『人魚』
文:MORIVER
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「こんな話がある」
友人は僕に言った。僕はドトール・コーヒーでミラノサンドCにかぶり
ついていた。
答える間も無く、彼は話しはじめた。ほら話を聞かせては意見を聞くの
が、彼の趣味なのだった。しかも、その話は大概つまらない。悪趣味なこ
とだ。
「君はどう思う?」
その時、適当に僕は答えておいた。すなわち「よくわからない」と一言。
彼は難しそうな顔をし、たっぷり十秒程間を置いて「そうか」とつぶや
いた。
それから、彼は言った。
「たしか、君、パソコン通信をやっていたよね」
僕はうなずく。
「この話、とにかくそこに書いてみてくれないかな」
いやだ。と僕は断わった。
面倒だ、と言うと、友人は考え深げな顔をして黙り込んだ。
その場はそれきりだった。
数日後、彼は四百字詰原稿用紙の束を持って僕の部屋に現われた。
「とにかく、書いてみたんだ、読んでくれるかな」
僕は読んだ。
「どう?」
僕は、以前よりよくわかる、と言った。しかし面白いかどうかはわから
ない、とも。
「ふむ」
彼は腕を組んでいた。いつになく真剣な顔つきをしている。
あんまり長いことそうしているので、じゃあ、一応僕が打って、ためし
にUPしてみるよ、と答えておいた。
友人は大きくうなずいた。
以下がその全文である。
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「人魚」
もう五十年ほど昔。
日本海に近い、ある小さな村での話である。
* * *
女は抵抗をあきらめた。しかし、彼女の両脇を抱える二人の国民服の男たちはそれを
信じなかった。
「立て!」
左脇の男は叫んで、女の腕を力まかせにひっぱりあげる。骨と骨がぶつかるにぶい音
がした。女は左肩に鈍痛を感じた。
「こいつ、脱臼しましたよ」
まだ二十前らしい右脇の男は地面に崩れ落ちた女を見てつぶやく。
「お前、かついで行け」
いらいらした調子で左脇の男が言う。
「一人で、ですか?」
「おれに担げ、というのか?」
「いえ! いや、はい、了解です!」
年若の男は言った。女は黙って倒れ続けていた。もうしばらく気絶したふりをしよう。
ゲートルを巻いた足が腹部を蹴ったが、彼女はまばたき一つ、うめき声一つあげはしな
かった。
「死んでるんじゃないですか?」
青年の声に、もう一人の年かさの男が答える。
「それならば、それもいいさ」
女もまたそんな気分だった。
日本を離れ五年。故郷の変わりようは激しかった。オペラ歌手を夢見、単身アメリカ
に渡り、やっと成功して戻ってきたと思えば、この仕打ちだ。婚約者がロシア人という
のがまずかったのだろうか。共産主義者のレッテルを張られ、憲兵の尋問を受け、よう
やく釈放されたと思えば、今度は村人による私刑が彼女を待っていた。
貧しい村だった。彼女が以前住んでいた家はもうなかった。女は父親の顔を知らない。
赤ん坊の頃に事故でなくなったと聞いていた。母は三年前に死んだという。病死という
ことだが、事実は栄養失調による餓死であったと、隣人のおばさんがこっそり彼女に告
げてくれた。
女は水色のワンピースを着ていた。遠く三里離れた工場に働きにいかねばならぬ村の
娘たちは彼女に嫉妬した。村の娘は、かすりのモンペに、洗えば縮むスフのシャツを着
る自分に惨めさを意識してしまったのだ。
村長の息子は憲兵隊にいるという。彼女の帰国後のいきさつもそんな所から知られた
のだろう。それらの事柄全ての積み重ねが、彼女の運命を今、一つのはっきりした方向
へと導いていた。
