「その夜」




                                                        Written by MORIVER

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 突然のブレーキ音に、瞬間、僕は体をこわばらせた。今は夜中の3時だ。こんな時間、
こんな郊外の住宅街に、車は通ることさえ珍しい。
 雑誌を置き、ベッドから離れ、僕は予備校のテキストが開いたままの机の上に飛び乗
った。その向こうにこの部屋、唯一の窓がある。室内の明かりはついたままだから、窓
際近くまでいかなければ外の様子はうかがえない。表に止まっていたのは、一台の大き
なトラックだった。


                *       *       *


 玄関のチャイムが鳴るのを待つまでもなく、私たちは『お迎え』が来たことに気付い
ていた。父は何事も無いかのように、黙々と荷物をダンボールに詰める作業を続けてい
る。そんな父を無視して、母は、手を休めるとそそくさと玄関へ向かった。私は母につ
いていった。
 ドアの覗き穴から、向こうを確認した後、母は低姿勢で引っ越し屋の人を迎え入れる。
 「荷物の方は大体梱包が終わってますので……」
 弱々しい母の声。グレーの地味な作業着を着た若い男の人たちが、廊下をたちまち占
拠した。その中には、昼間会った人も何人か交じっていた。
 私は、引っ越し屋のトラックを見ようと、玄関から表へ出た。アルミ色の光沢を持っ
た、何の特徴もない荷台コンテナ。エンジン音が鳴りやみ、ライトも消えた。運転席か
ら降りて来た男が、ナンバープレートにガムテープを張っている姿を見ると、ああ、や
っぱり夜逃げっていけないものなんだろうなあ、としみじみ思ってしまう。
 ふと顔を上げてみた。向かいの家の、2階の窓から蛍光灯の光がもれていた。そこは
ケイスケお兄ちゃんの部屋だった。

 ケイスケお兄ちゃんと私は、いわゆる幼馴染みというやつだ。私とお兄ちゃんとは4
歳も離れている。この4歳という差は、本当、微妙な所だ。私が幼稚園に入る頃、向こ
うは小学2年生。私が小学校一年になれば向こうは小学4年生。お兄ちゃんが私と遊ん
でくれたのはこの頃ぐらいまでだったと思う。さすがに、中学生にもなると、小学生の
女の子と一緒にいるのは、なんとなく恥ずかしい気持ちになるらしい。今は私も中3に
なり、その辺りの心理は良くわかる。それに、正直言えば、お兄ちゃんはそれほど格好
いいという程でもなかったから、まとわりつくことも次第に無くなった。時々、私の顔
をみて「ああ」と言って声をかけてくることもあるが、ただそれだけだ。
 それでも、向かいの家の話は、なぜか良く我が家の食卓の話題にのぼった。特にケイ
スケ情報に関して言えば、それはもうすばやい早さで私の耳に入る。大概が、皆勤賞を
とったとか、このあたりではちょっと有名な進学校の高校に入学したとか、地味なホメ
言葉ではあったが。その度に母は「すごいわねえ」と溜息をつくように声をもらし、私
へのハッパに利用するのだ。これにはあまりいい気持ちはしない。
 そんなわけで、お兄ちゃんに対する感情も、昔はちょっと憧れがあったにせよ、今は
単に、「すごいのかもしれないけど、どうでもいいや」と言ったひどく冷めたものにか
わっていた。


                *       *       *

 玄関口から出てて来たのがメグミちゃんだということにはすぐに気付いた。
 『しかし、しばらく見ない内に随分大きくなったな』
 僕は頭の中で計算をする。彼女はもう中学3年になっていた。
 『ま、俺も浪人するぐらいの歳だからな』
 あまり納得のしたくない計算方法だが、事実だからしかたない。
 それにしても、この様子。ただの引っ越しにしては、妙だ。運転手が、ガムテープで
ナンバープレートを隠す姿をみて、確信した。夜逃げだ、と。
 気が付くとメグミちゃんがこっちを向いている。僕は慌ててしゃがんだ。そしてすぐ
に『何やってるんだ』と、自分にひどく嫌悪感をいだいた。浪人決定以来、何度も感じ
すっかり親しんでしんでしまった、この感覚。……『親しんだ』とは我ながら言い得て
妙だが、これ以上うまく説明する語は見当たらない。
 そっと、また窓から表をうかがった。彼女はトラックの回りをうろついていた。多分、
こっちの姿も向こうに見えてしまっているはずだ。ちょっと悩んだ末、僕はジャケット
を羽織って表にでる事に決めた。


