"THE PERMAN RETURNS" -5-

−5−





 青年が初めて彼女とキスをしたのは、彼が中学二年生の時、夏休みも始まりの、7月の末日のことだった。

 夏の暑い日だった。
 二人は都内の、球場横にある小さな遊園地の観覧車に乗っていた。陽は高く、窓ガラスを通して、二人の頬を強く照らしている。ゴンドラは上昇を続けていく。ゆっくりと、だが確実に風景から建物の影が消え、清んだ青空が視界を占めはじめる。広い空は二人にとっては見なれたものだった。観覧車などに乗らなくてももっと高く、自由に世界を見渡すことができた。しかし、二人は乗った。
 頂点にたどり着こうとしていた。彼も彼女もゴンドラに乗り込んでから一言も発していない。ただ、黙って窓の外を見ていた。時折、彼は彼女の方を盗み見た。そして彼女の視線の先がどこにあるのかを確認した。だが、どこを見ているのかは分からない。どこも見ていないんじゃないかとも思い始めたその時。
 「ね、あれ」
 彼女が突然声を出した。そして体を乗り出し、窓の外の一点を指差す。
 「なに?」
 彼は言って、窓ガラスの方に顔を寄せる。
 「富士山」
 ビル群の向こうに白い三角が、水色の背景の中に、蜃気楼のように浮かんでいた。
 「ほんとだ」
 彼は言った。そして彼女を見た。彼女の頬は、10センチすぐ隣にあった。彼は窓の外をもう一度見る。ゴンドラは頂点をすぎ、下りに入ろうとしている。それから彼女の方を見た。彼女も同時に彼の方を向くところだった。彼は目を慌てて真っ白な窓の外に戻そうとした。だが、視界の端で、彼女が目をつぶるのに気づいた。彼女を見る。目はつぶられたままだった。彼は、心臓が喉の方にせりあがるのを感じながら、彼女の右手をぎゅっと握った。そして、彼女の唇に自分の唇を重ねた。やわらかい、と思った。やがて彼は唇を離して、表を見た。そこで初めて自分が呼吸を止めていたことに気づき、それを悟られまいとしてゆっくり、ふるえるように息を吸った。
 ゴンドラの外にモスグリーンの制服を来た係員の姿が見えた。彼は彼女の汗ばんだ手を静かに離した。ロックが外され、どきりとするほど無造作にスライド式のその扉は開かれた。二人は立ち上がる。彼が最初に降りた。それから数歩進み、タラップを降りてから彼女の方を振り返った。黄色のノースリーブのシャツを着た彼女の姿が、強い日差しの中に浮かんでいた。二人は歩く。視界の先で一組のカップルが手をつないで通り過ぎた。彼は少し歩みをゆるめ、彼女のそばに立ち、彼女の手を握った。熱いその手がまた握りかえしてきた。ジェットコースターの方からは歓声が、ぼんやりと聞こえ始めていた。

***


 青年の数メートル目の前に男がいた。
 次の語を継ぐこともできずに、彼はただその男を凝視し続けている。
 視界は茫洋としたままだった。彼は口を閉じ、鼻で息を荒く吸いながら、眼鏡のフレームに触れる。そして右目にコンタクトレンズをはめたまま眼鏡をかけているという事実に気づいた。しかし、だからといって、右の眼鏡のレンズを外すわけにもいかない。そう、それは変だ。
 彼女。
 そこに彼女がいるのは分かる。すぐ左手。玄関のすぐ左にあるキッチンの前に彼女は立っている。見慣れたトレーナーの色がそこにある。スカイブルー。あの夏の日の空の青。

 「なにがおかしいんだ?」
 部屋にいる黒のセーターを着た男が声を発する。

 おかしい?
 誰が?

 彼は気づく。
 自分は笑っていた。
 なるほど。
 すると笑い声が自然と出てきた。口を閉じても鼻から断続的な声がもれてくる。大声になっていた。体がよろけ、半開きのドアに手をついた。ドアは全開し、支えを失った体が玄関から飛び出した。硬い床に叩き付けられる。痛みは無い。夜風が青年の頬を冷たくなめる。それでも笑い声はとまらなかった。
 やめて、という彼女の声が聞こえた気がしたが、それは空耳であったかもしれない。それが悲しい響きをしていたのもみんな空耳だ。そうに決まってる。
 誰かがものすごい力で自分の体をひっぱりあげている感覚がある。太い腕だ。こいつは誰だ? 俺じゃないよな。彼は思う。僕はこんな体じゃないぞ。自慢じゃないが握力も左なんか40ないんだ。でも別に問題は無い。彼女だって気にしたことは無い。そうさ、彼女を抱いて高い高いをすることだってできる。そうだ。……そうさ。
 唇に何か硬いものが押し付けられる。
 「飲んで」
 それははっきり聞こえた。彼女の声だ。星野スミレ。本名、鈴木伸子。でも、その名はもう家族でさえも使わない。本格デビューする際に、鈴木伸子という名は捨てさせられたのだと聞いている。怖かった、と言っていた。でもその代わり私には新しい名前があったから、とも。じゃ僕の代わりの名前って、なんだ?
 水が口の回りにたれてゆく。歯にコップの端ががち、と小さくぶつかる。仕方なく少し飲む。しかし、すぐにむせる。鼻に水が入った。キーンと耳の奥が痛くなる。
 「大丈夫?」
 大丈夫なもんか。
 分かるだろう。ちっとも、大丈夫じゃ、ないんだ。

