更新日記 (83)
9月 1日(水) VAIO来訪者/ネットでパソコン学習は可能か?
9月 5日(日) 本を読む/ランゴリアーズ/速読/未来
1999年9月 1日 (水)
上の妹(24)が、突然パソコンを買って来た。SONYのVAIOである。
デジタルビデオの編集をしたいという。無茶な、と思うものの、まあ、或る
程度までは性能的には可能だ。何を編集するのかは不明だが。
そもそも、特に父と上の妹はこの手の「買ったはいいが使わない物」の話題
にことかかない。健康器具、ワープロ、カラオケセット、囲碁の台……。
私にもそういういったものが全く無い、とは言わない。けれども、私の場合
欲しいと思ってもその欲しいという気持ちをためたまま数日、もしくは数ヶ
月、場合によっては数年待ってしまうことも多い。買ってもすぐには利用しな
いな、というものは大概の場合買っても無駄だ。
衝動的に買うものとしては本がこれに当てはまるが、それにしたって「読
む気があるか」というのが購入の判断基準としてまず、ある。積読するような
らば買わない方がいい。例外は資料的なものだが、それにしたって「ずっと持
っていたいかどうか」というさらに厳しい基準が待ち受けている。
話は戻ってそのVAIOである。
ウィンドウズ98で、私自身には特に感動は無い。
妹はしきりに「難しい」と連発しているが、昨日届いて今日にはもうネット
に接続してメールも送れているのである。難しかろうが何だろうが、そこまで
できるならば御の字ではなかろうか。難しいのは当たり前で、パソコンレベル
でも本当に仕組みを理解しようと思ったら、一週間でも全然足りやしない。も
う10年近くパソコンを使っている私でも知らないことは山ほどある。
ニュースを見ると、証券会社が、オンラインで株や証券取り引きを可能にす
るために、主に中高年むけに、パソコンのレクチャー代をも含めたセット型PC
を販売しようと画策しているらしい。
パソコンは難しいというイメージをどんどん取り除きたいとも考えている
ようだ。操作を簡単化することも考えているようだ。しかし、簡単にすると
いうことは内部的にはかえって複雑化していることも意味する。
問題は簡単にすることではなく、構造が体感的に分かるように説明すること
だとも思う。もっとも必要なのは、レクチャーや学習の方法である。
学校でもパソコンの使い方を徐々に授業に取り入れているようだ。
ただその導入の仕方にはかなり、まだノウハウが足りないように思える。
もし、自分が学校カリキュラムにパソコンを導入するとしたら、少なくとも
学習ソフトなどはあまり使わない。ティーチングマシンとしてのパソコンは、
未だ開発が必要だ。
それよりも、普通に、まずネットの見方。それから学校の掲示板の読み方。
日本語の入力方法。
そして壁新聞などの発行。
と、同時にネット上での危ない行為についても教える。むやみに本名や住所
をあかさないこと。文章がいかに人の心を傷つけることがあるかも教える。
PCやネットを利用した、学習スタイルというものは未だ混沌としている。
そしてそれをいかに、行うのか。個人で家族に教えている内容を自分で学習
できる仕組みとしていかに行うのか。その辺りに、今後のパソコン普及に伴う
問題があると思う。
まあつまり、人に教えるのは結構面倒なので、自分で何でもできるようにな
って欲しい、ってことなんですけどね。
いつかきっちりまとめたい、とも密かに策を練っていたりします。
(9/2 3:23)
1999年9月 5日 (日)
久々に小説を読んでいる。
スティーブン・キングの「グリーン・マイル」一巻と、中編集「ランゴリ
アーズ」の2冊を買ってみた。しかし前者は第一巻、後者もまだ読み終えて
いない、と本当に「読んでいる」だけである。
読むのが遅くなったな、と感じる。スティーブン・キングの小説の場合、
ついじっくり読んでしまう、という傾向があるにせよ、やはり読むスピード
が衰えた気がするのだ。
一時期、速読を身につけたくて、関連書籍を何冊も買い集めた時期がある。
実際に速読教室に通ったという人にも話を聞いてみた。
とりあえず、2倍から4倍までのスピードは必ず身につくのだという。
だが、それもごく基本的な技術で「本を読む時、頭の中で声をださない」、
「視点がなめらかに動くように訓練する」という程度の話だ。
そこから先、となると読めば読むほどさまざまな流派があると知った。
集中力を高めるために呼吸や姿勢を整えたり、視線移動をさらに強化させ
たり、連想力を高めたり、視野を広くする運動をしたり、動体視力を高めたり
……。
一応、小説単行本を1時間弱、早ければ30分で読めるようにはなった。
小説の場合は、「場面」「登場人物」「台詞」の3つさえ押さえればストー
リーは追えるので、情景描写や心理描写などは飛ばし読みができる。構造が
しっかりしている小説の場合は、それだけでも面白い。つまらない小説の場合
は、どうやってもつまらないので、さらに飛ばし読みになる。だが、こんなこ
とは役に立ちそうで意外に役立たない。
専門書などは、知識がなければ読むのは当然遅くなる。速読すれば頭がよく
なるというほど簡単なものではない。
ただ一つ言えることは「集中力」にかかっているということ。集中力が全
て、眼球の運動も、呼吸も、イメージ能力も育てる。速読のカリキュラムも
そう考えると、一応理にはかなっている。どんなに「え、こんなの関係ある
の」という訓練方法も、少なくとも集中力アップの一つの手段としては有効
そうだからだ。
***
話は戻って小説を読むのが遅くなったということだが。
集中力が弱くなったということも一つあるが、それとは別に「物語を必要と
しているか」という要素も気になっている。
ドラマや映画やマンガなどを、まるで中毒のように消費することがある。
同じパターンを何度も繰り返し好む人には、やはりその物語を必要としてい
ると考えられる。
物語を必要としない人、小説もマンガも読む気がしない人もいる。余計なこ
とを考える必要があるというだけで面倒という場合だってあるのだ。
もしかしたら今、小説や映画やドラマに対するこだわりが減ってきているの
ではないか、と自らを疑っている。本を読むという行為に新鮮さや驚きがなく
なって来ているのかもしれない。それとも、ただ「めぐりあい」がないだけな
のか。
大人になるにつれ物事を「物語」にあてはめようとする。多くの事象はその
中に収めることができるので、自分にはもうこれ以上物語はいらないと感じる
のか。もし、そうだとすると自分が恐くも思う。物事の全てを「こんなもの」
と感じてしまったら。新しい何かに出会うことも無くなってしまうのか。
満足というのは、可能性があるというだけでも強く感じることができる。不
安と期待の中にある、何かを、だからこそ求めたいと思うものではないのか。
そして多分明日も本屋に行く。もう少し、何かがまだそこにあるのを期待し
ながら。
(9/6 2:01)
戻る