明日香の知る僕じゃないように。



***





  2016年4月11日 月曜日  

  入学式  





***


 惣流・明日香・ラングレー。
 その名を高校の入学式のクラス割発表で聞いた時、僕の体は震えた。
 帰って来ていた?
 僕は知らず、椅子の上から体を半分持ち上げ、彼女の名が呼ばれたクラスの方を見た。

 いた。

 人混みの中でも、ブロンドの長髪はひときわ目立って見えた。どうして気付かなかったのだろう。いや、それよりも、どうして僕に帰国の知らせをしてくれなかったのか……。

 違う。
 それは違う。
 僕は知っていた。そうだ。彼女が僕に知らせてくれるはずは無い。そんなはずは無いんだ。



***



 式が終わり、体育館からクラス毎に出ていく時。明日香と視線が合った。彼女は早くもできたらしい友人に向かって笑みを浮かべていた。それが、僕に気付いた瞬間、彫像のように固く冷たく白い顔に変わっていた。それから少し目を細め、彼女は何も無かったかのように、再び友人に笑顔を振りまき去っていった。
 分かっている。
 彼女が僕を軽蔑し、避けようとするのは当然だ。それだけのことを僕はした。しかし、その時まで僕はそのことをはっきりと意識してはいなかった。

 列の後ろの人に背中を叩かれ、我に返った僕は、うつむきながら体育館を出た。廊下の先をブロンドの長髪が曲がってゆくのがちらりと見えた。
 その時、校庭から蝉の声が聞こえていた。
 以来、あの夢を見るようになった。



***



 明日香は町外れの、一軒家を借りて母親と住んでいると聞いた。クオーターでブロンドで、すっと長く伸びた手足を持つ彼女は、たちまち高校中の噂の的となった。帰国子女。誰にでも分け隔てなく、気さくで、明るくて、テニスが得意で、数学は大学院生並みにでき、ファッション誌のモデルさえこなす彼女を知らぬ者はいなかった。
 小学校の時の彼女を知る者も幾人かはいたが、どれもそれほど明日香と親しかった人たちでは無かった。例外は、トウジと洞木さんだったが、洞木さんの妊娠をきっかけに二人が一年生の夏に退学してからは、もはや昔の明日香に関わるものは、僕だけとなった。だが、そんなことは明日香にとっては何の意味も無いことだった。いや、害でさえあるのかもしれない。

 僕と明日香のクラスは、2クラス離れていた。階段を挟んでいるため、下へ降りる時や逆に下から上がってくる時などに、すれ違うこともある。無視をするのは簡単だった。僕はうつむき加減にして、ぼんやりとした顔でいればいい。明日香は一人でいるときはすまし顔で、友人といるときは笑顔で去っていった。
 トイレに入って僕は顔を洗う。別に泣いているわけでは無い。ただ、かたくなった顔に刺激を与えたいだけだ。そうして鏡に映った顔に、時折、僕は父さんの姿を見つけた。打ち消すように僕はまた顔を洗い続けた。

 高校へ行くのが億劫になった原因の一つに明日香のことがあるのかもしれない。しかし、それよりも僕は大人になることに絶望していた。僕の中には父さんがいる。母さんの葬儀にもなぜか顔を出さず、母さんがいなくなってからは、当時の中学の先生に金を渡し、僕を預け去っていった父さんが。
 母さんはもういない。明日香は他人だ。一体、後は何が僕に残っているっていうんだ?




***



  再び2017年 6月10日 土曜日  

  3:27 p.m.  




***



 チェロを弾いていた。
 中学に入って、先生の家に預けられた時以来だから、5年近くのキャリアはある。正直に言って、自分に音楽の才能があるとは思えないが、こうして、弦に指を触れ、弓を動かし、低い音色に耳を集中すること自体は心地よい。
 初めてチェロを見た時はその大きさに圧倒された。先生の祖父が使っていたというそれは、年期を感じさせる黒光りをして僕を迎えた。強制されたわけでもなく、ただそのチェロを抱きしめるようにして、僕は弓をいじっていた。先生は無口で、どことなく父さんと似た所があった。けれども、決して僕を無視するというわけでもなく、今にして思えば、ただ、どう扱っていいのか困っている、そんな感じでいた。食事の時も向かい合って無言で食べていた。例外が、チェロだけだった。先生は、中学の音楽教師のつてをつかって、安く、新しいチェロを手に入れてくれた。そして僕らは、夕食が終わると、チェロを互いに弾きあった。
 今もまた、こうして、チェロを弾いているとその頃のことを思い出す。思い返して見ると、何も無い穏やかな日々ではあったが、悪くは無い時間だった。中2の夏、先生が、父さんから貰ったお金を持って逃げてしまった時も、先生を恨む気持ちは無かった。少なくともちゃんとチェロを僕に残してくれた。書き置きは無かったけれども、ぴかぴかに磨かれ、調律もし直されていたそれに触れたとき、全てが分かったような気もした。
 チェロの音色は腹に静かに響く。それは僕の悲しみの感情を沸き立てもするが、涙は無かった。先生がいなくなった時も涙は無かった。そんなものはもう僕には必要無かった。