 目を開く。
 今度ははっきり全てが見える。彼は、台所の床に両足をVの字に開いて、流し台の開き扉に背中をよりかけ座っていた。左上の上には彼女がいた。酒屋でもらったV.S.O.P.という白文字が彫られた、トイレットペーパーの芯みたいなそのグラスに水を3分の2入れて持ち、不安げな顔つきで自分を見ている。まるで、カウントに救われてコーナーに逃げてきたボクサーと、そのセコンドといった関係のように思えた。ゴングはどこだ? ……いや、もうとっくに鳴ってるのか。
 青年は立ち上がる。右ひじを伸ばし、その手の平で冷たい木の床を押し、半身を流し台にあずけながら、腰を持ち上げてゆく。男は蛍光灯の青白い光を背にこっちをむいていた。
 「コピー」
 男は言った。
 青年は苦笑した。最後に残っていたつっかえがそれで解けた、と感じた。
 彼はゆっくりと、ためらい一つ見せず、流しわきにある食器置きの間からアルミ製の文化包丁を抜き取って、男に向かって構えた。男の眉が一瞬、不安げに中央に寄るのを青年は見逃さなかった。そうさ。俺はあんたに負けはしない。
 「ミツ夫さん」
 左にいる彼女が言った。その語り掛けている相手が、男では無いことを青年は知っていた。男の表情にはもう変化は見られなかったが、それが男にどういう影響を与えるか。彼には分かりすぎるほど分かっていた。その限りに置いて、たしかに青年と男は自身を共有していた。
 「君には何もできない」
 男は青年の顔をじっと見つめながら一歩踏み出そうとする。
 「どうかな」
 青年はつぶやきのような返事と同時に、空いた左手を伸ばしてスミレの腕をつかみ、引き寄せた。文化包丁は出刃とは違い、先端が丸まっている。刃の腹には丸く抜かれた穴が9つもある。およそおもちゃのような外見では、脅しの効果も弱いように見える。だが。
 「よせ」
 無視して、青年は刃をそっとスミレの首筋にあてた。木製の握りをつかむその手の内が汗ばんでゆくのが分かる。彼女は身動き一つしない。青年の左腕に体を包まれたまま、じっと前を……男の顔を見ていた。
 「渡しは、しない」
 青年の腕の中で彼女が力を抜いていく。そうだ。筋肉を緊張させてはいけない。刃はスライドさせ無い限り皮膚を裂くことはない。ただ、問題は彼が酩酊状態にあるということだ。今、絞り出している集中力が途切れれば容易に彼の右手とその包丁は自らの重さで、下へと動き始めてしまう。そしてそのことは男も承知しているはずだった。
 「無駄だよ」
 男が握手を求めるかのように右手を前に出す。
 「でも、無意味じゃない」
 分かる。男が平静を装えば装うほど、その内面の動揺の大きさを、青年は感じ取ることができた。そりゃ、そうだろうよ、俺だっておびえてるんだ。でも大丈夫だ。きっと彼女はうまくやってくれる。
 青年は左腕に力を込めたまま、スミレと共に玄関の方へと後ずさった。
 彼女が彼の顔を見上げる。
 「任せて」
 青年はささやく。
 一つ思い付きがあった。それはたしかに思い付きにすぎなかったが、それでも何もしないよりかはましだ。
 「マントとマスクをこっちに投げろ」
 距離を確かめながら、彼は男に向かって言う。幸いにも男と玄関の間にはケーキを乗せたこたつの台がある。飛び超えるにせよ、横を回るにしても間ができてしまう。そして何より、青年を刺激して状況を悪化することを男は恐れているはずだ。分はこっちにある。青年はじっと男のリアクションを待った。
 「行き場は行き止まりだけだ」
 男の言葉に青年は歩みを止めた。男も青年の意図を理解したようだった。その上で言う男のその言葉には重みがあった。分かってる。でも、どうしようも無いんだ。いや、だからこそ、どうにかしたいんだ。
 「道は一つじゃないさ」
 それは精いっぱいの虚勢だった。
 しかし、微妙なバランスを崩すにはそれで十分だった。
 男は白のコットンパンツのポケットに手を入れ、中からさなぎ型をした小さなカプセルのようなものを取り出した。
 「僕の足元に投げるんだ。転がすように」
 青年の言葉に男は従った。男は青年から視線をそらそうともせずに少しかがみ、こたつ台越しに、腕を伸ばしてそれを放った。カプセルはゴムのような弾力をもって、畳の上を二度バウンドし、キッチンの板張りの床に転がった。そしてそれは、スミレの足の10センチほど手前でとまった。
 「拾って。ゆっくり」
 青年は言う。そして包丁をちょっと、首筋から離す。その間、青年は男を凝視し続けた。男は立ちあがったまま、黙ってこっちの様子を眺めていた。スミレの腰がかがむ。包丁を持った右手もそろそろ降ろす。男に動きは無い。
 スミレの右手が、カプセルをつかんだ。
 「広げて」
 彼女の人差し指と親指の先がさなぎの両端を二度、強く押す。すると、それは羽化を始めた。紫色の羽が広がり、すぐに藍色のフルフェイスのマスクへと変った。
 「マントを出して」
 スミレは右手でマスクの端を持って、その内側を下にする。赤いマントが広がって下にふわりと落ちた。
 それを拾うためにさらにかがんだその瞬間、スミレの視線が瞬間男の方をむいた。男はただじっと見返しただけだった。青年は息を吸った。
 「こっちへ」
 後ずさりをする。スミレの右手には赤いマントが、左手にはマスクが握られている。青年は自らの左手を少し泳がせて、スミレの右手の方へ伸ばした。それは彼女の指先に触れた。そして手探りで、その指先からマントを受け取る。背中は既に玄関のドアのところに来ていた。
 マントを手にしたまま後ろ手にノブをつかむ。鍵はかかっていない。がちゃりとドアが開いた。隙間から冷気が青年の背中を叩く。青年は男をもう一度見た。変らずにそこにいて青年とスミレの様子を見守っていた。
 「行こう」
 青年はスミレに言う。けれども、彼女は小さく首を横に振った。刹那の間があった。
 「分かった」
 ドアを開放する。風で手にしたマントがなびく。すぐ背後には下へ降りる鉄製の外つけ階段がある。青年はスミレを抱いたまま、鉄の床まで下がった。
 部屋の中が白い四角い空間として青年の目の前にあった。その中央に、男が立っている。
 青年は、階段の手すりの上に足をかける。そして、スミレにまわしていた腕を解き、すばやくマントを自分の両肩に纏わせた。二つの黄色いボタンが、布を通して皮膚に吸い付くのが分かる。とたん、足の裏に不安定なものを覚える。
 「待って」
 スミレは言った。そして、彼女は右手でジーンズのポケットから緑色のP型のバッジを取り出した。
 無言で青年は、マスクといっしょにそのバッジをもつかんで、手すりの向こうに背中を投げた。瞬間、虚空の中に放り出され、体は暗い空を向く。数10センチ沈んだところで、それは止まった。
 手すりの向こうに彼女がいた。部屋から差す蛍光灯が逆光となって、その表情はよく見えない。青年は浮き上がり、彼女に包丁の柄を渡した。そしてその目を見つめた。薄暗い中、彼女の瞳が光ったように見えたのは、たぶん気のせいだった。
 青年は、部屋の方をむいたまま、ゆっくりとアパートから離れ、高度を上げてゆく。彼女の隣に男が歩み寄っている。背中が電線にあたった。くぐるようにしてさらに上にあがる。もはや、彼の部屋の明かりは点のようだった。そして街の無数の光が眼下に広がっていた。風が強く流れる。マントがはためいていた。青年は右手でマスクを持ち、左手でバッジを胸につけると、その空いた左手で眼鏡をはずし、一度その腕で目をこすった。
 マスクをかぶる。あごの下でストラップをはめる。両足はだらりと投げ出したままだ。もう、アパートがどこにあるのか分からない。道路を走る車のライトが、蜘蛛の巣のような模様を作っている。青年は、体の向きを変え、ただ空を目指した。

