まんが日本の歴史読感・日本近現代史概略

まんが日本の歴史読感
日本近現代史概略

[[0]序/[1]幕末/[2]明治/[3]大正/[4]昭和/[5]結語]

[0]序

 今朝、テレビを見ていて知ったのだが、今日は太平洋戦争、開戦の日である という。さしづめ開戦記念日とでも言うのだろうか。  1941年(昭和16年)12月8日午前1時30分、大日本帝国海軍の攻撃機350機は 空母より飛び立ち、真珠湾にいた米軍の戦艦4隻を撃沈、さらに4隻を撃破、 230機の飛行機を大破した。  おりしも当地アメリカは未だ12月7日は日曜日の朝。リメンバー・パール・ ハーバーである。  以上、小学館版・学習漫画「少年少女 日本の歴史」20巻より抜粋。 ***  私の歴史の教科書は小学生以来、今も昔もこの小学館の「まんが日本の歴 史」である。学研版もあるが、こちらは妙に劇画調であまり好きでは無い。  ここを読んでいて、ふとなんで戦争に踏み切ったんだって、と記憶を辿って みる。高校では世界史選択だったので私の日本史の知識は中学レベルでとまっ ている。高校でも日本史の授業もあったが江戸時代で終わっていた。  なんてことを思っているうちに、実は明治以降の歴史の知識が頭の中からぽ っかり抜け落ちていることに気付く。明治維新、富国強兵、日清、日露、日中 戦争、第二次世界大戦、そして敗戦、と一応の流れはたどれるが、それがどう つながっているのか分からない。世間では自虐史観がどうのと話題になってい るが、私の頭にはそもそも「史観」が無い。  で、全20巻のそのまんが日本の歴史を逆に辿っていたら16巻まできてしまっ た。なんとペリーの黒船来航である。ここでさらに幕末の知識もぽっかり抜け ていることも気付く。この本だって何度ともなく読んでいるし、日本史の教科 書も一応読んだはずだが、さっぱり覚えいぇいない。どうしたもんだろう。時 代小説を読む趣味も無いので関心は無かったのだが、ここまで綺麗さっぱり何 も分からないと焦る。一体、どんな風に時代は「流れ」ていたのか。 ***  結局、1時間ぐらいかけてざっと16巻から20巻までをざっと読んで見る。う なった。驚いた。かなり恥ずかしいお話だが初めて「ああ、そういうことか」 と分かった。「思い出した」でも無く、はっきり言って「新鮮」な知識として の事実がそこにあった。こんなこと教わった記憶も無いが、本当に勉強してい たのであろうか?? 高校受験でもやっているはずなのに……。勉強していな かったんだなあと再認識。 ***  例えば、アメリカのペリーが黒船(軍艦)を率いてやってきて、日本は開国 した、と記憶していた。この覚え方だとなんかペリーという人がすごい、豪傑 でそれに負けて開国したとも取れるが、どうにもそんな簡単な問題では無い。 日本は、イギリスと清国が戦争して清が負けたという話を聞いて「ヨーロッパ の軍隊が日本も責めて来るんじゃないか」とびくびくしていた。そこに、つい にやってきたのがアメリカの軍艦(黒船)というわけで、極端な話、ペリーだ ろうがベンジャミンだろうが結果はあまり変わらなかったような気がする。  あ、いや、歴史の細かい事実は知りませんが、おおまかに言ってそういうこ とだとは思う。  とにかく、幕府は欧米がアジアの国を植民地化してゆく事実を知って、攻め られるよりかは、鎖国をやめて、貿易をしたい、日本を船の補給基地として使 いという申し出を受けることにした、と。これが、開国であり、その時に結ん だ条約が日米和親条約であり日米修好通商条約であった、と。特に後者の条約 は、「不平等条約」とも呼ばれ、以後も明治に至るまで尾を引いた。

