MORIVER'S SWEETEST DIARY (27)
更新日記 (27)
11月 9日(日) ドラクエ日記20日目/改造/緊急車両/殿下/過失致死
11月 10日(月) Geoダウン/犬首/出逢い
11月 11日(火) ドラクエ/金/話し中
11月 12日(水) 日記整理/物書きモードについて
11月 13日(木) リセット/不思議/プロバイダー
11月 14日(金) 再リセット/自粛/マルサの女
11月 15日(土) 祝900万突破(^^;/いんちき/長い言い訳
1997年11月 9日 (日)
ドラクエ日記20日目をお送りします。期間もあいたので今回から勝手に、
「第二部」とします。といっても別に何も変わることは無いのですけど(^^;
***
indexのファイルがどうにも長すぎるので、いい加減改造しようと試行錯誤
してみるもののうまくいかない。せめて日記ぐらいはもっとコンパクトに整理
してしまった方がよいのでしょうか。
ただ、ものぐさな私は、ファイルを何カ所も変えるのが面倒なんですね。今
の方式ですと、日記のこのファイルとindexさえちょこっと書き換えればそれ
でOKなんですが、日記の一覧ファイルも別につくるとそちらも毎回書き直す
必要もでてきて……。
indexは前から変える変えると言ってそのまま放置していたことでもあり。
なんとか頑張ってみます。
***
昼間。六車線の国道の脇を歩いていた時。背後からサイレンの音が聞こえた。
振り向く間も無く、赤い巨躯が姿を現した。消防車である。スピーカーで、な
にやら叫んでいるがよくは聞き取れない。一台が過ぎる。そして二台目。行く
手の信号は赤。しかしその二台目はスピーカーとサイレンをがなりたてながら、
勢いよく通りすぎていった。
緊急車両である。
格好いい。
交差側の道路ではおとなしく青い乗用車が交差点の入口でたたずんでいた。
すごい。
***
今夜のテレビでは映画「キンダーガーデンコップ」を放送する。私は見てい
ない。しかし予告を見た。その時隣に母もいた。母は言った。
「ああ、これシュワツデッカーね」
嬉しそうに言う。
「シュワルツ、『ネ』ッガー」
僕はつっこむ。
「あらそうなの?」と母。
「なにぬね『ネ』ッガー」
しかし母は聞いていないよう。
「そういえば私、昔『シュワルツ殿下』だと思っていたのよ。それで本当の
殿下なのかな、と……違うのよね」
「……」
母はデーモン小暮も好きなので、その「閣下」というのが頭にでもあったの
であろうか。殿下。ふうむ。
***
たまごっち死亡。音を消していたので誰も呼び出しに気付かなかった。ちな
みに音を消したのは私。……過失致死? 享年18歳であった。もう育てるの
は止めようと少なくとも母とは意見が一致した。
(11/10 2:10)
1997年11月 10日 (月)
昨日はサーバーのGeoCitiesがダウンしており、夕方の5時頃から深夜3時
頃までアクセス不能になっておりました。その上、ファイルの転送もその後ず
っと不通で、アップできたのも今朝がたになってからでした。本当にお騒がせ
いたしました。
***
山の手線に乗った時。
痩せた黒髪のおばさんが、ナイロンの手提げバッグに子犬を入れて、電車を
降りて行くのを見た。黒いバッグから茶色の小さな頭がぴょこりとつきでてい
る。微妙にその首は動いていたから、ほぼ間違いなくあれは生きた犬である。
確か目黒駅(もしくは恵比寿)だったと思う。そのまま階段の方へと消えて
いった。あんなのありなのだろうか。あれで改札を通れるのか。不思議。
***
このところ本屋に行ってもこれはという本とめぐり会えない。ちょっと気に
なって一度手にとって、また戻しはするけれど、また思い出し店内を一周して
また手にしてしまう本。そういう本となかなか会えない。
もちろん、定番の本、ベストセラーの本、わりとよく読む作家の本などに手
を出せば、それはそこそこ面白い本ではあるのだろう。しかし、そこには嬉し
い意外性も、先の読めないどきどき感も無い。単に私の心のアンテナが閉じて
いるだけなのかもしれないが、以前に比べ本屋滞在時間が短くなっているのも
確かだ。
「積ん読」はなるたけしない主義なので、買うというのはイコール最後まで
読み通す覚悟の本ということになる。またどんなにいい本であろうと、出会う
タイミングがずれるとさっぱり心に響かないのも事実だ。
例えば、今日は昼間、昔大学でレポートを書くために買ったフロイトの「精