***



 彼は、冷たい手すりを握り締めたまま、暗闇の向こうをただ見ていた。追うのは簡単だったが、今はその時ではない。傍らのスミレを見る。彼女はトレーナーの胸元を右手でひっぱるようにつかんで、空を見ていた。彼もまた、向き直る。そして、静かに、手すりを握る指に力を込めた。


***


 灰色の世界だった。
 その中でただ、青年は自らの呼吸の音だけを意識していた。唇が冷気にぶつかって震えている。
 雲が途切れ、月光の下に出た。
 久々に味わった飛行の感覚と、まだ残る酔いも手伝ってか、内臓は破裂しそうなほど踊っていた。喉の奥に異物が上るのを感じる。たまらず、それを吐き出す。血の気が不意に何度も頭の上へとぬけてゆく。
 自分がどっちの方角をむいているかも分からないが、それでも、飛ぶのをやめることはできない。動くのをやめたとたんに自分がばらばらになりそうな強く激しい衝動を内に感じていた。
 こんな行動が果たして何を生むというのか。分かってる。もちろんただの逃げだ。これは文字どおりただ逃げているだけだ。だが、他にどうしようがある。そうさ。俺は逃げたいんだ。どこまでも、どこまでも、どこまでも。
 『コピー』
 あの男の声が蘇る。
 いまさらに、その声におびえた。
 『コピー』
 やめろ。
 青年は目を閉じた。闇が広がる。その向こうにさらに濃い影が見えた。
 『おまえは、コピー』
 影は次第に大きさを増し、長い二つの腕となって青年に伸びてくる。
 ごうごうと耳に空気の固まりが音を立ててぶつかってゆく。にも関わらず、その声ははっきりと青年の脳裏で響いて止まなかった。
 『そうだろう? だって、おまえは、コピーじゃないか』