***



 物音を聞いた気がした。
 それが何だったのかは分からない。しかし、僕はチェロから弓を離し立ち上がった。
 すると聞こえた。
 廊下の方だ。なにかがごとり、ごとりと音を立てている。何か重い物を床の上で転がしているような感じだ。
 チェロをキッチンのテーブルに立てかけ、弓を椅子の上に置いて僕は玄関の方へと向かった。
 その時、チャイムの音がした。キッチンの辺りまで戻り、壁のパネルのスイッチを押す。小さなモノクロのモニターにキャップをかぶった作業着姿の男が映った。
 『碇さんのお宅ですか?』
 これといった特徴も無い声が聞こえた。
 「そうですが」
 少し警戒気味に僕は答える。
 『お届け物です。ハンコをお願いします』
 事務的な口調。男の顔の背後に、同じような作業着を来たもう一人の男の姿が見える。その傍らになにやら大きな段ボールの箱らしきものも見えた。かなり大きい。
 「ちょっと待ってください」
 考えてみる。宅急便を送るような相手は誰なのか。しかし、何も思い浮かばない。友達か。父さんか。いずれにせよ、見てみれば分かることか。
 キッチンの流しの引き出しを開ける。包丁研ぎ器をよけ、その奥からビニールに包んだ、青いプラスチックの印鑑ケースを取り出す。手に持つとからりと、中で印鑑が踊った。

 廊下を歩く。日差しも届かないそこはひどく薄暗く感じた。スリッパの音だけがむなしげ響く。そして手の内でからからと鳴る印鑑ケース。
 ドアのノブにある白いプレートに指先を押し付け、オートロックを解除する。
 自動ドアが反応して扉が開く。
 モニターで見た二人の男がいた。


***



 届け物は思った以上に大きく重いものだった。印鑑を押し、控えのシートを受け取ると、宅配便の二人は帽子に手をかけ軽く会釈をすると去っていった。
 ごくろうさまです、と言ってからシートを見る。
 宛先の住所は確かにここだが、宛名は「碇ゲンドウ」とあった。
 父さんへの荷物、というのは珍しい。送り主の覧には「株式会社 バノン・シャイオ」とある。なにかの通信販売の会社だろうか。
 それにしても、と傍らを見る。
 玄関に放置されたその白の段ボールケースは一人用の冷蔵庫のようなたたずまいを見せていた。配達の二人は手押しの金属製のカートをそのまま置いていった。このまま玄関をふさいだままにしておくわけにもいかない。配達員に頼んでもよかったのだが、部屋の中にいれるのにはどこか抵抗があった。

 カートを斜めにし、上に乗ったケースを押して廊下を戻る。ごろごろと木製の床が鳴る。リビングに入るところで直角に右に曲がらなくてはいけない。壁や扉のはりにぶつけないように方向転換し、中にいれた。
 重さもかなりのものだ。横移動する分にはいいのだが、扉のレールを通過する時に腕に圧力を覚えた。瞬間にはっと強くカートのハンドルを握る。

 テーブルの脇にカートを下にひくようにしてケースを寝かした。そして、ガムテープの梱包をはずしにかかった。側面に折り曲がってはられたその白いテープの先を爪の先でほじくる。なんとか数ミリはがれる。それを指先でつまみ強くひっぱった。しかし10センチほどしたところで、テープはどんどん斜めになりついには三角の先となって途切れた。苛立つ。台所に早足でむかい、引き出しから栓抜きつきの大きな料理ばさみをもって戻る。
 はさみの先端をテープの中央に刺す。布テープのそれはすんなりと引き裂かれた。段ボールの張り合わせの隙間にそってはさみをカッターナイフのように使いながらテープを切り開いてゆく。何しろ大きい。僕の両手を広げたぐらいはあるんじゃないだろうか。
 中には合成樹脂のカバーで固められたごついトランクのような箱があった。何なのだ。LEDの小さな電光パネルのようなものが箱の端についている。重いので段ボールから取り出すというより、まるで卵をむくようにはさみで切り刻み中を取り出す。それでも箱の下の部分の段ボールはそのままになってしまった。
 わからない。わからないがこのままにしておくわけにもいかない。気がつくと周囲には段ボールの断片、解体の際に生じた紙の細かい破片、テープのかすが散乱している。そして傍らには鉄パイプ製のカート。

 開けるしかない。
 それしかない。
 抵抗もあった。何しろ父さん宛ての荷物だ。考えてみれば僕が開けるべきものでは無いのかもしれない。だがここ数年、父さんの姿は電話の画面以外では見たことがない。この部屋に来ることもまず無いだろう。そうだ。どういう手続きのミスがあったかは知らないが、僕にはこれを開けて見るだけの資格がある。いや……資格というより。僕はそうするべきなんだ。
 父さんへのささやかな抵抗。
 足元にある受け取りのシートを見る。品目にはただ一言「T.O.Y.」とある。個数1。
 僕は側面についたトランクのロックのようになっている部分に手を当てた。二つの金属製のボタンがある。親指をかける。左右に開くように押すらしい。
 押すぞ。
 心の中で声を出し、僕はボタンに乗せた指に力をこめた。

 かちりと鳴る。
 手応えを感じた。
 開く?
 上蓋に手をかけて上にあげる。

 とたん、白色の気体が隙間から漏れた。タイヤから空気が抜けるようなばふうという大きな音が鳴り響く。とっさに目をそらしていた。その蓋の内側からは白い光のようなものが視界のはじに見えた。
 気体自体に害はないようだった。その冷たい空気の感触にはかすなか覚えがあった。二酸化炭素。ドライアイスだ。
 光は上蓋の内側にとりつけられた板状の蛍光ランプのせいだと分かった。まるで冷蔵庫の中を覗き込んでいるような感覚だ。
 トランクらしきその箱の中には半透明なビニールのような覆いがあった。その上の小さな小冊子がある。黄色地に大きくゴシック体で「CAUTION」とある帯がかかっているのが目をひいた。
 とりあえず帯をとり、それをぱらぱらとめくってみる。中身は日本語でワープロで印刷したような間のぬけたレイアウトをしている。かなり文字がつまって読みにくそうだった。
 冊子のすぐ隣には小さなスプレーガンのようなものがあった。ビールのような色の液体を入れたガラスの瓶がとりつけられている。金属の部分には小さく「HYPOGUN」と刻印がほどこされていた。