                *       *       *

 荷物のあらかたは片づいているし、引っ越し屋もいる。これ以上私がすることは何も
ないように思えた。その辺りをちょっと散歩しようかなと考えたけど、それほど時間的
に余裕があるわけでもない。
 空を眺めてみる。この辺りはまだ畑が残っている程の田舎だ。星が結構はっきり見え
た。天の川端から端まで確認しようと、ぐるりと頭を回す。そしてふと気付いた。向か
いの2階の窓の電気が消えている。
 気付かれたのかな。思いを見透かしたかのように、向かいの家のドアが静かに開いた。
 眼鏡をかけたひょろりとした男の人……ケイスケお兄ちゃんだった。


                *       *       *

 家の者を起こすと厄介だと思い、忍び足で僕は階段を降りた。ぎ、ぎ、と不可避的に
鳴る小さな音にも注意を払い、扉に近付くと、これまたゆっくりとドア・チェーンをス
ライドした。そして、ノブの錠を外し、僅かに作った隙間から表を覗く。良く見えない。
 思いきって、開いて表に出てみると、刹那 、メグミちゃんと視線があった。
 何か言わねば、と焦る。そして、
 「ああ」
 相づちにもならず、まるで初めてそこで彼女に気付いたかのような白々しいセリフ。
それが僕の限界だった。
 「……どうも」
 メグミちゃんは、ちょっと上目づかいに頭を下げた。あまり気力溢れるといった感じ
の声ではない。もっとも、こういう場合元気すぎるのも考えものだが。彼女は、それだ
け言うと、視線をこっちから外し、僕を無視するかのように通りの方へ顔を向けた。
 ここいらは、ちょっとした高台になっており、坂の向こうには駅周辺のやや賑やかな
商業区域が広がっている。夜中だというのに、その辺りにはまだぽつぽつと明かりが残
っている。ここから百メートルも行けば24時間営業のコンビニもある。
 『そうだ、その手で行こう』
 僕は、彼女とトラックを横目で見ながら、ブロック塀の内側にしまってあるマウンテ
ン・バイクのチェーンロックを外しにかかった。メグミちゃんは、トラックの向こう側
と歩いていった。またしても、僕は自己嫌悪に陥った。
 チェーン・ロックをサドルの下に巻きつけて、下り坂を勢い良くおりていきながら、
僕は考えた。
 『そういえば、俺、財布持ってきたかな?』


                *       *       *

 向こうは、ほとんど何も言わなかったし、こっちもちょっと頭を下げただけ。何か買
い物にでも出掛けるのだろう。何だか居心地が悪くなり、玄関の方へ私は近付く。
 いつの間にか、お兄ちゃんは自転車に乗ってどこかへいなくなっていた。
 緊張したのが馬鹿みたいだった。もう、お互い良く知らない仲なのだし、こんなもの
なのだろう。
 「あ〜あぁ」
 声を出して伸びをしてみたが、もやもやした気持ちはどうも晴れない。大げさにつく
溜息がやたらそらぞらしい。
 ドアが開き、作業員の人が、次々を荷物を運び出しはじめた。タンスとか、テーブル
とか大きな家具類がどんどんコンテナに詰みこまれていく。声を出さずに動く皆の有り
様はちょっと不気味だった。お父さんも、引っ越し屋さんに交じって荷物を運び入れて
ゆく。私の方へは、ちらっとも目を向けなかった。
 小走りに通りを駆けた。この様子を他人の目から見るとどんな感じなのだろうとふと
考えたのだった。2軒先まで行って、ふりかえる。暗闇に混じって、トラックも自分の
家も良く解らない。今立っているのが、丁度街燈の下だからなのか。何かを考えようと
思ったが駄目だった。まるっきり頭は空っぽ。どうしてなんだろう。
 『……みんなはどう思うだろう』
 学校への届けも、担任と校長先生の二人に預けてあるだけで、まだ公けにもなってい
ない。友達には、もちろん一言も言わなかった。
 こんなこと友達に相談できるわけがない。話の内容がシリアスすぎる。CDの交換は
しても、私生活は交換しない。家族の自慢は出来ても、家族の悩みを他人に話せるわけ
がない。そして、結局は夜逃げ。黙っていて正解だった。
 ぎゅっと唇をとがらした。のどの奥がごっ、と鳴る。
 その時、後ろで自転車のブレーキの音がした。振りかえると、お兄ちゃんがいた。に
らむようなその視線が怖い。
 「これ」
 アザラシの絵のついた白地のビニール袋を持ち上げた。かちゃ。
 「飲む?」
 妙に無表情なお兄ちゃんの顔の辺りに、ナタデココ・オレンジの缶があった。思わず
私は笑ってしまう。向こうも笑っていた。