***



 「須羽くん、どうしたの?」
 突然の声に、少年は濡れた顔をあげた。目の前の、流しの鏡に見覚えのあるクラスメイトの少女の立ち姿が写っていた。
 「別に」
 ごまかすように、水の出ていた蛇口を閉め、紺の制服の下のポケットからハンカチを取り出す。いやなところを見られた。
 「顔、青いよ。保健室行ったら?」
 「い、いいよ」
 目をそむけるように、顔をふきながら歩き出す。すると彼女が後ろからついてくる。
 「なんで、こんなところいるの?」
 少年は前を向いたまま尋ねる。工作室前のこの地下の流しには、授業が無い時にはほとんど人気がない。だからこそ、『あの声』が聞こえてきた時にはいつもここに避難してきていたのだが……。
 「須羽くんの後を追って来たの」
 しらっとしたその少女の返事に、少年は驚いて立ち止まった。
 「な、な、なんで?」
 少女は笑った。
 「冗談よ。倉庫から掃除用のワックス持って来てくれるよう頼まれただけ」
 そう言って、彼女は工作室の奥にある倉庫の扉の方を見て、手にした鍵束を少年の前で軽くじゃらりと振った。
 「手伝ってよ」
 少年は目をしばたかせてから小さく肯いた。

 その小さな紫色のドラム缶にはワイヤーでできた取っ手が一つついているだけだった。それを二人でつかみ、並びながら階段を上がってゆく。昼休みも終わりに近づいた校庭から、ぼつぼつと教室へ戻る人影がある。
 「須羽くんってさ、なんか鏡見てること多くない?」
 話は前触れもなく切り出された。
 「そっかな」
 答えながらも内心で少年はどきどきしていた。確かに、彼には鏡があるとつい自分をのぞいてしまう癖があった。いつの間にそんな姿を見られていたのだろう。
 「もしかしてナルちゃん?」
 「ナル?」
 「ナルシスト」
 「違うよ」
 「そう?」
 説明のしようも無かった。声はこの春、中学二年生にあがってから時々聞こえていた。その度に、自分を確認したくなり、鏡をのぞいてみたり、つぶやいて見たり、体をつねったりさすったりしていた。それまで彼女は見ていた、のだろうか。
 「あ、ここでいいよ」
 そこは二階のLL教室の前だった。中を見ると、他のクラスの生徒らしき何人か、髭もじゃの英語教師の指示で、床に布巾かけをしていた。
 「英語クラブだから、手伝わされちゃって。明日からまたヒアリングの授業、始まるでしょ。奇麗にしなくちゃって呼ばれたの」
 「うん」
 どうしてこんなに話しかけてくるのだろう。面倒だな、と思いながら少年はドラム缶を置く。と同時に、このまま離れるのも何だな、という感情が芽生えていた。
 「何か他に手伝おうか?」
 「ううん。私たちで十分だから」
 いつもの自分とは違う対応をしてしまったことに自分でも戸惑ってもいた。居心地が悪くなる。
 「じゃ」
 去ろうとした時、声がかかる。
 「須羽くん」
 振り返る。
 「ありがと」
 ぽつり、と言って少女はLL教室の中に入っていった。
 扉が閉まる。少女が英語クラブの仲間たちに笑顔でワックスの缶を差し出す姿が、ガラス越しに見える。男子生徒の一人が少女の肩を笑って小突いていた。なにかが胸の奥で動くのを少年は感じた。


***


 数日後に席替えが行われた。
 30も半ばをすぎた背の高い独身の担任教師は、2ヶ月おきに席替えを行うことで他のクラスの教師からはいささか評判が悪かった。科目別の教師の立場としては、顔ではなく座席の位置で生徒を覚えることが多いからだったが、少年の担任は、生徒の要望が強いという理由だけであっさりその「シャッフル」を許してしまっていた。
 教壇の上にある担任特製の「おみくじ箱」から、使用済みのプリントをつかったくじをひいて開く。番号は6番。少年は黒板に書かれた表を見る。教壇の目の前の席だった。意外に教師からは盲点の席とは言え、今までの最後尾のしかも廊下側の席と比べるとずいぶんの差だ。
 教科書一式を持って、指定の席に座り、かばんを机の横にフックにかけたところで隣の席の女子が腰を降ろすのが分かった。みると、例の少女がそこにいた。
 「よろしくね」
 少女は笑って言った。