[1]幕末

 そしてこれを皮切りにいわゆる「幕末」という時代が始まる。上の条約は日 本以外にもオランダ、ロシア、イギリス、フランスともむずばれ、日本人は一 気に外国相手に商売をする形になる。日本の港にも外人がどんどんやってくる。  しかし、それによって日本の経済は一部でもりあがる一方で、大混乱が生じ る。特に金と銀の交換価値が欧米とは違うものだから、少ない銀を持って来て は多くの金に交換して持ち去ってゆくと、金は大量に「流出」してゆく。  おまけに外国人は「治外法権」ということで日本の制度で裁くことも出来な い。勢い、外国に「食い物」にされているのではとの一般感情も高まる。  とにかく物価は上がる上がるということで民衆の不満レベルが急上昇である。  まっさきに反応したのが、九州の薩摩や長州という藩だった。そもそも、彼 らは「外様大名」。さかのぼれば、関ヶ原の戦で徳川の敵対したため、江戸か ら離れたそんな所に領土を与えられた人たちの末裔である。そのため、外国に 弱腰な幕府には人一番腹が立っていた。彼らは、「攘夷」、つまり「外国人を 追い出せ」という考えを一気に盛り上げ、自分たちで軍隊を作ったり砲台をつ くったりし、とうとう、沖にやってきたイギリスの船に攻撃を加えてしまう。  結果は大反撃を受け惨敗。ただし、その後、講和をきっかけに薩摩はイギリ スと独自に武器の取引を始める。 ***  一方幕府の方は、九州勢を中心とした「倒幕派」が幕府打倒の名目として、 天皇からのお墨付き……「今の幕府は国を食い物にしているだけだから倒して しまいましょう」というもの……を欲しがっている事に気付き、対抗して「公 武合体」なんて方策を打ち出す。具体的には天皇の娘と将軍家に嫁がせてしま おうというもの。  もっとも、事態はそんな名目だけでどうなる状態を越えている。  長州藩は未だ「攘夷」にこだわっていたから米・蘭・仏の商船に発砲、一気 にそれらの国と交戦状態に陥るも、案の定敗退。幕府は慌てて長州征伐に軍を 出す。しかし、幕府軍は長州に敗退。外国>長州>幕府の構図。  気が付くと、幕府側には会津藩がつき、倒幕側には長州藩、揺れているのが 薩摩藩という三つどもえ状態。世間でも最初は外国を追い出さない幕府は気に くわないという話だったのに、いつの間にか「とにかく幕府は気にくわん」と、 「打倒幕府」の風潮ばかりが盛り上がる。  あちこちでは、幕府打倒の反旗が翻り、薩摩と長州の間にもあの坂本竜馬が 間に入って同盟が組まれる。あわや、幕府と薩長連合との全面戦争か、という 所で、将軍は「大政奉還」を決める。幕府を自らの手で潰し、政治は再び朝廷 で行う、としたのだ。 ***  まあ、これで年号が明治に変わる、と。  もっとも、朝廷の場で薩長と徳川はやっぱり対立し、薩摩の挑発にのるとい う形で最後の将軍慶喜率いる旧幕府軍と、薩長を中心とした「官軍」は京都の 辺りで武力衝突。旧幕府軍は北海道まで逃げるも敗退。  いわゆるこの「戊辰戦争」はこれにて集結する。  名実共に「新政府」の樹立である。実にペリー来航より30余年が経過してい た。  もちろん、政府内でリーダーシップをとっているのは薩摩・長州の方々ばか りなり。この時に活躍した人は、大正デモクラシーに至るまで政府要職に居座 ったというのだからすごい。  日本は、一気に外国に目を向け、条約の改正をするために近代国家としての 体裁を整えるばかりか、「やっぱり日本もこれから植民地を持たなくちゃ」と いうことで、韓国や中国に目をつけ、その土地を虎視眈々を狙うようになる、 と……。 ***  って幕末だけで何をこんなに書いてしまっているのやら。

[2]明治

 その後、日本は徴兵制を整え、「富国強兵」政策を押し進める。外国の影響 でやはり内戦状態になっていた朝鮮の政治に介入する形で清と日本は対立、明 治27年には日清戦争をおこし、勝利。朝鮮での政治的影響力のみならず、日本 の国家予算の3倍の賠償金に、「台湾」と朝鮮のの付け根にある「遼東(リャ オトン)半島」を領土としてぶんどる。日本は、すっかり戦争に味をしめる。  その頃には欧米も中国のあちこちに軍隊を派遣して、なわばり争いしている 状態。特にロシアは中国東北部からどんどん南下してきて、韓国をも脅かす勢 い。結局、イギリスとの同盟を得た日本は、後ろ盾が出来たとばかりロシアに 宣戦布告。実は日清戦争の時に折角得た「遼東半島」をロシアの介入で(正確 にはフランス・ドイツも交えた三国干渉)で、一旦中国に返還することになっ ており、今度の戦争もその土地の権益を巡っての争いとなった。一度取ったも のは維持でも取り返そうという腹のよう。これが明治37年。まだ日清戦争から 10年しかたっていない。とはいえ、中国を部隊に小競り合いの戦闘は続いてい たようだが。  結局、これも日本は勝つ。ロシアでも後のロシア革命につながる混乱が起き ていて戦争どころでは無かった。ここで日本はあらためて遼東半島の租借権 (中国から半永久的に土地を借りるという形)と南樺太を領土として貰う。  この時、アジアの各国は「アジアの国が初めてヨーロッパを倒した」と狂喜 したらしいが、その後の顛末は知っての通り。  日露戦争から6年後には堂々、韓国を「併合」する。ちなみに、併合という 言葉は合併をひっくり返してこの時作ったとか。  結局、日本はアジアの仲間というより、アジアを食い物にする方に回ってし まったよう。欧米にやられる前に、やれ、だ。

