OLD DIARY/NEW DIARY/HOMEPAGE

更新日記 (85)

10月 14(木) ぼうっとする
10月 24(日) 時しぐれ、モバギの日




1999年10月 14日 (木)  実に一ヶ月ぶりに近い更新である。  もうホームページを閉じてしまったのだろうか、と思われてしまった方も多 いかもしれない。かく言う自分も、そんな気分になったりもする。  インターネットに接続してもう3年は経つが、この間、多くの人が就職や、 環境の変化のためのページを閉鎖して来たのを見てきた。特に自分がリンク しているページがいつの間にか閉じられているのは、一抹の寂しさも覚えてし まう。  無論、ネットに限らず、およそ出会った人、関わった人の多くとは結局は疎 遠になる。仕事など明確な目的が無い限り、人が関わることのできる数には限 界があるのでは、とも強く思う。  確か映画の「スタンドバイミー」の言葉だったと思うがまさに「レストラン の席につく客のように」周りの人間というのはめまぐるしく入れ替わる。か つての共産圏とは違い、移動の自由と、高度は交通機関の発達により、人は激 しく流動する。一期一会というと格好はいいが、一人の人間と接する時間とい うのは総じて減少してゆくのが、流れ、なのかもしれない。よくも、悪くも。  この日記を読んでいる人の多くは、どうも私の知人であることが多いような のであらためてここに記すが、こと人づきあいに関しては、私はとても不精な 人間である。自己イメージというのは他人が思うイメージとは得てして異なる ことが多いものだが、やはり周りを見回して見ても、本当に自分から他人に連 絡を取ることが少ない、と思う。  例えば、年賀状だが、もう何年もまともに出したことが無い。  高校の頃までは、それでも20枚は出していた。しかし大学の4年間でそれは どんどん減少し、とうとう昨年は、来た年賀状数枚に返事を書くだけ、となっ てしまった。  全く、どうでもいいというわけでもない。時折、昔の友達のことを思い出し たりもする。いや、ごく親しい人間のことも、日に何度も気にとめることもあ る。しかし、思うだけで、結局コンタクトするまでゆかないことも多い。その ときどう接するべきなのか、分からないことも多いのだ。「急に思い出したか ら」と無論これだけでもよいのだろう。でも、多くは、過去を思い出しながら どうしているかなで、終わってしまう。わがまま、であるのかもしれない。  その癖、コンタクトがあると結構自分では嬉しくなる。自分が嬉しいと思う ことは基本的には相手もした方がいいはずなのに。なぜか、一人でいる方を選 んでしまう。一人でぼうっとして、ぼんやり空を見るとか、ごろごろするとか することを選んでしまう。  我が家の二階にタタミ部屋の一室がある。夜は父と母の寝室となる。その隣 にベランダがある。硝子戸がはめられ、その前にレースのカーテンがはたはた とひらめいている。  幼い頃の記憶のせいかもしれない。もしくはアルバムを見て得た後知識によ る刷りこみなのかもしれない。  けれども、その二階の一室に横たわり、ベランダの方から差し込む日の光と やらわかい風と、そのレースのカーテンがゆれるのを眺めているだけで、喩え ようもなく、なんだか泣けて来るのである。満ち足りた気分になるときもある し、無性に胸をかきむしられる思いにかられたりもする。  本当に、ぼんやり、とすることには価値があるのではないかと強く思ってし まう。体も何もかも溶けてしまいそうになるほど、ぼんやりの中に埋めてしま いたくなる。少しつめたくなってきた風を頬をうけながら、ちょっと厚着をし て、ぼうっとただ佇んでみたくなる。それは、一人でいることなのだが。心を 他人と真の意味で分かち合うことができない以上、やはり一人でのみ感じるこ となのだとも思う。  小さい頃、具体的には小学生や中学生の頃、なんで自分は「満足」というの を得た事がないのだろう、と思っていた。何をしても本当に楽しんだ、とか喜 んだということを覚えなかった。いったいどこまでいけば満足という境地が来 るのだろう、と自分を怖くも思っていた。  しかし、今では満足は満足できる。それは、何もかもがよいと感じるように なったというわけではなく、むしろ逆で、どうにも動かせないというという一 種のあきらめを感じる度に、逆に強く感じる満足だった。結局は、よいと思う 瞬間、感覚というのはあるのである。昔の自分はひねていたので、それも否定 していたのだな、と今は考えている。  そうした、押さえつけていた自分の感情の中にぼうっとすることの楽しさ があった。  もしかしたらこれは人間を堕落させる感覚なのかもしれない。自分の脳内麻 薬の量がおかしいのかもしれない。けれども、やはり一人でぼうっとしてしま う。  またしばらくしたら気持ちもかわって、一人でいることに寂しさを強く感じ るようになるのかもしれない。それでも、もうしばらくは秋の風の中にいたい とも思う。 (0:55)
