更新日記 (74)
6月 6日(日) 試験に出る
6月 7日(月) 物語を見る
6月 9日(水) 動物園へ行ったこと/般若心境とは
1999年6月 6日 (日)
皆様、またまたご無沙汰してしまいました。
前回の更新日が5月22日ですから、15日ぶり、なんと2週間以上もの時
が流れたことになります。2週間。本当にあっという間、気象庁は雨も降らな
いのに梅雨入り宣言をしています。事実として初夏なのです。
***
一部で懸念されていた(らしい)私の試験ですが、結果として不合格。落ち
込むというより、自分にあきれております。ちなみに私が日記の中で試験だ勉
強だ、とぶつぶつ言っているその試験とは司法試験であり、私は大学卒業後、
時にバイトなどをしながら予備校に行ったり行かなかったりという暮らしをし
ているのである。というようなことはホームページ開始後初めて書くことなの
ですが、それも日常生活とちょっと切り離しておきたい、現実逃避の場所とし
てありたいという気持ちによるもの。しかし、期待とは裏腹に、今では直接私
を知る人が日記を見ていることが多いようでもあり、近況報告ということで、
もうぶっちゃけてしまうことにしました。
それにしても、本当に自分自身についてあきれも果ても尽き果てる。ちなみ
に司法試験というのはどういうものかというのを簡単に説明すると、まず試験
は一次と二次に分けられる。二次はさらに3つの試験の分かれる。都合4つの
試験が一年にある訳だが、これは勝ち抜き戦で、どこかで落ちたらはい、終わ
り、また来年というシステムである。
しかし一次というのは、基本的に四年生大学ならば免除される試験なので、
実質上の本番というのは二次試験から、ということになる。
前述の通り二次試験は3つに分かれており、それぞれ「択一短答(マーク
シート)試験」、「論文(記述式)試験」、「口述(面接)試験」と続く。
そして五月にあったというのはこの択一試験というやつで、行ってみれば予
選みたいなものである。ということは予選落ちという訳で、全くもって、さよ
うなら、ということなわけである。ちなみにこの択一試験というのは倍率で言
うと大体5倍から6倍程度と言われている。それでも、受かる人は毎年受かる
ので全くの運不運で決まるのでは無く、基本的には実力の世界である。
であるが故に自らにあきれているわけである。
参考までに、論文試験ではさらに6倍程度の倍率があり、口述では論文合格
者の1割が脱落する。択一試験受験生の総数から計算すると競争率は33倍、
割合にして3%という数字になる。それでももちろん受かる人は受かる。でな
ければ困る。どちらにせよ困っているわけだが。
平均合格者年齢は大体28歳程度ということだが、これは40過ぎても試験
を受ける人がいるからであって、割合的には24、5歳程度で合格する人の数
が半数近いようである。
さらに嫌なことを言えば私自身は択一の合格経験すら無く、これは試験を続
けている人の中ではかなり珍しいケースである。大概は、択一試験に落ちた時
点であきらめて就職活動する人が大半で、司法試験受験生を長く続ける一番多
いパターンは択一には合格するが論文試験でなかなか受からないという人なの
である。じゃ、なんで私がまだぐずぐずこんなことしているの、と言われると
正直、とてもすばらしい理由があるわけでは無い。
大学卒業して一年目に受けて落ちた時には、頭から水をざばっとかぶったよ
うな気持ちになり、OBとして大学に行く用事があった時など、ついこないだ
まで同じ園にいたというのに、のほほんと人生を謳歌する大学生に何故だか傲
慢さ加減を感じ、理不尽にも怒っていたりもした。
などとしているうちに私ももう26歳で、12月には27になる。何やら莫
としたものも感じることは感じる。
勉強の範囲というのは大変広い。択一試験は憲法・民法・刑法の3科目のみ
であるが、論文はそれに加え、商法、民事訴訟法、刑事訴訟法がある。
よく試験勉強というと条文をまる暗記するのではと思われる方が多いようだ
が100条ほどしかない憲法を除き、実際にはそんなことはしない。むしろ、
どのような場面でどのような条文が使われるのか、そして個々の条文はどのよ
うに関連しており、その解釈はどのようになされるのか、の方が重要であった
りする。そして条文の実際の適用例として主要な判例の結論や理由付けを覚
え、それを答案に反映できるようになることが、まあ試験の内容である。
大体今、勉強を始める人が取る方法は決まっており、司法試験予備校でま
