「ドラマは始まる」
                          「ドラマは始まる」





                                                        WRITTEN BY MORIVER



 それじゃあ、開けるぞ、と長嶋さんは言った。スタンドの明かりに万能鋏のスチール
刃が妖しく光る。俺はテーブルの上に置いたコップの麦茶を一口飲み込むと、長嶋さん
のしわの寄った大きな手が器用に動く様をみつめた。封筒の先が均等に5ミリ程の幅で
切り取られてゆく。
 「ふむ」
 長嶋さんはうなずいた。そして中から三つ折りになった便箋を取り出す。白い便箋で
二枚。長嶋さんは中身も確かめずにそれを俺に渡した。見ると女の字のようだった。
 「住所はあるか」
 長嶋さんが椅子の背に体を預けながら聞く。
 「ないです」
 「だろうな」
 溜息混じりに五五歳の郵便局員はつぶやいた。それから、ペン立てから、柄が球状の
プラスドライバーを取り出し、肩を叩き始める。
 これ、読んでもいいですか。手紙を手に、十九歳の新米郵便局員……俺は聞いた。
 「よせ、よせ。辛くなるだけだぞ」
 長嶋さんの太い灰色の眉がしかめ面を作る。
 「辛い、ですか?」
 「そういう手紙はなあ、まあ、時折あるんだが、読むべきものじゃあないな」
 「……じゃあ、シュレッターにでもかけますか」
 「ほうっておけばいい。後で俺が局長に報告しておく」
 長嶋さんは無造作にドライバーをペン立てに戻すと立ち上がった。緑色の制服の上衣
を脱ぎながら奥のロッカー室へと入ってゆく。俺は手紙をしばし眺める。
 「で、これ、どうなるんです、結局は」
 「そうだな。年末にでも神社で一緒に焼いてもらうさ」
 仕切りボードの向こうから長嶋さんは答えた。
 「へえ。そういう風になってるんですか」
 「うちの局ではな」
 「はあ」
 「そのまま封、しとけばいい」
 着替えの終えた長嶋さんが出て来た。鼠色した品のいいトレンチに身を包んでいる。
 「閉じまりをよろしくな」
 「はい」
 「じゃ、女房がうるさいから俺はこれで」
 片手を上げると、長嶋さんは扉を開き、そして消えた。
 「おつかれさまでーす」
 扉が閉まってからもしばらく俺はそこを見つめ続けていた。無意識に手を伸ばしたコ
ップの中身は既に空だった。
 白い封筒。表書きには、水性ボールペンで、大きく、『お父さんへ』とある。俺は、
テーブルの上にそれを置いた。別に長嶋さんは読むなと、止めまでしなかった。つまり
そういうことだ。
 宛名不充分の場合、送り主が分かれば送り返さなければならない。表書きで住所が分
からなければ、後は開封して確かめるしか手はない。別に悪いことじゃない。
 お父さんへ、か。
 俺は手紙に目を通した。


                *       *       *


        前略。


        お父さんへ


        覚えてますか。最後に会った時のこと。あなたは何て言ったか。
        「俺には残してやれるものは何もない。けれども一つだけ教えてやれることが
    ある。これだけ覚えておけば何が起きても大丈夫だ」
        私はまだ小学二年生。夏も終りの頃で、コオロギが草むらで鳴いていたのを覚
        えています。月は大きく丸かった。しかしそれは私の創作なのかもしれない。
        何回も思い出している内に、勝手に作りあげてしまった記憶なのかと時々思い
        もする。
        何しろ、その時の事を思い出す以外に、私にはお父さんを思い出す手段がない
        から。だから一言一言、私は覚えてるんじゃないかとも思う。
        「いいか、秋乃。どうしようもない時とか、困った時とか、危ない時にはな、
        とにかく叫ぶんだ。大きな声で精一杯叫べ」
        お父さんの顔はとても真剣に見えた。
        「困ってる時にはとにかく、困ってるんだと分かってもらわなくちゃいけない。
        大声で叫んでいれば、誰かが助けてくれる。これは本当だ」
        私は少し呆れて、口をとがらせてあなたを見返してた。
        「なんだ、信じてないのか。よし、今、お父さんが見本を見せてやる」
        すると、突然。お父さんは叫びだして。
        街中で。真夜中に。
        「ほら、お前も一緒に叫べ。せえの」
        そして叫んだ。
        すると、近くの家の電気がぱっぱっ、とついて、その中の幾つかの窓が開いて
        「うるせえぞ!」とどなり声が聞こえてきたりして。
        お父さんは本当に顔をまっ青にして、逃げろ、と叫んで。手をつないでいた私
        は腕がちぎれるかと思うほど、強くひっぱられて痛かった。ミマツ屋の前で立
    ち止まって、よりかかったとたん、そこの看板に穴を開けてしまって、また走
    ったり。二丁目の公園のベンチでやっと二人で大笑いした。
        その後、お父さんがお母さんにどんなに苦労をかけて、どんなに勝手なことを
        してきたのか知ったけれども、どうしても憎みきれなかった。きっと、この時
        の思い出があるからだ……