                *       *       *

 コンビニで、ジュースを2本買う。金は、ジャケットの中に千円札を一枚見付けた。
 いい加減、自己嫌悪に浸るのにも飽きた。どうすればいいのかは自分でも分かってい
るのだ。僕は彼女と話をしたがっている。坂道を、全力で漕ぎ上げながら、頭の中でメ
グミちゃんの顔を必死に思い浮かべようとしていた。
 笑ったらまずいよな、とか、出来れば大人の余裕あるポーズをみせたいな、等と試案
してる内に家が近付いてきた。街燈のあたりに誰かいる。ブレーキ。彼女だ。
 余裕あるポーズだ。俺は出来うる限りの格好いい自分を思い浮かべ、ダンディズムと
心の内でつぶやいてから声をかけた。自然なポーズを、と意識しながらジュースを薦め
る。さあ、どうくるか。
 笑った。
 『おい、笑ったよ!』
 思わず、顔が緩んでしまう。まったく、女の子が自分に笑いかけてくれるなんて、何
年ぶりだろうか。少なくとも、この浪人生活、僕に笑いかけてくれるのは、沖縄の(と
称した実はオーストラリアの)海岸を走る森高千里ぐらいのものだった。
 「ありがとう」
 少し舌ったらずな、特徴のある声だった。
 「いやいや」
 親しげにふるまおうとする自分が、何だかいやらしいものにも思える。しかし、僕は
彼女の笑顔にすっかり舞いあがってしまっていた。
 「大変だね」
 「ううん」
 電柱にもたれながら、彼女は缶に口をつける。僕はそんな様子を黙って眺めていた。
鈴虫のコーラスが静けさを際立たせる。僕の両手は自転車に置かれたままだ。彼女がち
らりとこっちを見た。そして、二人で家の方へ歩いて行った。
 トッラクの周辺に人はいなかった。玄関は開け放たれていて、男達が数人がかりで大
きな和箪笥を運ぼうとしているのが見えた。手伝うのもなんだな、と思いつつ、メグミ
ちゃんの方をふりかえってみる。
 「メグミちゃん?」
 「こっち。ねえ、これ登れる?」
 彼女は、運転席とコンテナの間を指差した。コンテナの上に続く手摺りがそこにあっ
た。
 「登ろっか?」
 無邪気な彼女の声。
 今夜の僕は普段の僕とは違う。ためらいもせず、颯爽と僕はてっぺんまであがる。
 「ほら」
 下へ手を伸ばした。
 『キザかな?』
 ひっこめようかとためらった次の瞬間、彼女の手が僕の手を掴んだ。小さくて、ち
ょっと冷たい。僕の心が震えた。



                *       *       *

 トッラクのコンテナの上に、私とお兄ちゃんはいた。夏もそろそろ終わりの頃で、そ
よぐ風も涼しかった。鈴虫が、リー、リーと鳴く。空は恐ろしい程に紺色をしている。
星と月を覆い隠すかのように薄墨色の雲がゆっくりと流れていた。

 お兄ちゃんは、私が小さい頃の話をした。そのほとんどは、記憶にないものだった。
口を挟む暇もなく、向こうはしゃべり続けていたが、私はほとんどそれを聞いていなか
った。気をつかっているのが分かった。何か、とても嫌な気分になった。

 私は、缶を地面に投げつけた。作業をしている人達が、一斉にその音の方向へ顔を向
けた。私たち二人は、じっとして成り行きを見守る。やがて、作業は何事もなかったか
のように再開された。