***


 少年は休み時間には、図書館にいる事が多かった。席に座って落ちついて読むというよりも、本棚を眺めながら適当に気になる本を手にとりぱらぱらとめくっていることが多かった。そして、興味がわいた本はその場で、脚立によりかかるようにして読みはじめる。
 そのまま本を片手に歩いてしまう時がある。気がつくと元の棚から大分離れしまっていたりする。本を閉じ、腕の時計を見て、そろそろ昼休みも終わりに近づいたのを確認して、本をしまおうと戻ったところで、少女の姿を見つけた。
 少女は座席から見えにくい本棚と本棚の影のところに立っていた。その少女を、同じクラスの女子生徒の4、5人が何やら取り囲んでいた。その内の一人が少女の肩を強く押す。反射的に少年の足が、その集団の近くに向かっていた。
 女子生徒の一団は、少年の姿を見つけるとそのまま、図書館の出口の方へとすぐに去っていった。少女は、口を結んだ形で、ただじっとその場に立っていた。それから少年の顔をちらっと見て、そのままカウンターの方へと黄色い表紙のハードカバーの本を持って歩いていってしまった。その本には見覚えがあった。去年の暮れに少年も読んだ本で、確かアレックス・ヘイリーの「ルーツ」の下巻だ。黒人の作家が、アフリカから奴隷船でアメリカに連れてこられた自分の先祖について記した限りなくノンフィクションに近い小説だったと覚えている。
 しばらくぼんやりしていると、休み時間終了のチャイムが鳴った。教室に戻ると、少女は笑顔で図書館にいたのとはまた別の女子とおしゃべりをしていた。少年はそんな彼女の姿をただ眺めて午後の授業の開始を待った。

***



 眠れなかった。
 少女の顔をベッド中で何度も寝返りを打ちながら思い浮かべる。地下で会った時の顔。図書館での顔。友達と談笑している時の顔。そしてその声。
 話をしたい、と思った。朝、おはようとは言う。次の授業の話や、宿題の内容についての確認や、夏の修学旅行の話もする。けれどもそれだけだ。もっと違う、何かを話したかった。
 『話すだけ?』
 少年は布団を頭の上にかぶせた。
 もっとだ。もっと。もっと。もっと。


***


 快晴の空の下、大型のトラックが、二人の両脇を走り抜ける。その度に少女の長い髪が、大きく舞い上がり、頬に絡まっていた。
 「……誰か、つきあっている人がいる、とか……?」
 少年は言う。少女はうつむいていた。そして図書館で見せたあの時のように、唇に力を込めていた。
 「やっぱり、迷惑かな」
 つぶやくように言う。少女が口を開く。
 「須羽くんのことは嫌いじゃないけど。……そんな風に考えたことなくって……」
 「……そっか」
 「ごめんなさい」
 「……」
 「ごめんなさい」

***



 『だって、おまえは……』


***


 パー子は当時、「スペランカー」というファミコンソフトにはまっていた。考古学者のキャラを操って洞窟の中を金塊を求めて冒険するというアクションアドベンチャーゲームだ。敵や罠に当たるとすぐに死んでしまうという判定のあまりの難易度に少年はすぐになげうってしまっていたが、パー子は、攻略本を片手にひたすらに少年の部屋に居座ってはチャレンジを繰り返していた。
 その日、少年はベッドの上に転がりながら、ファミコンから流れるそのチープな電子和音をぼんやりと聞いていた。
 パー子は、マスクもはずさずにコントローラーを握るので、力みのあまりそれはヒビが入ってしばしば故障した。3代目のコントローラーを手に、画面と向かい合っていて30分ほどしたところで彼女が独り言のように言った。
 「もう一年だね」
 彼女がバードマンのことを言っているのはすぐに分かった。
 少年は答えもせずにただ、パー子に背を向けるように寝返りを打つ。
 最後にバードマンが、少年たちの前に姿を現したのは去年の正月をすぎた最初の春の日のことだった。元々、バードマンがやってくるのは不定期だった。毎週のようにやってくる時もあれば一ヶ月以上も姿を現さないこともしばしばだった。
 しかし、夏休みに差し掛かるその頃、既に最後の日から3ヶ月が経っていた。その日、パー子とその仲間たちは少年の部屋に集まり、状況について確認しあった。が、それを打開するための具体的行動は、「待つ」ということ以上に何もないと知っただけだった。そしてさらに9ヶ月がすぎようとしていた。
 「あ」
 パー子の声とともに、ぺきり、という乾いた音が響いた。続いてキャラクターが死亡するときの冷たい音楽が響く。
 「ごめん、またやっちゃった」
 彼女は手にしたひびの入った赤いコントローラーを見せながら、苦笑いを浮かべる。少年はそんなパー子の様子をちらっと見ただけですぐにまた背を向けて転がった。
 「そんなに、怒ることないじゃない。弁償するわよ。えっと、幾らだっけ」
 立ち上がり、彼女はスカートのポケットをさぐり始める。最近の彼女は、紺の学校の制服らしきスカートを履いていることが多い。ありふれたフレアスカートの上、校章も外しているので、どこの学校かは分からないが、本人いわく、都内の私立女子校に通っているらしい。少年はつい、マスクをして教室の机に座る彼女の姿をつい想像してしまい、笑いそうになる。いけない。そんな気分じゃないんだ、僕は。
 「あれ、今日は持って来たと思ったんだけどな」
 「いいよ、別に」
 パー子に限らなかったが、マスクとマントをしている間には、生徒手帳や財布の類は落とす危険が多いと、持ち歩かないことが多い。実際、細々したジュースやコンビニでのお菓子の代金は、少年が立て替えることもよくあった。
 「おっかしいなあ……」
 少年の背中の方で、がさがさとポケットをさぐる音が聞こえる。もう眠ってしまいたかった。深く……。
 「こら」
 布団がはがされる。思わず身を縮こませてしまう。寒い。
 「昼間っから寝てる場合じゃないでしょ」
 片手で布団を持って彼女がにらむ。
 「お金なら本当にいいって」
 「……どうしたの、最近?」
 突然、パー子の口調が真剣になって少年は戸惑った。
 「なにが、さ」
 落ち着いたふりをしようと、上体を起こす。
 「はっきり言って、暗い」
 有無を言わさぬ態度で彼女は言った。
 「そうかい?」
 両手を広げ、アメリカンジェスチャーでとぼけ顔をしてみせる。
 するとパー子はかけ布団を少年の方に軽く投げた。少年の肺は一瞬、圧迫され、ごほと息が喉から漏れる。
 「なんだよ、いつもパー子の前じゃにこにこしてろって言うのかよ。僕だって人間なんだ。落ち込んでる時ぐらい静かにしてくれたっていいだろ」
 と、そこまで言って慌てて口をつぐんだ。
 「へえ、落ち込んでるんだ」
 マスクからのぞけた唇がにやりと歪んだように見える。
 「と、とにかく」
 「話してみなさいよ。相談に乗ってあげる」
 なぜだか嬉しそうな口調でパー子は首をかしげてみせる。
 「いいよ」
 顔を背け、ベッドからそろりと降りようとした。
 「失恋?」
 体の動きを止め、少年は首だけで慌てて振り返る。
 「あら、ずばり」
 パー子の瞳がマスクの奥でまばたいているのがなんとなく少年には分かった。少年は笑顔を見せようとしたが頬がひきつってうまくいかなかった。パー子は、さっきの少年を真似をするように両手を広げて見せていた。