                *       *       *

 給湯室に入り、冷蔵庫の中を探る。取り出した麦茶のボトルの中身は殆ど空に近い。
壁に張った当番表を見ると、明日の麦茶係は俺になっている。ならば今夜の内に作った
所で変わりはない。ヤカンを棚から降ろし、水とパックを入れ、火にかける。それから
パイプ椅子を引っ張り出し、僅かに残った麦茶に口をつけた。

 俺はあの手紙の主を知っていた。本当のことを言えば、最初に開けて見た時にその名
前が目に飛び込んで来ていた。
 秋乃。吉澤秋乃。商店街裏にあるアパートの二階に住んでいる。齢は二十歳前後とい
った所だろう。
 配達の途中で時折見掛けることがある子だ。とりたてて美人という程ではないが、真
っ直ぐな大きな目が印象的だった。以前、郵便受けに手紙(といってもダイレクトメー
ルの類だ)を入れようとした時のこと、彼女が表に出てきて、ご苦労様ですって笑いか
けてくれたことがある。何故かその時の光景が忘れられなかった。あの、風に揺れるボ
ブ・ストレートの黒髪のまぶしさ。
 ……もちろん、確証があるわけじゃない。しかし、ここいらで他に、「秋乃」なんて
名前の子は他に知らない。ミマツ屋や二丁目公園という言葉からもこの土地の人間であ
ることは間違い無いと思う。消印もこの局のものが押されていた。

 「……失敗したかな」
 長嶋さんが言った言葉を思い出し、俺は空のコップを流しの水桶に突っ込む。
 部屋一杯に麦の香りが立ち篭もり始めていた。
 そして俺は、流し下の開き戸を蹴り壊すと部屋を飛び出した。


                *       *       *



        ……でもね。お父さん、あなたはやっぱり間違ってます。叫び声を上げれば誰
        かが助けてくれるなんて、幻想です。誰かが気付いてくれるなんて、間違って
        ます。
        あの時はそうだったかもしれない。今、あの時みたいに叫び声を上げたって、
        誰もかまってくれやしない。皆、自分のことで精一杯だし、それが当たり前な
    んです。お父さんはただ自分の希望を言っただけなんだと今は気付いています。
    信じた私が馬鹿なのかもしれないけど。お母さんは最後までお父さんのこと悪
    く言わなかったけど。私はあなたを怨みたい。
        腹がたったけど愚痴る相手がいるわけでもなし、馬鹿馬鹿しいとは思うけど、
        この手紙をあなたに送ります。もし、あの世に行ってしまってるなら、そして、
        もしそこでお母さんに会ったなら、手ついて、土下座したって謝り足りないっ
        てこと、本当、分かってよね、って言いたい。
        きっと、これは最初で最後の手紙です。それじゃ。ばいばい。


                                                        かしこ。


                *       *       *

 俺は今、走っている。
 駅前から商店街に入る。夕飯時を過ぎた頃で、通行人の数もまばらだった。その間を
俺は駆け抜ける。中華料理店の看板が見える。ミマツ屋だ。店先のメニューに軽く手を
触れると、その角を曲がってまた走った。住宅が立ち並び、その先に地上げ途中のまま
空き地になった草むらが広がる。夏の夜の虫が鳴いていた。街燈の灯が足元を照らす。
そして俺は立ち止まった。息はまだ荒い。五十メートル先にアパートが見える。そこに
吉澤秋乃の部屋があるはずだった。
 どうしようって、何か考えがあったわけじゃない。いつだってそうだ。何かを決意す
る時、そこに明確な理由なんてなかった。
 今の職場だって、別段、特に望んでついた場所じゃない。世話好きな母方の叔父の紹
介でなんとなく就職してみたまでだ。とりあえずこれで稼いでそれからまた考えればい
いやと思っていた。長嶋さんが自分を可愛がってくれるのは分かる。長嶋さんの息子さ
んは、十三年前、旅先のアルゼンチンで消息不明になったまま帰ってこなかった。俺は
その代わりだと見られている。不満は無いが、別にそれがどうしたってんだ。
 ……いつからだろう。こんな風に覚めた目で世界を見るようになったのは。人生なん
て所詮退屈なだけで、それが当たり前だなんて思うようになったのは。
 黒い闇の中、街燈がキャンドルのように並んでいる。空に星は見えない。風が少しで
てきた。
 分かってるんだ。何よりも大切なことは、考えることでも、迷うことでもない。とに
かく、「やる」ことだと。
 そして俺は絶叫した。



