「遺産」




                これは夢だ。
                夢に違いない。

                それでも、僕は信じる。
                これもまた、一つの現実なのだ、と。


                        *       *       *


 古い送風機のファンが回るビルの屋上の一角。
 父は右手に持った、38口径のオートマチック銃をゆっくり、こめかみへ近付けよう
としていた。
 僕は「何故か」知っていた。
 父が脳漿をはしたなく飛び散らせ、力なく倒れるその未来を。
 棺の中に静かに横たわる父を前に、僕と母と妹が悲嘆にくれるその現実を。
 父が僕の存在に気付いたようだ。
 僕の左手が父の右手首を、父の左手が僕の右手首をつかんだ。
 激しい息遣いと、ファンのモーター音が不気味な調和を奏でる。
 必死。
 その言葉の意味をその時僕は初めて知った気がする。
 僕は、今まで父と力比べをしたことなど一度も無かった。父は父として常に大きな存
在であるとも信じていた。
 押しかえす父の力が急に弱まり、拳銃は「ごとり」という鈍い音をたてて床に落ちた。
 その瞬間、撃鉄は「何故か」、その弾丸を、信菅を激しく叩きつけていた。
 銃声。
 空一面に広がるその響きを、僕はとっさに閉じたまぶたの奥の暗がりの中で聞いた。




 僕は、自宅の居間の中で父と二人、相、対しあっている自分に気付いた。
 西日が左の窓からさしこんでくる。しかし、二人の間には不思議な程暗い影が横たわ
っていた。
 父が僕をみつめている。その目はかすかに震えていた。そんな父の姿を見たのは初め
てだった。
 頭で理解しようとしても駄目だ。僕には目の前にいる男が自分の父だとは信じられな
かった。脅え、それを必死に隠そうとしている一人の小さな人間。そして、彼が脅えて
いる相手とは他ならぬ僕であった。
 お互い、呼吸の一つ一つに微妙な揺れを感じていた。全身に篭もっていた力みがそう
させていたのだ。
 一言も父は交わそうとしない。僕は涙を浮かべていた。
 『どうして?』と僕は心の中でつぶやく。
 言葉は無かった。
 あふれる涙を押しとどめようと、僕は静かに、強く目を閉じた。



 僕と父は、近くの商店街へと続く道を肩を並べながら無言のまま歩いていた。
 商店街のアーケードの向こうに沈む夕日が赤黒く覗いている。



 突然、目の前に公園の一望が広がった。
 それは、記憶にある近所の小さな児童公園とは少し違っていた。地面一面に緑の下草
がひきつめられ、木洩れ日を浴びてまぶしいばかりの光を照りかえしている。何ら押し
つけがましいところのない、優しい、全てを包み込んでくれるような光。
 それは僕が幼いころみた風景の一部だ、と感じた。
 隣を見ると、じっとその緑のじゅうたんを眺める父の姿があった。
 そこから何かの表情を読み取ることは難しかった。
 解るのはただ、父と共に今僕は幼い頃の思い出の中にいるのだ、という事だけだった。



 再び、僕等は商店街の入口に立っていた。
 薄暗いアーケード。人通りは少ない。少しずつ見える現実。あるはずのアーケードも
いつかはなくなる。慌ててとりつけたシャンデリアは何もくいとめることは出来ない。
現実の空間がそこにあった。
 だが、父もそこにいた。
 父が商店街の中に足を踏みいれた。
 僕も続いて足を踏み入れる。
 父は嬉しそうだった。突然、彼は走り出すと、勢いよく地面を蹴って空中で体を一回
転させる。
 バク転。
 もう一度彼は飛ぶ。
 気が付くと僕の頬に微笑みが浮かんでいた。
 僕は言った。
 『目をつぶろう』
 父と僕は肩を寄せ、共に目をつぶり一歩踏みだした。



 目を開けると、僕は水泳パンツ一つのみ纏った姿で、一人プールサイドに立っていた。
 プールの中では忘れかけていた中学時代の級友達が、笑い声を上げて泳いでいる。
 仰ぎみる天井。
 父はそこにいた。
 長い、長いロープで繋がれたブランコの上。
 空中サーカスのように、父はその上に立って、級友達の泳ぐプールの上を水面ぎりぎ
りに往復を繰り返す。
 父の姿が近付いては遠のいてゆく。
 プール特有の消毒剤の塩酸臭。
 父は笑っていた。
 僕らは再び目を閉じた。



 灰色のコンクリートの壁。駅員がカチカチと鋏を鳴らす改札。売店の台。見捨てられ
たようにケースに残った、折れた地下鉄線路図。
 売店に並ぶ新聞の日付は、今現在のものを現わしている。
 灰色の壁が妙に色あせてゆく。いや、あせているのでは無かった。白さをとり戻して
いるのだ。
 僕は父の傍らに身を寄せていた。行き交う人々、全てが大人だった。自分は子供で、
大人という者が何であるかは考えるまでもない絶対的存在だった。
 地面に落ちた新聞は、多くの人に踏まれ、ひどく汚れている。
 僕は幼い頃の自分の中にいた。父は大きく、見上げてもその顔の覗くのは難しかった。
世界は未知に満ちており、自分はその中で心地よい漂流感を味わう事ができた。体を父
の大きな腕に抱かれ、その目はいつも向こうを眺めようと一生懸命でいられた。
 灰色、白と黒。
 人と人との間で、僕はじっとたちすくんでいた。



 どうやら、母が目を覚ましたようだ。
 朝日が、窓の向こうからまぶしい光を投げかけている。
 懐かしい、自宅の、二階の、父と母の寝る六畳一間。
 温かく柔らかい綿の感触を味わいながら、僕は右頬を布団に押しつけ、母が体を起こ
す様子を眺めていた。母がこちらをむいた。
 『どうしたの?』
 父の横顔が視界のはじに覗けた。
 僕の視線は窓の向こうに変わった。
 海。
 白く波立つ水平線。
 グリーンとブルーのグラデーションが辺り一面を覆っていた。
 太陽は天中高く上り、光の結晶が僕の右上の方をかすめて、消えた。
 規則的な波の音すら聞こえる。
 それら全てが、窓の、箪笥と、箪笥の間の空間から僕等を誘いかけていた。
 僕は、窓際に立って、父と母の姿を探した。
 視線を徐々に降ろすと、砂浜とその傍を走る土色の道路が目に入った。
 そして、その道の先に父と母の乗るオープンカーがあった。
 僕はその車の助手席に座って、海と、風と、光と、全てを全身で感じとっていた。
 父と母は、少年と少女のように笑みを浮かべて前方を見つめている。
 不思議な感覚だった。
 太陽と、風と、波の音とが、僕に一つの感情を覚えさせた。
 希望。
 まさしく、それは希望だった。
 僕は、これ以上は無い、というまでの幸福感を感じていた。
 だが、次の瞬間、一つの疑問が僕の脳裏を横切った。
 『こんなこと、あるはずがない』
 光、また光。
 『こんなこと、あるはずがない』
 それが、どうしたいうのだ。
 僕は感じた。
 たおやかな光の中で、全てが白色に包まれ、その中に身がとけこんでゆくのを。
 そして、思った。
 何もかもは、何もかもの解決をする。
 僕はやるしかない。
 全てに希望は満ちている、と。

 涙はもう止める必要さえなかった。


                        *       *       *


                 これは夢だ。
                 夢に違いない。

                 それでも、僕は信じる。
                 これもまた、一つの現実なのだ、と。






                                                        Written by MORIVER
                                                                1993.1.Apr.
                                              HTML modified in 1997.11.Jun.




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