OLD DIARY/NEW DIARY/HOMEPAGE

更新日記 (84)

9月 12日(日) あーこりゃこりゃ
9月 14日(火) みしみし
9月 19日(日) 飲酒癖について考える




1999年9月 12日 (日)  やはりというか、何というか。  予想の範囲であり、ある意味当たり前なのだが、我が家の上の妹が、この ホームページにまで触手を伸ばし始めた。ただでさえ知り合いに見られるのは 嫌であるというのに、とうとう身内である。  もっとも、自分がページのURL(それは「ジヲライフ入門」の方であったの だが)を教えたのが悪いと言えばそれまで。しかし、「小説? みたいなのも ちょっとみたけどなんだかつまらなかった」みたいなことを言われれば腹も 立つ。例え事実であっても、だ。もともと上の妹ととは、ドラマにしろ本にし ろ面白さの評価の基準がことごとく違うので、それはそれとして受け止められ るが、楽しい気分にはなれたものではない。  元々、好きな映画・ドラマ・小説がことごとく違うので、当たり前の評価で はあるのかもしれないが、まったく、やはり身内に知られるのは嫌なものであ る。  そろそろ、ここを引き払って、匿名サイトでも立ち上げようかなど、真剣に 考えてしまった。
1999年9月 14日 (火)  久々に「ジヲライフ入門」を更新する。  といっても新しい情報は何も無く、単純に幾つか変更された手続き内容を変 えただけだったりする。本格的にいじろうとすると、本当に全部直してしまい たくなり、おそるおそる部分訂正するにとどめた。最近、なぜかホームページ 制作に関する質問メールが増えて来ており、半ば、止む得なくの更新でもあ る。 ***  最近、結論をつけるのがますます億劫になってきている。  文章に特に端緒にそれが現れるのだが、「**は++だ」と言い切るのに辛 いものを感じるのである。  **ではないか。**だと思う。**だそうだ。  断言できることがどんどん少なくなって来る。知っていることの量自体は増 えているはずなのに、どんどんそんな状況にあなってくるのである。  **だ、と言い切る時でも、心のどこかでは「今はそう思っていても果たし て先ざきまで本当にそう思い続けていられるだろうか」という気持ちがかけら ではあるかもしれないが、やはり浮かんでしまう。  結構、さまざまなことに自分の意見というものを挟んでしまうというのに、 これはいかにも、無責任だ。しかし、物を言うことによって、ためているもの を吐き出したり、整理したりできる以上、この流れを止めることはできない。  つまらないこだわりに、あえてふりまわされてみたり、またそれを楽しんで みたりもする。  だが、そういうことをしてみても、時々、ふと、頭の中でなにかがみしみし と分裂しそうな重みを感じることがある。何かどうしてもしなくてはいけない ことがある時には、意識をしないで済むこでも、一人の自分を意識すると、と たん何かがそこにうごめくのを感じる。今に始まったことではないので、慌て はしないが、その重量感は確かにそこにある。そして重みにまけて、音を立て てしまう。  なんて書くと、ちょっとやばいんじゃないか、と思われそうだが、それはそ れでも、行動はまだ制御されている。慣れてしまっているのかもしれない。 ***  最近、池袋でハンマーと包丁片手に8人を襲った通り魔がいた。ちょっと前 には、フライトシミュレーションにはまっていた男によるハイジャックがあ った。そろろ電車でGOマニアによる列車ジャックも出てきそうだ。  この手の事件のほとんどは、現実感を取り戻す行為に見えて仕方がない。よ く、「バーチャルリアリティと現実を混同したが故」などという説明がされる が、混同という言葉は何か、勘違いしているだけと一蹴しているようで、しっ くりこない。  バーチャルリアリティというのは、人工的に作られた空間の中で、現実感を 感じること、ということなのだろうが、そもそも都市そのものが全て人工だ。  町中を歩けば90%以上が人工物だ。家の中など100%だ。街路樹や、土の地 面でさえ、人の想像範囲の中で存在するものである以上、やはり人工物と変わ り無い。  そんな中で、自然と呼ばれるものは実は、人間の意識そのものであって、人 工という意図を超えた何かに、触れたくって、ますます人工物に触れてゆくと いう傾向を感じる。意図と意図を並べてゆくとそこに見えてくる、不思議があ って、それがやはり「自然」というものだと思うのだ。  だが、自然というのはよく言われるように、恵みでもあり、破壊でもある。  その荒々しさが、現実感でもあると思うのだが、結局、外にそれを求めよう とすると、不器用にも、極端に走ってしまうのではないか。  もちろん、実際にことを犯した人に聞けば違う答えをするのかもしれない。 