更新日記 (79)
7月 22日(木) 国旗・国歌法案
7月 23日(金) スター・ウォーズ エピソード1 ファントム・メナス
7月 24日(土) 機長死す
7月 25日(日) がりごり
1999年7月 22日 (木)
国旗・国歌法案衆議院可決。
ということは、ほとんど法律化が決まったようなものだ。日本は法律の制定
には一応「衆議院と参議院の二つで多数決賛成があること」という条件がある
が、実際には参議院で反対になっても、衆議院でもう一度審議して、可決され
れば法律になる。衆議院の方が圧倒的に力があるのである。
二度目の可決には3分の2以上の賛成が必要だが、参議院の方でも事前に半数
以上の賛成を集めておけば、問題はなくなる。結局、政治というのはその数合
わせの問題になっている。
正直なところ、君が代も日の丸などなにも愛着はない。どうでもいい。
けれども、この成立の過程というのは嫌なものである。
多数決で決めるのが民主的だ、という風に言われているが、これは全員の意
見をなんとかまとめて、なおかつみんなが納得できる手段として便利だから採
用されているだけで、絶対なものではない。多数決は、必ずしも全体の意思を
反映させるものではない、ということは既に証明されている。にもかかわらず
未だにこの方式をとっているのは、つまりそれにかわるよい方法も無いからに
すぎない。
しかし、政治ではそれが絶対の公式である。とにかく、主義主張はいいから
数さえそろえたもの勝ち。自民党が長らく政権を保てたのも、一重に議席の半
数を常に占めていたからである。この徹底した数へのこだわりは田中角栄が完
成させたスタイルと言われている。そして以後変らずに現在にいたっている。
これは国家というレベルで見ると分かりづらいが、同じ構図は会社の株主総
会でも見られる。株主総会でも多数決がものを言う。もっともこの場合の一票
は株の所有数になるから、一人で半数の株を持っていればもちろん、決定権は
一人占めということになる。しかし、実際には株を会社関係者以外の人が買っ
てくれるから資金が調達できるのであって、なかなかに難しい。株主総会では
投票しない人もいるであろうから、実際には3分の2程度でも、十分力は発揮
できたりもする。とはいえうかうかしていると株主をどこかでまとめて、逆転
させられるという事態もありうる。結局それも政治というやつだ。
悲しいことに、一度決まってしまうと「そういうものか」と受け入れてしま
う柔軟性があるのもまた大衆である。
なにが嫌だと言えば、その「ゴリ押し」感覚がたまらなく嫌なのである。
政治家が説得すべきは議員ではなく、まず国民であるべきだとも思う。
もちろん、政治家の立場からすれば、円滑な国務の遂行のためには、国民に
いちいち説明するよりも、まず実行に移してからゆっくり分からせればいいと
いうことになるのだろう。たしかに少数精鋭の人間が熱意を持って動く方が、
大人数でたらたらやっているより能率はよい。それは分かる。
しかし、それにしたってあまりにも、むいている方向が違いすぎる。
政治家自身も政治とはこういうものか、と受け入れすぎている気がする。
もっと分かるように説明、もしくは判断材料を公開して欲しい。
***
強いて言えば日の丸は、描くの簡単でシンプルでよいとは思うが、ちょっと
赤が強すぎる。さくら色の方がよいのではないだろうか。個人的にうめぼしが
嫌いというのも多少あるが。
君が代は、歌詞は明確にヤバイので、曲だけでOKかどうかというのが問題
になるだろう。
君が代に似ている曲調ということでやはり「さくら」の曲を推す人もいるら
しい。それを言うなら「はーるのうららの隅田川ー」でも「荒城の月」でもい
いわけで。あ、どちらも滝廉太郎か。個人的には「特捜最前線」というドラマ
のエンディング曲「私だけの十字架」なんかが好きなのだが……無理か。
(7/23 5:52)
1999年7月 23日 (金)
「スター・ウォーズ エピソード1 ファントム・メナス」を見にゆく。