女は砂浜にいた。周囲は切り立った岩場の滅多に人はよりつかない、村外れの小さな
浜。彼女は後ろ手に縛られ、砂中に半身を埋められた。その際、左手薬指にしていたプ
ラチナのエンゲージリングも外された。思わず、女は指輪を抜こうとする自分の父親程
の男に、文字通り噛みついて行った。そんな女の頬を、男は容赦なく殴りつけた。口の
中にぱっくりと大きな傷が開くのが女には分かった。脈うつ度に苦みが広がる。不思議
と痛みは無かった。
女の隣には大きな看板が立てられた。文面を彼女は読むことはできない。ただ、あざ
けりの言葉が書かれていることは容易に想像できた。女は男たちが消えるまで力なく、
体を前に倒していた。
それからしばらくして、彼女はのろのろと起きあがった。そして、背後に広がってい
るはずの海を見ようと体をひねった。しかし、無駄だった。彼女の体は三十度も曲がり
はしない。あきらめ、彼女は岩場と、その向こうに広がる林、そして、その後ろにのぞ
ける山並みを眺めた。夏の昼の太陽が、長い彼女の髪を照りつける。女は自分の死が近
いことを悟った。
夕暮れが訪れた。周囲は濃いオレンジ色に染まっていた。どこかで見たことがある。
女は知らず懐かしさを感じていた。故郷の海だから、何度かは来たことがあったのかも
しれない。だが、単なる記憶の問題だけじゃない。この気持ち。感覚。その全てに既視
感を覚えていた。
彼女の体は、波によって肩口まで濡れた。焼けた肌には少し染みる。立てた看板は打
ち込みが弱かったのか次第に傾き、今な彼女の背中の方へ流れてしまっていた。水が冷
たい。夜はもっと冷たいだろう。
彼女が少女を見たのは、日暮れから一時間ほどたったころのことだ。
薄い紺色をした闇のとばりが空を占めていた。彼女は自分でも知らずアリアの一節を
歌っていた。そうすることによって、かろうじて自分がここにいる、ということを確認
できた。
少女はそのささかやかな彼女の世界に突然忍び込んできた。
最初は岩場の上を動く小さな影にしか見えなかった。彼女は歌声を潜め、じっと、そ
の影を凝視した。おぼつかない足取りで海辺に近付いてくる。
それは花柄のゆかたを着た少女だった。おかっぱ頭をしている。少女は右手に大きな
石を手にしていた。女はそれを見るなり理解した。突然理解した。少女はあの石で自分
をからかった村の少年をなぐりつけた。だが、なぜ、そんなことが分かるのだ?
少女はじっと女の方を見つめている。満月の明かりの中だ、少女にはかろうじてだが
海の中にあるそれが人間の姿をしていることに気づくだろう。いや、少女は確かに気づ
いている。
まただ。
女は首をふった。どうして自分はこんなことを知っているのだ。そう。知っている。
彼女はまた正面を向いた。そして、少女の顔を覗いた。鼻の右側と唇の下に小さなホク
ロがある。女は目を伏せた。
(わたし、だ)
少女の姿は、幼い頃の女自身にそっくりだった。
(いや。まちがいない。あれは幼い頃のわたしなんだ)
女は顔をそむけずにはいられななかった。小さい頃の自分が現在の自分を見て、どう
思うかつい想像しまったのだ。苦しい。
だが、少女は何も気づいていないようだった。
すぐに女は「思い出した」。
少女は次に何をしたのか。石を持ち上げる。そして?
少女の投げた石は女の手前三十センチの所に着水した。しぶきがあがり、女は顔をし
かめた。顔を拭きたいと思ったができるはずもない。
少女の口が開いた。
「あなた、誰なの?」
女には答られなかった。
(わたしはあなたよ)
そんなことを言っても少女は理解するはずがない。彼女は必至に思い出そうとしてい
た。そうだ。このとき「わたし」はどうしただろう?