勝手に分析しやがって、と怒るかもしれない。というか、多分そう言うと思 う。自分の中にある「みしみし」を人が理解できる方が不思議なものだ。自分 ですら言語化できないのに。どうして他人のあんたが分かるのか、と。  話が上のこととここで関連してくるのだが、この「みしみし感」というのは 結構、中身は違うにせよ誰にでもあるのでは、と疑っている。そう思うことで 自分を納得させたいとしているだけなのかもしれないが、だが、言葉にできな い何かを抱えていることは間違いはずである。数少ない断言の一つとしてそれ は強く思う。  みしみしは重苦しい。が、それゆえに現実を与えてくれる。おかげで犯罪者 にもならずに済んでいる。感謝するべき、なのかもしれない。  みしみし。 (9/15 2:03)
1999年9月 19日 (火)  非常にまずいことに、最近ビールをほぼ毎日飲んでいる。  これは飲酒癖がついた、と言ってもいい。  以前より、そこそこ酒は飲んでいたが、どちらかというと誰かと話をしたい 時についでに飲むという感じで、一人で黙々飲みたいという気持ちにはあまり ならなかった。  しかし、今は違う。お仕事から帰って来ると、飲みたくなるのだ。なんだか 頭も体も、もやっとしていて、冷たいビールが欲しくなる。かといってそんな に量が欲しいというわけではない。ちょっと酔った気分が欲しくなるのであ る。  家には父親用にビールが常に2ダース分ほど置いてある。  よってそれを飲む場合もある。冷えていなければ、近所のヒノマルチェーン というわりと遅くまで営業している酒屋に行き、缶ビールを一本か二本買って 来る。  そして、ビールを飲みながら夕食のおかずを食べて、時々、白米を食べるの を忘れて寝てしまう。  オヤジ、だ。  こんな絵に描いたようなサラリーマン・ライフを過ごしてよいものか。  自分自身を本当に疑う。  にも関わらず今日は、休みだったにも関わらず、堪えきれず夕方4時頃から ビールを」また飲みはじめてしまった。  ワインも日本酒も飲むが、なぜか体が求めるのはビールである。幼児期にお けるコカコーラ、少年期におけるコーヒーと同じで、ビールも最初は苦さが気 になって好きになれなかったが、今ではそれすらもいとおしく感じる。  中島らもの「今夜すべてのバーで」という有名なアル中患者を主人公にした 小説がある。中島らも自身がアル中だった経験もあり、情報小説としてもかな り面白い(無論小説としてまずよい)。  アル中についてのさまざまな学説なども、医者との挑戦的な会話で出てくる のだが、その中で私が真実らしいと感じたアルコールを飲む動機の一番は「ド ント・シンク(考えるな)」につきる。つまり味が、どうというのではなく酔 った状態、というのを求めるのがアルコール中毒への方向性につながるという ことだ。  思い当たる節がないわけではない。なんといっても、今はすっかり勤め人な 生活パターンになっている。しかも、土日休日というサイクルもなく、かなり 不定期な休み方をしている。土日も無い日も続けば、平日にぽっこり一日休み になってみたり。いや、それならまだしも、自分のやるべきことが全然ルーチ ンワークされていないで、さてはて、どうしようと考えることも多い。  家に帰っても、まだあれこれ考えることが多い。もともとその傾向が強いの だが、最近はさらにそれが増えた。電車に乗っている間も、大体何か考えごと をしているので、その時間を長く感じることも少ない。  で、家に帰ると「もう何も考えないぞー」という気持ちになる。  実は今、一生懸命自分の気持ちを言語化しようと思い、心をさぐりながら書 いている。だから、これは100%正しい分析ではないが、まあ大体のところは こんなところでは無いかと思う。  こういう書き方をするには理由がある。  考えたくない、と心が求める一方で、また「考えたい」という気持ちも一方 で強くあるのである。というか、「考えろ」と叱り飛ばしたい気持ち、かもし れない。とっても大事なことを先送りにしたり、考えないようにしている、と いう気持ちがやはり、ちゃんとどこかにあるのである。  となれば、何について考えることが大事なのかをまず考えなくてはいけない ということだ。  しかし、これが一番難しい。  それはもはや答えのある問いというより、決断に近い。そして決断というの は、何か心の中の漠然としたところでなされるものだ。自分のもやもやとつき あう前に、逃げ出すように、いいや、これで、となした決断は危ない。  するとやはり飲酒はよくないのかもしれない。  気がつくとちゃぶ台の下にはキリンラガーの大ビンが4本。ビールのかわり にレモンティの入ったコップを今、飲んでいる。 (22:08)

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