公開当時、アメリカの映画評を見る限りほとんどが酷評していた。
いわく「技術的にはすごいが、ストーリー的なもりあがりにかけ、一作目の
方がよかった」と。
私自身の感想を言えば、まずつまらないことは無い。映像的はもちろん、凝
っているし、話も想像したよりもずっとまとまっている。
簡単にストーリーをまとめるとこうだ。
未だ銀河共和国が存続していた頃。
辺境の星を、と通商連合の一団が税を支払えと武力で包囲した。共和国元老
院からは事態を見守るため、二人の「ジェダイの騎士」が遣わされる。
最初は小さな小競り合いに見えたが、実はその背後には2000年前に滅びたと
言われる暗黒のフォースを操る強大な的「シス卿」の姿があった……。
若きオビ=ワンと、師匠クワイ=ゴンの殺陣は見事で、一作目のへぼへぼ
な剣の振り方とは段違い。二人のジェダイを倒すためやってくるシスの一人、
「ダース・モール」も、かなり手強く強い。
ちなみにこのジェダイ関係の描き方はかなり「時代劇」している。
クワイ=ゴンなど、電磁バリヤを前にいきなり蹲踞(そんきょ)をしてい
た。ダース・モールも顔は京劇だが、動きはカンフー的、服装は侍装束であ
る。実際、ルーカスはかなり黒沢明の時代劇を意識しているようだ。
他にも、水陸両生人と、通商連合のバトル・ドロイドとの合戦シーンがある
が、これなど、まるっきり戦国絵巻き風なのである。4足歩行動物にまたがっ
て、ノボリを立てて、槍を持って、平原で戦になる。ちなみにこれは全てデジ
タルアニメーションである。
いや、これはもう断言してもいいと思うが、この新作スターウォーズは、
ほとんど全てのコマにCGが使われた「超リアルアニメーション」だと言え
る。登場人物の多くが、人間の動きをトレースしたものとは言え、デジタル
処理されているのである。
もう一つ、中盤の見せ場にアナキン少年がポッドレースに出るというシーン
がある。「ベン=ハー」というアカデミー賞を総ナメした傑作映画があるのだ
が、その古代ローマの戦車レースシーンをそのまま真似たようなシークエンス
が続く。これもほとんどCGである。かといって嫌な感じは無い。日本のアニ
メを見て、セル画だから嫌だと思わないと同じように、デジタル映像であろう
と、存在感があれば面白いのである。ルーカスは日本に生まれていたらきっと
アニメ監督になっていたと思う。しかし、おそらくアメリカには幸運なことに
実写文化の強いハリウッドの中で、ルーカスは自分の映像を求めてILMを作
り、ついに「何でも映像化できる」技術を手に入れた。これで完全に不可能な
映像は無くなった。ルーカスはそれを証明している。
話の筋に戻れば、影の黒幕の正体は当然明らかにならない。また、ちょっと
しんみりくるエンディングも、2作目への予感を高まらせる。
ネタバレを承知で言えば、テロップの最後の最後。ダースベーダーのあの呼
吸音が聞こえたのを確認した時、私の心は叫んでいた。
「早く三部作全部見せろ!!!!!」
それからこれもある意味すごいと思うのだが、結構アナキン少年も、襲われ
た惑星の幼き女王アミダラも活躍するのである。子供が大人を馬鹿にするよう
な形ではなく、活躍する映画というのはハリウッドでは珍しいのではないかと
思う。日本のアニメではガンダムを始め、そういうケースは多いのだが。悪く
言えばそのあたりに「おたく」的ファンタジーが込められており、一部の熱狂
的なファンを生むのだろう。アミダラ演じるナタリー・ポートマンも相当「い
い感じ」でした。
しかし、****が、実はアナキンによって作られたという設定は、ちと強
引すぎる気もしました。既にエピソード1を見たみなさま方、どう思われま
す?? なんか、やっぱりすごいことなってますよね。
結論。「スターウォーズ3 帝国の逆襲」よりも面白いです(激白)。
(7/26 1:06)
1999年7月 24日 (土)
昨日。23日。正午すぎ。
全日空の機長が、「ジェット機を運転させろ」とコクピットに侵入してきた