 「それで……どうするの?」
 お兄ちゃんがつぶやくように言った。
 ……『どうする?』
 私は、どうしようとも思っていなかった。私はいつの間にか自分の事を考えることを
止めていた。奇妙と言えば奇妙だ。
 父親は、借金をこさえた。誰かの連帯保証人になって、その人が逃げて……。その人
が誰なのか、何も知らない。解るのはただ、両親は仲を悪くし、私たちは夜逃げするの
だ、という事実だけだ。
 「……ねえ、私のこと不幸だと思ってるんでしょう?」
 相手は、顔を上げた。表情が険しい。
 「同情してるんでしょう?」
 私は髪をかきあげた。
 「嫌だな、そういうの。私、同情されるのは嫌い。だってね、気持ち悪いよ、相手の
気持ちが分かる、なんて。……分かってないのに、分かってるふりされるのはもっと嫌
い」
 「……分かろうとすることはいけないことかな?」
 私は黙っていた。じっと、黙って相手を見返した。向こうも見返してきた。
 「だって! ……分かってどうするの? 知ってどうするの? 何かしてくれるの?
いい加減なこと言わないでよ!」
 そう叫びながらも、私は自分のその態度に怯えていた。自分は何をしようとしてるん
だろう。
 向こうは、じっと私を見つめていた。その目が何だか小刻みに揺れていた。怒ってい
たのでは無かった。まばたきするのも忘れたように、じっと私を見ていた。怖い。
 「なんで、そんな目で見るの? 私、何かした?」
 お兄ちゃんはうつむいた。怖い顔のまま、口もあけずに、何度か鼻で息をしていた。
それからこっちを見た。ちょっと、口が開いて、また閉じた。そして、眼鏡を外し、眉
間の辺りを指でつまんでいた。
 「ごめんなさい」
 私は言った。返事は無かった。無性に苦しくなって、両手でぎゅっと自分の両腕を掴
んだ。身をすくめた。どこまでも小さくなってしまいたかった。
 「本当は、うらやましかったの」
 言葉が、思いよりも先にすべりだす。頭がぼうっとしてきた。
 「うちね、いっつもお兄ちゃんの事、噂してたから。学校でも勉強できるって。お母
さん、いっつも感心してた。私はさ、馬鹿だから、勉強嫌いだから、全然駄目で、嫌わ
れてるの。こういうのってどうしようもないんだよね。自分は何も出来ない人間なんだ
って思う。だから、誰にも迷惑をかけないようにしてるの」
 「迷惑じゃないよ」
 低い声だった。
 「僕は、そっちが思っているほどすごい人間じゃないし、本当、何も出来ないんだよ。
今、僕が何考えているか解る?」
 私は黙って横に小さく首をふる。
 「どうやったら、笑って貰えるかなって」
 苦笑いを浮かべてお兄ちゃんは言った。私は笑おうとしたけれども駄目だった。泣き
たくなるのを我慢するので精一杯だった。
 「メグミちゃんはすごいと思うよ。僕だったら、もっと回りを恨んでるよ、きっと。
でも、君は一言も文句も言わない。僕はそんな風に謝れない。すごいよ、本当」
 二人してうつむいていると「メグミ!」という母の呼び声が聞こえた。私は立ち上が
る。きっとこの声がなければ、朝までこうしていたろうな、と思った。
 何かがふっきれた気がした。どこが、どうなったのかうまくは言えないけど、とにか
く自分の中で何かが生まれ、その何かが広がっていくのを感じていた。
 「さよなら」
 お兄ちゃんが言った。
 「さよなら」
 なぜだろう。その言葉を言ったとたん、私は無性に嬉しくなって笑っていた。


                *       *       *

 僕は部屋に戻ると、真っ先に窓のカーテンを閉めた。外は見なかった。ただ、エンジ
ン音が静かに鳴り響いているのが聞こえた。

 とにかく、想い出を語るのが一番だと考え、記憶をフル稼働させ僕は話した。公園や
空き地で遊んだ時の事とか、彼女が左ききを直される度に泣いていた事とかを並べたて
ていたが、駄目だった。彼女は、厄介そうな顔つきで僕を無視するかのように、ただ缶
に口をつけていた。どうすればいいのか。そもそも、僕は女の子と話すこと自体苦手な
のだ。気の効いたセリフの一つも言おうとも思うのだが、何だか騙しているようで、ど
うも落ち着かない。そうしながらも、僕は彼女の体を緊密に感じていた。
 手を伸ばせば、すぐ届く距離だ。そう、手の伸ばせば……。