 回転する夜空に向かって俺は声ならぬ声を上げ続けた。雄叫び。酸欠で意識がぼんや
りとしてきたが、俺は止めない。肺一杯につまった空気を、声帯を震わせながら吐き出
し続ける。心は彼方へと飛んでゆく。瞳の中に白い点がフラッシュし始める。一瞬、息
を吸い込んだが、それもすぐに吐き出した。
 どうにでもなれ!
 気分だけは例えようもなく高揚していた。涙がこぼれてきた。悲しいからじゃない。
ただ俺は祈り続けていただけだ。
 誰か俺を止めてみろ! 早く! 早く!
 空き地を巡る柵の一つに手をかけ大きくゆさぶった。土が跳ね、木製の細長い板が、
空中に舞った。それでも、誰も俺にかまいやしない。誰一人いない。
 そうだろうよ。誰が夜中に街中で一人叫びつづける男に関わりたいと思うか。俺なら
どうする。気になってそっと窓を開けてみるかもしれない。しかし、普通は無視するだ
ろう。そうだ。それが普通だ。当然だ。だが、それでいいのか。もしかしたら世界中皆
そうなのか。孤独で、しかし、それを内に秘めながら。こうして、くるくる一人で回り
つづけているだけなのか。出て来い、誰か出て来い。
 揺れる視界の端で、電気のついた窓の開くのが見えた。そうだ。証明してみろ。世間
はまだそんなに冷たくはないってことを。
 叫び声を張り上げる。
 その時、瞬間、まるでスチールカメラが高速シャッターを切ったかのように、眼球が
一枚の光景を捕らえた。開いた窓から覗けたその顔を俺は知っていた。吉澤秋乃。黒い
ボブカット。瞳は大きく。しかし、その目は笑っていない。手に何かを持っている。大
きな箱のようなもの。スピーカーだ。両手でしっかりと掴み、頭上に掲げている。
 光景が微妙に変化した。彼女の口が開いている。何かを言っているようだが俺には聞
きとれない。ただ、多分こうだ。
 urusai.
 俺は体の動きを止めようとした。しかし、それが仇となった。
 強烈な衝撃が俺の額を襲った。首がそのショックに負けて後ろに倒れる。体中の血液
が沸騰してしまったかのようだ。皮膚が熱い。胸元に「それ」は落ちてきた。四角い箱。
彼女が持っていたスピーカーだ。
 視界の隅に赤いものが飛ぶ。俺の血だ。痛みは無い。だが、額から何かが流れている
感覚だけはある。どこかからかパトカーのサイレンが聞こえる。そしてコオロギ。
 もし、俺が酸欠状態でなく、かつ、三半規管内のリンパ液が平静を保っていたら、き
っと、そのスピーカーを避けることもできただろう。だが事実は違った。俺は叫び続け
る。そして、やがて、意識を失った。しかし、俺は不思議と満足感を覚えていた。