[3]大正

 一方日本でも戦争反対の社会主義運動が活発。なんて間にも明治は45年で終 わり。世代もすっかり入れ替わる。  大正3年には第一次世界大戦。イギリス軍の応援ということでまたしても中 国と戦争。ちなみにこの2年前に清王朝は滅亡、中華民国ができている。大正6 年にはロシアで共産革命。どっちもこっちも内戦・戦争ばかりである。  第一次大戦はイギリスを含む連合国の勝利。  しかし、間おかず、日本を含め各国はロシアあらためソ連となった国を「危 険な国」としてシベリア出兵する。さっさと手を引く欧州に反して、日本はこ れを4年ほど続けた。  ロシア革命のために、各国での社会主義運動は加熱。日本でも普通選挙運動 が高まる。国際連盟もできた。戦争反対。シベリア出兵反対。  そしてとうとう大正14年、普通選挙法ができる。もっとも、同時に政府に反 対する政治運動をとりしまる悪名高き「治安維持法」もできたのですが。

[4]昭和

 しかし、大正12年におきた関東大震災以来、景気は冷え込むばかり。これは 日本に限らず、世界的にもそうであったよう。何しろ戦争している間は、戦場 に物がとにかく必要ですから。もう、ばかばか売れた。それが無くなれば、景 気も下がる。  そして大正は15年は終わり昭和。かと思えば昭和2年には金融恐慌で銀行が がんがんつぶれる。そこで目をつけたのは、満州、であった。中国東北部であ る。ここには草原と石炭がある。シベリア出兵などを通して、この辺りには日 本の息がかかっている。とにかく、日露戦争以来「戦争は儲かる」「とにかく 領土拡大」との癖が染みついてますから。  そして、日本の「関東軍」が中国が進軍してきた、そこの日本人を守るとい う名目で「満州事変」……つまり中国との戦争を活発させる。これが昭和6年。 翌年には5・15事件という軍の一部が首相の暗殺事件を起こすも鎮圧。その 鎮圧に乗り出した軍の力がかえって強まるという結果を引き起こす。  その上、満州事変は日本の謀略によってなされた、と国連派遣の「リットン 調査団」が発表したもんだから、日本は国連を脱退。昭和11年には2・26と いう、5・15事件よりさらに大きな軍部クーデターがおきる。しかし、これ の鎮圧に乗り出した軍部はさらに発言力を増す。  一気に社会の雰囲気はきなくさくなる。  中国との戦闘は続くどころか拡大するばかり。戦争反対を唱える社会主義グ ループは治安維持法に乗っ取った特別高等警察、通称「特高」でつぎつぎに逮 捕される。  ヨーロッパではヒトラーが昭和9年に総統になっていた。やはり不景気でし かも、第一次大戦で敗戦国となったドイツとしても調子のいい事ばかり言うヒ トラーがまぶしく見えたのか。  そして昭和14年にヒトラーがポーランドに侵攻。第二次世界大戦が始まる。 日本は日本で中国とも戦争している。どうも背後にはフランスとイギリスの援 助があるらしい。ドイツはそのフランスやイギリスと戦っている。  ということで一気にドイツと手を結ぶ日本。これで東南アジアの方にいるフ ランス軍と、イギリス軍も堂々敵に回すことになる。  そこへ、また出てきたのがアメリカ。今も昔も、日本には石油、石炭が少な い。満州にこだわっているのもそのためだ。そのアメリカが中国との戦いを止 めないと、そしてドイツ・イタリアとの同盟を止めないと石油輸出を止める、 と言ってきた。どうする。このままでは備蓄した燃料だけでやっていかなけれ ばならなくなる。もってあと二年。 ***  で、結局、奇襲によりアメリカ軍を叩くことにする。ついでに、東南アジア にいるフランス軍とイギリス軍も叩く。そしてそこの油田も頂く。これで中国 への物資供給も無くなる。ヨーロッパでドイツが勝ってくれれば、同盟を結ん でいる日本も有利に戦争を終えられる大丈夫だ。あのドイツも奇襲作戦で ポーランドもフランスも占領したんだ。なせばなる。  そして、開戦。  で、日本は負ける。  調子のよかったのは最初だけ。一気に、東南アジア全土、はるかニューギニ アまで制圧したはよいものの、戦線の拡大は致命的。  開戦翌年の昭和17年6月には、日本とハワイの中間あたりにあるミッドウ ェー島付近で大敗を帰す。実に空母4隻と飛行機320機を失う。大本営は偽情 報を国民に発表し出す。  とにかく、あとは負ける一方。  昭和18年にはイタリアが早くも降伏している。しかし、日本は戦争をやめな い。そして、昭和20年4月、米軍は沖縄上陸。5月には、ヒットラー自殺。7月 にはそのドイツの町の一つポツダムで、米・英・ソは早くも日本の戦後処理に ついて会議。8月6日、米軍が広島に原爆投下。密かにアメリカに敵意を抱いて いるソ連は同月8日には日本との中立条約を破って宣戦布告、満州に進軍。9日 長崎にも原爆。  そして同月15日。いわゆる「ポツダム宣言」受諾。  気が付けば日本の死者は軍人230万・民間人100万。  当時の人口7300万人として22人に1人が死亡。  物資被害は643億円、戦前と比べ25%を損失。  第二次世界大戦全体では4400万人以上が死亡とか。