「あなた、ここで何をしてるの?」
少女が再び声を張り上げた。女と少女の間は十メートル以上離れている。少女は、自
分の声が聞こえなかったのかもしれない、と思い声を大きくしたのだ。怒りながらも、
もしかして、という気持ちがわきあがってきている。
わかる。
女は次の言葉を記憶の中から掘りおこして叫んだ。
「ただ、歌っているだけよ」
そう。これだ。
少女は動きを止めてじっとこちらを見ていた。歌う、という言葉に反応したのだ。歌
う。歌う。
「夜の海で歌っているの?」
その少女の声には熱っぽさが帯びていた。どきどきしている。どっちが? 女は記憶
の渦に飲み込まれそうになっていた。
そう、わたしが「わたし」にあったのは四歳の夏祭りの日だった。てて無し子だった
わたしは、母親と二人で人込みの中を歩いていた。少女は祭りが嫌いだった。浮かれて
いる回りの人間全てが嫌いだった。ただ、母親は嬉し気な顔つきをしてあたり見回しな
がら、やさしく幼い日の女に声をかけてくる。
(ほら。あっちゃん、楽しいね。楽しいね)
だから彼女も笑い返した。けれども、祭ばやしが高鳴るにつれ、彼女はますます寂し
さを感じていく。
(ここはわたしのいるところじゃない)
母親にもそれがわかっていたはずだ。それなのに母親はまだここに交わろうとしてい
る。大好きだと思う一方、そんな母を猛烈に怨んでいた。そのことを表に現わす変わり
に、幼い日の女はぎゅっと手を握りかえしてきた。
母の動きがとまった。見ると、男がそこに立っていた。三十ぐらいの背広の男。その
顔には照れ笑いが浮かんでいた。
(やあ、あっちゃん。こんにちは)
女は母の後ろに隠れる。母は無造作な手つきで女の頭に手を置いた。
(ほら、挨拶しなさい)
うわずった母の声。
女はたまらない気分になった。この場に自分はいてはいけない。そんな気持ちが沸き
おこった。
(わたし、ちょっと向こうを見てくる)
女はかけだした。寂しさでいっぱいだった。
そうだ。それで、その後、村の子供にあって、なにかのきっかけで……たぶん、父の
いないことについてなにかを言われて……喧嘩になったのだ。女は、少女は、転がって
いた石を持って一人の男の子をなぐり、林を抜けて走った。
潮音が聞こえ始める。近付くと、岩場の向こうに浜があり、そこに人影をみつけた。
つまりそれが「わたし」だ。
「夜の海?」
女は震えた声で言った。その言葉には覚えがある。その語の響き自体に意味を感じた。
夜の海。
「そう」
少女の顔は嬉しそうだった。そして、こう続けた。
「ねえ、あなた人魚なの?」
「え?」
「つまり、あなたは人魚で、だから夜の海で歌ってるの?」
女は見上げた。夜の海。歌。そして人魚。物語だ。父親代わりに世話をしてくれた祖
父が話してくれた。祖父は当時地方の村では珍しい大学出のインテリで、若い頃に社会
主義運動に挫折し、村に帰って以後はずっと代用教員として暮らしていたという。貧し
さの余り、殆どの書籍は売り払われていったが、祖父の頭の中につめれた知識は変わら
ずそこにあり続けた。
人魚姫は女の大好きなお話しだった。それはとても悲しい話しだったが、その悲しみ
は女の幼心に何かしらの慰めを与えてくれた。祖父の太い腕の中に抱かれていれば、涙
を流すことも心地よい体験であった。
「ええ」
女はそれだけ言った。
「わたしね、あなたのこと聞いたのよ。おじいちゃんが話してくれたの!」
少女の声。女は胸を突かれる思いだった。少女の声を通して、あの優しい目をした祖
父が蘇ったような錯角を覚えた。祖父は、女が七歳の時に死んだ。その一年前から煩っ
ていた結核によるものだった。一年以上もろくに会っていなかったせいか、死に際して
それほど悲しみは感じなかった。泣き崩れる母の横に立って、ただ親指を加えながらぼ