 そして僕はちょうど蝶番になっている部分あたりに大きなファスナーがあるのを見つけた。白いドライアイスのガスはまだあたりに漂っている。その中に手をつっこみ、ファスナーのタグをつまみ、トランクの枠に沿うような形で開いてゆく。自分の鼓動が高まっているのを感じていた。気体で目がちかちかしはじめたせいもあるのかもしれない。無論それだけじゃない……何かを予感してもいた。

 しかし、目の前にあったのは、まったく見当もしていないものだった。
 僕は後ずさる。
 なんなんだ。
 頭が混乱していた。
 いったい、これはどういうことだ。
 何かを求めるように、背後の方へと手を伸ばす。
 なにかにふれた。
 冷たい。
 とたんそのなにかは倒れた。ぼろんと音が耳を突いた。チェロだ。弦の一本か二本が切れたのかもしれない。
 いや、それはともかく。
 これは。
 つまりこれは。

 僕は、どのくらいそうしていたかはわからないが、ただこうしていてもしかたがないと気づき、まだ荒い息を必死に整えようと努力しながらトランクケースの内に再び顔を近づけた。
 そして見る。
 そこには、少女がいた。
 両足を抱えるように、胎児のような格好で、眠るようにして横たわる、透き通るような白い肌を持つ裸の少女が。




***










−第二章−









***



 とにかく。
 どうにかしなくてはいけない。
 しかし、なにをどうすれば。
 考えろ。
 視線を床の上に泳がす。そして見つけた。
 冊子だ。

 オリーブグリーン色をした厚く硬い紙製の表紙を手に取る。そして注意深く一ページ目を開き、視線を落とした。
 『注意』
 赤い極太明朝体でそうあった。
 そしてそれより数ポイント小さい、同じ色、同じ字体でこう続いていた。
 『開封後全ての作業は必ず二時間以内で終了させてください』
 二時間。
 時計は、とあたりを見回してから、ふと気づきトランクを調べた。蓋のパネル。そこに液晶の表示が浮かんでいた。グリーンのバックライトがついている。数字は『1:56』とあった。
 先の文字のさらにその下には米印と共に、黒字でこう注意書きがある。
 『蘇生は通常一時間で終了します』
 なるほど。
 蘇生という文字をもう一度確認する。
 そういうことか。
 鼻をすする。それから冊子の次のページを捲りながら、ちらりとトランクケースの中の少女を見た。
 そして、ちくしょうとつぶやき僕は立ち上がった。
 とにかくやるしかない。



***



 早足で風呂場に行き、栓を抜き風呂の水を全部出す。湧かすより入れ直した方が早い。冊子を確認する。第一工程。温度設定は、40度弱。風呂場のパネルで設定。人肌程度ということか。シャワーでざっと内側を流し、再び栓を閉め、蛇口をひねった。その流れに手をいれる。まだ水に近い温度だ。はやくはやく。10秒ほどして、やっとお湯らしい温度になった。かなり生ぬるく感じるが、だいたいこんなもんなんだろう。湯気も立ちはじめた。
 キッチンに戻る。
 そしてケースの中に手を入れ少女の体をしずかに持ち上げようとした。
 さすがに冷凍食品のようにかちこちというわけでは無い。しかし、触れる肌は異様に冷たい。そして思ったよりも重かった。持ちづらいということもあったのかもしれないが。それが人の重みとでも言うものなのか。
 体を下手に動かすのは危ないと思い、そのうずくまったままの状態で運ぼうとしたが難しい。そうだ。カートだ。
 数歩後ずさり、もういちどトランクにいれる。そしてカートの上に押してケースごとのせる。それにしても中に人間がいると分かった今では、さっきのような扱いはもうできない。ゆっくりと斜めにし、風呂場の方へと移動させてゆく。そうしながら少女の体を眺めていた。少女は間違いなく少女だった。胸の膨らみもはっきりと分かる。年はいくつぐらいなのかはわからないが、全体的に細身でひどく幼く見える。だが背は160近くはありそうだ。髪の毛は白に近いおかしな色をしている。無造作に切り揃えたショートカット。頬に少しかかっている。髪の先が唇に触れていた。わけもなく僕はどきどきしていた。
 風呂場に近づく。湿気を頬に感じる。
 これで少しは『解凍』してくれるだろうか。
 少女を抱きかかえ、しずかに半分ほどたまった風呂桶にしずめる。少女の体はさっきよりも幾分やわからさを取り戻しているようにも見える。風呂場のやや赤っぽい電球の下にいるせいだろうか。その体に次第に生気が戻ってきているような気もしていた。口の中につまった唾液を飲み込む。ごくりと喉がなる。少女の体全体の毛はひどく薄かった。
 シャワーだ。
 気づき、手にとり栓をひねる。お湯が出るのを確認して風呂桶の中の少女の肩にかけた。少女は中でちょうど体育座りをしているような格好でいる。出ろ出ろ。水の流れをみながら心でつぶやく。
 ひたひたと少女の髪がぬれるぐらいまでお湯はたまってきた。
 よし。
 小声でつぶやき、栓をとめる。
 そして風呂場の外にあった冊子を濡れた手でつかみページをめくる。指先に紙がはりつき、うまくめくれない。なぜ防水紙にしてくれないんだ。第二工程は……。

 トランクケースの側に転がったままになったスプレーガンのようなものを拾って戻る。皮下注射をする器械であるらしい。成分はインシュリン、ブドウ糖、ビタミン各種、その他もろもろ。以下、知らない薬品名がずらりと並んでいる。
 図をみながら少女の首筋におそるおそる当てて、引き金をひいた。ばす、と音が鳴り慌てた。ビンの中で薬品がぽちゃんと動く。一度に3回ずつ、それを10分ごとに10回繰り返さなくてはいけないらしい。その間にも指先などから徐々にマッサージして体をほぐさなくてはいけないという。目が覚めたら流動食を与えないといけないともある。トランクの中には市販のベビーフードのビンが幾つか用意されていた。