神分析入門」をぱらぱらと拾い読みしていたのだが、これが滅法面白かった。
自慢では無いが精神分析関連の本は結構読み漁ったが大御所のこの本だけは、
文体の古さ、回りくどさもあってなかなか読む気がしなかった。
しかし今日開いてみたら文章が面白いほどすらすらと頭に入ってくる。そこ
には後にユングが熱中する夢の象徴はおろか、精神分析の持つ根本的な危険性
についてもしっかり述べられている。深層心理学の源はフロイトにいきつくと
いう言葉の意味を、そして現在に至るまでこの本が読み継がれていることの意
味を遅まきながら実感した次第である。大学の一年の時に買ったものだからも
う、5年以上も前のものだ。この年月をかけてやっと素直に読めるようになっ
たのか。
古典という意味では未だに聖書の面白さが分からない。何故に皆はあれに熱
中するのだろうか。論語の面白さも最近知ったので今なら聖書も分かる、のか
な。小説が無いのが残念だが……気合い入れてドストエフスキーとかいってみ
るか。どうだろう。
(23:23)
1997年11月 11日 (火)
ドラクエを少しやったはいいけれども、進展らしきものは無く、日記の形に
まとめられませんでした。しかも、キャラ話の方を考えるのも億劫で。前にも
書きましたがどうやってもプレイ時間と執筆時間が同じだけは必要であり。う
っかり2時間やると、書くのも最低2時間必要となり……。ということで、こ
ちらは近日中にアップということで。
***
めすらしく公募ガイドを買ってきてしまう。なんかいい加減お金になる文章
を書きたいと欲を出してみたのだが……冷静に考えると好きで書いているだけ
でよいホームページの文章だけでこんなにうんうん言っている私が、果たして
原稿用紙百枚とか書けるのであろうか。なんか十枚ぐらい書いて百万とか貰え
るもの無いだろうかと探しても見るが……ってそんなこと考えている時点で私
は既に終わっている(^^; 懸賞葉書でも書いた方がマシかも。
***
久々に「朝の10時」頃にネットにアクセスしてみた所「話し中」であった。
意外にもこの時間のアクセスは多いようだ。それともテレホーダイが終わった
時間なので、接続料の安いアスキーフリーウェイに流れてくるのであろうか。
某メールマガジンによるとアスキーには有料接続が5万人ほど、無料接続が
25万人と計30万人の会員がいるらしい。これが前触れなくいきなり2ヶ月
で放り出される格好になったのだから大変だ。パソコンの販売台数も下降気味
でもあり、プロバイダーも過当競争時代に入るのだろうか。
一方で電話回線の接続回数はここ一年で15%も上昇しているらしい。携帯
・PHS・ポケベルの普及が原因らしいが、ネットもこれに加えていいだろう。
特に携帯は、料金の低下もあって伸びがよいらしく、PHSなどは逆に減って
きているとも聞く。それでも今までの伸びが異常だったのであり単に落ち着い
たと見ることもできる。
いっそ一般回線は使い放題で料金固定でもよい気がするが、これはやはりコ
スト的に問題があるのであろうか。少なくともネット回線は安くつなぎっぱな
しでいられれて、初めて「便利」になると思う。
もっとも現実問題としては、私の次のプロバイダーをどこにするか、という
ことなのであるが……月額固定で安ければ安いほどいい……やはり自分で探す
しか無い、か。
(22:00)
1997年11月 12日 (水)
すでにお気づきの方もおられるでしょうが、玄関に貼った日記のリンクを整
理しました。4月から10月分の日記一覧を別ページにまとめた、と、それだけ
なのですが、これで少しはindexも軽くなったかと思います。
また背景の色も飽きてきたので少し変えてきました。青の色が強くなったの
でちょっと寒い感じですが……また、そのうち変えるかもしれません。
***
気がついたらパーリタ4話を更新してからはや1ヶ月。時間が経つのは何て
はやいんだ、と我ながら驚きです。ただ今までの経験から、執筆を始めると生
活の全てに支障がきたし始めるもので……。
***
うう。ネタが無い……。頭も回らない。固い石がつまっているような感じだ。
別段日常生活に支障は無いが、「思いつき」というものが出てこない。
***
実は懸賞の投稿作品用にアイデアを練ろうと色々画策してもみた。
一番オーソドックスなアイデア製造法はひたすら自由連想したことを書きつ
づる、ということ。とっかかりは何か簡単な単語だったりシーンだったりする。