                *       *       *



 「麦茶ガス?」
 俺の言葉に白衣の男は諾いた。左手の窓から入る太陽の光が男の眼鏡に強く反射して
いる。細身で顔の長い神経質そうな男だ。
 「まだ実証的なデータは無いのですが、麦茶パックに使用されている麦の中には、古
くなると醗酵してアルコールの一種を合成してしまうものがあるそうです」
 「そんな話、聞いたことありませんよ」
 俺の頭には白い包帯が何重にも巻かれている。縫い跡周辺の皮がつっぱっていて、ま
だ刺すような小さな痛みを感じる。気分は、控めに言って、最悪だ。
 「業界の一部で噂されているにすぎませんがね。ともかく、それが、沸騰されたこと
により濃密のガスになって部屋に充満した……」
 秋晴れの午後の風景が窓の向こうに広がっている。遠くに列車が橋を渡る音が聞こえ
た。
 「じゃ、俺、酔っ払ってたんですか」
 「呼吸検査の結果は残念ながらシロでしたが、症状だけ見ればそういうことになりま
すね」
 白衣の男は、そう言って俺の脇から体温計を取り出した。
 「36度8分。問題は無いようですね」
 「退院、いつになりますか」
 「頭の方の検査もありますし、結構深いようですから。まだ、当分はゆっくりしてい
たほうがいいでしょう。詳しくはまた」
 医者が出て行くのと入れ違いに、長嶋さんがケーキの箱を持って病室に入ってきた。
 「元気そうだな」
 その顔に笑顔は無かった。怒っているのかとも思ったがそうでも無さそうだ。
 「驚いたよ。朝方まで警察の鑑識が色々調べてってな。ま、世の中いろんなことがあ
るもんだ」
 「……すいませんでした」
 俺にはそれしか言えなかった。
 「あやまることは無い」
 「読んだんですか、あの手紙」
 「ああ」
 俺はうつむいた。傷口の痛みにこめかみの鈍痛が混じり始めた。あの医者の言葉を信
じるならば二日酔いということなのだろうが、それだけでもなさそうだった。わずかに
頬にあたる風だけが心地良かった。
 「心配していたぞ、御両親も」
 ケーキの包みを開けながら長嶋さんは言った。
 「どうでもいいですよ」
 「そういうもんでもあるまい」
 何を言いたいのかは分かっていた。家出同然に東京に出て来たのは、確かに親へのあ
てつけ以外何ものでもなかった。それがその時に俺には必要だったし、その事に後悔は
別に無い。しかし、結局は叔父を始め、長嶋さんや局長など大勢の人間に助けられてし
まう。そういうものなのかもしれないが、それでも、まだ納得するには何かが足りない。
足りてはいけないのではという気もしていた。
 「別に何のせいにするつもりも無いんですよ」
 長嶋さんから顔を隠すように俺は体を左に向けた。窓の外はひどくまぶしい。
 「あの時、あそこへ行ったのは、俺の意思だし。……ともかく、何かしたくてしょう
がなくて」
 「まあ、若い内にはそういうこともあるだろうが」
 長嶋さんは落ち着いた声でそう言った。きっと、アルゼンチンの息子さんのことを思
い出しているのだろう。
 「俺、あの手紙の人、知ってたんですよ」
 「……そうか」
 目の前では白いコットン地のカーテンが静かに揺れている。俺は唾を飲み込んで言葉
を探した。
 「で、何となく、その……」
 「言ったのか」
 長嶋さんの語気は強かった。
 「え?」
 「手紙を見たと言ったのか、その子に」
 「いえ、それは……言ってないです」
 「なら、いい」
 俺は落ち着かなくなって、体を元に戻すと長嶋さんの顔を見た。唇が強く結ばれてい
た。言いたいことは山程ある。そんな表情をしている。だが、もう何も言うまい。そう
も伝えていた。代わりに、という訳でも無いだろうが、急に意地悪い顔つきになって、
長嶋さんは言った。
 「可愛かったか、その子」
 俺は笑った。
 「もう、それは」
 「声、掛けたことはあるのか」
 「いや、それもまだ……却って難しくなったたかもしれませんね……」
 「ふむ」
 「多分、この傷」
 と言って俺は頭の包帯をさすった。
 「よく覚えて無いんですけど、多分、その子の投げたもののせいなんですよ」
 「なるほど」
 「そうだ、これがきっかけになって、見舞とかに来たりしませんかね。それで、その
内に仲良くなって、こう目と目を合わせていると……なんて、ねえ」
 「脳波検査はこれからだったな」
 長嶋さんがちらり腕時計を見る。俺は続けた。
 「そうですよ、かいがいしく看護をしている内に、責任感がやがて愛へと……」
 その時、病室の扉をノックする音が聞こえた。
 どうぞ、と言って、長嶋さんがそそくさと立ち上がり扉へと向かう。
 「あ、局長、ご苦労さまです」
 扉を開けた長嶋さんが言う。花束を持つ手が見えた。俺は妄想を遮られて不機嫌にな
っていた。
 「……はい……ええ、中に……」
 ましてや、口うるさい局長のことだ。何を言われることやら。ま、これが現実だ。
 「じゃ、後はよろしくお願いします」
 長嶋さんは頭を下げると、こっちを向く。それから、にやりと顔を歪めて片手を上げ
た。俺は溜息をつき、うつむいて局長が来るのを待った。花束をつつむセルロイドのす
れる音が近付いてくる。
 「あの、大丈夫ですか」
 女の声だ。はあ、と言ってから、俺はすがるように入口の方をちらりと見た。そして
俺は固まった。長嶋さんと並んで局長がそこに立っているに気付いたのだ。長嶋さんは
まだにやにやとしている。また俺は、視線を床に落とした。それから花の香りにおそる
おそる顔を上げる。グレーのジャンパースカートが見えた。そして、ボブに大きな瞳。
 吉澤秋乃がそこにいた。




                                                                <了>

                                                1996.9.22. written by MORIVER
                                                   HTML modified in 1997.6.11



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