 30分ほど経ち、注射も3回目となると次第にこの状況にも馴れてきた。気持ちが冷静になると、ひどく自分が滑稽に思えてきた。いったいこれは何なのか。年頃の見知らぬ裸の少女を風呂に入れ、指先やら肩やら腕をさすっているこの自分は。
 自分の鼻から笑いがもれたその時。さすっていた指先がぴくりと動き、ほんの少し僕の指を握りかえしてきた。かあっと自分の体が熱くなる。耳まで熱い。急にリアルに意識された。そうだ。ここにいるのは人形じゃない。人間だ。女の子だ。
 恥ずかしさに包まれる。目が覚めたらなんて言えばいいのだろう。いや、そもそも君は誰なのか。父さんとの関係は。突然怒り出したりはしないだろうか。僕をどう思うのだろうか。
 さらに10分が過ぎて、4度目の注射をする。その首筋が震えた。まぶたの上が痙攣している。僕は口を閉じた。そして彼女を見る。いや、もう2発打ち込まないといけないんだ。しかし、体が動かなかった。皮下注射器を握り締めたまま僕はじっとそうして少女の目が開くのを見守った。
 彼女の瞳が動く。ゆっくりとだが。ピントが合うのを待っているのだろうか。天井のあたりを見ている。
 「あ…」
 僕の口から声がもれる。風呂の中で反響して聞こえるそれは自分のものとも思えない不思議な響きをしていた。
 「あの……」
 ゆっくりと彼女の顔がこちらをむく。そして視線が注がれた。彼女の瞳が僕を見ている。彼女の赤い瞳が。僕は再び口を閉じる。
 視線をそれ以上重ねるのはつらかった。
 ごまかすように、シャワーの蛇口をひねった。いきおいよく、風呂桶の中でシャワーが動く。慌ててそれをつかむ。水が水を打つ音が響く。さっきの静けさよりかは幾分気分が楽になる。もう一度彼女の方を見る。表情に変化は無い。真顔としかいいようの無いその顔で彼女は僕をみつめている。
 まばたきを彼女はしていた。
 「注射、打つよ」
 僕は皮下注射器を取りそう言った。彼女の反応は無い。ゆっくり、首筋に当てるが、抵抗はない。こうして動いている相手となるとまたさっきとは違う緊張を感じる。
 それでも、と、引き金をしぼる。ばしゅっとガスが抜けるような音がまた響く。少女がそれにあわせて目を瞬間閉じた。
 「……痛い?」
 少女は無言だった。
 「もう一度打たないといけないから……」
 目が閉じられる。首筋へ打つ。ん、と声のようなものが少女の口から漏れた。
 「大丈夫?」
 シャワーのお湯が風呂桶の中で出続ける。あふれたお湯が流れ、風呂場の床を流れてゆく。湯煙りが立ち込める。鏡はすでに曇っていた。
 「あの……君は?」
 返事は、無い。
 僕は再び口にたまった唾液を飲み込む。落ち着け。落ち着け。
 「……僕は。僕の名前は、碇シンジ」
 反応はまだ無い。だが黙っているわけにもいかない。その方がつらい。
 「僕は。その、僕の父さんは碇ゲンドウなんだけど」
 その時、彼女の目がまっすぐ僕の方をむいた。
 「あ……君は……父さんを知ってるの?」
 少女は目を少し伏せる。質問が悪かったのか。
 「あの……その……僕にもよくわからないんだけど……とにかく、君が僕のところに届けられて……本当は父さんのところに行くはずだったみたいなんだけど、父さんはその、めったにはここにはこないから。だから……」
 わけがわからなくなる。
 すると彼女が上体を少し起こした。ざぶりとお湯がこぼれる。胸の膨らみが水面の上に現れてとっさに目をそらした。風呂場の入り口にある冊子に目がゆく。そうだ、この後はどうするんだっけ。食事を取らせて……体温を冷やさないようにして……くそ、まだ最後まで読んでないんだ。
 「こ、これ」
 立ち上がり、冊子の方に近づき、手にとり、ふりむき僕は言う。
 「えっと、これに書いてあった通りにしたんだけど……大丈夫、かな?」
 彼女のきょとんとした顔。
 冊子をめくる。しかしまたしてもページが濡れてはりつきうまく開かない。
 「その……君は……名前は……」
 答えを期待していたわけではない。何か言わないと思ってただそう言っただけだった。だが、返事があった。それは驚くほど抑揚の無い声であったが、あきらかに少女の声だった。
 彼女はこう言った。
 「レイ」
 え、と思わず声をもらし僕は冊子から顔をあげた。
 「レイ?」
 初めての反応。彼女の声。僕の心拍数があがる。どくどくと耳の奥の血管が音を立てる。彼女の瞳から目が離せなくなる。
 「君は……レイというの?」
 僕の言葉に彼女はさらに答える。
 「そう」
 それだけだったが。会話をしている。彼女は生きている。そうだ。彼女は生きている。
 彼女が立ち上がる。ざあっという音。そして彼女は言う。
 「アヤナミ、レイ」
 素足にぬるいお湯が流れ来るのを僕は感じていた。