男に刺されて死んだ。犯人は、操縦桿を握り、高度300メートルまで急降下さ
せたりした後、副機長やたまたま乗り合わせた他の機長ら7人に取り押さえら
れた。
飛行機は無事、羽田に戻ってこれたが、日本のハイジャック事件史上初めて
の死者、世界史上初のハイジャックによる機長殺害という結果となった。
えらいことである。
男は、昔空港でバイトしたことがあり、何ヶ月か前に手荷物検査を通らずに
機内に凶器を入れる方法を、ひどく知的な文章でまとめて空港関係者に送って
いたという。「親切に指摘をしてくれたのだと思った。まさか同じ手口で、包
丁を機内に持ち込みハイジャックするとは思わなかった」と関係者はコメント
している。間が抜けているとしか本当に言いようがない。
犯人は本名の公表されていない。精神科に通っていたこともあるというし、
某都内の国立有名大学商学部出身とも言われている。何かの配慮が生じている
らしいが、もちろん「狂っているからこういう犯行をした」と片づけられる問
題でもない。多かれ少なかれ現代人はみんな狂っているのだ。もちろん、あき
らかに「変」と感じる人が世の中にいて、実際に精神病棟でバイトしている人
などに聞けば、「思ったよりもずっと理解はできるが、理解できないと強く感
じることもあった」という話である。
狂気は特殊ではなく、一般の延長線上にあるというのもまた事実なのではあ
る。そこに線をひかなければ社会全体が(そして個人も)不安で仕方がないの
でそうするだけで、じっとその線をにらめば、曖昧で実は線なんか無いように
思える程度のものでしかない。だから、「フライトシミュレーターゲーム」に
はまったからおかしくなったという人がいたら、恥ずかしいと思うべきだろ
う。
***
という記事の書かれた新聞の同じ面では他国での飛行機墜落事故や、変死体
発見のニュースも報じられている。特殊な死とありふれた事件の死。
新聞には、なぜ悪いニュースしか書かれないのか。いいニュースも知らせる
べきではないか、という声もあるが、こういう暗いニュースは多いにあってし
かるべきだと思う。死や犯罪はワイドショー的に面白いという以上に、現実が
どんなであるかを嫌がおうでも教えてくれる。それは他人のお手柄話や、ちょ
っと心暖まるいい話なんかよりも、ずっと地に足がついた事実であり、故に、
確かな何かを読み手に与えてくれる。それはとても大切なことだ。不安定な天
国よりも、たしかな現実の中にいたいと思うのは私だけ、であろうか?
(7/26)
1999年7月 25日 (日)
気がつくと、ネットも含め、本にせよ何にせよ「受け取る」だけで自分から
発することが少なくなってきている。
何かを書く、ということは、他人に何かを伝えるという行為と結びついてい
る。人に何かを伝えるということで、なにより自分自身が何を考えているかも
分かってくる。また、実際に何かが相手に伝わるというのはとても嬉しいもの
だ。
分かる、というのはどういうのことなのか。
昔真剣に悩んだ頃がある。塾の講師や家庭教師をしていた時のことだ。
幾ら説明しても、なにやらぴんとこない顔をされると、本当に胸が苦しくな
ってきてしょうがなかった。
逆にその「ぴんとくる」感覚があると無性にうれしくなった。
とりあえず理解するとは「ぴんとくる」ということなのだけは分かった。
ぴんとくる、というのは直接「体で分かった」ということを意味する。
もう少し厳密に言えば、「今まで知っていたことや過去の体験と、その新し
い何かが、どういう関係にあって、どういう風に結びつき、または異なるのか
が、きっちり自分の中で位置づけられた」ということなのだろう。
だから「分かる」という過程は、人によって本当にさまざま異なる。教育の
難しさというのは、この一面をとってみても難しいのがお分かりだと思う。
例え話というのも、人によってはぴんときたりこなかったりする。
下手な例え話は、かえって混乱を招くこともある。