それから、それに関連したことを無造作にひたすらひたすら書き並べてゆく。
深くは考えず、とにかく量だけ書きなぐる。そこから面白い組み合わせやネタ
がでてくれば万々歳だが、これにはもう一つ「頭を空っぽにする」という目的
がある。
これと似たようなことで昔ひたすら「タイトル」だけを考えるということも
やったことがある。頑張れば100ぐらいは書ける。
そうしている内に疲れてきて、妄想が脳内で始まる。すると何かイメージが
でてくる。でてこなかったらとにかくまた書き続ける。ありきたりの組み合わ
せはなるだけ外すようにするが思いついたらどんなベタなネタでも書き留めて
おく。そのうち繰り返すパターンがでてくるので、それに気付いたらまた違う
方向性を狙う。
今の所、頭をアイデア製造モードにするにはこの方法が一番よいようだが、
いつも成功するわけではない。小説となると、書き殴りの原稿を幾つも書いて
は捨て書いては捨てとやらないと、自分でも気に入った文章になってこない。
それにくらべればこの日記の文章などいい加減極まり無い。
また、矛盾するようだが小説の場合は「文字」におこすとイメージが消える
場合も多い。パーリタなどはそのパターンなのだがイメージがでかすぎると文
にするのが怖くなるのだ。書いた瞬間に「こんなんじゃない」と気付いて、イ
メージが逃げてしまうことが何より怖い。こういう場合はひたすら文章では無
くイメージとして同じシーンを何度も何度も繰り返して頭に定着させる。そし
て「よしこれ以外ない」と確信を持てて初めて文章におこす。ここまでくると
書く内容は明確なので、後は文の単語の並べかたや、「カット割」に頭を回す
ことができるようになる。
とまあ実に偉そうではありますが、大体こんなプロセスを辿りながら私は物
を書いているわけです。そしてこのプロセスは本当に日常を破壊しまくり……。
物を書くというのは実に危険なことなのです。本当に。
(11/13 0:00)
1997年11月 13日 (木)
カウンターがリセットされてしまいました。どうもGeoCitiesのサーバー側
の問題であるようです。三万を目前としながらの突然のリセットに、正直唖然
としております。
元に戻すことはおそらく不可能でしょう。また一から出直しです。
しかし、これは惰性でおこなってきたページ更新に対する「喝」が入ったも
のと無理矢理前向きに考えようと思えば考えられる。心機一転、新たなページ
づくりを考える時期なのかもしれない。
***
朝、コンビニで。
立ち読みしていたヤングサンデーを棚に戻そうと屈んだ時。
後ろで商品の整理していた店のお兄さんとちょうどお尻とお尻が互いに突き
出すような形でぶつかった。
なんか変な感じ。で、あった。
***
プロバイダー探しということも兼ねて日経ネットナビを買ってくる。広告の
数は少ないが数がありすぎても迷うだけなのだ。この程度が丁度よい。月額固
定の所を中心に探すが意外に安い。ODNなど一月1980円とある。DREAM NET
も1月31日まで無料キャンペーンなどを張っている。それを過ぎると月2900円。
この辺りで検討してみようかと思っている。
(21:32)
1997年11月 14日 (金)
カウンターが再リセットされている。
***
喝、だなどと格好いいことは言ったもののやはり、結構悲しいものがある。
たかだか数字の問題で、人が今も来ていることには変わりは無いのだから気に
しすぎてもしょうがないのも事実ではあるのだが。
***
昨日、今日と実に何十日ぶりかに雨が降っている。晴れもいいが雨もいい。
雨の音、というのは陳腐な物言いだが、心落ち着くものがある。久々だからそ
う思うだけなのだろうか。
***
更新が止まったままの状態で今更こんなこと言うのも何ではありますが、ち
ょっとこれからネットにつなぎにくくなりそうです。端的に言ってしまえば、
おろそかになっている勉強の方にいい加減、力を入れないことにはやばい、と
実感してきていまして。日記だけは一応更新してゆくつもりですが、小説やそ
の他の記事はちょっと危ないです。
***
「マルサの女」を少し見ていた。伊丹監督作品の中ではかなり好きな作品で
ある。基本的にプロフェッショナルな人間が出てくる物語は好きだ。また、
テーマもいい。「マルサの女2」は三國連太郎演じる初老の男の「老い」が、
テーマにされていたが、「1」の方では山崎努演じる悪徳企業家のハードボイ