1999年10月 24日 (日)  風邪をひいた。  ということで喉が痛い。  先週、平日の二日間なぜだかぽっこり休みがあったのだが、その休みを埋め るようにきっちり寝込んでしまう。つまり、だらだらしたいというという先日 よりの欲望はかくてかなえられてしまった。もっとも、思い出もなく、ひたす ら布団の中で眠るというだけの格好で。  昨日、このページの存在も知っている友人にあって、更新がされていないこ とをきっちり指摘された。  そうだよな。週1ぐらいになっちゃったよな。  なんて思いながら、今日付を見たら一週間どころか十日もたっているではな いか。これはどういうことだ。  「最近気がつくと、一週間が終わっている」  「早く一週間がすぎないかな」  よくある言葉だ。  毎日を何かに追われるようにしていると、あっという間にその一週間が過 ぎ、一ヶ月が過ぎ、一年が過ぎる。おそるべし、である。  体感としての時間のスピードは、年齢とともに早くなる、という説もある。 子供時代の一年と、大人になってからの一年とでは密度が違ういう、のは多く の人にとってあてはまる事実だろう。  しかし、しかるに、やはり、それとは別に事柄ごとに感じるスピードの違い というのも存在するように思う。何かを待つ、ときというのは時間はゆっくり と流れているように感じるだろう。締め切りのあることは、早く感じる。  つまりは、その物事に対する自分の意識、もっというならどう価値付けする かによって、時間の進みかたは遅くも早くもなるのではないか。  待つ、ということがゆっくり感を生むと書いた。  究極的には死を待つというところまで、悟りの境地にいたれば、生きること そのものの時間をじっくり味わえるということだろうか。  おそらくそうなのだろう。  しかし、その境地は遠い。  生きているんだから。所詮モータル・コンバットなのだ。 ***  どうも、物言えば、唇寒しと言うか、話が暗くなる。  またぐびぐび飲みたくなってしまいそうなので話題を変えると。  上の友人からモバイル・ギアを借りた。  NECから発売されている小型端末である。  しかし、もう3年ほど前のタイプのものだ。日記にもはるか以前書いたかも しれないが、欲しくて仕方なかったMK-12である。  現在、モバイル・ギアはウィンドウズCEで動くタイプのものが売られてい る。が、このMK-12はMS-DOSがOSとして採用されている。通称DOS版モバギと 呼ばれるこれは、マニアには今でも評価が高い。  確かに、マシンのスペックだけ見ると低いのだが、DOSで動いているという ことで、かなりのカスタマイズができるというところが受けているのだ。  似たようなモバイル系マシンにPalm Pilotがある。今はWORK PADと言われる 製品だが、やはり独自にカスタマイズができるのが玄人受けしたPDAだ。大き さもゲームボーイぐらいで、実にさくさく快適に動く。インターネットやパソ コン系の記事にもよく名が出る。最近ではPalm Pilotの開発者の人が独立して 作った会社からVisorというより高機能で、より安価で、デザインに凝った商 品が出ており、これも要注目である。 (さらにDOSといえばHP200LXが有名だが、マニアックすぎるので省略)。  と、脱線したが、とにかくこのモバギである。  ウィンドウズCEも含め、モバイル系の端末に共通して言えることは、とにか く、動作がパソコンに比べて軽いということだ。電源を入れればすぐに入力可 能だし、ボタン一つですぐ消せる。  電源入れて数分立たないと利用できないパソコンとはその辺りは違う。  技術的にはハードディスクではなく、フラッシュメモリを使っているが故の 速さ、ということなのだろうが、この速さが人に与える快適さは、パソコンに 慣れた目にはすごくまぶしく見える。  とりあえず、内臓モデムを使ってメールの送受信ができるところまでは確認 できた。後は、これで何か文章を書き続けることができるか、というところに 真価がかかってくる。  ・・で何を書けと? (つづく) (23:24)

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