***


 「ま、考えてみればこの方がよかったのかもね」
 少年はベッドに座り、壁に背を預けながらサッシの向こうの景色を眺めていた。表は薄暗かった。日没が近いということもあったが、厚い雲が空を覆い始めてきていた。少年の家は、ほんの少し町の中でも高台になっている関係もあって、窓からは大通りのビルのシルエットが見える。その上にまるで蓋をしたように灰色の空が広がっている。
 「だってさ、そうだろう。本人が帰って来た時、いきなり知らない女の子が彼女だったんじゃあ困るもんね。ま、そういうためらいも含めて見透かされたってことかなあ」
 言いながら少年は固いものを心の内に感じていた。『本人』なんて。口に出した自分にひどく後悔していた。しかし、それとは裏腹に、少年の言葉は止まらない。
 「そーんな、そっちが暗い顔しなくたってさ。彼女だけが女じゃない。女は星の数ほどいるってね。大丈夫、大丈夫」
 そうして笑う。パー子は少しうつむき加減でいた。
 「あそっか、彼女がいちゃこまるのか。まあでもあれだよ。これだけ留守にしているんだもんね。少しの間ぐらい、つきあいとかあっても許されるでしょう。別に……」
 「それでなの」
 少年の言葉を遮るようにパー子の口が開いた。
 「……なにが?」
 笑顔で答える。そうだ。笑わなくちゃいけない。笑わなくちゃ……。
 「それで、中学に入ってから一人も友達を作らなかったの?」
 笑顔はそのままで固まった。上にあげた両唇の端はそれより上にも下にも行きようがなくなった。ただ目だけが少し震えた。
 「な……」
 「わたし、あなたから友達の話、聞いたこと無い。それに……家に誰かをつれてきたり、電話したりしたことある?」
 「別に、友達ぐらい」
 言いながら少年は頭が揺れてゆくのを感じていた。笑おうと再び試みてみたが、顔の筋肉はぴくりともしない。
 「そんなの……そんなの悲しいよ。寂しいよ。その女の子のことだって、ちゃんと気持ち、伝えれば。ただつきあうってことにためらいがあるだけかもしれないし……」
 「なに、言ってんだよ」
 立ち上がる。サッシの方へ歩いてゆく。
 「気持ちって何だよ。何を言えって言うんだよ」
 はは、と笑い声をあげようとしたが、それはちっとも笑い声では無かった。
 「じゃあ、何? 僕は本当は須羽ミツ夫じゃなくて、そのコピーロボットで、本人は地球から4.3光年離れた星に行っていて、僕はその代わりでいるだけなんだけど、でも君と友達になりたいんだって、そう言えって言うのかよ」
 体が熱くなる。パー子にあたることじゃない。だが自分を押さえきれなくなっていた。
 「馬鹿馬鹿しい。そんなの誰が信じるってんだよ。……でもその馬鹿馬鹿しいのが僕なんだな。僕はミツ夫と呼ばれてはいてもミツ夫じゃない。誰でも無い。僕、僕は……」
 一瞬頭が空白になった。サッシのフレームに手を置き、冷たいガラスに額を押し当てる。鼻の奥から、熱いものが流れてくるのが分かる。
 「きっと……きっと僕はおかしいんだ。狂ってるんだ」
 少し、顔から緊張がとけて、笑い顔を作ることができた。でもその頬には何かが流れている。
 「僕には……全ての記憶がある。幼稚園に入る日の朝に、怖がって入り口の砂場の中で座り込んだことも、小学校の一年の時、駅前の文房具屋から16色入りのクーピーペンシルを持ってきてママに叱られて恐い思いをしたことも、小三の時初めて眠れなくて、夜更かしをした時、ドアを開けて階段を降りようとしたら落っこちて、頬を切って、僕の声を聞いたママとパパが飛んできて、パパは車で病院まで運んでくれて、でもその間も頬にあてたタオルがどんどん赤くなっていって……」
 「ミツ夫さん」
 パー子が少年の背中に手を置いた。少年は振り向き、にじんだ視界の中で彼女を見て言った。
 「僕はミツ夫じゃない」
 喉の奥に塩辛い鼻水が落ちてくるのを感じながら、彼はただじっと彼女を見つめた。彼女はマスクの下に右手を入れて、そこを指でこすると、うつむいて、それからサッシを開けて何も言わずに、ベランダでシューズを履いて飛び立った。
 しばらくして、少年は開いたサッシのアルミのフレームに握った拳を軽く叩きつけてから、空を見上げた。パー子の姿はもう見えない。灰色の雲から大粒の雨がぼつぼつと落ちてくる。濡れなきゃいいけど、とふと少年は思った。