[5]結語

 表層だけをさらっとなでるようにして幕末から第二次大戦までを眺めてみま したが、どうしても考えてしまうのは、この日本人の行動の裏にはどんな思考 や感情が動いているか、ということ。  開国を迫られた時には、とにかく欧米に占領されるのが怖かった。その為に は国を強くしていかねばならない。これは分かる。しかし、さらに日本は攻め られないという消極的立場に留まらず「攻める側」に回る。所詮、この世はや るかやられるか。だったら日本は「やる」方だ。そんな感じで、朝鮮や中国へ 進出してゆく。  一方、欧米ではやるか、やられるかの世界にはリスクも大きいことに気付き 始め、そういう「ゲーム」みたいなことはちょっと止めておこうと動き始める。 しかし、ドイツや日本などにすればここでゲームをやめられては「勝ち逃げ」 したようにしか見えない。一方で、共産主義というゲームそのものを「悪」と する考えも台頭、あまつさえ革命までおきた国がある。  その間、日本は外国と接している内に日本に足りないものを強く自覚してゆ く。それは「資源」である。日本には資源が乏しい。だから、資源のある土地 を確保しなくてはいけない。特に近代化が進み、石油・石炭の需要は高まるば かり。それは国民が望むべき方向でもあった。  もう一つ、ファシズムを代表とする全体主義的傾向の流れというものがある。 封建国家打倒によって生まれた民主主義的近代国家は、最初は万歳万歳でよか ったが、それが浸透するにつれて「どうも民主主義とは面倒なもののようだ ぞ」という考えもほとんど無意識に近い状態ではあるものの、生じていた。民 主主義を主張すれば、お上が俺達の声を聞いてくれてうまくやってくれるもの だと思っていたけれども、そんな単純では無いよう。どうも民主主義とは世の 中が悪かったら、それはお上のせいにはできず、自分たちのせい、と言われる ものであるらしい。冗談じゃない、日常茶飯事に国家がどうとか考えられない。 こっちは日々の生活で忙しい。ましてや全体がどうだなんて「素人」のこっち が分かるか。  全体主義とはこういう土台の延長線上に生まれるもののようである。軍部の 台頭もそういう風潮に載ったものとも考えられる。そして玄人の皆さんが考え ていたことはとにかく上の「もっと強く」というものであったよう。 ***  以上を振り返るに、どうも日本人はいつも「何かが足りない」と感じている よう。明治維新以降も、第二次世界大戦以降もそう。金が無い。土地が無い。 物資が無い。資源が無い。あるのは労働力だけ。だから、日本人は働いた。そ してとりあえず、金と物資は手に入れた。気が付けばトップクラスを走ってい る。  しかし、まだ何か足りない。もし、次に戦争が起きるとしたらこの「足りな い」ものを巡って、ということになるのだろう。何かはまだ分からない。何も 無いことを祈るばかりである。 (12/9 4:11)

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