ず、憲法・民法・刑法の3科目を基礎講座という形でほぼ7、8ヶ月かけて
受講する。それ以外だと、講座のテープを買って聞く、大学の司法試験対策の
授業を受ける、法学部の基礎的教科を真面目に受ける、という方法もある。い
きなり教科書を読んで理解する人はあまりいないし、多分読んでも分からな
い。あちこちの箇所が複雑にからんでいるので、何度か通して勉強しないと理
解できないようになっているのである。講義の場合は、その辺りを意識して過
去に出題されて問題などを意識しながら、関連してくる箇所を紹介して進むこ
とが多い。
問題文であるが、択一の場合は60問、各科目20問づつを、3時間半で解
く。一問3分半で解くことになるが、複数の問題や知識からみあうので実際に
はその時間で解けないものもあり、早く解けるものは見た瞬間に解くというよ
うな事務処理能力も必要とされる。論文は一問につき一時間で、6科目12
問。内容は判例などで争われた事件をアレンジしたものか、学説上大切なとこ
ろを一行問題という形で出題される。口述は、基礎的な定義などの知識と、多
少対人能力なども見られるらしい。
普段の勉強は、基本は独学で、一週間に1度か2度は答案練習会という模擬
試験を受け、苦手教科について、講義を別途取ったりもする。
***
昼夜逆転、友人からもらったちょっとやばげなCD-Rの中身で遊びながら、夜
が過ぎていった。
1999年6月 7日 (月)
心に震えるという経験が、以前より自分に残らなくなってきている。
前ならば一度感じた強烈な印象は、何度でも反復できたし、実際映画でも小
説でも同じものを何度も見ていた。
しかし、例えば先日「ディア・ハンター」という70年代に制作されたベト
ナム帰還兵の映画を見た。3時間以上の大作なのだが、最初の40分以上は、
出征前の主人公が、友人の結婚式に出ているシーンで大変まどろっこしくて退
屈である。もういい加減勘弁してくれよ、とビデオのゲージを見ながら我慢し
ているとやっと45分目辺りで唐突にベトナムでの戦闘シーンになる。
ネタをばらしてしまうと、そこで主人公とその友人は捕虜にされている間、
慰みものとしてロシアン・ルーレットをやらされ、精神的な危機にさらされて
しまうのである。見ているこっちが発狂してしまいそうになるような地獄の中
で、主人公であるローバート・デニーロだけが、あまり誉められ無いような行
動を繰り返しながらなんとか、なんとかギリギリのラインで正気を保ち続け
る。しかし、帰還の日も遠くから部屋で自分を迎える古い友人の姿を見て、逃
げ出し、近くのモーテルの一室で壁に背を預け、腕をかかえて震えてしまう、
といった具合でまともじゃない。
これはアカデミー賞をたしか5部門ほど受賞している。前半の異常な長ささ
え除けばこれは、確かに心から離れられない作品である。にも関わらず、私は
数日経った今、これを見返そうともしないのである。それが普通だと言われれ
ばそれまでだが、今までだと大体は、何度かリピートし、自分の中に溶け込む
ぐらいじっと見たものだった。つまりこの心理状態を一言で言えばこうだ。
「もういい」
一つのことを追求しようという気力が弱く、何もかもは表層のところで、
「もういい」になってしまうというのは、やはり年齢のせいだとうかとも考え
る。その方が楽だということを知ってしまったということなのだろうか。
映画に限って言えば、シナリオの勉強やら自主映画に関わっていたせいもあ
り自分の意識がどちらかというと製作者よりであったということもある。しか
し今では完全にお客さん状態で、ディア・ハンターを見たのも「何となくいい
映画見て感動、みたいなもの欲しいなあ」なんて気持ちで見ただけだった。す
っかり消費者の態度、なのである。
***
真保裕一の「ホワイトアウト」も読む。
雪山に閉じ込められたダムを舞台に、テロリストと戦う一介の運転員の話で
ある。ダイハードから続く「テロリストとぼろぼろになりながら戦う男」とい
う定番アクション路線そのままの内容であった。雪山であるあたりは「ダイ
ハード2」と「クリフハンガー」の影響を強く感じるし、目の前で仲間が死ん
でいった経験があるが故に、なぜか警官でも無いのに大活躍してしまうという
意味ではヴァンクロード・バンダムの「サドンデス」そのままでもある。
しかし、真似っこであるはずなのに、登場人物の気持ちにはきちんとした流
れがあり、明らかに用意された見せ場の連続に不自然さもあまり感じない。職