んやりと棺を眺めていたのを覚えている。大人になってそのことを思い返す度に、女は、
自分は死に対して冷たい人間なのだと思い込んだ。
だが、今、少女の口から「おじいちゃん」という言葉が発せられた瞬間、女は例えよ
うもない苦しさに襲われた。悲しいとか寂しいという言葉を通り越して、ただ胸の辺り
がしめつけられ、女は激しく恐怖した。初めて自分が失ったものに気づいた。
少女は冗舌に話を続けた。
「人魚はね、夜の海で歌を歌って、それで、船乗りの惑わすんだって。ねえ、おじい
ちゃんのこと知ってる?」
「ええ、知ってるわ」
女は叫んだ。その声は震えていた。
「ほんとう?!」
少女が声を上げる。
「ほんとうよ」
女は繰り返した。息苦しい。胸元まで来た水のせいじゃない。もっと、何か、もっと、
大きい何かのせいだ。
「それで……おじいちゃんは元気なの?」
何て馬鹿なこと聞いてしまったのだろう、と女は後悔した。聞いてどうするというの
だ。祖父は死んだのだ。そしてわたしもまたすぐに……。
「うん、元気だよ」
それでも。それでも女は何か安堵を感じていた。祖父は元気だ、と少女は言った。そ
う。そうだ。祖父は元気なのだ。女は自分に言い聞かせるかのように心の中で少女の声
をつぶやき返した。すると、本当にそんな気がしてきた。少女にはまだ祖父も母がいる。
それらを失う日がくることなど夢にも思っていない。その頃のおだやかな気持ちが記憶
と供に堰をきって溢れでる。
少女の目から見える自分の姿が浮かんだ。夜の海の中、月明かりを浴びて、砂浜をじ
っと眺める女の姿が。藍色の空。月の周囲には薄い雲が、一廉の水彩画のように妖しく
漂っている。静かに聞こえる波の音。
「きれいね」
少女は言った。女の記憶の中で、その声はこだまをくりかえす。
「ええ……きれいね」
おそるおそる、といった感じで女は言葉を発した。口に出したとたん、全てが消えて
しまうのでは、と思ったのだ。だが、海も、音も、空も、月も、そして少女の姿も依然
そこにあり続けた。女は大きく息を吸った。そしてゆっくりと吐き出す。全身から緊張
がほぐれていくのが分かった。今、自分は死にかけているということを彼女は忘れた。
潮の匂いを感じた。頬に風を感じた。目の前の少女はうずくまって自分に微笑みをく
れている。空を仰いだ。星が見えた。空にたすきをかけるように、天の川が伸びて見え
た。その下の自分がいる。天地全てが大きな、あたたかな腕のように感じられた。祖父
の腕だ。包まれている。そう思えた。
「ねえ、歌ってよ」
少女が言った。
「歌?」
「そう。わたし人魚の歌を聞きたいっていつも思ってたの。船乗りを惑わす歌ってき
っとすごく、すごいんだろうなって思ってたの。ねえ、だから……歌ってくれる?」
思い出がそこにあった。なぜ、自分が歌を歌う道を選んだのか。なぜ、自分はそれに
こだわったのか。全てはここから始まっていたのだと気づいた。初めて聞いた、あの歌
声を求め、自分は歌い続けてきたのだ。
けれども、と彼女は思いかえす。結局は、自分は死ぬのだ。ここで歌を聞かせても、
どっちにしろ自分は死ぬんだ。そこにどんな意味があるというのか。いっそ、歌を歌わ
ないでいれば、歌の道にここまでこだわることもなく、密航同然の無謀なアメリカ行き
にも友人の忠告通りとどまったかもしれない。そうすれば、こんな惨めな最後を向かえ
ずに済んだのではないか。今なら運命を変えられる。
女は思いを巡らす。だが、あの時、「わたし」はどうしていた? 人魚は歌った。忘
れてはいたが、あの時のあの歌声が自分を導いてくれていた。もし、ここで、助けて、
と言って、ここから抜け出す手伝いをさせたら、今の自分のこの気持ちはどうなってし
まうのか? 歌声も聞かせず、邪険に彼女を追いかえしたらどうなるのか?