***



 翌日になった。
 夜明けと共に朝が来て、少年は明日はなく、ただ今日だけがあることを知った。眠りたいという気持ちとは裏腹に、体はそれを許してはくれなかった。
 毛布とかけ布団の間で、身動きしながら枕元の目覚し時計を眺めた。その頃になって断続的な眠気が襲ってきたが、気がつくと30分がすぎているような具合で、それが本当に睡眠なのかは分からない。7時半になり、少年は窓から差す日差しに暖まった部屋の中で体をおこし、扉を開け階段を降りた。母親は朝食の支度をしているらしく、目玉焼きを焼く匂いと音が聞こえてくる。父親は食卓に座って新聞の社会欄を眺めている。やがてガン子も起きてくるだろう。少年はテーブルに座って、日常の中に深く自分を押し込めた。

 夜半まで降っていた雨のためアスファルトの地面は未だ黒かったが、日差しは雲の隙間から時に強く通りを照らしていた。通り過ぎる車やトラックは、湿った音を立てて走りすぎてゆく。
 バスに乗り、吊革に捕まりながら少し眠る。停車を求めるブザーが聞こえ、少年はその度に目覚め、10分してそれは校舎近くの大通りで止まる。
 衣更え期間だということもあって、白いワイシャツだけの生徒、詰め襟を着た生徒が入り交じっている。必修で入らされている卓球クラブで一緒の、隣のクラスの男子が声をかけてきて、少年も挨拶を返す。物理の進み具合の差を確認してから、校舎に入り、三階で別れて、自分の教室に入る。
 彼女はまだ来ていなかった。席に座り、鞄から教科書とノートを出し、机に入れ、読みかけの文庫本を取り出したところで、誰かが隣で椅子をひく気配が見えた。
 おはよう、と少女は変わらずの笑顔で言った。少年は、すぐには反応できずに彼女をただ見た。少女は、笑顔のまま何か待っていた。少年は、ちょっと顔に笑顔を浮かべて、おはようとすばやく言って、文庫のページを開いて、始業のチャイムを待った。窓の外から、ジェット機の飛ぶ音が聞こえていた。

***


 夕方、ただいま、と言ってドアを開け、靴を脱ぎ、階段を上り、自分の部屋の扉を開けると、そこに星野スミレが座っていた。
 少年は鞄を持ったまま立ち尽くした。
 気がつくと後ろに数歩、後ずさっていて、危うく階段から転げ落ちそうになる。一階の居間からはガン子が見ているらしきテレビの音が聞こえてくる。
 何かを言おうとしても、声は言葉にはならない。ただ、あ、という音がかろうじて出ただけだった。
 星野スミレが立ち上がる。そして少年を見た。優しい目だな、と思った。
 彼女は傍らにある緑色のマントをなれた調子でまとい、それからベッドの上にあった赤いマスクをかぶって、パー子になった。
 「あの」
 やっとそう言ったその時、彼女は唇の両端をわずかに上げた。
 「またね」
 彼女は、パー子は、星野スミレは、そう言って、サッシを開けて、見慣れた愛用のアディダスを履いて、飛び立った。