人的うまさというものを強く感じた。作者は過去アニメディレクターを努めた
こともあるということだが、それも多少は関係があるのだろうか。
***
他、あまり詳しく書く気は無いのだが「ムトゥ 踊るマハラジャ」も少し見
たが、周りが騒いでいるほど面白いとは思わなかった。アニメでは「カウボー
イ・ビバップ」が気になるところだが、レンタル中であることも多く、まだ全
体はよく分からない。オープニングはとりあえず格好いいので、どのように話
が収斂してゆくのか、気になるところではある。ちなみに「ビバップ」は、近
未来を舞台にしたハードボイルドアニメなのだが、よくルパン3世と似ている
などとも言われている。さらに余談だが、ルパン3世は関東ではまた再放送を
している。一体何度再放送されるのだろうか、全く……。
***
最近「物語」って何なのだろうかと考えることがある。心理療法などの場で
は「物語」というのはかなり重要で、つまり人生や物事を捉える時に、人は何
か一貫した流れを持とうとする傾向があることが指摘されている。交流分析で
は「脚本(シナリオ)」などとも言われているが、これもまあ同じような位置
づけに言葉であろう。
「物語」というのは、もちろん映画やドラマ小説などそのものずばりの物語
から作られるのでは無く、多分一番影響が大きいのは親との生活であると思
う。ある種の行動原理を、いろいろ目の前にしていると、そこに何かバック
ボーンがあるように感じてゆくのである。そうした物語を自分で意識すること
もあれば無意識で演じていることもある。
もしかしたら、さまざまな物語を見たり聞いたり、知ったりしようとする心
というのは、こうした自分の物語をもう一度見つめ直したいという気持ちと関
連があるのかもしれない。出来合いの物語を見て、すぐにその通りにしようと
は思わないだろうが、それが何かの影響を人に与えることは間違い無い。
具体的には「こういうのもありなのか」という驚きが、特に子供の時にはあ
った。
小学校の時から国語の現代文の出題文が好きだった。意図してあまり常識で
は無い文章を出すことが多く、そこに出てくる話の内容に、逐一目が開かされ
た。いろいろなことにこだわりながら生きていてもいいんだ、ということは大
分学んだ気がする。今、具体的にその内容を言えと言われると困るのだが、な
にがしかの影響は確かにあった。
***
今「もういいよ」になってしまうのは、もしかしたらそういう新しい物語に
出会えなくなってしまったせいもあるのかもしれない。
ディアハンターは確かによくできている映画だが、私自身はわりとこの時代
の「アメリカンニューシネマ」が好きで色々と見たりしている。ベトナムもの
についても、プラトーンやフルメタルジャケットを見て、ひどい追体験を一応
はしている。最近ではベトナムどころか、「プライベートライアン」という形
で華麗なる勝利であるノルマンディ上陸作戦でさえ、凄惨に描いている。戦争
が人の命も精神もひどく犠牲するものだという事は、体ではともかく物語とし
てはもう慣れたものになってしまっているのだろう。寂しくはある。
1999年6月 9日 (水)
昨日はさすがに雨だったが、今日はまたからからの快晴。プールにでも入り
たい気分ではある。
日記には書かなかったが、日曜、多摩動物公園に友人と行った。特に親子づ
れが目立つなか、ぶらぶらと歩く。ほとんど山の中なので、園を一周するとち
ょっとしたハイキング気分が味わえる。幼稚園児ぐらいの子供の方が元気で、
親の方が暗い顔をしているのが妙に印象に残った。個人的にはチンパンジーに
シンパシーを覚えた。毛がぬけて薄くなったところなど、人間の腕そのままで
ある。たしか、1、2歳児程度の知能もあるはずである。人間に日々見られる
生活はさぞかしストレスも溜まるだろう、といろいろと考えてみたりした。
本屋で「般若心経を読む」という新書を買った。そのままの内容である。冒
頭に日本語訳があるので見ると「この世の全てのことには実体が無く、生きる
ことも無ければ死ぬ事も無く、悟るということもなければ悟らないことも無
い」といった内容が書いてある。これが仏教の神髄であり、一切は空であると
いう。つまり実体が無い。全てには実体が無い。さらに言えば実体という語も
無い。ということは、実体に満ちているという風にも考えられる。妙にさらさ
らした教えだな、とも思う。
(15:48)
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