2002年1月22日(火) 先週の土曜に大学時代の友人と飲み会で会う。もう4、5年近くも会っていないのにほとんど変わっていなかった。うれしいような、悲しいような。 おもちゃデジカメを買って見る。Che-ez SPYZというやつだ。マッチ箱みたいな大きさで、フラッシュは無いが手のひらに隠れてしまう大きさ。 家族と職場の人に見せたところ、「盗撮でもするの?」と言われる。案の定とも思ったが、少し痛い。画質ははっきりいって並である。手ぶれもかなり生じやすい。けれどもポケットに入れていてもまったく邪魔にならないのがいい。取り出し、電源を入れて、シャッターを押す。数秒でそのアクションが行える。私にとっては理想である。 指輪物語を読了。最終巻は想像以上にハードな展開で、正直心が動いた。あくまで主人公を、一介の一民間人であるホビット据えているところに強いこだわりを感じた。これを読むと、他のファンタジー小説が指輪物語のイミテーションに見える。指輪物語の位置はやはり特殊なところにあるのだと強く思う。 主人公のフロドと従者のサムの関係が友情を通りこしてやや危険な領域の手前まできていた。これは、生き抜くということと、友情と、信義と誘惑についての物語だったのだと気づく。 「今はすべてが終わったのだから。お前がここにいてくれてうれしいよ。一切合切が終わる今、ここにいてくれてね、サム」 胸が熱い。 2002年1月23日(水) 帰宅すると既に夜の10時だった。途中本屋など寄っているのもいけない。 つい、何かを求めてしまう。本屋に行くのは結局のところ何か出会いをそこに感じるからかもしれない。私の場合はそれは本だが、人によっては服やアクセサリーであったりするのかもしれない。 その一方で古い本を読み返してみたりもする。きっとどちらも重要なのだろう。 村上春樹訳、レイモンド・カーヴァーの短編集を買って見る。本の奥付にある刷数を見ると第二版である。何年も前の本なのに第二版。それでも気になったので読んでみる。頭が固いためだろうか。すっと頭に入ってこない。少し求めていたものとも違ったのかもしれない。ただ枕元に置いてみた。読むこともある気がする。 2002年1月30日(水) 指輪物語が売れているらしい。 以前私が買った五反田の本屋で今日探してみたところ、もうどこにも無い。英語版のペーパーバックだけが山積みされていた。これは「チーズはどこに消えた」のブームの時に似ている。 朝、電車の中で20代ぐらいの男性が文庫版(しかも最近の版ではなく、異様に文字が小さい旧版)を読んでいる姿を見た。ワイドショーでも取り上げていたし、やはりブームと言っていいのかもしれない。 振り返ってみて何が指輪物語の一番心引かれる部分なのだろうかと考えた。 そこでそこに真っ直ぐ貫かれているものとは。 多分それは誠実さという奴なのだと思う。 判断に悩む時、自分の行動を誠実さを持っておこなってゆく。 指輪の誘惑が恐ろしいのもこの、誠実さを裏切る行動をとらせるところにある。 指輪は指輪を持つもの、そして指輪を求めるものの心を操り、その力を行使させようとする。力へのこだわりから、指輪保持者は近寄る人間を疑い、指輪を奪うものだと思わせる。誠実な人間が、指輪の魔力に取り付かれそう行動する姿が何よりも怖い。 指輪の魔力だけではなく、時に仲間を見捨てようと心に迷いが生じたり葛藤する場面もある。 けれども結局は、全てが終わったとき、自分と自分の周りにいる人間を受け入れることができるようになるには、ただ、誠実であるという一点を貫くしか方法は無いのかもしれない。それは理想ではなく、自分の気持ちを軽くもさせるのではないだろうか。もちろん、誠実であるということは悩むということではあるが、自分の能力の無さに悩んでいるよりはずっといい。 誠実であるということは、自分の心の奥に問いかけ、いいと思うことも、悪いと思うこともどちらにも等しく可能性があるとき、自分とその周りにとって納得のいくことをただひたすらに選ぶ態度なのだとも思う。 しかしラストの物悲しさは何なのだろうか。 「わたしは傷ついている。傷ついて二度と癒ることはないのだよ」 「愛するものが危機に瀕している場合、しばしばこうならざるを得ないものだよ、サム。つまりだれかがそのものを放棄し、失わななければならないのだ。ほかの者たちが持っておられるように」 TOP |