***



 キッチンのテーブルに僕らは向かい合いように座っていた。
 彼女の前にはトランクケースの中にあったベビーフードの瓶がおかれている。彼女はスプーンでひとさじすくって口に入れたきり、それ以上手につけることはなかった。
 気まずい沈黙が部屋を支配していた。
 無理強いさせてでも食べさせるべきなのだろうか。
 僕は脳裏で冊子に書いてあった蘇生後のチェックリストというものを思い浮かべていた。
 アヤナミレイにはとりあえずということで、僕のパジャマの上下を着せていた。青の縦縞のストライプの模様が入ったもので、袖を通したのは二、三度しかないものだ。面倒だということもあって、僕は普段、Tシャツに、短パン姿で寝ることが多かった。そのパジャマにしても、元々は母さんが死ぬ前に父さんのためにと買い置きしていたものだった。
 袖の端を少しまくった腕を彼女はテーブルの上に置いている。そして瓶を見つめてじっとしていた。
 言葉を知らない訳ではないのはさっきの風呂場の会話でも分かっている。だが、あの時名前を名乗って以来、再び彼女は沈黙を守り通していた。
 「おなか、すいてないのかな」
 僕は言った。
 彼女は無言だった。
 「体は、だるくない?」
 チェックリストの項目の一つにあった質問を彼女にぶつけてみる。
 すると彼女の口が開いた。
 「いいえ」
 しっかりとした口調だ。だが、生気というのもが感じられない。どこかロボットか何かを相手にしているような印象だ。あの、風呂場で一瞬感じたあれはなんだったのかと混乱してくる。
 「……何も覚えていないの?」
 僕は尋ねる。
 長い間があった。
 それから彼女の反応があった。眉がすこし寄ったかと思うと、うつむくように首を下に向けた。
 「いや……別に責めてるんじゃないんだ」
 苛立ちのようなものを感じた。なんなんだ。なんでこんなことに巻き込まれるんだ。いったい……。
 「どうすれば、いい?」
 まるで心を見透かされたかのようなその言葉に僕も知らず下に降ろしていた視線を持ち上げた。見ると彼女は、こちらを見つめている。赤い瞳に僕の顔がうつってみえた。
 「あなたは、何を望むの?」
 相変わらずの抑揚の無い声だったが……そこにわずかに含まれていたなにか……優しさに似た甘い感じに……僕は自分の鼓動の高鳴りを意識した。


***






 何を望むの?





***


 目を覚まして、僕は跳ね起きた。
 そこはリビングのソファの上だった。
 あたりは薄暗い。遠くで救急車のサイレンが鳴っているのが聞こえる。
 夜。
 テレビの下にあるビデオデッキの表示を見る。時刻は午前3時24分。毛布をはぎ、立ち上がり台所に行く。冷蔵庫の中から赤い農協牛乳のパックを取り出し、コップに注ぎ一気に飲んだ。冷たい液体が喉を通り、胃へと下ってゆくのがはっきりと分かる。
 大きく息をして、僕は自分の部屋の方向を見た。そこには彼女……アヤナミレイが、僕のベッドの上で眠っているはずだった。キッチンの隅にあるトランクの残骸も全てが現実であることを示している。

 ソファの上に座り直す。それから、枕元にページを開いたままの恰好で置かれた例の冊子を手にとり、ぱらぱらとページをめくった。どのページも湯気と濡れた指のせいでごわごわと変形し、かさばってしまっている。
 ため息。
 もう何度も見返していた。
 息詰まるようなあの食事の後、僕は、押し黙る彼女を前にしてすがるようにしてその冊子を読んでいた。そして読み進めてゆくうちにますます僕は身をこわばらせていった。
 身体変化のチェックリストに続くその章には「初期教育」という項目があった。そこには彼女を「好み」に「しつける」方法についての「ヒント」が書かれていた。そう。思うがままに。あなた好みの彼女に。

 それがどういうことか。
 分からないほど僕も子供ではない。
 つまりこういうことだ。
 彼女は人間の細胞から作り上げた、「人間とまったく同じ体を持つ有機体」であって。ただし。「子供は産めない」。できない。
 そういうことだ。

 髪の毛に指を差し入れようにして頭を掻く。
 『何を望むの?』
 彼女の言葉を夢にまで見てしまう自分が怖かった。
 『何を望むの?』
 決まってるじゃないか。
 風呂場で見た彼女の体を思い返してしまう。風呂場の明かりの下、上気する薄桃色の肌。
 『何を望むの?』



***



 自室の前に僕は立っていた。
 ノブに手をかける。
 どうした。なんてことないじゃないか。自分の部屋だぞ。開けたからってどうだって言うんだ。
 心のささやきに支えられるようにして、僕はドアを開く。カチリと金属音が暗闇に響く。
 右手の奥にベッドが見える。パジャマ姿で横たわるアヤナミレイがそこにいる。カーテンの隙間から月光がほんのりと差し込み、彼女の上半身にそそがれていた。
 自らの呼吸を意識しながら僕は近づく。
 かまわないじゃないか。だって彼女はそういう存在なんだ。
 彼女を見下ろす。
 なにも難しいことじゃ無い。
 手を伸ばせば彼女はそこにいる。
 おそらく抵抗はしないだろう。
 そうだ。
 思うがままに。
 口の中に唾液がたまるのを止められない。暗闇の中でそれを飲み込む音が大きく響く。そして鼓動が高まる。
 荒い息をしながら、僕はアヤナミレイの顔に、自分の顔を近づけてゆく。
 彼女の閉じられたまぶたがそこにあった。
 僕は自分の一部の熱さを覚えている。
 どうすればいい。
 どうすればいい?
 ためらい。
 そんな自分に嫌悪を感じる。
 やれ。
 声が聞こえる。
 やれ!