 「お兄ちゃん?」
 その声に、振り向くとショートカットの癖っ毛が見えた。ガン子は、大きな目でいぶかしそうに少年を見ている。
 「部屋、寒いよ」
 向き直ると、たしかにサッシはそのままの状態で、風がそこから入り込んでいた。鞄は少年の足元に転がっている。
 にやり、と大きく彼は笑った。ガン子が眉をひそめる。それを無視して、少年はその両肩をぽんぽんと叩いて、さらに笑顔を広げた。
 「マーマー!」
 ガン子は叫ぶ。
 その声の中、少年は二段飛ばしで、階段をかけおりる。
 「お兄ちゃんが狂ったぁ!」
 玄関で靴をつっかけ、ドアを開き表へ出た。まぶしい日差しに目を細めながらも少年は走り続ける。口を閉じていても鼻から笑い声がもれてくる。どれくらい走ったか分からないところで、土手にたどり着き、少年はそこを駆け下りる。そして途中で勢いにまけて、すっかり乾いた青い草の坂を転がった。川の水面が反射する光の粒が何度も目に入った。
 両手を広げ、その場に仰向けになったまま、口を開けて笑い続けた。声は出なかったが、頭の中ではそれはこの上もなく響き続ける。先週の音楽の時間で聞いた、アベマリアがそれに唱和する。
 そうさ。
 ガン子の言葉を思い出し少年は、太陽に目をつむりながら、つぶやく。
 お兄ちゃん、狂っちゃったよ。


***



 ゴンドラの後に乗った回転ループコースタに酔って、少年は彼女に介抱されていた。
 「こんなところ、ファンに見つかったら殺されるかもね」
 少年は、氷の入ったスプライトのカップを手にしながら、力なく苦笑する。
 「それこそ飛んで逃げるわよ」
 ベンチの隣に座った、赤いフレームの眼鏡をかけた彼女が笑って言う。
 「今度海でも行く?」
 少年は、コースターから聞こえる雑多な叫び声を聞きながら尋ねる。
 「日焼けしちゃいそうだな」
 「いつも表を飛び回って、今更」
 「普段はクリーム塗ってるもの。気使ってるのよ、これでも」
 「分かってる」


***


 いや、分かってなかった。

 青年は、目を開けた。
 鼻水がたれてきているのに気づいて慌てて、スラックスのポケットからハンカチを取り出して押さえる。それは就職祝いに、とスミレからもらったカルヴァン・クラインのネクタイセットの中にあったものだった。
 眠っていたのか。青年は見回す。雲は無く、眼下のはるか先に海面が広がっている。遠くの方に陸が見える。流されたのか。ここはどこなのかは分からない。
 そうだ。なにも分かっていない。
 腕時計を見る。7時45分。寝坊だ。
 風が吹いて体が揺れる。
 飲み会の次の日だということで大目に見てもらえるだろうか。駄目だ、電話で連絡して見積もり書を今日中に完成してもわないと。それにファイルの場所は、多分僕しか分からない。
 ちくしょう。
 まったく馬鹿げている。こんな時に思うことがこんなことばかりだなんて。
 頭が痛い。二日酔いの他に熱もあるようだ。コートを着ているとは言え、冬の夜の空を漂いながら寝ていれば無理も無い。だが、それが適度に思考を鈍磨せているのが今は都合がよかった。
 なすべきことは具体的な何か、だ。

 マスクの下に両手をあてて、瞼の上を刺激しようとした時、気配を感じた。
 振り向くと、機影が見えた。おそらくボーイング747だ。空港が近いのだろうか。着陸を迎え、スピードは落ちているはずだが、まばたきする間にも青年のいる方向にコースを向けて、壁のように近づいてくる。
 青年の脳裏に、誘惑が浮かんだ。
 このまま。
 このまま、ここに立っていたら。
 それは、軽い思い付きのはずだった。
 しかし、思ったとたんに、体が動かなくなっていた。
 コックピットの部分が太陽光に反射してきらめく。
 パイロットは自分の姿を見つけただろうか。レーダーは補足しているのか。管制塔からの指示はあるのか。それとも、単に大き目の渡り鳥がいると思われているだけなのか。年に何回もジェットエンジンに巻き込まれ、丸焼きとなって、その中から発見されるという記事を読んだことがある。
 金属の固まりに魅入られていた。
 たかだか60キロ程度の浮遊物にぶつかったからといっても、ジェット機はどうにもならないだろう。
 逃げたいのだろう?
 誰にも手が届かないところがあるじゃないか。
 視界一杯に機首が広がった。
 決断はもう、遅いか。


 海と空が回転していた。不思議と痛みは無い。
 空気の音だけがする。
 意識が薄らぐ。
 深く眠りたかった。深淵の闇へ。
 ただひたすらに。
 そう、もう一眠りするだけだから……。
 『こら、起きなさいよ!』
 大丈夫。まだ、やれるさ。







つづく





mailto:MORIVER(moriver@geocities.co.jp)

["PERMAN RETURNS" menu]/ [MORIVER'S HOME PAGE]

1