ルドな半生の描写がメインで切なく格好いい。
はっきりとは描かれていないが、山崎努演じる権藤という男は妻の死をきっ
かけに闇のビジネスに染まっていったらしい。彼は女を多く抱えながらも、誰
にも満足できず、常に飢えている。そして息子に財産を残すことに異常なまで
にこだわり続けている。
ラスト、権藤は主人公であるマルサの女、板倉亮子に「査察をやめてうちに
こないか」と誘う。単にビジネス上のパートナーとしてともとれるが、ここは
彼なりのプロポーズであると受け取りたい。なにしろ板倉亮子は最愛の息子と
親しく接することができる人物でもあり、ビジネスのレベルでも権藤と対等に
話ができる相手でもある。女としての魅力については分からないが、少なくと
も「息子の母」として、そして仕事を理解し会える「友」として彼女を求めて
いる。そして、それはつまり男が「妻」に求めることだ。
男にとって妻がどんな存在であるかは人によっては違うかもしれないが、妻
が「息子の母」で「自分の友」であるとしたらこれはかなりの幸福な結婚では
ないかと思う。板倉亮子ははっきり言っておばさんだ。下品では無いものの、
色気は無い。しかし権藤の回りに美人や色気のある女はいても「友」はいない。
そしてそれは彼にとっては永遠に手に入らない存在でもある。
板倉亮子は権藤の誘いを断る。すると、権藤はいつか彼女が忘れていった白
い花柄のハンカチを取り出し、ナイフで指先を切ると、したたる血で銀行の貸
金庫の暗証番号をつづってみせる。ふられた男は、自分の思いを血で染まった
ハンカチを相手に渡すことで去ってゆく。華麗なる敗北。つまりマルサの女の
主人公はその名に反して、負け行く男を描くハードボイルドな映画なのである。
去り行く男の美学、というのは「たんぽぽ」における山崎努にもあてはまる。
彼は偶然知り合った、あるラーメン屋の女将のために「うまいラーメン」の作
り方を伝授する。ラスト、新生したラーメン屋を前に山崎努はそこに止まらず
去って行くのである。
しかし、マルサの女以後、このテーマはなりをひそめる。「2」では、老い
に怯え少女に神聖を求め滅びてゆく男が描かれるがそれは美学というより、本
当にただ寂しいだけなのである。これは、後の「大病人」でも繰り返される
テーマである。
「ミンボーの女」も決してつまらなくは無いが、ヤクザ対ホテルという図式
が明確すぎる反面マルサの女にあった「風味」が乏しい。これはスーパーの女
にしても同様である。現在公開中の「マルタイの女」は未見だが、はたして、
このテーマのレベルではどのようなものが扱われているのか。伊丹十三は市民
の敵という存在にこだわっており、しばしばそれは「ヤクザ」であったり「悪
徳業者」であったりする。しかし、その敵は悪として描かれるだけなのがほと
んどである。味付けとして人間味を足したりはするがマルサの女の権藤を越え
る人物にはなかなか味わえない。
権藤は片足が悪い。常にびっこをひいている。さる身体心理学の説によれば
足というのは自我を深く結びついているらしい。通俗的にも自我が安定してい
る様を「地に足がついている」とも言うし、足がふらふらした状態はやはり多
く自我不安定な状態であるとも言えよう。その考えから見ても権藤という男が
いかに不安定で複雑な自我を持っているかが分かる。最後、怒るような感じで
杖を片手に野球場の客席の階段を降りて行く後ろ姿。足どりは一見力強そうで
その体はびっこのため激しく揺れる。そのアンバランスさに深いものを感ぜず
にはいられない。彼は決してまっすぐとした足を持つことはできない……悪に
染まる……いや悪を「背負う」男の業のようなものがそこに見える。そして、
それが見ている者に強烈なインパクトとして残るのである。
ラストの音楽、ジャズ調のトランペットの間にエレキギターのノイズのよう
な音が交じるそれは、権藤の胸がかきむしられる様子を現しているように聞こ
える。夕暮れの街。それを見つめる板倉亮子。やはり主役は権藤であった、と
思う。マルサの女は狂言回しなのである。そこが「ミンボーの女」と違う点で
ある。井上まひるにはヤクザと戦う動機が描かれたが板倉にはそれが無い。説
得力は悪にこそある。それは伊丹監督の「若さ」だったのか。もう見ることは
できないのだろうか。そんなことを考えながらマルサの女のエンドテロップを
見ていた。
(23:53)
1997年11月 15日 (土)
カウンター異常はいまだ続いております。一時は900万以上のカウンター数