 僕はアヤナミレイの体に手を伸ばした。
 そして彼女の肩をつかんで、ベッドの上に押し付け、彼女の体をまたぐようにして上に乗った。顔を近づける。その時。
 アヤナミレイの目が開いた。
 赤い瞳。それが僕を見つめている。
 その瞳の中に僕の顔があった。
 その顔には見覚えがあった。



 あの日。
 母が死んだあの日。
 明日香を下にして見た、その瞳にあったあの顔。
 初めて父さんの面影を自分の中に見つけた、あの顔。
 そうだ。
 あの時もこのベッドだった。
 どうしていいかわからずに。
 すがるように明日香を組み伏せたあの時。
 覚悟を決めたかのようなまっすぐな瞳が僕を見ていた。
 そしてその瞳がにじむのを僕は見ていた。
 いいよ、と彼女は言った。


 そうさ。
 いいんだ。



 アヤナミレイの顔があった。
 同じだ。
 なんなんだ。
 このまっすぐな目は。
 なんなんだ。


 僕はアヤナミレイを下にしたまま、うつむいた。強く、深く。顔を自分の体の内側へと押し込めてしまうかのように。
 「母さん……」
 自分でもわけもわからず、そうつぶやいていた。
 いや。
 分かってはいたんだ。
 本当は分かっている。
 でも駄目なんだ。母さんは死んだ。あの時、僕は母さんがいなくなったという事実を受け入れられずに、僕はあがいていた。そして目の前にいる明日香にすがった。それが明日香への愛情では無いことも知っていたのに。全ての責任を彼女に押し付けようとして……僕は全てを壊したんだ。
 アヤナミレイの手が僕の腕に触れた。優しく……まるで母さんがそうしてくれるかのように。だが、彼女は母さんじゃない。明日香も母さんじゃない。誰も母さんじゃない。母さんはもういないんだ。そしてそれは僕自身が望んだことだったんだ。
 目が熱かった。アヤナミレイの頬に水滴がたれてゆく。
 ちくしょう。
 心底自分を情けないと思った。
 アヤナミレイは僕を受け入れるだろう。
 だが、それだけだ。
 アヤナミレイの中に僕の嫌な部分がただ注ぎ込まれるだけだ。憎しみも悲しみも背負うこともできずにただ人に押し付けてごまかそうとする自分がそこにうつるだけだ。僕はそんなものを本当にみたいのか。そんな姿になったアヤナミレイをみたいのか。
 「なに……」
 アヤナミレイの口が動いた。
 「なに、泣いてるの?」
 そう。
 僕は泣いていた。
 忘れていたはずの泣き方で。
 どうしようも無く。声を張り上げ、僕は泣いていた。そんな僕の髪の毛を、アヤナミレイは暗闇の中、形を確かめるかのようにふれていた。
 僕は最低だった。これ以上ないというぐらいに最低だった。そしてその、固く冷たい最低な自分の中で、僕は、明日アヤナミのために下着と服を買いに行こうとぼんやり考えていた。



***




 「おかえりなさい」
 校門の前に立っていた葛城ミサト先生は僕を見るなり笑顔でそう言った。変わらずの黒の薄いセーターに、キュロットスカート。風に黒い長髪がなびいている。
 「ただいま」
 僕は立ち止まり挨拶を返す。そのまま足がうまく動かなくなった。ミサト先生も僕の方をただじっと見ている。そんな僕らのわきを何人もの生徒が通りすぎてゆく。頬に風を感じる。やがて、チャイムが鳴った。足早に生徒達は校舎へと向かう。
 「ほら、保健室登校なんて許さないからね」
 先生は言った。
 僕は少しうつむき、はい、と答えてから先生に背を向けた。
 後ろの方で、校門が重い音をたてて閉まってゆくのが聞こえた。




***



 どこまでも晴れた青い空を眺めていた。
 机に座り、こうしてぼんやりとしていると、知らず心が落ち着いてくる。思い切って登校したのは間違いじゃなかった。元々学校はそれほど嫌いじゃない。幸い、授業の進み具合も思ったほどでもなかった。
 「碇君」
 女の声がしてふりむく。クラスメイトの一人だ。
 「なに、熱心に見てるの?」
 「洗濯ものがよく乾きそうだな、と思って」
 真顔で僕は返事をする。
 「なんか碇君って、主婦みたい」
 彼女は笑ってそう言った。僕もそれ以上は何も言わず笑顔をただ返した。だが、それは本当にそう思っていたことだった。今ごろはアヤナミが、ベランダいっぱいに洗濯ものを干しはじめているはずだ。白いバスタオルが風に揺れている姿を想像してみる。
 再び窓の外を見ながら、夕食は何にしようかと考えているとまた声がした。
 「ちょっと……聞いていい?」
 まだいたのか。少し驚く。彼女とは席が近いわけでもなく、今まで話もほとんどしたことが無いというのに。
 「なに?」
 見返すと、ちょっと口ごもりながら、彼女は言った。
 「あのね、聞いたんだけど……碇君って、4組の惣流さんと友達って本当?」
 即答はできなかった。しかし、僕の心は意外なほど冷静だった。
 「……そうだよ」
 「あ、本当なんだ!」
 何かはしゃぐような声を彼女をあげる。
 「でさ……実は……ちょっとお願いがあるんだ」
 両手を口の前でおがむようにあわせる彼女の顔には照れくさそう笑みが浮かんでいた。



***



 チャイムが鳴り、4限が終った。昼食の時間になると、女子の多くはそそくさと机を持って並べ替えを始める。男子はある者は適当に席を移動したり、ある者は購買部にパンを買いに走る。僕はただ自分の席に座ったまま、バッグから弁当箱を取り出した。するとさっきのクラスメイトの女の子が近づいてきた。手にミッフィー柄の弁当箱の包みを持っている。
 「あ、今?」
 さっきの彼女の言葉を思い出し、僕は彼女の顔を見る。
 「うん。食べてからでいいんだけど……」
 僕は、周囲を見回した。好奇心からか5、6人ほどの女子のグループをこっちを見ている。
 「じゃ、屋上で」
 僕は弁当箱を持って立ち上がった。