例えばパソコンで言えば「メモリ」の説明などがそうだ。
よくメモリは「作業机」にたとえられる。
「作業机が広いと作業しやすいでしょう? だからメモリが沢山あると、ス
ピードが早くなるの」と言う奴だ。
分かったように感じるが、私なぞ「なんでコンピュータが机にたとえられ
る」んだと、かえって混乱する。作業机の例えは、「デスクトップ」の概念と
もかちあってしまう、というのも原因の理由だ。
メモリ、というのは一度に複数の処理をする時重要になる、ぐらいの理解で
もいいと思う。CPUというところが計算をする。その時、メモリが多いと複
数の計算をすばやく行うことができる。計算がどんなに早くできても、メモリ
が少ないと送られてくる情報を一度に受け取れないから、実際には遅くなる。
これは、本当の原理に基づいた説明であり、嘘も例えも無い。
そのイメージは、まったく誤解が無いものである。故に例外も勘違いも少な
い。机とメモリは違うものなのだ。
そういうことも他人に自分の考えを言わないとなかなか分からない。
自分の中で理解したことを他人に理解できるように話すというのは実は非常
に難しい。かなり普遍的に通じるように自分の理解を修正させなくてはいけな
いからだ。
もっと例をあげるならば「英語は難しい」というのがある。
英語を学習するのは欧州人に比べ日本人には難しい、ということに使うこと
が多い。
逆に「日本語は難しい」というのもある。欧米人にとっては日本語は学習し
づらいだろう、日本語は特殊だ、という考えだ。
しかし、それはほとんどの場合「少なくとも私にとっては英語を学習するの
は難しいし、自分は欧米人に日本語がどういう言語か説明するのは難しい」と
ちょっと普遍的そうな言葉で言っているだけである。
どの言語だって学習も説明もそれなりに難しい。英語に関して言えば、これ
だけ日本語の中に大量に英語が入っているのだ。今更なじみが無いなどは言わ
せない。少なくとも私にとっては韓国語の方が難しく見える。文法的には日本
語に近い、というぐらいの知識はあっても、である。
人になにかを「ぴん」とこさせるコツはないものかとも考えた。
結論の一つは、しごく当たり前かもしれないが、「同じことを幾通りもの表
現で説明できる」ということだった。これは丸暗記では無理なことだ。本質を
理解していなければ、そういう多角的な表現は難しい。反対に、多角的に表現
しようと……つまり相手がぴんとくるまで、あれこれをいろいろな説明を試み
るうちにやっと「ぴん」と相手が来るものにぶちあたる、ということだ。
そして説明する人はその説明の過程で理解を深める。
なるべく世代も立場も違う人に説明するのはそのいい訓練にもなる。
人にものを教えるのがいやだという人もいるが、それは自分自身の理解を別
に深める気もない、と言っているのも同義である。自分の考えは自分のもので
わざわざ他人に言うつもりも無いというのもなんだかおかしい。そんなに自分
というのは明らかなものなのか。
正直告白すれば私が実感として此の世で一番不思議に思えるものは自分であ
る。これ以上、多くのデータに接しているものは他に無いはずなのに、未だ
「不思議」なのである。だから世の中はもっと不思議に満ちている。ただ不思
議ばかりだと不安なので、適当に線をひく。ない所にもむりやり線をひく。無
意識に線をひいている人もいるだろうが、それではあまりに世の中が小さくて
分かりきったものに見えて仕方ないのではないだろうか。
私の場合は不思議さに押しつぶされてしまうような状態なので、人にすすめ
ようとは思わないが、本当の「ぴん」とを感じるにはやっぱり、あえて自分の
中のものを話して、自分をちょっとずつ壊してゆくしかないとも思う。
まあ、そんなこんなで(どんなだ?)また当分書きたいことを書いて自分を
がりごりと分解させてゆこうとも思っている。
(7/26 1:56)
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