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「ドーナッツ」









 「あなた、ハンドバッグが!」

 妻がどこかで叫んでいた。

 「なんだって?」

 私の周りに見えるのは人、また人のみ。東京駅の通勤ラッシュは、あいもかわらず凄まじい。

 「あなた、どこにいるの?」

 全く恥ずかしい声を張り上げて、と私は妻に苛立ちを覚えた。定年退職をするまで、30年近くもこの荒波を、私は乗り越えて会社に通っていたのだぞ。……まあ、今更、妻にこんな事を知らしめたからといって、どうになるものでもないが。

 「一体、なんだって言うんだ。大きな声を上げて」

 やっとの事で妻の姿を見付けることが出来た。脅えるようにして、壁に背中を付けて立たずんでいる彼女の姿を見ると、苛立ちも行き場を失う。

 「ハンドバッグが!」

 なんとも情けない声を妻は上げる。いつもの家の調子とはえらい違いだ。

 「ハンドバッグをとられたらしいの」

 「どこで?」

 「さっきよ、はぐれてしまった時。革のコートを来た男にぶつかって……あ、あれ、あれよ! あの人!」

 妻の指差す方向には、なるほど、確かに証言通りの男が慌てた様子で人混みをかきわけて走っている。

 「よし、あいつだな。今、とりかえしてくるから、ここでまってろ」

 「あなた、大丈夫?」

 返事をする間もおかず私はその男目指して、人の渦の中へと飛び込んでいった。









 定年。そして退職。

 「さあ、これでゆっくりとできるぞ」

 出社最期の日の夜、私は妻にこう言った。

 二人の息子はとうに結婚して各々、独立をしている。3人の孫もまだ小さく、私もつい「ジジ馬鹿」になってしまうほどだ。当分は孫の相手でもしながら、のんびりするのもいいか、と軽い気持ちで考えていた。

 私は夫として、父としてやるべきことは一応やってきたと思っている。しかし、妻や息子達に言わせると「家庭をかえり見ない、会社人間」であるらしい。

 息子達の家へ訪ねていってみても、どうにも居心地が悪くてしかたない。最初の数回はともかく、お互いに気疲れをするだけで、やがて私はじっと家にとどまる事が多くなっていった。

 すると、今度は妻の方が露骨に嫌そうな顔をしはじめた。「年中何もせずにごろごろされてはしかたない」と邪険に扱う態度に、私は何度も怒りを露にした。そして、ついに出た妻の言葉が「離婚しましょう」。

 お互い、もう60を過ぎた身だ。さすがに頭にも白いものが目立つ年齢である。今更、離婚などしてどうする。そう、主張する私に

 「これ以上、あなたの世話をするなんてまっぴらです」

 彼女はぴしゃりと言いのけた。

 気がつくと私は全くの無気力になっていた。「会社人間」という評は全くその通りだったらしい。「後進に後をゆずった」という気持ちから「お払い箱」になったという気持ちに次第に心が傾いてゆく。正直な所、「私だけは違う」と思っていただけにショックは大きかった。こうなっては、もう妻が去ってゆくのを止めることは出来まい。

 彼女は妹の住む福島へ向かう旨を私に告げた。彼女の妹は、子供相手の小さな補習塾を経営してるらしく、教職経験のある妻に、講師として手伝って欲しいと前々から誘いをかけていた。

 私は彼女を見送る為にここ東京駅まで出向いたわけだが、こんなランニングを強いられることになるとは、当に「おしゃか様でもわかるめい」だ。

 これでも体力には多少自信がある。社内でも、私は歳の割には若く見えると評判だったのだ。……それともあれはお世辞だったのだろうか?







 くだんの男は、真っ直ぐ、ふりかえりもせず走り続けている。

 「おい!」

 私は叫んだ。しかし、声にならない。息が上がってしまってしかたない。こんなに必死に走ったのは何年ぶりだろう。もう初老と呼ばれるに充分たる歳だ、仕方あるまい……。

 いや、「あきらめるのはまだ早い」。

 この言葉を部下へのはっぱに使っていた当の本人が、こんなことでいいのか? あのハンドバッグの中には、妻の切符が入っているのだ。彼女の旅立ちぐらいはきちっと見送ってやらんでどうする。

 スピードをゆるめて、ちょっと上を見上げてみた。男は京葉線のホームに向かっているようだ。長年、東京駅を使っていた私だが、さすがにこっちには足を踏み入れた事がない。

 考えて見れば、私の人生もまた寄り道の少ないものであった。若い頃は、それこそ生活を充実させるだけで精一杯だし、子供が生まれてからは、会社を大きくする事が周り回って彼らの為にもなるのだ、と「身を粉にして」働き続けた。子供は望みの大学に進学し、きちんと就職をし、孫も生まれた。どこをどう間違えた、というのだ。

 「なんだ、あれは」

 私の目の前に、エスカレーターを真平にしたような代物が姿を現わしたのだ。

 『動く歩道』

 そう言えば、昔雑誌で「未来の想像図」なんてものの中に、こうした道が都市中に普及している光景を見たことがある。

 男は、その『歩道』の上を駆けて続けている。私も、続いてそれに乗った。

 面白い程にスピードが出る。ただ、走っているだけなのに、マラソンランナーよろしく周囲が、こう、ぐぐっと後ろに流れていく。男は三本ある『歩道』の真ん中を、私は一番左端の『道』を走った。