 快晴ということもあって、屋上には昼食を取る生徒の姿がそこかしこに見てとれた。奥のバスケットコートでは早くも3オン3の試合を初めているワイシャツ姿の男子がいた。
 僕と彼女は、階段口から少し離れたネットの際に向かう。そこには、しまい忘れたらしき、ポートボール用の赤と白の台が二つあった。その上にそれぞれ座り、弁当の包みを広げた。
 「すごいね。それ、自分で作るの?」
 彼女が聞いてくる。
 「まあね」
 そう言って、ほうれん草入りの少々形の崩れた卵焼きを僕は口にいれる。それは今朝アヤナミが初めて作って卵焼きだった。彼女も今ごろ同じものを食べているはずだ。そのわきの揚げた骨付きチキンは僕が作ったものだ。肉はアヤナミには食べれないようだった。
 「それでね……」
 目の前の彼女は、弁当に箸をつけながらゆっくりと話し始めた。自分が演劇部にいるということ。昨年に雑誌でモデルとしてデビューした明日香にあこがれていること。そして、できれば演劇部に入って欲しいと思っていること……。
 話を聞きながら、僕はこうして普通に人と接している自分になにやら不思議な感覚を覚えていた。つい、この間までは、人と一緒にいるのが嫌でたまらず、だから学校にも来なかったはずなのに。それが今、それまでろくに面識もなかったクラスメイトの女子と二人きりで昼食をしている。きっと……きっと、これはいいことなんだろう。やっぱりアヤナミの忠告通り、学校に来たのは正解……。

 「あ」
 突然、話しをしていた彼女が声をあげた。彼女の視線は階段の入り口近くに向けられている。僕もそっちを見る。そこにはブロンドを風になびかせた惣流・明日香・ラングレーがいた。
 明日香の顔がこちらを向く。
 僕は立ち上がった。
 碇君、と傍らの彼女が言う。
 僕は数歩階段の方に歩を進めてから叫んだ。
 「明日香ぁ!」
 表情の無い白い顔がこちらをむいている。
 僕はさらに明日香に近づく。明日香の傍らにはよく見かける彼女のクラスメイトの女子がいる。その女子が僕と明日香を交互に見ている。
 明日香は無言だった。だが、僕から目をそらそうともしなかった。
 「明日香、ちょっといいかな?」
 僕は言う。
 「……なに?」
 明日香が答える。5年ぶりに聞いた彼女の声。だが、僕の心はおどろくほど冷静だった。
 「クラスの女の子なんだけど……」
 僕はふりかえる。ポートボールの台から腰をあげたその女の子は、直立不動の姿勢でこっちを見ていた。自分に視線が向けられたのに気づいたのか、慌てたように彼女は軽く会釈をした。
 「その、彼女が、明日香と話がしたいんだって。彼女、演劇部の部員なんだけど、是非明日香にも入って欲しいって……」
 明日香はまばたきをした。それから、ネット脇にいる僕のクラスメイトを見た。不安気にその女の子は様子をながめている。体がこちらに歩き出そうか迷っているみたいに揺れていた。僕は無言で数度うなづいた。ぱっと彼女は顔を明るくし、分かったという風に大きく首をふって、猛烈な勢いで走り寄って来た。

 明日香は笑顔を見せ、近づいた彼女に声をかけた。僕は、それ以上は何も言わずに、そっとポートボールの台の方に戻り、弁当の残りに口をつけ始めた。
 女の子はしばらくして上気した顔をして戻ってきた。放課後に一度、部室に来てくれる約束をとりつけたという。最初から直接声をかければよかったのに、と言うと、ううん、勇気なかったから、ありがとう、と返事をくれた。僕は残った最後の卵焼きを口に入れながら、こっちこそ、と心の中でつぶやいた。階段の方を見ると明日香の姿はもうなかった。





***



 「ただいまー」
 玄関の扉を開けると、ぱたぱたとスリッパの音が近づいてくる。
 「おかえりなさい」
 真新しいライトグリーンのエプロンをつけたアヤナミが廊下の向こうから姿をあらわす。
 「その服……」
 エプロンの下に彼女は僕の高校の制服を着ていた。
 「洞木さんがくれたの」
 一緒に肩を並べながら廊下を歩き、キッチンへと入る。
 そのテーブルの席に洞木さんが赤ん坊を抱いて座っていた。
 「おかえり、碇君」
 とびきりの笑顔で洞木さんは僕を迎えてくれた。それから赤ん坊を抱えた腕を軽く揺らす。赤ん坊も洞木さんに負けず劣らずの笑顔を浮かべている。
 「なんだか、いろいろしてもらっちゃったみたいで」
 制服にエプロン姿で、台所に戻るアヤナミの背中を見ながら僕は話しかける。
 「なかなか似合うでしょ。もう、私には必要は無いし」
 その声には少し寂し気なものが混じっているように思えたが、彼女の笑顔は変わらずにそこにある。
 「ま、一緒になってから新しい服をあんまり買ってないからってのが本当のとこなんだけどね」
 台所からは味噌汁の匂いがしてくる。
 「今日、トウジは? 仕事?」
 テーブルの上からリモコンを取り上げ、テレビのスイッチを入れる。メールをチェックしてみるが、父さんからの返事は未だ無かった。
 「そ。まだ17だから、正式な大型の免許は取れないけど。現場ではパワーローダーなんかの特車も扱わせてもらってるみたい。結構がんばってる」
 「……忙しいのにありがとう」
 空の弁当箱をバッグから取り出す。昼間の明日香のことをふと思い出す。
 「気にしないで。こっちこそ楽しかった。一緒に買い物にもでかけちゃったし」
 その言葉に少し驚く。
 「表……出たの?」
 「そんな顔しないで。全然平気だったわよ」
 「でも、目が……」
 はっと気づき、僕は弁当箱を持って流しの前に立つアヤナミへと近づく。
 アヤナミが僕の方を向く。その瞳はこげ茶色をしていた。
 「カラーコンタクト。最初なかなか入らなくて苦労したけど。これならあんまり目立たないでしょ。髪は帽子をかぶっていったし。それに、最近は結構プラチナブロンドに染めるのも流行っているから。そんなに気にするほどおかしくは無いわよ」
 アヤナミの頬が少し赤く感じられる。いや、頬だけじゃない。薄くだったがルージュも唇にひかれている。
 「でも、よかった、碇君がまた学校に行くようになって。これでも、鈴原と二人で心配していたんだから」
 「ごめん……」
 うまく言葉が返せない。
 「ううん、責めてるんじゃないの。それに、こうして頼って連絡してきてくれて。本当にすごく嬉しかった」
 「……委員長には昔から頼りっぱなしだね」
 「委員長はやめてよ」
 洞木さんはまた笑い声をあげる。僕もつられて笑った。こんなに笑ったのは何年ぶりかと思うほどに。
 「できた」
 僕らの間に割って入るように、アヤナミが油揚げと豆腐の入った味噌汁の入った鍋をテーブルの上に置いた。その顔がどこかむっとしているように見えたのがまたどこかおかしくも嬉しく感じていた。