になってもいたそうです。もう大大ヒットページですね(^_^; 今はまた戻っ
て二桁に……。気にせずにきましょう。
***
さて、この日記はいんちきです。今はもう日曜の昼です。11時前にうっか
り眠ってしまい……。気がつけばもう朝でした。ってこれが普通の生活なんで
しょうが。
***
14日に日記について『「びっこ」というのは放送禁止用語ですよね……』と
いうつっこみをいただきました。確かにそうです。知らないわけではありませ
んでしたが、適切な表現では無かったかもしれません。「片足を引きずってい
る」とか「膝が悪い」でも充分ニュアンスに変化の無い所で、あえてもはや差
別用語の一つになった「びっこ」を使う意義は少ないでしょうから。
ただ、私がまだ幼稚園頃みたドラマで「びっこ」という言葉がでてきて、そ
れが頭に残っていたためやはり第一にその語を思い浮かべてしまうのですね。
幼心にその言葉の響きがいいなあ、と思ったのも覚えています。ひょこひょこ
と歩くさまを連想させ、今時の言葉で言えば「可愛い」と感じたのです。
しかし無邪気なもんだからそれでいいというわけではもちろんありません。
というよりおよそ社会の中で一番やっかいで度し難い問題の一つが「無邪気に
人を傷つけること」であるとすら思っています。
その点からすれば、差別用語の使用を控えるということには一定に意味が確
かに存在していると思います。問題は「なぜそれを使わない方がいいのか」と
いう部分を説明しないままに「駄目」ということだと思います。
例えば身体障害に関する放送禁止用語は「びっこ」「かたわ」「めくら」
「つんぼ」「てんぼう」などなど色々ありますが、これらの語がなぜ放送禁止
になったのかは分かるようでよく分からない部分であります。おそらく、身体
障害をもつ人はただでさえ白い目で見られがちであるので、その流れをなんと
かなくす一つの方法として「言葉の制限」を考えたのではと思います。その背
後には福祉社会を実現しようとする時代の趨勢があったわけであり。
私はゴーマニズム宣言などが関わっているような形での言論闘争には興味が
無いので(というか関わるのが怖い(^^;)、自分の思想が左なのか右なのか、
唯物的なのかそうでないのか、ということにさほどこだわりはありません。
まああえて言えばやや左よりで、唯物的考え方も嫌いでは無いですが、もっ
と実存主義的で、精神分析かぶれで、構造主義にも昔心ひかれていたという過
去を持つキャラクターです(分かりづらい(^^;)。
ということを踏まえて福祉社会というものをまず単純なモデルとして理解し
ようとするとやはり「戦争によって減少した労働力を補充する手段として弱者
をも社会参加させる必要が高まった」という流れで理解してしまいます(唯物
的ですね)。
ただしここで勘違いしてはいけないのは、福祉的考え方が現実になったのは
戦争があったがためではなくその前からそういう考え方があって、戦後を契機
に現実化したということです。実際、国内の弱者をひっぱりあげるより奴隷を
ひっぱってきたほうがいいというのが今までの歴史の流れでもあります。
すると、そのそもそもの考え方の発端はどこから来たのか。弱い者を守ると
いう考えの根本はどこからくるのか。
ここからいきなり精神分析的になりますが、それは自分の中で弱いと感じる
部分も、場合によっては強いものになりうると信じたい気持ちの投影だと解釈
することができます(自分中心に考えるという意味で実存主義的でもある)。
これがいいことかどうかは分かりません。弱い部分は弱い部分としたままで
強い部分をより鍛えた方がよい、と考えるのもまた正解かもしれないからです。
これこそ環境や性分、人生の時期によって違いが生じる考えたかでしょう。
私はどうかと言いますと、現時点ではやや前者よりです。しかし、それでは
ちょっとうまくいかないとも感じているので、後者に移行しようかと考えあぐ
ねているという状況でしょうか。どうも前者は「甘え」に通じそうで危機を感
じてもおり……。
話を差別用語の問題に戻せば、そんなわけであんまり今の私は「優しく」無
いです(^^; 長くなりましたが「びっこ」はびっこのままに一応しておくとい
う言い訳が以上の文章というわけです。異論反論はお待ちしております。
(11/16 15:17)
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