 彼女が突然、空缶を投げ捨てた時、僕は知らず腰をあげていた。それも、今にも逃げ
たしそうな勢いで。そうしなかったのはただ、コンテナの下に作業員が何人かいたから
にすぎない。
 「それで、どうするの?」
 動転していたのだろうか。ふいに出た言葉が、一体何をしめしていたのか自分でも分
からない。分からないが、その一言が彼女の心の一部を強く、激しくひっかいたのは間
違いはなかった。謝る言葉さえ、僕には無かった。
 彼女は興奮げに「分かったふりしないで」と叫んだ。「いい加減なこと言わないで」
とも言った。そうなのだ。
 ここ数か月、浪人以来、僕にはそんなことを言ってくれる人すらいなかった。僕はい
い加減で、分かったふりしながらも、それが見せかけだということを本当は知っていた
のだ。
 それで、僕は泣きたくなった。彼女は、それを同情ととったかもしれないが、それは
違う。僕自身に泣いていたのだ。同情も出来ない自分に。


                *       *       *

 詰み込みが終わった。運転手の人は、またナンバープレートからガムテープをはがし
始めた。父がガレージから車を出してきた。母も乗っている。ただし、後部座席の方に。
 「メグミ」
 母が呼んだ。父が助手席のドアを開ける。
 「いや!」
 父はちょっとためらった後、ドアを閉めた。
 「こっちいらっしゃい」
 母が後ろドアを開けたが、私は首を振った。
 「私、あっちに乗るから」
 それだけ言うと、トラックの方へと走っていった。見なくても、二人が戸惑った顔を
しているのは分かる。それは私なりのささやかな反抗だった。


                *       *       *

 ベッドの毛布をはぐる。その下に、開いたままの雑誌があった。自分と同い歳ぐらい
の少女が、裸で四つん這いになって僕をみつめている。
 「くそ!」
 足でそれを蹴り飛ばし、ベッドの隅へと追いやった。そうしながらも、彼女の、あの
手の冷たさを思いだしている自分に、例えようも無い苛立ちを覚えていた。
 両手を組んだ。爪を立て、そのお互いの手の甲に思い切り突き刺す。痛みは感じない。
いつの間にか右の奥歯二つがぎりぎりと音をたてていた。
 『なんなんだ俺は』
 最後に彼女は笑った。僕が笑わせたのではない。彼女が、笑ったのだ。

 今まで、僕が慣れ親しんでいたと思っていたのは自己嫌悪ではなかった。あれはただ
の『自己レンビン』だった。悲惨な自分を演じていただけだった。本当の自己嫌悪とは、
もっと激しい、自分自身をすぐにでも壊したくなる衝動だと、僕は、今、知った。


                *       *       *


 トラックの助手席に座りながら、窓の外を眺める。町を抜け、国道に入る頃、朝日が
姿を現わしてきた。そうして、あのお兄ちゃんに対して「さよなら」を言ったことがな
ぜあんなに嬉しく感じたのかを考えていた。
 答えはすぐには見付かりそうもない。でも、きっといつか分かる。
 私は心の中でもう一度つぶやいた。
 「さよなら」って。


                *       *       *

 毛布をくるまった自分に気付いた時には朝になっていた。
 足元にあったエロ本を本棚の後ろに隠すと、僕は机の前に座った。椅子の背もたれに
よりかかり、脳に血液を送ろうと頭を後ろにそらした。そして、無意識に手をさすって
いた。赤くなった爪痕は少しひりひりと染みる。
 突然、鼻から笑いがもれた。不意に気になったのだ。
 ……『レンビン』ってどう書くんだっけ?
 国語辞典が、テキストの上にちょこんと乗っかって、僕を待っていた。


                                  <了>

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                                                        1994.2.2 Wed. 初稿
                                                        1994.2.6 Sun. 改稿
							1997.6.11 Wed. HTML化





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