***



 夕食を食べ終えると、近いうちにまた来る、と言い残して洞木さんは帰っていった。とたん、家の中がひどく、しいんと静まり返ったように思えた。だが、考えてみれば、つい一週間前まではもっと沈黙の部屋に僕はいたのだ。
 けれども今、隣にはアヤナミがいる。
 この一週間で、彼女は家事についての一通りをものすごい勢いで学んでいた。味覚に関しては、いささか頼りないところもあるが、記憶力は抜群によいので全ては馴れの問題だろう。今日、洞木さんに接したこともきっといい影響があったはずだ。
 「学校……行ってよかったよ」
 アヤナミが洗った皿を布巾でふきとりながら僕は言う。
 「アヤナミの言う通りだった。……ありがとう」
 水の流れる音だけがやたらと大きく響いているよう聞こえた。
 アヤナミの手がとまった。僕は彼女を見る。その口が動く。
 「私はただ、碇君の心をもらっただけ。それを言葉にしただけ」
 何も言えなくなる。ただ唇にぎゅうと力を込める。
 「私には何もないもの……碇君以外には、なにも無いもの」
 心が、震える。
 抱きしめたかった。強く。体も心も溶け合うぐらいにアヤナミを抱きしめたかった。だが、今はまだだめだ。
 その代わり。僕は黙って皿をふき続ける。アヤナミもまた、再び手を動かし始める。今はただ、これでいい。今は。まだ。





***



 リビングのソファベッドに横たわりながら暗闇の中で天井を見つめていた。遠くの方で救急車が走る音が聞こえる。夜。昼間は忘れていること、忘れていたいことをどうしても意識してしまう。
 このままずっとアヤナミのことをただ家においていいものか。父さんはなぜ、僕の元に彼女を送ったのか。それとも、これは父さんの送ったものじゃないのか。それにそもそも、こんな愛玩クローンなんてものを売買していること自体が違法なことなはずだ。もしかしたらいずれは「回収」されるなんてこともあるのかもしれない。父さんが取り返しに来るということもあるかもしれない。
 父さんと話すのは正直、今でも抵抗はある。しかし、何も音沙汰が無いのはもっと不気味だった。はっきりさせないことには、いつまでも落着かない。
 寝返りをうつ。
 やはりできる範囲で調べよう。この手のことに詳しそうなケンスケにも連絡をとってみるか。
 あくびがでかけたその時、近くに人が立つ気配を感じた。白いワイシャツ一枚の姿をしたアヤナミが枕を抱えてそこにいた。
 「いい?」
 その言葉に僕はうなづいて毛布をはぐった。
 アヤナミがもぐり込んでくる。だが、不思議と興奮は無かった。ただひたすらに安堵に似たものを感じていた。この一週間、アヤナミと接しているうちに、彼女を家族のように思ってきていた。妹のような、娘のような。それもまた半分はごまかしとも分かっていたが、それが今は一番に思えた。まどろみ中で、背中に感じるアヤナミにおやすみ、と告げ、伝わるそのぬくもりの内で僕は眠った。



***



 それが玄関のチャイムだと気づくまでにはしばらく時間がかかった。
 アヤナミが隣で立ち上がるのが分かる。
 表からは光がまぶしく差し込んできていた。もう早朝ということではなさそうだ。
 「……洞木さんかな」
 他に思い当たる人もいない。まさか父さんは帰ってきてないだろうし。第一その場合チャイムなどならすはずも無い。それとも宅急便か。
 などと考えているうちに、アヤナミがすたすたとスリッパをはいて廊下へと出ていった。まあ、別に構わないか。
 いや、待てよ。
 がばりと飛びおきる。
 夕べ、アヤナミが「回収」される恐れがあるのではと考えたばかりだったじゃないか。
 まさか。
 寝癖のついた頭のまま、Tシャツに短パン姿で廊下へ出る。
 玄関の前でアヤナミは立ち尽くしていた。
 ドアは開いていた。
 「碇君」
 不安な表情を浮かべてワイシャツ一枚で立つアヤナミが僕の方を向く。
 いったい、誰が。
 と近づくと、長い黒髪の女性がそこに見えた。
 「……ミサト先生?」
 なんで、こんな日曜の早朝に。
 しかし、事態はそれ以上のものだった。
 「シンジ!」
 ミサト先生の後ろから声がした。聞き覚えのある声。それは。いやしかし。でも。どうして。
 「ははあん。そういうこと?」
 ミサト先生が赤いジャケットを着た腕を組みにらんでくる。
 アヤナミはおびえたように僕の方に近づき、後ろに隠れる。
 僕は玄関の前に立つ。ミサト先生がいる。
 そしてその背後には。
 ワンピースを着た、ブロンドの髪に碧眼の少女……惣流・明日香・ラングレーが変わらずの無表情のままそこに立っていた。











第三章へつづく



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