「ええ、そうね」
女は決意した。
「歌うわ」
少女に、というよりどこか遠くの誰かに向かって宣言の声は上げられた。
女は目を閉じる。オーケストラが演奏前に鳴らす調音の音(ね)を鼓膜の奥から静かに取り
出す。薄暗い客席。天井桟敷まで壁一面にのぞく顔、顔、顔。それらが舞台をみつめて
いる。はめこまれた。そういう確かな「つながり」を彼女は感じる。がやがやとした雰
囲気が、つと、静まる。女は声を上げる。
むくわれぬ恋の思いを叫ぶアリア。弦楽器の音がそれに唱和する。
知らず左手の指輪痕をさすっているのに気づく。女は婚約者の姿を思い浮かべていた。
優しい、ひたすらに優しい青年だった。体つきも大きく、我がままに甘える彼女を文字
通りに見守り、ときに静かに諭しながら、あたたかく抱いてくれた。彼は一体どうして
しまったのか。収容所に入れられたと言うが、まだ生きているのだろうか。
女は力の限りに歌声を響かせる。
だが、と思う。男に対してすまないという気持ちはあっても、激しく求めようという
情熱は生まれ無かった。結局、彼とは本当の恋をせずに終わってしまった、そんな後悔
の念の方がずっと大きかった。母があの日、祭りの男に向けた感情。あれと同じ気持ち
が自分の中に沸き起こるのを、女は無意識に制限し、ときに意識的に嫌悪していた。
そんな彼女の態度を彼は解きほぐそうとしてくれた。アメリカの友人らは「ロシア人
は女好きだからな」と笑っていたが、真っ直ぐに愛情を示してくれる彼にはいつしか素
直に甘えられるようになった。
ふと、また祖父のことを思い出した。全て恋愛の始まりはそうなのかもしれないが、
あのロシアの青年に出会った時まるで古い友人に出会ったような気持ちに捕らわれた。
顔形こそ違え、あの接し方、笑い方。そう、あれは祖父の示してくれや優しさと同じだ
った。
全てが一列に並んでいる。
結局、自分の今の気持ち、感情、思い、考え、全ては自分の経験の上に全てのっかっ
ている。どこかが狂っても今の自分は無い。
今の自分。
女は少女の方を見た。膝を抱え砂浜に座りこんでいる。首が静かに上下を揺れている。
半分居眠りをしているのかもしれない。
おかしかった。
(これでいいんだ)
女は自分の決断に満足を覚えていた。連環はつながり、自分は未来に進んでいる。そ
んな気分だった。歌うのをやめていれば、こうした歌っている自分はいない。こうして
母や祖父を思いだしている自分もいなくなっていた。全く新しい自分をあの時生み出し
ていたら、この自分の存在はいなくなっていたはずだ。それはもはや「わたし」じゃな
い。
まだ、女は歌い続けている。
と、聞こえた。
会場を埋め尽くす拍手と賛美の声。
(ブラボー!)
ロシア青年の声はとりたてて大きく聞こえた。あの喜びの瞬間は何ものにもかえがた
い。この歌声で、目の前にいるまだ少女である「わたし」にバトンを渡す。あの喜びを
きっとこの少女も感じてくれる。やがて現在のわたしのような境遇になるのかもしれな
い。ならないかもしれない。しかし、今のわたしの気持ちをその時の「わたし」はちゃ
んとわかってくれる。それは確信だった。
高い波がくる度、女のあごが水面に触れた。空は白みだしている。まだだ。まだ生き
ている。女は浜の上で寝息をたてる少女に目を向けた。あの時、わたしが目をさました
時、いったいどんなだったろう。女は高まる鼓動を感じながら考える。
目が覚めた時、既に太陽は山の向こうから姿を現わしていた。磯蟹が頬をよぎるのに
驚いて起きたのだ。快晴だった。海はすぐそこまで来ており、ゆかたの裾に濡れた跡が
あった。体についた砂を払い、岩場の方を振り向いた。そして昨晩、母から逃げるよう
にしてここに来たことを思い出し、急いで帰らなくてはと思った。
また、海の方を向いた。海面のきらめきがまぶしかった。あの人魚はどうなったのだ
ろうかとしばらく海を眺めていた。
人魚。
女は口に飛び込んだ海水を吐き出す。
(わたしは人魚)
人魚は海に帰ったんだ。あの時、女はまずそう思った。昼の海に人魚は似合わないか
ら。
しかし、それは違う。わかっていた。
いつだってあの物語はこう終わるのだ。
「そして、人魚は海の泡となって消えてしまいました」