 泥棒をおいかけている、というより鬼ごっこをしているような気分だ。子供の頃、こんなわくわくするような感動を良く味わったものだ。

 ちょっと、無理して加速してみる。

 運良く、男の列に先が詰まってきていた。

 「そこ! そこの男!」

 やった。声が出る。みろ、なせばなるのだ。

 しかし、辺りの反応は冷たいものだった。男は私の発した声にも気付いていない様子だ。どっと、全身から力が抜けた。手摺りに手をつき、激しく呼吸をしながらその場にへたりこむ。

 「大丈夫ですか?」

 「え?」

 傍らにグレーのスーツを着た青年が一人、心配そうな顔つきで私を眺めていた。

 「いや、大丈夫……。あ、あの男を」

 「なんですか?」

 「妻の……切符の入ったハンドバッグを持って逃げて……」

 「どれですか?」

 青年はやや興奮気味に辺りを見回す。

 「あれ……あの、今ブルーの服を着たOLの脇を走ってる……革のコートを着た…」

 「あ……、あっ! あれですね。解りました」

 それだけ言うと青年は、勢い良く走り出した。すぐ目の前で『歩道』は一旦とぎれ、さらに10メーター先にまた新たな『道』が続いている。青年はぐんぐん男の姿にせまってゆく。

 私は、汗をしこたま流しながらその光景をながめていた。全く、若いってのはうらやましい。

 遅ればせながら、私も次の『歩道』にのり込んだ。青年の姿も男の姿ももう見えない。おそるおそる私は早足に歩いてみる。なんとも言えず気持ちのいい感覚だ。ベルトコンベアーで機械的に流されているだけじゃないか、という疑念も瞬間沸き起こったが、自分の足で動いているというごく生理的感覚がそれを打ち消してしまう。

 『悪くないな』

 大分おちついてきた。首を伸ばして先を伺ってみる。果たして青年は男をうまく捕まえられただろうか。

 『……つかまらなくてもいいんじゃないか?』

 ふと、そんな気持ちが沸き起こった。どういうことなのだろう。妻を引き留めたいというのが私の本音なのだろうか。

 そうかもしれない。格好をつけて「よし別れてやろう」なんて口で言っているが、彼女がいない生活に私はひどく不安を感じていた。妻にはこの先やらねばならない事がある。私はこれからどうしようと言うのだ。

 『道』が終わり、地下へと続くエスカレーターが見えた。先程の青年はその前に、肩で息をしながら私を待っていてくれた。

 「すいません。とり逃がしてしまいました」

 「いや、いいんだよ」

 私は笑って言った。

 「じゃあ、僕、急いでいるのでこれで」

 青年は、まるで子供のようにエスカレーターの段を駆け降りていってしまった。私は彼の親切心にあらためて嬉しい気分にさせられた。

 しかし、妻には何て言おう。「もう少し考えてみないか」とでも言ってみるか。









 果たして、妻は同じ柱の所に立っていた。駅員らしき男の姿もそこにある。

 「あっ、あなた!」

 妻が片手で手招きをした。もう一方の手には見覚えのあるハンドバッグがおさまっている。

 「あったのよ、ハンドバッグ。とられたと思ったら、単に勢いに押されて地面におっこっていただけだったのよ」

 「そ、そうか」

 普段の私ならどなりちらしてしまう所だが、それ以上言葉が見付からなかった。

 とりあえず、二人で駅員にお礼を述べると、急いで目的のホームへと階段を上がっていく。

 「もう、間にあわないわよ」

 私は無言で歩を進める。

 列車はまだ発車していなかった。

 『扉が閉まります』

 アナウンスの声が私の耳を打つ。

 「さ、早く」

 しかし、妻は階段の途中で立ち止まったまま進もうとしない。

 「おい! どうした!」

 そうこうしている内に、扉は閉まってしまった。モーター音がなり響き、列車はゆっくりとプラットホームを離れてゆく。

 「……とりあえず、一休みしましょう。あなた、ひどい格好よ」

 「まったく、何やってんだ。汽車が行ってしまったじゃないか」

 「さっき、そこでおいしそうなドーナッツ売ってたのよ。ちょっと、食べに寄ってみない?」

 「おい!」

 「……怒ってるの?」

 「別に、怒ってるわけじゃない」

 「……嬉しかったわよ、あれだけ必死になって追いかけてくれて。……もう歳なんだから。きっと明日は筋肉痛で動けないわね」

 なんなんだろう、全く。私は「ふん」と一回、鼻をならして妻を見下ろすが、向こうは意にも介さぬ様子でこう言った。

 「さ、行きましょ」

 結局、私はドーナッツ屋で、シナモンドーナッツとチョコレートエクレアを妻と二人で食べた。それが、なんともくやしいほどにうまかったのを私は、今も覚えている。









<了>

WRITTEN BY MORIVER
93-04-24
HTML modified in 97-6-10



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