少女は戻って、泣き顔の母にとびつく。
(人魚にあったんだよ)
思い出す。
あの日、海の水面に、一瞬光る点が生じたことを。
あれは。
彼女の体を、祖父の腕がやさしく抱きしめた。
あれは、人魚の消えた泡の一つ。
とても。
そう。
(とてもきれいだった)
女はそう記憶していた。
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以上で彼の原稿は終わっている。打ち終わるまで彼は黙って僕の後ろ
に座って煙草を吸っていた。
「なあ、どう思う?」
友人は再び僕に問う。
まあ、いいんじゃないかと僕は答える。
「ラストはどうなったか、わかる?」
死んだんだろう、と答える。
「普通そう思うよなあ」
ううん、とうなりながら彼は煙草を一口吸って、もみけした。まだ三
分の二もあまっていたのに。めずらしい。
生きてるのか、と聞くと、友人は「いや」と言った。
なんだかさっぱりわからなかった。
「つまり、海では結局死なずに助かった、ということらしい」
もしかして実話なのか、と少々呆れた感じで僕は言った。
「と、うちの婆さんは言ってたんだけどな」
彼の婆さんは去年の夏に無くなっている。その葬式には僕も出席した。
町内会館の会議室で行なわれたその日は雨で、新調したばかりの紺のリ
クルートスーツに黒い染みのような濡れ跡ができたことを思い出す。
「どうやって助かったのか、聞いても教えないんだ。そこで死んでい
たら、それなりにいい話かもしれない、とも思ったんだけどな」
死んだら話をつたえる人はいないだろう、と僕は言う。
「たしかに」
彼は依然、神妙な顔つきのままだ。
僕は思いきって言った。
冗談だと白状するなら今だよ、と。
「そんなんじゃない」
友人は怒っていた。
「そんなんじゃないんだ。おれにもわからないからこうして頼んでる
んじゃないか。おれだって、信じたくないけど、うちの婆さんがSFフ
ァンだったとは思えないし、どういうつもりだか未だわからないよ」
しばらく後。
たぶん、と僕は意見を言う。
死の間際に見る走馬灯の一種じゃないのか、と。
「どういうことだ?」
友人がにらむ。
つまり、と僕は続ける。
死の間際に、死んでいく自分の人生を、というかその運命そのものを
無意識に肯定したくてそういう妄想にとりつかれたんじゃないかという
こと。
「なるほど。そういう見方もあるか」
と言いながらも友人は納得しかねるといった顔つきをしている。
「でもな、聞いていて妙に生々しくてね。うむ。妄想か、なるほどね」
まあ、そう言ったら、君の発言そのものが妄想だったという可能性も
あるけどね。
「怖いこと言うな。つまり、婆さんが語ったということ自体が俺の思
い込み、というか事実じゃない、というんだろう。そこまで言うなら、
こうしている君だって、本当は僕がいないのに、僕がいるという妄想に
とりつかれて座っているだけかもしれないじゃないか」
彼はたたみかけるように話し続ける。
「僕の言っていることが信じられない、というのなら、君自身が今、
ここにいるってことをどうやって信じてるんだ? 君が今打っていた文
章だって、本当は君自身が考えたものなのかもしれなのに、僕が教えた
ことと思いこんでいるだけかもしれないじゃないか。どうやってそれを
証明することができる?」
できない、と僕は言う。
「じゃあ、この文章は実は君自身が考えたものかもしれないな」
それは違う、と僕は言う。
「どうかな。これを読んだ他の人はそんなこときっと信じないぞ。君
が考えた話だと思われたらどうするんだ? それに反論できるか?」
僕はうんざりしていた。友人は一体どうしてしまったのだろう。
だが、最後の抵抗で僕は言う。
とにかく、後はただ信じてもらうことを祈るだけだよ、と。
「おれもそれが言いたかったんだ」
友人は笑顔でうなずき、そう言った。
(了)
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WRITTEN BY MORIVER
95-08-12
HTML modified in 97-6-10
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